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2009/05/15
宇佐神宮と熊野磨崖仏の拝観を兼ねて国東半島へ
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| 百数十段の急な石段を登り詰めた深山幽谷の地に鎮座する熊野磨崖仏 |
謎の豊国法師の出自は・・・・?
以前から疑問を感じている歴史上のシーンが時折脳裏に浮かぶ。 時は587年の陰暦4月5日ごろ、場所は現在の桜井市の磐余(いわれ)にあった橘豊日(たちばなのとよひ)大王(おおきみ、用明天皇)の池辺雙槻宮(いけのべのなみつきのみや)の内裏。この日、突然の招集を受けて慌ただしく参内してきたヤマト政権の群臣たちを前にして、大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)がこう口を切った。
「今朝、大王からお召しをいただき急いで宮中に参上すると、次のような詔(みことのり)をいただいた。『自分は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思う。卿らもよく考えてしい』と。よって諸卿も大王のお気持ちに了解をいただきたい」
直ちに立ち上がって反対意見を口にしたのは、廃仏派の急先鋒とされる中臣勝海(なかとみのかつみ)である。
「大王はどうして国つ神に背いて、他国の神を敬おうとなされるのか。だいたいこんな話は今まで聞いたことがない」
馬子はきっと勝海を睨んで、切り返した。
「事は大王の詔である。何人も詔に従ってご協力申し上げるべきであろう。誰が大王のご意志に反対できようか」
その時である。穴穂部皇子(あなほべのみこ)が、豊国法師(とよくにのほうし)を連れて内裏に入ってくると、法師を案内して奥へ消えた。その様子を見て、皇子を睨み烈火のごとく怒ったのは大連(おおむらじ)の物部守屋(もののべのもりや)である。
崇仏派の蘇我馬子に対し、守屋は勝海と共に廃仏派の巨頭とされていた。守屋はまた、次期大王候補として穴穂部皇子を強く推していた。その皇子が事もあろうに仏僧を内裏に招きいれた。守屋から見れば信じられない裏切り行為だった。
この事件は、それから3ヶ月後に勃発する蘇我・物部戦争の前哨戦として『日本書紀』に語られている。私が特に興味を引いたのは、この時登場する豊国法師である。
この時期、百済から伝えられた仏教を公認するかどうかで中央では政界を二分して揉(も)めていた。そのような時に、我が国の正史に初めて登場するこの僧侶はいったい何者なのか、以前から気になっていた。
当時の僧侶は医術についても優れた知識を有していた。そのため、橘豊日大王は、仏教によって病気の治癒を計ろうとしたのだろうか。『日本書紀』は豊国法師の注に「名をもらせり」とある点から、「豊国」は僧侶の名ではなく、国名と解釈されている。豊国(とよのくに、とよくに)は、現在の福岡県東部と大分県にまたがって存在した国で、後の天武天皇12年(683)に豊前と豊後に分国されている。
「豊国」は、農作物が豊かな国であり、それに加えて、金・銀・銅の鉱物資源や、養蚕・機織などの殖産によっても豊かだったから、「豊国」と呼ばれたのであろう。そうであれば、これらの富を生み出す知識や技術をもっていた渡来人が、古くからこの地域に住み着いていたと考えざるを得ない。中央政界で仏教が公式に受け入れられる以前に、彼らの間で仏教が流布していたことも十分考えられる。
豊国法師は、豊前・豊後地方に公伝仏教と別系統の一派を形成した僧侶の称呼ではないかとする専門家の説がある。『日本霊異記』に客神の像(仏像)を豊国に棄流すとあることから、豊国法師とは韓国の僧だとする説もある。いずれにしても、豊国の僧侶が持つ医療技術は早くから中央に注目されていたようだ。少し時代は下がるが、宇佐氏出身の法蓮(ほうれん)という僧侶が医術をおさめて多くの人びとの病気を直し、その徳風が文武天皇の耳にも達したので、大宝3年(703)および養老5年(521)に二度にわたって天皇から賞せられたことが、『続日本書紀』に記されている。
かっての豊国の一部だった国東(くにさき)半島は、古代から中世にかけて六郷満山(ろくごうまんざん)と言われるほど密教寺院が多く築かれたことで知られる。六郷とは半島の中央にそびえる両子山(ふたごさん)から放射状に伸びる谷筋に沿って開けた国東(くにさき)、田染(たしぶ)などの6つの郷をいう。これらの郷では、古代の仏教と宇佐で生まれた八幡信仰が融合して「神仏習合」として広がったが、やがて天台密教と結びつき、山間に多くの寺院が建立されて独特の仏教文化を花ひらかせていった、こうした寺院を総称して、いつしか六郷満山と呼ぶようになった。
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| 国東半島周辺のマップ |
一方、大分県は磨崖仏が多いことで知られる。現在、その数80余カ所、400体を越える磨崖仏が確認されている。磨崖仏は六郷満山の国東半島、古代の豊後国の中枢だった大分市周辺、そして豊後大神(おおが)一族が栄えた大野川流域に集中している。
唐津市で『松浦佐用姫伝説』の地を探訪した帰路は、宇佐に立ち寄って全国の八幡宮の総本社とされる宇佐神宮と、その近くにある熊野磨崖仏を見学して、別府からフェリーで大阪に戻ることにした。
鬼の石段の先に築かれた巨大な2体の熊野磨崖仏
博多駅を出発して日豊本線を走る九州旅客鉄道(JR九州)の特急列車ソニック(Sonic)号は、列車によっては「宇佐」駅に停車しないものがある。そのため、山陽新幹線で博多から小倉に出て、小倉を9時17分に出るソニック7号を捕まえた。濃紺の特急列車は、車内が思いの外明るい。
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| 日豊本線を走るソニック号 |
ソニック7号の車内 |
小倉から宇佐までは50分の列車の旅である。佐賀県ではすでに田植えが始まっていたが、周防灘を望む平野を進む列車の車窓には、色づいた麦畑が広がる。大分県は麦焼酎の本場だ。おそらく酒造業者から委託されて麦を栽培している農家が多いものと見受けられる。しかし、宇佐に近づくにつれて前方に立ちふさがる山並みが見えてきた。国東半島へ延びる山塊である。列車はその手前の「宇佐駅」に定刻通り10時7分に到着した。
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| JR九州日豊線の「宇佐」駅 |
予定では、最初に宇佐八幡に参拝した後、その足で熊野磨崖仏の方へ回る計画でいた。しかし、宇佐駅は宇佐神宮の最寄りの駅にもかかわらず、バスの便が思いの外悪い。列車で来た参拝客はほとんどタクシーを利用するそうだ。そこで、客待ちしているタクシーの運転手に話しかけると、先に熊野磨崖仏を見学することを勧めた。
理由を聞くと、宇佐八幡と磨崖仏は駅を挟んで対称的な位置にあり、運賃が高いものにつくという。そして、自分の車に乗ってくれるならメータ料金より安くし、さらに戻りはサービスで宇佐八幡まで送ってやるという。運転手の指し値が高いか安いか判断のしようがなかったが、彼の話に乗ることにした。
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| 熊野磨崖仏の入口 |
タクシーは国道10号線を別府方面に向かってひた走り、立石峠を越えてから左折して山岳に分け入った。熊野磨崖仏はその名の通り、熊野川上流の熊野という寂れた集落の背後の山中にある。集落の中の細い生活道を登り切った所に駐車場があり、その横の受付で200円の拝観料を徴収していた。拝観料は磨崖仏や参道の保存修理に当てられるという。
受付に磨崖仏までの案内が示されていた。磨崖仏までの距離は350mで、そのうち鬼の石段までは263mの登りの山道が続く。そして最後の87mが、鬼が一夜にして築いた急峻な石の階段とのことだ。受付小屋の前に、細い竹を切った杖がおいてある。急な坂道だから用心のために杖をもっていきなさいと、受付の婦人に勧められた。
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| 胎蔵寺の案内 |
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| 胎蔵寺の境内で金のシールを貼られた諸仏 |
熊野磨崖仏の入口の左手に胎蔵寺(たいぞうじ)の標識が出ていたので、立ち寄ってみた。胎蔵寺は今熊山と号する天台宗の寺で、阿弥陀如来を本尊として祭っている。養老2年(718)に仁聞(にんもん)が創建したと伝えられる古刹である。寺伝によると大友氏の廃仏や数度の火災で堂宇は焼失してしまったという。もともと熊野権現を鎮守としていたが、明治初年の神仏分離で熊野社と胎蔵寺に分けられ、熊野権現の神体を当寺に移して安置した。それが阿弥陀三尊、如意林観音、阿弥陀独尊などを青銅の円盤に陽鋳した懸仏(かけぼとけ)で、県指定の文化財になっている。
境内に入ると、不動尊をはじめとして様々な石仏に小さな金色のシールが貼られている。小指の爪ほどのシールだが、中央に梵字が印刷されている。<か>と読む梵字で、<種>の意味だそうだ。願いの種を貼りつけて、祈願をするためのものだそうだ。
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| 坂道と併走する谷筋 |
何処までも続く階段 |
10時40分、熊野磨崖仏の入口に立った。目の前に263mの長い登り坂が森林に分け入っている。受付で借りた竹の杖を頼りに坂道を登ることにする。坂道の左側に水のない谷川が底を見せているが、よく見かける谷底とは異なる。人頭よりも大きい石がびっしりと敷き詰められていて、いかにも人間の手が加わっている様子が分かる。
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| 鬼が一夜で築いたと伝えられる百数十段の急な石段 |
途中に休憩所があり、その先に切石の石段が続き小さな石の鳥居が立っている。鳥居をくぐると、圧倒されるような乱積みの石段が目の前にそびえている。距離にして87mほどに過ぎないが、大小の石を乱雑に積んだ階段は登りにくいことこの上もない。両脇に設けられたスチール製の手すりがなければ、どこで転倒してもおかしくない石段である。
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| 鬼が築いた石段の民話 |
この石段を築いたという鬼の話が、民話として残っている。大昔、この付近に鳥や獣を食って暮らしていた鬼がいたそうだ。だが、それらを食い尽くした鬼は、「このあたりの田染(たしぶ)の人間を食うことを許して頂きたい」と熊野権現に願い出た。困った権現は一計を案じて、「石の仏に詣でるこの山道に一夜のうちに石を積んで百段を築いてくれるなら許そう」と答えたそうだ。
この付近は石がさほど多くないので、一夜のうちに百段の石段を築けるのは不可能だ、と権現は考えたようだ。だが、鬼は疾風のごとく駆け回って石を探し、みるみるうちに石段を積み上げていった。驚いた権現は、早く夜が明けねば大変なことになると、近くの山に登って鶏の鳴き声を真似て夜明けをつげた。
このとき、鬼はすでに九十九段まで石段を築き、最後の石をかついで立石峠まで来ていたが、鶏の鳴き声を聞いて精魂つきて倒れてしまった。この民話のおかげで、この石段は鬼が築いた石段として、今でも多くの人々に親しまれている。しかし、実際は磨崖仏造立のとき修行僧たちが信仰の一念によって築きあげた石段とされている。
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| 石段の左手に姿を見せた磨崖仏 |
乱積みの丸石の石段を一段一段登りながら、古代人の信仰にかける一念のすごさを感じた。そして、石段をかなり登ったところで、呼吸を整えるために一休みして左手を見ると、梢が切れて明るい日差しが差し込む広場があり、その断崖に彫られた二体の磨崖仏が目に飛び込んできた。観光案内や仏像の写真集でよく目にしてきた半肉彫りの磨崖仏の実物がである。
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| 岸壁に向かって右に彫られた伝大日如来像仏 |
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| 大日如来像(左側側面から) |
磨崖仏の前の広場に置かれたベンチに腰掛けて、大汗をぬぐいながら息を整えた。年配者には鬼の石段の登ってくるのは、やはり厳しい。だが、ベンチに座って岸壁から浮き出たような巨大な尊像を前にすると、疲れも吹っ飛んでしまう。なにしろ大きい。向かって右側の大日如来像と伝えられる磨崖仏は像高さが約6.7m、左側の不動明王像にいたっては8mの高さがあるという。受付で貰ったパンフのキャッチコピーにも「日本一雄大荘厳な熊野磨崖仏」とあるが、あながち誇張とも思えない。
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| 大日如来像(右側側面から) |
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| 頭上に彫られた種子曼荼羅 |
伝説によると、熊野磨崖仏は、仁聞(にんもん)によって養老2年(718)に制作されたと言われている。仁聞は、宇佐八幡の化身と称して国東半島六郷に修験の道を開き、多くの仏像と寺院を造り、数々の奇跡をみせて、六郷満山を開いた聖僧とされている人物だ。実在か架空の僧かは不明である。しかし、熊野の磨崖仏が奈良時代の初めに造られたとするのは無理がある。大日如来は密教の根本仏であり、不動明王はその化身であるとされている。空海や最澄によって密教が流布されて後の造立と考えなければならず、おそらくは平安時代末期から鎌倉時代初期の頃と推定されている。
ベンチから二像をしばらく見比べていたが、視線は自然と右側の大日如来像に向けられた。屏風のように露出した30mほどの巨岩の下三分の一ほどを庇のように彫り込み、その中に如来像が彫られている。首から下は風化して失われてしまったが、頭部がしっかり残っている。しかも、1000年近い風雪に耐えてきたとは思えないほど、頭髪も顔の造作もはっきりしている。
大胆につり上がって半円を描く眉や、その下の切れ長の目、そしてぎゅっと結んだ口元。いかにも理知的な仏顔である。盛り上がった肉髻(にくけい)に彫られた螺髪(らはつ)も丁寧なつくりである。円形の頭光の上方に、三面の種子曼茶羅が隠刻されている。種子とは、密教において仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)をいう。中央が理趣教曼茶羅、右方が胎蔵界曼荼羅、左方が金剛界曼茶羅と云われていて、この場所が修験道霊場であったことを示しているとされている。
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| 憤怒の相ではなく柔和な微笑みを浮かべる不動明王像 |
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| 不動明王像(右側側面から) |
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| 方形の龕に刻まれた神像 |
向かって左に位置するのは、腰から上が刻まれた半身像の不動明王である。一般に、不動明王は悪魔を降伏するために恐ろしい姿で表され、すべての障害を打ち砕き、おとなしく仏道に従わないものを無理矢理にでも導き救済する憤怒の相をしている。だが、ここの不動明王像は、あぐらをかいた大きな団子鼻の下の口元に笑みを浮かべているよう見えるほど柔和である。
不動明王は右手に利剣を握り左手に羂索(けんじゃく)を持つが、羂索はすでに失われている。両眼は開いた正眼だったのか、片方だけを開いた天地眼だったのかは、判然としない。正眼だったら唇からはみ出した牙は二本とも下を向き、天地眼の場合は、右の牙が上にはみ出し、左の牙が下にはみ出しているはずだが、これも判然としない。
また、左右の両脇には高さ約3メートルの矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)の像の痕跡が認められるというが、剥離崩落がひどくよく分からない。 さらに、不動明王の左脇侍の外側に高さ1.5mほどの方形の龕(がん)が彫られ、その中に二体の神像が描かれている。この場所が熊野神社の境内であることから、家津御子(けつみこ)と速玉(はやたま)の二神ではないかと想像されている。
大日如来像にしろ不動明王像にしろ、深山幽谷の断崖絶壁にこれだけの巨像を彫り上げた原動力は信仰の一念以外の何物でもない。とても一人の仏師の制作とは思えず、複数の修験僧が山ごもりして多くの月日をかけて丹念に築きあげたのであろう。彼らにとって造立それ自身が仏道修行だったはずだ。
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| 磨崖仏の更に上まで延びている鬼の石段 |
いずれにしても、ここに鎮座する二体の磨崖仏は国東を代表する石仏であり、国重文と国史跡の二重指定を受けている。なお、熊野磨崖仏がある場所は183カ所におよぶ六郷山峯入り行の霊場の一つである。この峯入りの荒行は昭和34年(1959)に再興された。数年に一度、不動明王の前を出発点として護摩を焚き、行程150km、約10日間におよぶ行に入るという。
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| 鬼の石段の上に鎮座する熊野社 |
鬼の石段は、磨崖仏を通り越してさらに上まで続いている。この階段を登り切ると、熊野権現(くまのごんげん)を祭る熊野社がある。熊野権現は、熊野三山に祀られる神であり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになった。熊野神は各地の神社に勧請されておりこの熊野社もその一つである。先ほど見た胎蔵寺は熊野権現を鎮守としていたが、明治初年の神仏分離によって、熊野社と胎蔵寺に分けられた。
応神天皇の神霊を祀る全国の八幡社の総本宮・宇佐神宮
「さあ、着きましたよ」
そう言って、タクシーの運転手が車を止めたのは、宇佐神宮の大駐車場の脇にある「宇佐八幡」バス停前だった。時計を見ると11時55分を指している。熊野磨崖仏の見物を終えて受付前から再びタクシーに乗ったのが11時30分だった。熊野に来た時とは逆に国道10号線を小倉方面に走って、ほぼ25分で宇佐神宮に到着したことになる。
バス停からJR日豊本線の「宇佐」駅までの距離は約4キロ、バスを利用すれば10分で戻ることができる。ただし、バスの便はそれほど良くない。1時間に1本程度で、時間帯によっては運行していない時間もある。
「帰りのバスの時間をしっかりメモしておきなさいよ。あまり本数がありませんから」
運転手は、わざわざそのためにバス停の前で車を止めてくれたのである。
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| 表参道入口。左が大駐車場、右が土産物屋 |
大駐車場と土産物屋などの売店との間を表参道が一直線に東に延びている。その入口に立って、やっと念願の宇佐神宮に来ることができた、と思った。
武光誠氏の『知っておきたい日本の神様』(角川ソフィア文庫)によれば、現在日本全国にある神社の数は10万社以上。そのうちのベスト3は、次の3社だそうだ。
●稲荷社 約19,800社、
●八幡社 約14,800社(*)、
●天神社 約10,300社
(*)宇佐神宮のホームページでは、全国4万社あまりの八幡宮の総本宮としている。
稲荷神社の総本宮である伏見稲荷大社や菅原道真を祭る天神社の総本宮・北野天満宮は、今まで何度か参拝している。しかし、八幡社の総本宮である宇佐神宮は、一度は参拝したいと思いながら、この年まで機会がなかった。
宇佐市南宇佐に所在する宇佐神宮は、寄藻川(よりもがわ)に沿ってイチイガシが群生する約56万8千平米の広大な社叢を有する豊前国一宮である。古来、八幡神社、八幡大神宮、八幡宇佐宮、宇佐八幡宮などさまざまな名で呼ばれ、鎌倉以降は単に宇佐宮と称されることが多かったという。
宇佐神宮では、応神天皇(一の御殿)、比売大神(ひめのおおかみ/二の御殿)、神功皇后(三の御殿)の三柱の神を、上宮(じょうぐう)と下宮(げぐう)にそれぞれ祀っている(メインは上宮だが、上宮・下宮どちらも三柱全てを祀っている)。しかし、もともと祀られていた八幡神は、その由来に不明な点が多く、よく分かっていないようだ。
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| 上宮境内に設けられた大元神社遙拝所 |
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| 遙拝所から御許山を望む |
由緒書きでは、八幡とは八幡大菩薩のことで応神天皇の神霊であるとし、欽明天皇の時代に初めて宇佐の御許山(おもとやま)に示現したという。御許山は現在上宮が鎮座する亀山の南東約4キロに聳える海抜647mの山で、馬城(まき)峯ともいう。現在、御許山には宇佐神宮の奥宮である大元神社が祀られている。
欽明天皇29年(568)に八幡神は大神比義(おおみわのひぎ)によって鷹居瀬(たかいせ)に祀られたが、奈良時代の神亀2年(725)になって、現在地の亀山に遷座されたとされている。専門家の間では、宇佐神宮の草創にかかわった宇佐・大神(おおみわ)・辛島の各氏族が、それぞれ奉じていた氏神や信仰が融合して、八幡神という一つの神格が形作られたと考えている。
ちなみに、宇佐氏は比売神を氏神として祭祀した宇佐地方の豪族である。大神氏は大和大三輪系とも九州土着とも言われているが、八幡宮を創祀した大神比義を祖とし、草創期には宮の実権を掌握していた。また辛島氏は渡来系氏族で、宇佐地方に先進技術を持ち込み、宮の草創期には多くの女性禰宜(ねぎ)を排出したという。
宇佐神宮の発展の歴史を旅する
宇佐神宮は、もともと八幡神だけを奉斎していたとされているが、現在は八幡三神を主祭神として祀っている。社伝によれば、神亀2年(725)に八幡大神(=応神天皇)を第一殿に、天平元年(729)に比売大神(ひめのおおかみ)を第二殿に、そして弘仁14年(823)に神功皇后を第三殿に祀ったとのことだ。
表参道の脇にある土産物屋の奥の食堂で昼食を取りながら、参道前の観光案内所で入手したパンフを読んでいると、この神社の発展してきた歴史をおぼろげに描くことができる。宇佐神宮ほど中央の権力にすり寄って発展してきた神社も珍しい。
そのきっかけとなったのは、養老4年(720)の隼人(はやと)討伐である。この年、九州南部の大隈・日向(ひゅうが)に住む隼人族が、大隈国守を殺害してクーデターを起こした。そこで、朝廷は大伴旅人(おおとものたびと)を隼人討伐の大将として任命し、1万人を超す軍隊を派兵するとともに、宇佐神宮に勅使を派遣し、国家鎮護と隼人討伐を祈願した。
今となっては嘘か本当か確かめようがないが、なんと八幡神は「我征(われゆ)きて降(くだ)し伏(おろ)すべし」と応えたいう。そして、八幡神自ら神軍を率いて出陣し神威を示したという。こうして隼人討伐は成功した。そのため神亀2年(725)には豊前国府の支援のもとに、宇佐宮は現社地に遷し、官社に列せられた。
この神亀2年(725)という年には、前述の宇佐氏出身の法蓮(ほうれん)が、宇佐神宮の東方にあたる日足(ひたり)の里に弥勒禅院を建立した年である。天平10年(738)、託宣によってこの禅院は宇佐神宮の社殿の西に移されて神宮寺弥勒寺となり、法蓮は初代別当に就任している。これは神宮寺の先駆けをなすものであり、国東半島を中心とした六郷満山の仏教文化発祥に多大な影響を与えたとされている。
天平10年以後、八幡神はめざましい発展を遂げて行く。その流れを時系列的に追ってみよう。
●天平12年(740)、太宰大弐藤原広嗣の乱に際して、大将軍大野隼人が宇佐八幡神に戦勝を祈願した。乱が鎮圧された翌年、秘錦(ひごん)の冠一頭をはじめ、金字の最勝王経・法華経各一部、度者(どしゃ、僧)10人、さらに三重塔が八幡神宮に寄進された。
●天平勝宝元年(749)、東大寺の毘慮舎那仏建立の進捗が思わしくなかったとき、八幡神が天神地祇を率いて造立に協力するとの神託を下した。さらに11月には、大仏建立に協力するため平城京へ上京するとの託宣を下す。そのため、朝廷は迎神使を宇佐に派遣し、上京通路にあたる諸国での殺生を禁じている。上京した八幡神は12月27日、聖武・光明・孝謙らと一緒に行幸して東大寺を拝した。大仏鋳造完了とともに、八幡神は東大寺の鎮守神として勧請され手向山八幡宮に鎮座するとともに、東大寺を通じて国分寺を守護する鎮護国家の神となった。
●神護景雲3年(769)5月、道鏡天位事件が発生し、これが国家を揺るがす政争に発展した。すなわち、「道鏡を天皇につかしめれば天下泰平ならん」との八幡神の詫宣が中央に伝えられ、6月、称徳天皇は真偽確認のため和気清麻呂(わけのきよまろ)を勅使として宇佐に派遣した。清麻呂は「天皇の位は天皇一族が継承すべきである」との八幡の神託を得て帰京したが、道鏡の怒りにふれて備後の国に配流となる。しかし、翌年に称徳天皇が崩御し、道鏡は失脚し、下野国薬師寺別当に左遷される。
●弘仁12年(812)、従来の八幡宮から八幡大菩薩宮に改称している。これにより、八幡神は仏法と一体化し、日常的に神前読経が行われていたことが伺える。
●貞観元年(859)、大安寺の僧・行教が八幡宮に参詣し神託を受けた。そして八幡神を王城鎮護の神・国家鎮護の神として山城国に勧請した。これが石清水八幡宮の始まりだった。
●貞観12年(870)に「宇佐八幡大菩薩宮」へ下した宣命に「我朝乃顕祖」とあり、宇佐八幡が伊勢神宮に次いで第二の宗廟として天皇家から位置づけられるようになった。また、道鏡天位事件以後、国家の命運を左右するようなとき。宇佐神宮に勅使を派遣するのが恒例となった。
●平安時代後期に、武家の棟梁である清和源氏の八幡信仰が高まり、武勇で知られる源義家は石清水八幡宮で元服して「八幡太郎」の通称を用いた。その清和源氏が鎌倉幕府を開いたことをきっかけに、八幡信仰は全国の武士の間に広まり、国家鎮護や家運隆盛をもたらす神として多くの人々に愛されるようになった。
イチイガシの杜に囲われた朱塗りの神殿へ
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| 表参道の大鳥居 |
右手に売店が並ぶ表参道の先に、巨大な朱塗りの大鳥居が聳えている。新緑に輝く周囲のイチイガシの木々が、鮮やかな朱色をいっそう引き立たせている。
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| 境内案内図(参拝の栞より) |
宇佐神宮の鳥居には大きな特徴がある。丸柱が垂直に立ち、笠木と島木の反りが強く、木口が斜めに切られ、雨覆屋根をかけている。鳥居の上に掲げる額束(がくづか)はないが、柱頭部をつなぐ厚い板の台輪を柱上に置いている。宇佐古来の形式をもつ鳥居で、特に宇佐鳥居と呼ばれている。
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| 寄藻川に架かる神橋 |
大鳥居をくぐって先へ進むと、参道はほぼ直角に右に曲がり、朱塗りの欄干の橋の前に出る。寄藻(よりも)川に架かる神橋である。寄藻川は境内の中を西から北へ流れ、境内の南と東を流れる御食(みけ)川と境内北東部で合流する。神橋付近から下流は浅瀬だったので、寄藻川は浅瀬川とも呼ばれた。欄干から浅瀬を見下ろすと、錦鯉が群れをなしている。
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| 竹内宿禰を祀る黒男神社 |
寄藻川に架かる神橋を渡ると右手に黒男(くろお)神社がある。景行天皇から仁徳天皇までの五代の天皇に240余年にわたって忠誠をつくして仕えたとされる竹内宿禰(たけのうちのすくね)を祀っている。
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| 初沢池と参集殿 |
黒男神社の先にまた大鳥居があり、それをくぐると、右手に”日本三沢の池”の一つとして知られる”初沢の池”がある。夏には華麗な薄紅色の原始蓮が咲き乱れるという。池の周りに宝物館と参集殿が立っている。
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| 斎館・神宮庁 |
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| 神宮寺弥勒寺復元イメージ |
初沢の池の先に、斎館・神宮庁(社務所)の建物がある。天平10年(738)、託宣によって日足(ひたり)の里にあった弥勒禅院が宇佐神宮の社地に移されて神宮寺弥勒寺と呼ばれた。この伽藍が築かれたのは、この付近から西参道にかけてである。
発掘調査によって、現在の西参道の南側に、南大門・中門・金堂・講堂が南北軸に沿って配され、金堂前面に2基の三重塔が建っていたことが判明している。いわゆる“薬師寺式伽藍”をもつ堂々たる大寺だったらしい。なお、西参道北側には附属の堂宇が甍を並べていたという。
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| 菟道稚郎子命を祀る春宮神社 |
手水舎を左に見てさらに杜の奥へ進むと、やがて応神天皇の御子神を祀る春宮(とうぐう)神社が右手に見えてくる。この社殿に祀られているのは、菟道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)とのことだ。菟道稚郎子命は応神天皇の太子だったが、天皇亡き後、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと、後の仁徳天皇)と3年にわたって皇位を譲り合った。しかし、空位が永らく続くと天下の煩いになると思い悩んで、この皇子は互譲に決着を期すべく自ら果てたと伝えられる。
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| 本堂に通じる大鳥居 |
下宮の鳥居 |
春宮神社を過ぎると、うっそうと茂るイチイガシの杜の中の広場に出る。石段の上に上宮に通じるひときわ鮮やかな大鳥居が建っている。大鳥居の下の参道を右に行くと下宮に出る。
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| 下宮の社殿(側面から撮影) |
下宮(げぐう)の鳥居をくぐって神域を進むと、社殿の横に出る。下宮は、上宮の分神を祀るため嵯峨天皇の弘仁年間(810年代)に勅願によって創建された。その結果、宇佐神宮は上下両宮の鎮座地となり、「下宮参らにゃ片参り」と言われるようになったという。
すなわち、下宮でも本殿は南面して、向かって左から第一殿に八幡大神(応神天皇)、第二殿に比売大神、第三殿に神功皇后をそれぞれ祀っている。
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| 御子神を祀る祀る若宮神社 |
下宮から上宮に通じる大鳥居の場所に戻って、石の階段を進むと、国の重要文化財に指定されている若宮神社がある。社伝によると、天長元年(824)の神託に基づいて仁壽2年(852)に造営された摂社である。祭神として、応神天皇の若宮だったる大鷦鷯(おおささぎ)命(仁徳天皇)の他に、大葉枝皇子(おおばえのみこ)、小葉枝皇子(こばえのみこ) 、隼別皇子(はやぶさわけのみこ)、雌姫皇女(めどりのみこ) を祀っている。
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| 桃山建築様式の西大門 |
当初の宇佐神宮は、現在上宮(じょうぐう)が鎮座している亀山(小椋山、小倉山ともいう)を中心に築かれた。そのせいか、上宮の大鳥居から緩やかな登りの参道が若宮神社の脇を通って、山頂へ続いている。
伊勢神宮では外宮→内宮が参拝の順路になっているが、宇佐神宮でも上宮→下宮が正式な参拝の順らしい。そうとは知らず、まず下宮を先に参拝してしまったが、上宮の参拝客を迎えてくれるのは、なんとも華麗な桃山建築様式の西大門(さいだいもん)である。この西大門は文禄の頃(1593-1596)に改築された。しかし、国宝の本殿や勅使門とともに、宇佐神宮を象徴する建物になっている。
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| 上宮の勅使門 |
西大門をくぐると、広い神域に初夏の日差しが燦々と降り注ぎ、大地が目にまぶしかった。それに輪をかけているいるのが、勅使門をはじめとする本殿の拝殿や周囲の建物の鮮やかな柱の朱である。いつ補修が行われたのかは知らないが、古社というイメージからはかけ離れた華やかさがあった。
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「八幡造り」の国宝・宇佐神宮本殿 (参拝の栞より) |
上宮の本殿も南面していて、向かって左から第一殿、第二殿、第三殿の三棟が並んでいる。由緒書には、八幡大神を祀る第一殿は神亀2年(725)、比売大神を祀る第二殿は天平3年(731)、神功皇后を祀る第三殿は弘仁14年(823)と、それぞれの創起の年を示している。
と言うことは、約300年をかけて現在の神宮の骨格が定まったことになる。興味深いのは、主祭神であるべき応神天皇の神霊とされる八幡大神の社殿が中央にないことだ。すこし穿って考えれば、この神社の本来の姿は、宇佐氏が氏神として祀っていた比売神だったのかもしれない。それに、何らかの意図が働き、新羅征伐に関係した応神天皇と神功皇后の霊が配祀された、とも考えられる。
考えてみれれば、奈良時代の初めの頃は、白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅を相変わらず「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため緊張関係が生まれた時期である。宇佐神宮が中央の権力と結び発展した時期は、国威発揚のために神功皇后の新羅出兵の伝承や応神天皇が胎中天皇として賛美された時代と重なる。
現在の本殿は、安政2年から文久元年(1855〜1861)に造営された時のままで、昭和38年と39年に大修復が行われた。三棟とも白壁に朱の漆塗柱の華麗な建物で、規模もほぼ同じとのことだ。いずれも「八幡造り」」という古い神社建築様式を今に伝え、切妻造・平入の前殿(まえどの)と後殿(うしろどの)を前後に連結させ、中間に1間の相の間(あいのま)が付く建築で、国宝に指定されている。
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| 菱形池と能楽殿 |
上宮からの戻りは、若宮神社の前から「菱形池・御霊水」方面の標識に従って、人気のない石段を下りていった。亀山神社の前を通って亀山の北麓に下りてくると大きな菱形池があった。八幡大神がその畔に顕現したという伝承で知られる霊池である。この池の水面に、能舞台が優雅な姿を写していた
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実は、表参道の土産物屋の奥で昼食を取った後参拝に出ようとしたとき、店先で饅頭を売っていた老婦人が、「荷物が邪魔ならここに置いていきなさい」と親切にも声をかけてくれた、おかげで重いリュックを背負って参拝せずにすんだ。店先に戻ってリュックを受け取り、饅頭を2つばかり食しながら、彼女と少し雑談した。
惜しいことに2時台のバスが出た後だった。次のバスは4時21分まで来ない。大阪までの戻りは、18時50分に別府を出る関西汽船の「サンフラワー」号に予約を入れてある。それに間にあうためにには、16時47分に「宇佐」駅を出る普通列車に乗ればよい。何もしないで2時間近くバスを待つのも芸がないので迷っていると、彼女が言った。
「建康のために歩きなされ。駅は国道沿いの「ジョイフル」というレストランの先の信号を曲がったところにある。なあ〜に、すぐそこですよ、30分も歩けば駅につきますよ」
それなら、と言うわけで、国道10号線の歩道を歩いて戻ることにした。初夏の日差しが一番強い時間で、大汗をかいた。しかし、歩いてみると1時間を要した。田舎の人間の「すぐそこ」は迂闊に信用できない。そのことは、以前に娘と阿波を巡礼したとき体験したはずだが、すっかり忘れていた。
2009/05/19作成 by pancho_de_ohsei
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