橿原日記 平成21年5月14日

松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説で知られる佐賀県唐津市へ

鏡山展望台から虹の松原全景
鏡山展望台から見下ろした虹の松原全景


W明けに九州行きを決意して購入した切符は、本日の朝7時50分に新大阪駅を出る博多行き「ひかり549号」の座席指定券だった。ところが、GWが終わった後、関東では人身事故で朝の列車のダイヤが連日のように乱れた。万が一の用心のために少し早めにアパートを出たせいで、新大阪駅には早く着きすぎた。出発便のボードを見ると、30分早く7時20分に大阪を出るひかり547号がある。目的地にはできるだけ早い時間に着きたい− そう思ってチケット売り場で切り替えが可能か確認すると、OKだった。ただ、空いている席は4号車のサイレンス・カーだけで、それでも良いかと念を押された。

ひかりレールスターの4号車両
ひかりレールスターの4号車両
イレンス・カー? 普通の車両と何が違っているのか全然予備知識がなかったが、席が取れるのであればと、OKした。後で知ったのだが、「ひかり547号」はJR西日本がサービス向上を狙って山陽新幹線に導入した車両で、一般には「ひかりレールスター(Rail Star)」の愛称で呼ばれているそうだ。

席指定の4−8号車は、横2+2配列の座席を採用し、座席幅のみならず、隣席間の肘掛やリクライニング角度も大きく、ゆったりしたグリーン車並みであるので人気を呼んでいる。特に、4号車は静かな車内作りを目的として、始発駅発車前と終着駅到着直前、および災害や事故発生などの異常時を除いて車内放送を流さないため、サイレンス・カーと呼ばれている。

点の博多まで余計な雑音に悩まされることもなく、車内で静かに過ごせるとは有り難い。朝が早かったせいか、むやみに睡魔に襲われ少し眠りたかった。7時20分、列車は定刻通り新大阪駅のホームから滑るように発車した。サイレンス・カーのシートに身を沈めて、徐々に速度を上げて遠ざかる沿線の景色を虚ろな目で見やったていたが、いつの間にかまどろんでしまった。

4号車両の内部
4号車両の内部
たた寝の混濁した意識の中で、何故か空席のはずの隣のシートに、ある人物の存在を感じた。ああ、大場五夫さん・・・と、思わず声をかけそうになった。しかし、目をこらしてよく見ると、隣は空席のままだった。考えてみれば、10年前から音信不通の彼が突然そばに現れるはずがない。単なる幻覚だった。だが、彼が生まれ故郷の唐津を案内しよう約束してくれていたのは事実だ。その遠い記憶の中の思い出が、彼の存在を意識させたのかもしれない。

場さんは私より5歳ほど年上のフリーの翻訳者で、よく一緒に仕事をした。昔、事業に失敗して負債を抱え込んだため、被害が家族に及ばないようにと奥さんと離婚し、都内の賃貸マンションで一人暮らしをしていた。パソコンに詳しい人だったので、たびたび彼の部屋を訪れてソフトのことをずいぶん教わった。また、彼は技術翻訳に従事するかたわら、市販のソフトのマニュアル本やコンピュータ関連の用語辞典を何冊か出版されていた。今でもインターネットで検索すると、彼の著作が何冊か引っかかる。

最後に上野公園で会った大場さん
最後に上野公園で会った大場さん
場さんは酒の酔いが回ると、捨ててきた故郷の唐津(からつ)を懐かしみながら、よく言ったものだ。
「君に一度、あのすばらしい虹の松原の白砂青松の景色を見せてやりたいなあ」
いつか暇ができたら、一緒に九州へ行こう、俺の故郷を案内する、と言った彼の言葉を信じ、その日が来るのを楽しみにしていた。しかし、10年前の5月、彼は突然姿を消した。知人や家族、仕事仲間の誰にも行き先を告げず、文字通り消えてしまった。

の部屋には、"電気もガスもない人里離れた山奥で、自分は花園を手伝いながら晴耕雨読で余生を過ごします”との張り紙が残されていた。それまでに買い込んだ膨大参考図書も、趣味で集めた音楽CDも、仕事で使っていたパソコンや周辺機器も、そのまま大家に処分を委ねて彼はいなくなった。それ以来、彼は誰とも接触してこず、ようとして行方は分からない。


回の旅の目的は、松浦佐用姫伝説で知られる故地を訪れることだった。佐賀県の松浦地方に伝わるこの物語は、竹取物語羽衣物語と並んで、日本の三代悲恋物語とされている。ただ後者の二つがまったく架空の話であるのに対して、佐用姫の物語はかなりの部分が史実に基づいているとされ、その伝説は8世紀初めの大伴旅人(おおとものたびと)や山上憶良(やまのうえのおくら)ら万葉歌人の心をとらえ、それ以後も詩歌や能などの文学や演劇の題材とされてきた。ちなみに世阿弥(ぜあみ)の能「松浦佐用姫」もこの伝説を題材にしている。

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3世紀の北九州
が、佐用姫伝説が伝わる唐津(からつ)に興味を抱いたのには、もう一つ他の理由がある。松浦(まつら)とは、現在の佐賀県と長崎県北部、唐津湾と伊万里湾に面した地域のことで、3世紀の卑弥呼の時代、「魏志倭人伝」に記された末盧(まつろ)の国があったところである。当時、対馬と壱岐を経て朝鮮半島南部から玄界灘を越えてきた船は、必ず末盧の港を目指した。末盧は壱岐から九州本土に渡る最短距離に位置しており、いわば当時の日本列島の海の玄関だった。

初3年(239)、邪馬台国の女王・ 卑弥呼(ひみこ)は、中国の魏に初めて使節を派遣した。難升米(なんしょうまい)を使節団長とする一行は、末盧國から船出していった。現在話題になっている映画「レッドクリフ」(赤壁)の戦いからわずか31年後のことである。翌年の正始元年(240)、魏の皇帝からの詔書と印綬を携えて帯方郡から邪馬台国に魏の使者が派遣されてきた。彼らも末盧國を目指してやってきた。魏志倭人伝の記事は、その時の見聞録に基づいているとされている。倭人伝には、「また、(一大國、壱岐)から一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る」とある。

盧は、古代でいう末羅(まつら)である。司馬遼太郎の「街道を行く11」によると、末尾の「羅」は古代朝鮮の南端地域にあった小国家(部族国家)の「国」を指す言葉だったようだ。そう言われてみれは、当時、朝鮮半島南端には、阿羅(あら)、多羅(たら)、耽羅(たんら)などといった国名が多い。その末羅が何時の頃からか松浦(まつら)と表記されるようになった。

代の松浦は朝鮮半島と深い関わりのあった土地柄であり、大場さんの誘いがなくても、一度は訪れてみたいと思っていた。北九州の博多や太宰府は何回か訪れたことがあるが、いままで松浦地方には足を踏み入れたことはない。「松浦佐用姫」伝説の舞台が、たまたま大場さんの故郷・唐津であるのも何かの縁だ。今回は10年前の大場さんとの約束を、案内人なしで果たすことになる。空想の中で大場さんと語り合いながら、虹ノ松原や佐用姫ゆかりの故地を回ってみたいと思う。



2つの松浦佐用姫伝説

陽新幹線はやたらとトンネルが多い。時折、車窓に瀬戸内の海が現れるが、静かな海をゆっくりに味わう暇もなく、すぐに次のトンネルに入る。しかし、大阪から博多まで3時間足らずで移動できるのは有り難い。大伴狭手彦(おおとものさでひこ)を含めて古代の人々は、同じ距離を船旅で移動するのに一ヶ月を要した。

礼とは承知しながら、隣の席に座っているはずの幻の人物にぶしつけに聞いた。
「大場さんは松浦佐用伝説を知っていますか?」
「ああ、松浦に生まれ育った人間なら、誰でも知っている話だ」
「一般に流布している松浦佐用姫伝説は、ほぼ次のような物語になっていますね。すなわち・・・・」

領巾を打ち振る佐用姫
領巾を打ち振る佐用姫
化(せんか)天皇の時代、朝廷の命令で朝鮮半島の任那(みまな)救援に派遣されてきた司令官・大伴狭手彦は、停泊地である松浦の地で、篠原(現・唐津市厳木町)の長者の娘・佐用姫と恋仲になり、やがて夫婦の契りを結んだ。

帆の時が来て、狭手彦は「これを私と思って待っていて欲しい」と佐用姫に銅の鏡を手渡す。別れを惜しむ佐用姫は玄界灘を見下ろす鏡山(かがみやま)に駆け登り、軍船にむかって身にまとっていた領巾(ひれ)を打ち振った(この故事から鏡山は「領巾振山(ひれふりやま)」と呼ばれるようになったという)。

かし、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は、領巾を傍らの松にかけて鏡山を駆け下りると、松浦川を渡り、対岸の佐用姫岩(唐津市和多田)に足跡の残し、濡れた衣を衣干山(きぬほしやま、唐津市西唐津)で乾かし、海岸伝いに北行して、呼子(よぶこ)の浦まで追ってきた。

松浦の望夫石
松浦の望夫石
して、大声で狭手彦の名を呼んだが、軍船は止まらない。そこで佐用姫は小舟で対岸の加部島(かべしま)に渡り、天童岳に登って船の影をさがした。だが、恋人の乗った軍船は波の彼方に消え去り、彼女は悲しみのあまり、そこで7日7晩泣き続け、涙も枯れてついに石に化した。後世、これを松浦の望夫石(ぼうふせき)と名付け、田島神社の境内に移し佐用姫として祀った.。・・・

まあ、そんなところだろうな。朝鮮半島の南端にあった任那(伽揶)諸国が新羅に攻撃されたため、大和朝廷は狭手彦を派遣したのは史実のようだ。養老4年、つまり720年に編纂された我が国最初の正史である『日本書紀』は、宣化紀(せんかき)で次のように記している」

化天皇2年(537)冬10月1日、天皇は新羅が任那に害を加えるので、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)に命じて、その子(いわ)と狭手彦(さでひこ)を遣わして、任那を助けさせた。この時に磐は筑紫に留まり、その国の政治をとり三韓に備えた。狭手彦はかの地に行って任那を鎮め、また百済を救った(出典:宇治谷孟訳『日本書紀』(講談社学術文庫833))

鏡山遠望a
佐用姫が領巾を振った鏡山遠望
だが、『日本書紀』は正史であるためか、佐用姫の名も大伴狭手彦とのラブロマンスも語られていない」
「しかし、愛しい人に恋いこがれて7日7晩も泣き続け、そして遂には涙も枯れて石になってしまうとは、佐用姫はよほど恋に一途な女性だったんでしょうね。正史には載せられなくても、その悲しい最後は、この地方の多くの人々の心に刻み込まれたのでしょう」
「『日本書紀』と同じ頃の和銅6(723)年編纂され8世紀の半ば頃に完成した官撰の地誌『肥前国風土記』も、松浦郡の「鏡の渡」と「褶振(そでふり)の峯」の項で似たような伝承を伝えている。概要はこうだ」

の渡は郡の北にある。昔、宣化天皇のとき、大伴連(むらじ)狭手彦を遣わして、任那(みまな)国を安定させ、百済(くだら)国を助けた。命をうけて、松浦郡家にきて、篠原(しのはら)村の弟日姫子(おとひひめこ)に求婚し結婚した。日下部君(くさかべのきみ)の祖である。

日姫子は容貌美しく、人間的にもすぐれている。別れる日に鏡を妻に渡した。しかし妻が栗川(松浦川)を渡るときに、鏡の紐が切れて川に沈んでしまった。よって鏡の渡と名づけられる。

振(そでふり)の峯は郡の東にある。烽(とぶひ)があり、褶振の峯という。大伴連狭手彦が任那へ出発するとき、弟日姫子がここで褶を振って送った。よって褶振の峯と名づけた。しかし姫は狭手彦と別れて五日後、夜ごと人が来て共に寝、明け方になると去っていく。容貌は狭手彦に似ている。姫は怪しいと思いそのままにしておれず、ひそかに績麻(うみお)をその人の上衣のそでにかけ、麻ののびるままにたどると、この峯の頭の沼に至り、横たわる蛇がいた。

体は人で、頭は蛇の形をして沼にひそんでいたが、たちまち人になった。弟日姫子の侍女が走って帰りこのことを親に告げた。親は人々と一緒に峯にのぼってみたが、蛇と弟日姫子はいなくなって、沼の底に、人の屍だけがあった。姫の骨といい、峯の南に墓をつくって遺骸をおさめた。この墓は今も残っている。(出典:県史41『佐賀県の歴史』(山川出版社))

一般に流布している『松浦佐用姫伝説』とは、かなり違った内容ですね」
「そう。まず女性の名前が異なる。『風土記』は大伴狭手彦と弟日姫子(おとひひめこ、逸文では乙等比売=おとひめ)の悲恋物語として記されている。次に、伝承の後半はかなり異なる。弟日姫子が夫と別れたのち、彼女のもとに夫に似た男が通ってくるようになる。しかし、その男が何処の誰だか分からない。そこで、彼女は男の着物の裾(すそ)に麻糸をつけておき、それをたどることにした」

弟日姫子沼の神に引き込まれた池
弟日姫子が沼の神に引き込まれたと
される鏡山山頂の蛇池
すると、その男は褶振峯の頂にある沼の神である蛇だとわかったが、蛇に魅入られた弟日姫子は、沼に引き込まれて死んでしまったという。この弟日姫子と佐用姫は同一視され、もう一つの佐用姫伝説とされている」」

狭手彦と別れたオトヒヒメコがその後別の男と通じるとは、いささか女のサガを感じさせる話ですね。しかもその男が沼の主の蛇だったとは・・・」
「でも、伝承としては、こちらの方に古さを感じるよ。世阿弥作の『松浦佐用姫』は、2つの伝承を折衷したようなもので、次のような筋書きになっている」

国行脚の僧が松浦湾にさしかかった時、突然一人の海女が現れ、名所案内や佐用姫と狭手彦の悲恋物語を語り始める。そして、僧の袈裟が欲しいという海女に袈裟を授けると、海女は「お礼に狭手彦の形見の鏡を見せよう」と消え失せる。夜も更け松浦港に月光が輝く頃、鏡を抱いた佐用姫の霊が現れ、在りし日の物語を再現して見せる。「唐へ渡る狭手彦彦との別れを惜しみ、舟形が見えなくなるまで布を振り続け、その跡を慕って形見の鏡を抱きしめて身投げをしたところで、僧の夢も覚める。・・・



戦国の武将・寺沢広高が防風・防砂林として築いた虹の松原

姪浜駅のホームに到着した筑肥線の列車
姪浜駅のホームに入ってきた筑肥線の列車
幹線ひかり547号は、7時20分に新大阪を発って、10時05分に博多駅に着く。博多駅で、どのホームから唐津方面への列車が出るのか探したがよく分からない。分からなかったのも道理である。博多駅から唐津へのJRのサービスはない。

ったん改札を出て、福岡市営地下鉄1号線(地下鉄空港線)で姪浜(めいのはま)まで行き、そこで西唐津行きのJR筑肥線に乗り換えなければならない。地下鉄の博多駅から姪浜まで19分、姪浜から虹の松原まで約60分、結構長旅である。

唐津湾に浮かぶ島々
唐津湾に浮かぶ島々
見えてきた虹の松原と鏡山
見えてきた虹の松原と鏡山

浜駅で乗り換えた筑肥線の列車は、糸島半島を横切って西に向かう。筑前深江駅を過ぎると、海岸線に沿って築かれた国道202号線と併走するように、列車は唐津湾の縁を走る。「魏志倭人伝」では、卑弥呼の邪馬台国にたどり着くのに、この海岸線を逆方向に西から東へ旅した道筋が示されている。

窓から唐津湾を眺めていると、前原市と唐津市の境界を越えた当たりから、砂浜に緑の線を引いたような海岸線が見えてくる。それが最初の目的地である虹の松原だ。その松林の帯の上に、すり鉢を伏せたような形の均整のとれた山がそびえている。佐用姫伝説から領巾振山(ひれふりやま)の名で知られている標高284mの鏡山(かがみやま)だ。

津市の唐津湾沿岸に広がる国の特別名勝「虹の松原」は、三保の松原(静岡清水市)、 気比の松原(福井敦賀市)とともに日本三大松原の一つとされる景勝の地である。東の玉島川から西の松浦川の間に、長さ約5キロ、幅500〜600メートルにわたって弧状に続くクロマツの林で、その白砂青松の景観はまさに玄海国定公園の白眉と言ってよいとされている。

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虹の松原付近マップ

島川に架かる橋を渡ると、列車は「箱崎」駅に到着する。このあたりが「虹の松原」の東の端で、ここからは列車が松林の端をかすめるように進み、車窓から群生する松林を眺めることができる。
「『万葉集』に虹の松原を詠った歌が何かありましたかね?」
私がふと思いついたように聞くと、大場さんから次のような返事が返ってきた。
「いいや、万葉の頃は虹の松原一帯はまだ海の底だったようだ。したがって、この松原を詠った歌は一首もない」

それじゃ、松原は自然林ではなく、人為的に植林されたというわけですか?」
「そのように聞いている。秀吉の時代に大名に取り立てられた寺沢広高(てらさわひろたか、1563 - 1633)という人物がいた。彼は文禄2年(1593)に唐津藩主に任じられると、防風・砂防のために砂丘にクロマツの植樹を行なわせた。そして、藩の庇護の下、伐採はもちろんのこと、燃料としての落葉の採取も厳しい制限が課したという」

その後、藩主の改易や移封で主家が煩雑に交代した。しかし、防風・防砂林の松原は手厚く管理されたようだ。そのため現在も100万本に達する松があり、樹齢数百年になるものも数万本あるとのことだ」

幕藩時代は松原の長さが8キロ近くも続き、「二里の松原」と呼ばれていたそうだ。それが明治時代になると、「虹の松原」と呼称が変わった。その理由は知られていない」
「そのことは、司馬遼太郎が『街道を行く』の中でも書いていますね。沖から見ると、渚が大きく湾曲して虹のように見えたからかもしれない、と司馬遼太郎は想像しています」
「懐かしいね。子供の頃はよくこの林で枯れ木拾いをしたものだ。嵐の後には風で折れた小枝が散乱していてね、それを束ねて、一束なんぼで母親から小遣いをせしめたものだ」
車窓の外を見やりながら、少年の日の思い出に浸る大場さんが、まるで私の横にいるような気がした。

「虹ノ松原」の無人駅
「虹ノ松原」の無人駅
「虹の松原」から一直線に伸びる駅前道路
「虹の松原」駅から一直線に伸びる駅前道路
前11時35分、単線のレールの上を走ってきた列車が「虹ノ松原」駅に到着した。ホームに降り立ったのは、私と地元の老夫人の二人だけである。列車を降りて驚いた。駅舎は小さな倉庫のような建物で、改札口に切符の収集箱が置いてあるだけで駅員もいない。待合室には自動切符販売機と小さなベンチが置いてあるだけである。日本三大松原の一つとされる景勝の地の駅にしては、余りにお粗末な無人駅だ。

勝地の駅らしく、それなりの賑わいを見せる駅前通りを勝手に想像していた。しかし、駅を出て周囲を見回しても、道路から少し引っ込んだところに駄菓子屋らしい古びた建物が一軒あるだけで、駅前は松林が迫っているだけだ。駅前には、観光客の自家用車らしい車が2台駐車していたが、バス停もなければ、タクシーの駐車場もない。そんな殺風景な中を、海岸方面に向かって舗装道路が駅前から一直線に延びている。

「虹の松原」の松林−1 松林の先に見える海岸
「虹の松原」を貫通する県道虹の松原線 松林の先に見える海岸

然として、姿が見えない大場さんを振り返って聞いてみた。
「これが、特別名勝「虹の松原」の表玄関ですか?」
「名勝・虹の松原の一角にあるため、他の施設は設けられないのだろう」
「昔から、こんな様子だったのだろうか?」との疑問に、彼は「ああ、そうだったような気がする」と答えた。

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レストラン海浜館と夢羽衣の松

前の道をまっすぐ進むと、松林を貫く県道・虹の松原線の「鏡山入口」交差点に出る。そのT字路の突き当たりに、レストラン海浜館の白亜の建物があった。レストランの前の広場にそびえているのは「夢羽衣の松」である。

衣伝説で有名な三保の松原の「羽衣の松」は樹齢約650年の古松として有名だが、こちらの松はそれほど時代を感じさせない。もとは双幹に別れた松だったようだが、細い方は無くなったとのことだ。

車場の広場を抜けて松林の中へ分け入った。潮風に強いクロマツが林立しているが、総じて幹はそれほど太くない。樹齢数百年の松を探したが、それほど太い木は見あたらなかった。海岸線に近づくほど、松の幹は一様に内陸に向かって傾斜していて、玄界灘を越えてくる潮風の強さを思わせた。

「虹の松原」の松林−1 「虹の松原」の松林−2
「虹の松原」のクロマツ林−1 「虹の松原」のクロマツ林−2

林の切れ目から砂浜に出た。右を見ても左を見ても、細かい粒子の砂浜が緩やかな弧を描いて目路の果てまで続いている。この付近は遠浅で、さらに水質が良いことから、夏には海水浴場として大勢の人が訪れるという。大場さんもここで泳いだ経験があるそうだ。

「虹の松原」の海岸線(西方面を望む) 「虹の松原」の海岸
「虹の松原」の海岸線(西方面を望む) 「虹の松原」の海岸

水浴シーズンにはまだ早い砂浜には、一組のアベックが腰を下ろして沖を眺めていた。彼らの視線の先に、高島が浮かび、その左には寄り添うような鳥島を従えた大島が見えた。確かに、大場さんが一度は見せてやりたいと言っていただけの白砂青松の景観がここにあった。気比の松原は生まれ故郷に近いこともあって子供の頃から何度も訪れたが、その規模においても風光においても、虹の松原が数段上であろう。大場さんが自慢していたのも、宜(むべ)なるかな、だ。

なみに、虹の松原は昭和30年(1955)に「特別名勝」に指定され、昭和58年(1983)には「日本の自然百選」「日本の名勝百選」に選ばれている。さらに、昭和62年(1987)には松林のトンネルの中を走る県道・虹の松原線は「日本の道百選」にも選ばれている。



万葉の昔から領巾振山(ひれふりやま)の別称で知られた鏡山

JR筑肥線の車窓から仰ぎ見た鏡山
JR筑肥線の車窓から仰ぎ見た鏡山

用姫伝説で知られる鏡山は、JR筑肥線の線路を挟んで虹の松原とは反対側にある。標高284mのすり鉢を伏せたような山は駅のホームからは民家の屋根越しに仰ぎ見ることができるが、駅から南2kmの位置にある。山頂までは徒歩で60分近くかかるという。

いて登ってみようとも考えたが、後の行程を考えると時間が惜しい。駅まで戻ってタクシーを呼ぶことにした。ところが、駅には公衆電話もなければ、タクシー会社の呼出し番号の表示もない。途方に暮れていると、駅前の駄菓子屋の前で畑仕事をしている店の女主人が目に入った。事情を説明すると、「あそこから電話しなさい」と店先を指さした。そこには公衆電話がおいてあり、脇にタクシー会社の電話番号が書かれていた。

鏡山に鎮座する鏡山神社の鳥居
鏡山に鎮座する鏡山神社の鳥居
鏡山の山頂に建つ鏡山神社の社殿
鏡山の山頂に建つ鏡山神社の社殿
クシーはすぐ来た。線路を渡って国道202号線の赤水交差点に出た。交差点の近くに朱塗りの大きな鏡神社の鳥居があり、カーブの多い車道がその鳥居から山頂まで続いている。鏡山は、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐の折にこの山に登り戦勝祈願して山頂に鏡を祀ったことに由来するいわれている。鏡山の山頂にある鏡山神社は、その鏡を祭神として祀っている。もっとも、後になって鏡山御食津大神として保食神をまつり、現在は「鏡山のお稲荷さま」として北部九州沿岸各地から信仰を集めているという。

山はもともと火山だった。玄武岩質の溶岩が四方に流れ出て頂上が平らになり、スリ鉢を伏せた形の秀麗な山を作り上げた。古代原始信仰では、笠の形をした秀麗な山そのものが「神の山」として尊崇されていた。それが、神功皇后の新羅征伐の伝承と結びついて、鏡山と呼ばれるようになった。さらに時代が下り、佐用姫伝説が生まれると領巾振山と呼ばれるようになった。

眼下に広がってきた虹の松原
眼下に広がってきた虹の松原

クシーはカーブを曲がるたびに高度を上げていく。鏡山は唐津の桜の名所でもある。車道の両脇には葉桜となった桜の並木が続く。そうした木々の間から、虹の松原が眼下に見えてきた。松林や砂浜を散策しただけでは、この松原の素晴らしさは分からない。唐津湾を抱きかかえるように弧を描く景観の素晴らしさは、やはり鏡山に登ってみて初めて実感できる。

の松原の背後の畑地にはビニールハウスが広がっている。何を温室栽培しているのか、と運転手に聞くと、ハウスミカンです、との返事が返ってきた。以前は、鏡山の山腹もミカンの木で埋め尽くされていた時期があったようだ。それが今はハウス栽培に切り替わっているという。

鏡山の山頂に立つ佐用姫の銅像
鏡山の山頂に立つ佐用姫の銅像

ところで、お客さん。日本で一番高い山はどこか知っていますか?」と、ハンドルを切りながら運転手が聞いてきた。
「富士山だろ。富士山より高い山は日本にはない」
「いいえ、違います。地元ではこの鏡山が一番高いと言っています」
「本当かい? 駅の案内には標高284mと書いてあったよ」
「ええ、かがみ(鏡)こんだ姿なのでそれくらいの高さです。でも、立ち上がったら日本一高い、と地元では言っていますよ」
もちろんジョークです、と運転手は愉快そうに笑った。

冗談ついでに、もう一つ。この山の頂は台形をしていますが、それは鏡山ができたとき上を切り取って、沖の高島を作り、その上をまた切り取って鳥島を作ったと言い伝えられてきました」
実際、鏡山も高島も台形をしていて、見た感じの大きさも丁度良いとされています、と運転手は付け足した。鏡山の台形の頂上は鏡山神社をはじめ、展望台や芝生広場、休憩所など観光施設も整っていて、観光名所としても親しまれている。

見晴台から見下ろした唐津湾
見晴台から見下ろした唐津湾

上の端の近くに佐用姫の銅像が立っていた。右手をあげて領巾(ひれ)を振る佐用姫の先に展望台があり、そこから見下ろす唐津湾はまさに絶景そのものである。西は唐津市街地から東は浜玉町市街地までを一望でき、その途中に虹ノ松原やきらきらと輝く唐津湾を見渡すことができる。弓なりに反った松原の左側の先には、唐津城が薄ぼんやりと見える。天気のいい日には遠く長崎県の壱岐まで見ることができるそうだ。

念ながら、本日は晴天ながら、それほど遠方までの見通しは効かない。運転手の話では、光化学スモッグと大陸から飛来する黄砂のために、最近はあまり視界が効かないそうだ。
「ところで、お客さん」
よほど話好きの運転手なのか、正面に見える高島を指さして、また話しかけてきた。
「あの島には有名な神社があります。お参りすると、宝くじの高額当選間違いなしという神社で、宝が当たると書いて「宝当(ほうとう)神社」と言います。年間20万人も参拝客や観光客が訪れるそうです。どうです? お参りして3億円を当ててみては・・・」
「そんな大金貰っても、この年では使い道に困るよ」と、私も冗談で切り返した。

弟日姫子が引き込まれて死んでしまった蛇池
弟日姫子が引き込まれて死んでしまった蛇池

頂から少し下ったところに、蛇池という名の池がある。かっての火口だった場所で、『肥前国風土記』では、沼の神である蛇に魅入られた弟日姫子(おとひひめこ)が引き込まれて死んでしまった場所とされている。 かなり広い池である。運転手は、車を池の近くの駐車場に回して待っているから、ゆっくり散策しながら下りてきてくださいと言い残して消えてしまった。

のほとりを歩きながら、大場さんが聞いてきた。
「この池で白骨化して見つかった娘が佐用姫であれ、あるいは加部島(かべじま)で別れを悲しんで石になった娘が佐用姫であれ、いずれの場合も狭手彦とは再会できなかったようだね。いったい大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は遠征から戻ってこれたのかな?」
「狭手彦の記事は、もう一度『日本書紀』に出てきます。欽明天皇23年(562)、大将軍に任命されて、ふたたび兵数万を率いて半島に渡り百済とともに高句麗を討ったそうです。そのときは逃亡した高句麗王の宮に進入して、多くの珍宝や武器を奪って持ち帰り、七織帳(ななえのおりもののとばり)を天皇に献上しています。さらに、連れ帰った高句麗の美女媛とその従女を蘇我稲目(そがのいなめ)に送り、稲目はこの二人を妻にしたとも記されています」

佐用姫の像
562年というと最初の遠征から25年後か・・・。537年の遠征の時は、まだ若々しい司令官だっただろうな。しかも当代きっての名門氏族・大伴氏の三男坊とあれば、中央豪族の娘たちも放っておかなかっただろう。まして、九州の片田舎とあっては、長者の娘から見ても雲の上の存在に見えただろうに・・・。その青年と激しい恋に落ち夫婦の契りを結んだとなれば、戦場へ向かう夫を見送らざるを得ない若妻の心境も理解できるね」
「彼女は遠ざかる夫の乗る軍船をできるだけ長く見ていたいとこの山に登った。当時は虹の松原などなかった。唐津湾は鏡山の麓まで迫っていたであろう。多くの軍船が湾内にもやいでいて、地方からかき集められた兵士たちが次々と船に乗り込み、一隻一隻と沖に向かってこぎ出して行く。狭手彦はおそらく白銀に輝く鎧甲を身にまとっていたであろう。山上からも太陽の光を受けて立つ夫の姿がはっきりと見分けられたに違いない」

松浦川のほとりにある佐用姫岩
松浦川のほとりにある佐用姫岩
おそらく様々な不安が彼女の胸によぎったでしょうね。あるいは、これが今生の別れになるかもしれないと・・・。そう思うと、居ても立ってもおれなくなった彼女は、船を追って鏡山を駆け下り松浦川を渡った。その時の彼女の足跡が残る佐用姫岩が唐津市和多田の松浦川のほとりにあるそうです。伝承では、狂乱した佐用姫が鏡山からここまで飛び降りたとされています。唐津市西唐津には衣干山(きぬほしやま)という小山があります。彼女が松浦川で濡らした衣をここで乾かしたと伝えられています。彼女はさらに海岸伝いに北行して、呼子(よぶこ)の浦まで来て夫の名を呼んだそうです。呼子という地名は、ここで夫の名を呼んだことに由来すると伝えられています」

狭手彦は何時帰国して、佐用姫の死を知ったのだろうか?」
「狭手彦の帰国を記した文献資料はありません。ただ、伝承では3年後としているようです。戦功をうちたてて松浦に戻ってきた狭手彦を迎える新妻の姿はありませんでした。佐用姫の死を聞いて狭手彦は嘆き悲しみ、百済から持ち帰った観音像を鏡山の麓に祀り、佐用姫の霊を弔ったとされています。それが現在赤水観音の本尊として祀られている金銅観世音菩薩とのことです」



佐用姫が石と化した望夫石(ぼうふせき)を祀る佐用姫神社

加部島
東松浦半島の先端にある加部島
の山頂で領巾(ひれ)を振って夫の出陣を見送った佐用姫と空想上で出会えたからには、彼女の終焉の地も訪れなければならない。だが、その場所は唐津市の中心からいささか離れた呼子町の加部島(かじしま)にある。より正確な言い方をすれば、加部島の東端に肥前最古の田島神社(たしまじんじゃ)が鎮座しており、その境内にある末社の佐用姫神社に、石となりはてた彼女が望夫石(ぼうふせき)として祀られている。

JR筑肥線の「唐津」駅
JR筑肥線の「唐津」駅
山から加部島に向かうために、再び「虹ノ松原」駅からJR筑肥線に乗り、3つ先の「唐津」駅で降りた。駅構内の観光案内所で聞くと、呼子方面へ行くには、昭和バスを利用するのが一番便利なようだ。ただし、加部島まで行くバスは本数が少なく、さらに始発は唐津駅ではなく、5分ほど離れた唐津大手口というバスターミナルからである。

局14時に唐津駅前から出る呼子フェリー発着所行きの昭和バスで、「呼子」バス停まで行き、ここからタクシーを利用することにした。バスの乗車時間は約35分である。

松浦半島は唐津湾の西側からその先端を玄界灘に向かって突き出している。国道204号線沿いに半島の山中を走っていたバスの前面に、入り江が姿を現せた。呼子の浦である。古くは殿の浦(とんのうら)ともいったそうだ。両側を山で囲われ、海が深く入り込んでいて、呼子の港を形作っている。港の入口は加部島が横たわり、外洋の風浪から港を守っている。

「風の見える丘公園」から俯瞰した呼子大橋
「風の見える丘公園」から俯瞰した呼子大橋

子の港から加部島に渡るには、殿の浦地区の先端に築かれた呼子大橋を渡らなければならない。幸いなことに「呼子」バス停にタクシーが一台客待ちをしていたので、田島神社までの案内を頼んだ。

転手はよほど土地の道路事情に詳しいのであろう。殿の浦地区の集落内の狭い生活道路を巧みに抜けて、呼子大橋に出た。平成元年(1989)に完成した全長728mのこの橋はハープ形式のPC(プレストコンクリート)斜張橋と呼ばれる美しい橋である。海面からの高さは27mだそうだ。

の正面にひときわ高い山が見えた。天童岳(112.m)である。佐用姫伝説では、姫はこの山の上で狭手彦の軍船を見送った後狭手彦を愛おしみ七日七晩泣き続けて遂に石になったとされている。田島神社に向かう前に、運転手は「風の見える丘公園」に案内してくれた。そこからの眺望がすばらしい。

「風の見える丘公園」から見た天童岳 「風の見える丘公園」から見た呼子港
「風の見える丘公園」から見た天童岳 「風の見える丘公園」から見た呼子港

子の浦の西隣に名護屋浦がある。豊臣秀吉の文禄・慶長の役の前線基地となった場所で、呼子大橋の西側一帯に広がる入り江である。この入り江を望む丘陵には、名護屋城跡を中心に付近一帯にはそれぞれの大名の陣跡が残っている。

「風の見える丘公園」から見た名古屋浦
「風の見える丘公園」から見た名古屋浦
禄・慶長の役とは、日本を統一した豊臣秀吉が東アジア制覇の野望を抱いて朝鮮を侵略し、7年間に及んだ戦役のことで、韓国で壬辰倭乱(じんしんわらん)と呼んでいる。正確には1592年から93年にかけての壬辰倭乱と1597年から98年にかけての丁酉倭乱(ていゆうわらん)を指す。大伴狭手彦の時代から一千年後にも、この地から多くの兵士たちが朝鮮半島へ送り出された。考えようによっては、松浦は韓国に一番近いというだけで、因果な宿命を背負った土地柄とも言える。

加部島の田島神社
加部島の田島神社
部島の東部の入り江に面して築かれた田島神社は、田心姫(たこりひめ)、市杵島姫(いつきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)の三女神を祀る肥前国で最も古い神社とされている。しかし、創建の年代は詳かではないようだ。

くから、玄海の漁師たちや松浦党の海賊団は、三女神を玄海の海上守護の神としてあつく信奉してきた。源頼光(みなもとのよりみつ)が寄進したと伝えられる鳥居が海に面して立ち、そこから長くて急な石段が神門に向かって築かれている。

段を登り神門をくぐると、目の前に明るい境内が広がる。その中で特に目を引くのが朱塗りの柱の神殿である。それが佐用姫伝説に基づいて望夫石(ぼうふせき)を祀っている佐用姫神社である。正面の祭壇に向かって参拝した後、祭壇の横を通って神殿の奥に入ると、三方を格子で囲われた望夫石を見ることができる。

石の鳥居から続く石段< 境内にある佐用姫神社 佐用姫神社に祀られている望夫石
石の鳥居から続く石段 境内にある佐用姫神社 佐用姫神社に祀られている望夫石

鮮半島へ船出する大伴狭出彦を愛(いと)おしみ、その悲しみのあまり佐用姫が石に化してしまったというのは、史実ではなく伝承の世界の話である。しかし、伝承であっても人の心を打つものがあり、一見したところ何の変哲もない石を、人々は長年に渡って佐用姫として祀ってきた。

手彦が半島遠征から帰国したころ望夫石の噂を耳にしたなら、持ち帰った観音像を必ずこの地に祀ったはずだが、そうした話は聞かない。と言うことは、望夫石の伝承が流布するのは狭手彦が亡くなって後のことだろう。



玄界灘の荒波が穿(うが)った柱状節理の壮大な洞窟・七つ釜

国の天然記念物に指定されている「屋形石の七ツ釜」
国の天然記念物に指定されている「屋形石の七ツ釜」

部島から呼子のバス停に戻ると、大場さんが時計を見ながら聞いた。
「唐津に戻るにはまだ早そうだから、七ツ釜を見ていこうか?」
七ツ釜とは、玄武岩でできた柱状節理(ちゅうじょうせつり)の断崖絶壁に、まるで7つのカマドを並べたようにうがたれた海蝕洞窟のことだ。「屋形石の七ツ釜」として1925年に国の天然記念物に指定され、呼子の朝市と並んでこの地方の観光の目玉である。

浦佐用姫伝説の故地を探訪しようと計画したとき、たまたま内田康夫の推理小説に『佐用姫伝説殺人事件』があるのを思い出して、橿原に戻る車中で読み返してみた。例によってルポライターの浅見光彦が殺人事件に巻き込まれ、事件の謎を解き明かしていくおきまりのパターンのミステリーだが、その中で七ツ釜が第二の殺人現場として使われていた。

七ツ釜遊覧船「イカ丸」
七ツ釜遊覧船「イカ丸」
和バスのバス停「呼子」の横はマリンパル呼子の船着き場である。そこから七ツ釜遊覧船「イカ丸」が1時間おきに出港している。所要時間40分で七ツ釜を見学してこられるという。時計で確認すると、15時30分に出航するイカ丸にまだ間に合う時間だった。

員60人のイカ丸は、20人ほどの観光客を乗せて時間通りに桟橋を離れた。呼子の港は、海から細く深く入り込んだ入り江になっていて、岸壁に小型の船舶がびっしりと繋留されている。いずれもイカ釣り舟だ。呼子の名産はなんといってもイカで、透明なイカの刺身で有名である。玄界灘は剣先イカやアオリイカの好漁場として知られている。

呼子港の岸壁に繋留されたイカ釣り船
呼子港の岸壁に繋留されたイカ釣り船
り江の中程をほぼ真北に進路と取って進む遊覧船は、やがて呼子浦に出る。左手に先ほど通った呼子大橋のハープ橋が波間に優雅な姿を見せ、船の正面には加部島がどっしりと湾を塞いでいる。遊覧船のスピーカから、周囲の景観を説明するアナウンスが流れ始めるが、エンジンの音にかき消されて余りよく聞こえない。入り江を低速で航行していた遊覧船はゆっくりと舵を右に切り、東松浦半島の海岸線沿いにスピードをあげて疾走しだした。

理とは、火山活動が生んだ自然の芸術作品のようなもので、地下から噴出した溶岩が急激に冷やされて岩石になったときできた割れ目のことだ。その割れ目が板状になっているものを「板状節理」という。これに対して、岩石の露頭の節理が五角形や六角形の角柱の形をして重なっているものを「柱状節理」という。七ツ釜は、上場台地が玄界灘に落ち込む場所にできており、玄武岩の柱状節理が極めて美しいことで知られている。

めがね橋のようになっている「めがね岩」 見事な柱状節理
めがね橋のようになっている「めがね岩」 見事な柱状節理

初に見えてきたのは「めがね岩」と呼ばれる奇岩である。もともとは洞窟だったが、海蝕が進んで周りの岩が崩れ去り、洞窟が突き抜けてしまった結果、今の形になったと考えられている。めがね岩を過ぎると、自然が築いた見事な芸術作品と喩えたい柱状節理の岸壁が見えてくる。この付近の岸壁の上部は天然の芝に被われ、ちょうど良い散策地になっているという。七ツ釜の近辺は釣人にも人気のフィッシングポイントだそうだ。柱状節理の岩場をどのように下りてきたのか、波打ち際で釣り糸を垂れている釣り愛好家も何人かいた。

岬の先端にそびえる柱状節理の岸壁 ああああ
岬の先端にそびえる柱状節理の岸壁 玄武岩の絶壁に並ぶ海蝕洞窟

がね岩から土器岬の先端を回り込むと、柱状節理の岸壁がすごい迫力でそびえている。七つ釜と総称されている海蝕洞窟群はその手前の幾分奥まったところにある。

七つ釜に接近する遊覧船 イカ丸も接近
七つ釜に接近する遊覧船 イカ丸も接近

つ釜に接近して洞窟の中に入り込もうとする遊覧船いた。イカ丸よりも小型の船で、唐津市湊町の湊漁港から来た遊覧船だろう。立神岩・七つ釜・めがね岩を遊覧して行くという。イカ丸も別の洞窟に接近する。

さらに接近 遂には釜の中へ
さらに接近 遂には釜の中へ

の付近は波が静かで、海水の透明度もすごい。内田康夫の推理小説では、二人目の犠牲者が透き通った海水の中を浮遊しているのを遊覧船の観光客が発見して大騒ぎになる設定になっている。最大の洞窟は間口が3m、奥行きが110mもあり、遊覧船でその内部をじっくり見学できる。弧を描いて重なりあう柱状節理の岩石は、洞窟の天井から壁をまるで石炭で築き上げたように黒ずんでいた。



武者幟(むしゃのぼり)がいざなう町の無形民俗文化財「呼子大綱引」

呼子港の岸壁に翻る武者幟
呼子港の岸壁に翻る武者幟

ツ釜遊覧船の「イカ丸」が発着する「マリンパル呼子」の岸壁には、数十本の幟(のぼり)が潮風を受けてはためいていた。良く見ると、ここだけではなくて港のあちこちに幟が立っている。大相撲の巡業で立てられる関取の名前入りの幟と違って、こちらは実にカラフルで、青い海原や紺碧の空をバックに林立する光景は、眺めているだけで実に爽快な気持ちにさせてくれる。

呼子大綱引のポスター
呼子大綱引のポスター
何の幟なの?」
「イカ丸」を下船したとき船着き場の整備員に聞くと、「武者幟と言います」との返事が返ってきた。整備員が問わず語りに教えてくれたところによると、こちらでは端午の節句の鯉のぼりの代わりに武者幟を立てるそうだ。そして「呼子大綱引」まではこうして立てて置くという。

呼子大綱引」とは、呼子の無形民俗文化財で、この町最大の行事である。以前は、旧暦の端午の節句に行っていたが、現在は6月の第一土曜日と日曜日の2日間行われている。今年は6月6日(土)に子供綱が、翌7日(日)には大人綱が引かれるとのことだ。

の行事の起源をたどると。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に行きつく。秀吉が肥前名護屋城に陣を構えたとき将兵の士気を高めるため、加藤清正と福島正則の両陣営を東西に分けて、軍船のとも綱を使って綱引きをさせたという。そのため、ポスターのキャッチコピーには「全国諸大名が見守った呼子大綱引」とある。

武者幟の数々
武者幟の数々
人綱の当日は、地区の若い衆が揃いに法被をまとい、ドラを響かせて町内を回って三神社前に集合する。午後0時30分からの神事の後、町内を「岡組」と「浜組」に分けて、ドラを合図に直径15cm、長さ400m、重さ訳5.2トンの大綱を路上で引きあう。そのため、三神社前の通りは大綱通りの名がついている。

光客も飛び入りで参加して、綱の中心部分が楕円形の形に盛り上がっている「ミト」と呼ばれる部分を争奪する光景は迫力があるという。1回20分の勝負が3回行われ、岡組が勝てば豊作、浜組が勝ては大漁、と言い伝えられている。

子の朝市は日本三大朝市として知られていて、正月元旦をのぞいて年中無休で朝7時から11時半まで、朝市通りに山海の幸を揃えた出店が並ぶ。残念ながら、今回は朝市を見学できなかったが、田島神社まで案内してくれたタクシーの運転手によると、呼子では漁業と農業を兼業している家が多いようだ。そうであれば、不漁の年でも田畑が豊作であれば、またその逆に田畑が不作でも豊漁であれば、漁師の暮らしは安泰ということになる。



松浦佐用姫伝説の真の作者は・・・・

晩の宿は、唐津駅前のビジネスホテルに予約を入れておいた。夕食の後、ベッドで横になりながら、ある疑問について考えてみた。本日は、佐用姫伝説の中で韓半島へ出征する夫との別れを惜しんで山頂から領巾(ひれ)を振ったと伝えられる鏡山と、佐用姫が大伴狭手彦を追って石になってしまったという望夫石がある加部島の田島神社を訪れた。

車窓から見た松浦川
車窓から見た松浦川
津市内には、その他にも。佐用姫が狭手彦を追って鏡山から飛び降りたときの足跡が残る佐用姫岩が松浦川に架かる松浦橋のたもとにある。狭手彦が韓半島から帰国して佐用姫の死をしり花峯の地に立てさせたという殿原寺が玉島川の上流にある。いずれも時間の都合で訪れることができなかった。

用姫伝説について感じた疑問とは、一般に流布されている「松浦佐用姫伝説」と官撰の地誌『肥前国風土記』に記された伝承との違いである。狭手彦と結ばれた篠原村の長者の娘の名は、一方は「佐用姫」(さよひめ)であり、もう一方は「弟日姫子」(おとひひめこ)である。

ともと、松浦地方では複数の狭手彦と佐用姫の伝説が語られていたのだろうか。『風土記』は地名の起源を説明するのにその一つを用いたが、別の伝説が後世まで流布していたのだろうか。しかし。二人の悲恋物語が事実だったとしても、せいぜい『風土記』が編纂される200年前の話である。架空の民話ならともかく、史実なら200年という歳月の間に主人公の名前が忘れられ変わってしまうのはおかしい。

らに、狭手彦と結ばれた新妻の最後の話も落差が大きい。一方は、夫との別れを惜しんで7日7晩泣き尽くし、涙も枯れ果てて石になってしまう。しかし、『風土記』が伝える伝説では、夫と別れて5日後には別の男性を受け入れ、しかもその男性が鏡山山頂にある沼に住む蛇と分かり、あげくの果てに沼に引き込まれて死んでしまう。

時は通い婚の時代である。通ってくる男性が気に入れば何時でも受け入れたのだろうが、夫の出征を見送ってわずか5日後には新しい男性と結ばれるとは、当時の慣習としても余り好感をもたれなかったのではないだろうか。そのため、三輪型の神話を真似て、男性が実は鏡山山頂の沼の神であり、その神に魅入られて殺されてしまうという結末で結んでいる。

を言うと、今に伝えられている2つの伝説の間の落差のせいで、ある作為を感じ取っていた。『風土記』が伝える伝説に好ましくない箇所があり、ある時点で何者かが現在一般に流布している内容に改ざんした可能性はないのだろうか? そもそも「弟日姫子」が「佐用姫」に変わったのはいつ頃だろうか?

その謎解きのヒントはここにあるよ」
突然、部屋の壁の中から大場さん声がして、ベットの脇にあった「めづらの国 万葉めぐり」という観光用のパンフを指さしたような気がした。それは、『万葉集』の第5巻に掲載された松浦地方の神功皇后や佐用姫の故事を詠んだ歌を集めたものである。ちなみに、「めずらの国」とは、「松浦(まつら)の国」の語源となった言葉とされている。話は神功皇后の新羅出兵の頃までさかのぼる。戦勝を祈願して神功皇后は玉島川の上流で魚釣りされた。そのとき鮎が釣れた。皇后がその魚を「めづらしき物」と言ったことから、この地を梅豆羅国(めずらのくに)と呼ぶようになり、それが訛って「松浦(まつら)」になったとされている。

場さんの声が続く。
「佐用姫の名が文献資料の中で最初に現れるのは、次の山上憶良(やまのうえのおくら、660 - 733)の歌とされている。
●松浦県(まつらがた) 佐用姫の子が 領巾(ひれ)振りし 山の名のみや 聞きつつ居らむ (巻5-868) 

この歌から何が分かるのですか?」
「君も知っている通り、山上憶良は神亀3年(726)、筑前守に任命されて筑前国府に来ている。一方、大伴旅人(おおとものたびと,665 - 731)も長屋王(ながやおう)と親しかったため左遷され、翌年の神亀4年(727)末に大宰帥(だざいのそち)として九州の大宰府に赴任してきた。その旅人を中心に、太宰少弐の小野老(おののおゆ)、筑前守の山上憶良、造観世音寺別当の沙弥満誓(しゃみまんせい)、大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)など、錚々たる万葉歌人が筑紫歌壇を形成したことはよく知られている」

天平2年(730)の暮春の頃、太宰府長官の旅人は幾人かの役人を従えて松浦川(現在の玉島川)に出かけて10首近い歌を詠んで、それを憶良ら知人に示している。上の歌は、そのとき憶良が旅人に返した3首の中の一つで、意味は
松浦潟で佐用姫の子が領巾を振ったという、あの山の名だけを聞いていなければならないのでしょうか(実際は見ることもできずにいます)
そして、上官である旅人に書状をしたため、隣国肥前の国の松浦の地を巡行したい旨を訴えている。おそらく旅人は特別に隣国巡行の許可を与えたと思われる。憶良はただちに松浦の地に足を運び、「弟日姫子伝説」に関わる話を収集して持ち帰ったはずだ」

弟日姫子伝説に感興を覚えた旅人は、憶良の話を聞いて領巾振りの峯の歌を制作したとされている。その時作られた歌は次のもので、これには山上憶良と三島王が唱和している」

●遠つ人 松浦佐用姫 夫恋(つまこひ)に 領巾(ひれ)振りしより 負へる山の名 (巻5-871) 大伴旅人

●山の名と 言ひ継げとかも 佐用姫が この山の上(へ)に 領巾を振りけむ (巻5-872) 大伴旅人

●万代に 語り継げとし この岳(たけ)に 領巾振りけらし 松浦佐用姫 (巻5-873) 大伴旅人

●海原(うなはら)の 沖行く船を 帰れとか 領巾振らしけむ 松浦佐用姫 (巻5-874) 山上憶良

●ゆく船を 振り留みかね 如何ばかり 恋しくありけむ 松浦佐用姫 (巻5-875) 山上憶良

●音に聞き 目にはいまだ見ず 佐用姫が 領巾振りきとふ 君松浦山  (巻5-883) 三島 王

大場さんの今の説明でふと思いついたのですが、佐用姫伝説を改ざんしたのは、ひょっとすると旅人と憶良ではなかったでしょうか?」
「ほう、どういう意味かな?」
「大伴旅人は『万葉集』を編集した大伴家持の父として有名な万葉歌人ですが、その系図をたどれば、狭手彦に行き着く。旅人から見れば、狭手彦は4代か5代前の一族の英雄ですよね。その英雄の恋人だった女性が、別の男性と、しかも沼の神の化身の蛇と通じ、沼に引き込まれて死んでしまうという伝承は、あまり楽しいものではなかったでしょうね」
「・・・・」
「これらの歌には、望夫石になった佐用姫が詠われていません。歌の題材としては、領巾振りよりはるかにふさわしいのにですよ。そこで、松浦地方に伝わっていた篠原の長者の娘の弟日姫子(おとひひめこ)伝説を、狭手彦一人に命を捧げた美しくも悲しい女性の物語に、憶良と旅人が共同で改ざんして歌に詠み込んだのかもしれないと思ってね・・・。でも、これは単なる想像、想像ですよ」
「そのとき、オトヒヒメコでは字余りになるから、女性の名をサヨヒメに変えた・・・」
「あり得ない話ではないでしょうね。なにしろ太宰府長官がじきじきに編纂しなおした伝説となれば、こちらの方が権威のある物語として地元でも根付いたかもしれません」
「相変わらず面白い発想をする人だね、君は」
壁の中の大場さんが、私を見てニンマリ笑ったような気がした。

理作家の内田康夫は多くの「伝説シリーズ」を上梓している。彼によれば、「もともと伝説は歴史をデフォルメした空想の産物であると同時に、庶民の夢が込められた創作でもある」そうだ。佐用姫伝説に込められた庶民の夢とは、いったい何だったのだろうか。


追記

空想の中で今回一緒に旅していただいた大場五夫氏の行方を探して居います。ご存じの方はメールアドレス(ohsei6070703@yahoo.co.jp)までご連絡ください。



2009/05/16作成 by pancho_de_ohsei
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