松浦佐用姫伝説の真の作者は・・・・
今晩の宿は、唐津駅前のビジネスホテルに予約を入れておいた。夕食の後、ベッドで横になりながら、ある疑問について考えてみた。本日は、佐用姫伝説の中で韓半島へ出征する夫との別れを惜しんで山頂から領巾(ひれ)を振ったと伝えられる鏡山と、佐用姫が大伴狭手彦を追って石になってしまったという望夫石がある加部島の田島神社を訪れた。
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| 車窓から見た松浦川 |
唐津市内には、その他にも。佐用姫が狭手彦を追って鏡山から飛び降りたときの足跡が残る佐用姫岩が松浦川に架かる松浦橋のたもとにある。狭手彦が韓半島から帰国して佐用姫の死をしり花峯の地に立てさせたという殿原寺が玉島川の上流にある。いずれも時間の都合で訪れることができなかった。
佐用姫伝説について感じた疑問とは、一般に流布されている「松浦佐用姫伝説」と官撰の地誌『肥前国風土記』に記された伝承との違いである。狭手彦と結ばれた篠原村の長者の娘の名は、一方は「佐用姫」(さよひめ)であり、もう一方は「弟日姫子」(おとひひめこ)である。
もともと、松浦地方では複数の狭手彦と佐用姫の伝説が語られていたのだろうか。『風土記』は地名の起源を説明するのにその一つを用いたが、別の伝説が後世まで流布していたのだろうか。しかし。二人の悲恋物語が事実だったとしても、せいぜい『風土記』が編纂される200年前の話である。架空の民話ならともかく、史実なら200年という歳月の間に主人公の名前が忘れられ変わってしまうのはおかしい。
さらに、狭手彦と結ばれた新妻の最後の話も落差が大きい。一方は、夫との別れを惜しんで7日7晩泣き尽くし、涙も枯れ果てて石になってしまう。しかし、『風土記』が伝える伝説では、夫と別れて5日後には別の男性を受け入れ、しかもその男性が鏡山山頂にある沼に住む蛇と分かり、あげくの果てに沼に引き込まれて死んでしまう。
当時は通い婚の時代である。通ってくる男性が気に入れば何時でも受け入れたのだろうが、夫の出征を見送ってわずか5日後には新しい男性と結ばれるとは、当時の慣習としても余り好感をもたれなかったのではないだろうか。そのため、三輪型の神話を真似て、男性が実は鏡山山頂の沼の神であり、その神に魅入られて殺されてしまうという結末で結んでいる。
実を言うと、今に伝えられている2つの伝説の間の落差のせいで、ある作為を感じ取っていた。『風土記』が伝える伝説に好ましくない箇所があり、ある時点で何者かが現在一般に流布している内容に改ざんした可能性はないのだろうか? そもそも「弟日姫子」が「佐用姫」に変わったのはいつ頃だろうか?
「その謎解きのヒントはここにあるよ」
突然、部屋の壁の中から大場さん声がして、ベットの脇にあった「めづらの国 万葉めぐり」という観光用のパンフを指さしたような気がした。それは、『万葉集』の第5巻に掲載された松浦地方の神功皇后や佐用姫の故事を詠んだ歌を集めたものである。ちなみに、「めずらの国」とは、「松浦(まつら)の国」の語源となった言葉とされている。話は神功皇后の新羅出兵の頃までさかのぼる。戦勝を祈願して神功皇后は玉島川の上流で魚釣りされた。そのとき鮎が釣れた。皇后がその魚を「めづらしき物」と言ったことから、この地を梅豆羅国(めずらのくに)と呼ぶようになり、それが訛って「松浦(まつら)」になったとされている。
大場さんの声が続く。
「佐用姫の名が文献資料の中で最初に現れるのは、次の山上憶良(やまのうえのおくら、660 - 733)の歌とされている。
●松浦県(まつらがた) 佐用姫の子が 領巾(ひれ)振りし 山の名のみや 聞きつつ居らむ (巻5-868)
「この歌から何が分かるのですか?」
「君も知っている通り、山上憶良は神亀3年(726)、筑前守に任命されて筑前国府に来ている。一方、大伴旅人(おおとものたびと,665 - 731)も長屋王(ながやおう)と親しかったため左遷され、翌年の神亀4年(727)末に大宰帥(だざいのそち)として九州の大宰府に赴任してきた。その旅人を中心に、太宰少弐の小野老(おののおゆ)、筑前守の山上憶良、造観世音寺別当の沙弥満誓(しゃみまんせい)、大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)など、錚々たる万葉歌人が筑紫歌壇を形成したことはよく知られている」
「天平2年(730)の暮春の頃、太宰府長官の旅人は幾人かの役人を従えて松浦川(現在の玉島川)に出かけて10首近い歌を詠んで、それを憶良ら知人に示している。上の歌は、そのとき憶良が旅人に返した3首の中の一つで、意味は
松浦潟で佐用姫の子が領巾を振ったという、あの山の名だけを聞いていなければならないのでしょうか(実際は見ることもできずにいます)
そして、上官である旅人に書状をしたため、隣国肥前の国の松浦の地を巡行したい旨を訴えている。おそらく旅人は特別に隣国巡行の許可を与えたと思われる。憶良はただちに松浦の地に足を運び、「弟日姫子伝説」に関わる話を収集して持ち帰ったはずだ」
「弟日姫子伝説に感興を覚えた旅人は、憶良の話を聞いて領巾振りの峯の歌を制作したとされている。その時作られた歌は次のもので、これには山上憶良と三島王が唱和している」
●遠つ人 松浦佐用姫 夫恋(つまこひ)に 領巾(ひれ)振りしより 負へる山の名 (巻5-871) 大伴旅人
●山の名と 言ひ継げとかも 佐用姫が この山の上(へ)に 領巾を振りけむ (巻5-872) 大伴旅人
●万代に 語り継げとし この岳(たけ)に 領巾振りけらし 松浦佐用姫 (巻5-873) 大伴旅人
●海原(うなはら)の 沖行く船を 帰れとか 領巾振らしけむ 松浦佐用姫 (巻5-874) 山上憶良
●ゆく船を 振り留みかね 如何ばかり 恋しくありけむ 松浦佐用姫 (巻5-875) 山上憶良
●音に聞き 目にはいまだ見ず 佐用姫が 領巾振りきとふ 君松浦山 (巻5-883) 三島 王
「大場さんの今の説明でふと思いついたのですが、佐用姫伝説を改ざんしたのは、ひょっとすると旅人と憶良ではなかったでしょうか?」
「ほう、どういう意味かな?」
「大伴旅人は『万葉集』を編集した大伴家持の父として有名な万葉歌人ですが、その系図をたどれば、狭手彦に行き着く。旅人から見れば、狭手彦は4代か5代前の一族の英雄ですよね。その英雄の恋人だった女性が、別の男性と、しかも沼の神の化身の蛇と通じ、沼に引き込まれて死んでしまうという伝承は、あまり楽しいものではなかったでしょうね」
「・・・・」
「これらの歌には、望夫石になった佐用姫が詠われていません。歌の題材としては、領巾振りよりはるかにふさわしいのにですよ。そこで、松浦地方に伝わっていた篠原の長者の娘の弟日姫子(おとひひめこ)伝説を、狭手彦一人に命を捧げた美しくも悲しい女性の物語に、憶良と旅人が共同で改ざんして歌に詠み込んだのかもしれないと思ってね・・・。でも、これは単なる想像、想像ですよ」
「そのとき、オトヒヒメコでは字余りになるから、女性の名をサヨヒメに変えた・・・」
「あり得ない話ではないでしょうね。なにしろ太宰府長官がじきじきに編纂しなおした伝説となれば、こちらの方が権威のある物語として地元でも根付いたかもしれません」
「相変わらず面白い発想をする人だね、君は」
壁の中の大場さんが、私を見てニンマリ笑ったような気がした。
推理作家の内田康夫は多くの「伝説シリーズ」を上梓している。彼によれば、「もともと伝説は歴史をデフォルメした空想の産物であると同時に、庶民の夢が込められた創作でもある」そうだ。佐用姫伝説に込められた庶民の夢とは、いったい何だったのだろうか。
追記
空想の中で今回一緒に旅していただいた大場五夫氏の行方を探して居います。ご存じの方はメールアドレス(ohsei6070703@yahoo.co.jp)までご連絡ください。
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