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2009/04/24
眉根を少し寄せて思い悩む天平の少年・阿修羅
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| 阿修羅展のポスター |
その少年には、またいつか会いたいと思っていた。最後に会ったのは平成19年の11月だから、もう一年半も前である。12歳か13歳くらいと思える少年は、眉根を少し寄せて何かを思い悩んでいる顔で、興福寺国宝館のガラスの向こうから私をじっと見ていた。
目尻にうっすらと涙を浮かべているようにも見えた。彼は何を訴えたかったのだろうか? そのことがいつも気になっていた。いや、あれは少年ではなくて、ひょっとして少女だったかもしれない。
久しぶりに自宅に戻ってみると、思いがけず彼と再会できる機会があるのを知った。彼は”上野で会いましょう”と言っている。場所は東京国立博物館の中の平成館。そこで、興福寺創建1300年を記念して現在「国宝阿修羅展」が開催されている。そこへ行けば、間違いなくその少年に会えるのだ。
朝の9時15分、JR上野駅の上野公園口の改札を出た。予報では天気は下り坂だが、午前中は晴れとのことだった。だが、改札を出て空を見上げると厚い雲に覆われていた。さくらの名所の上野公園の木々もすっかり新緑を増し、梢を揺らしながら時折風が吹き抜けた。まるで季節が一ヶ月ほど逆戻りしたように冷たい風だった。
博物館の前まで来て驚いた。平日の朝なのにチケット売り場の前に多くの人垣ができていて、職員が声をからしながら来館者を整列させている。正門を通って博物館の敷地に入っても、状況は変わらない。9時半の開館にはまだ少し時間があるのに、一番奥にある平成館まで長蛇の列が続いていた。せっかく朝早くから彼に会いに来たのに、会うのはなかなか大変なようだ。
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| 開館前からチケット売り場は長蛇の列 |
平成館まではまだ遠い |
平城遷都と同時に創建された藤原氏の氏寺・興福寺
来る2010年は、藤原京から平城京へ都が遷されて1300年の節目の年にあたる。そこで、平城遷都1300年を記念して、さまざまな催しが計画されている。その一環として、平城宮跡では本日から3日間、前夜祭として「平城遷都祭り2009」が開催されている。平城遷都の年は、藤原氏の氏寺だった興福寺創建の年でもある。
興福寺の起源は、現在の京都市山科区に669年に建てられた山階寺(やましなでら)であるとされている。この寺は、藤原氏の祖である中臣鎌足(なかとみのかまたり)の病気平癒を祈って、夫人の鏡王女(かがみのおおきみ)が建てた。しかし、その後、壬申の乱で勝利した天武天皇が672年に近江から飛鳥に都を遷すと、山科寺は現在の橿原市石川町に移され、土地の名前を取って厩坂寺(うまさかでら)と呼ばれた。
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| 興福寺の塔と東金堂 |
平城遷都を強引に推し進めたのは、中臣鎌足の次男の藤原不比等(ふひと)である。和銅3年(710)に平城遷都を実現すると、同じ年に彼は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転して、興福寺と名付けた。そのため、興福寺は710年を創建の年としている。
神亀3年(726)、元正太上天皇の病平癒を祈願して、聖武天皇は興福寺の敷地内に東金堂を建立した。その4年後の天平2年(730)には、聖武天皇の皇后・光明子(こうみょうし)が五重塔を建てている。『興福寺流記』によると、この東金堂と塔は東院仏殿院を構成し、回廊と築地で囲まれた区画の中にあったという。
このように、興福寺はは当初、藤原氏の氏寺として創建されたが、その後は天皇や皇后、藤原家によって堂塔が建てられ、国家の手で整備が進められるようになった。興福寺の中核をなる中金堂が何時建立されたのかははっきりしない。しかし、藤原不比等が亡くなった養老4年(720)には「興福寺仏殿司」が政府の正式機関として設けられていることから、翌年の不比等1周忌頃には完成していたと推測されている。
天平5年(733)1月、聖武天皇の皇后・光明子の生母・橘三千代(たちばなのみちよ、県犬養三千代ともいう)が亡くなった。彼女は命婦として宮中に仕え、軽皇子(後の文武天皇)の乳母として後宮で勢力を振るった女性である。はじめは美努王(みぬおう)と結婚して後の橘諸兄(たちばなのもろえ)など二男一女を生んだ。しかし、美努王が大宰帥として筑紫に赴任した後、藤原不比等の後妻となり、藤原光明子(光明皇后)を生んでいる。その後も相変わらず後宮に大きな影響力を持ち続け、藤原不比等が藤原氏の覇権を確立するのに寄与したとされている。
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| 興福寺境内整備計画に描かれた西金堂の位置 |
その橘三千代が死んだ。娘の光明子は母の一周忌の供養を行うために、延べ5万人を動員して西金堂を1年間で完成させている。西金堂の内部には、釈迦説法を聞く釈迦集会の情景を再現した諸仏像が安置され、天平6年(734)、僧400人を請じて落慶供養が盛大に行われたという。
西金堂内の仏像について、『興福寺流記』に詳細な記録が残されている。それによると、丈六釈迦如来像1体、脇侍菩薩像2体、羅漢像(十大弟子像)10体、梵天・帝釈天像各1体、四天王像4体、八部神王像(八部衆像)8体など30体が置かれていた。まさに釈迦如来を中心とする一大群像だったことが分かる。
京都国立博物館には、平安末期から鎌倉初期の頃に描かれた『興福寺曼荼羅図』が所蔵されている。その曼荼羅図を見ると、八部衆像は本尊の左右前方と後方に各2体ずつ安置されていたことが分かるとのことだ。
一方、西金堂の造営記録である『造仏所作物帳』が正倉院文書の中に伝えられている。それによると、仏像制作は百済系渡来人の将軍万福(しょうぐんまんぷく)が総指揮し、やはり渡来系の画師・秦牛養(はたのうしかい)が彩色を担当したという。仏像制作に費やされた漆の総使用量は、20石9斗1升に達したと記録されている。今の量に換算すると、約15立方メートルになる。
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| 阿修羅像(頭部) |
再び相まみえることになった少年は、実在の人物ではない。仏法の守護者として、かって西金堂に安置されていた八部衆の一人である阿修羅(あしゅら)の像である。三面六臂の特異な造形でありながら、この阿修羅像は小顔でスリムなプロポーションをしている。その少女のような清楚な表情は、現在流行の美少年のイメージに重なり、天平彫刻の代表作の一つとして、多くの人々を魅了し続けてきた。
興福寺は現在、天平伽藍の復元をめざして中金堂(ちゅうこんどう)の再建など境内の整備計画を推し進めている。今回の特別展は、興福寺の中金堂再建事業の一環として計画された。そのため、興福寺の貴重な文化財の中から、阿修羅像をはじめとする八部衆像 (国宝)、十大弟子像 (国宝)、中金堂基壇から発見された1400点をこえる鎮壇具(国宝)、再建される中金堂に安置される薬王・薬上菩薩立像 (重要文化財)、四天王立像 (重要文化財)など約70件を展示している。
しかし、その中で目玉はなんと言っても阿修羅像である。この仏像が東京で展示されるのは、実に57年ぶりだそうだ。しかも興福寺の国宝館と違って、ガラスケース越しに拝観するのではなく、今回は特設ステージにケースなしで安置され、360度どこからでも鑑賞できるという。何かに思い悩むように眉根を寄せ、潤んだ目で正面を直視していた美少年は、今回はどの様な表情で接してくれるだろうか。筆者ならずとも、多くの仏像ファンが博物館の開館を待ちわびて参集してきた気持ちは、十分理解できた。
3つのセクションで構成された今回の特別展示展
今回の特別展は以下の3つのセクションで構成されていた。
●第1章 興福寺創建と中金堂鎮壇具
明治7年(1874)と明治17年(1884)に中金堂基壇の須弥壇(しゅみだん)から1400点余りの遺物が出土し、平成13年(2001)の中金堂跡の発掘調査でも創建時の鎮壇具と思われる遺物が見つかっている。これらの遺物は東京国立博物館に所蔵されているが、その中の鏡や大盤、念珠、水晶玉など主なものが今回特別展示されている。
●第2章 国宝 阿修羅とその世界
天平6年(734)に光明皇后が亡き母・橘三千代の1周忌法要のために作らせたとされる阿修羅や迦楼羅など八部衆立像と現存する十代弟子像を揃って展示している。いずれも、脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)と呼ばれる技法で作られている天平彫刻の至宝である。これらの仏像が興福寺の外で揃って展示されるのは今回が初めてだそうだ。
●第3章 中金堂再建と仏像
興福寺の中金堂は、平安時代以降7回も火事で焼失し、そのたびに再建を繰り返してきたという。しかし、江戸時代の享保2年(1717)の火災以後は、仮の金堂が建てられ現在に至っている。現在、中金堂再建計画が実施されていて、2010年10月16日に立柱、2015年頃に建物が完成、その秋に落慶法要が営まれる予定になっている。
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| 再建後の中金堂のイメージ |
中金堂の諸仏は治承4年(1180)の平重衡ら平氏軍の南都焼き討ちによって失われたが、鎌倉時代に奈良仏師たちによって新たに作られた。これらの像は仮金堂に現在安置されているが、その中から建仁2年(1202)に作られた薬王・薬上菩薩立像、文治5年(1189)に康慶によって作られた四天王像、それに運慶作とされる釈迦如来像頭部などが出品されている。
創建時、西金堂で釈迦集会の情景を再現していた諸仏像たち
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| 法隆寺所蔵の橘婦人念持仏 |
第一会場入口の貸出カウンターで音声ガイドを借りた。女優の黒木瞳さんが17カ所でガイドしてくれるという。あの素敵な女優さんの声の案内で会場を回れるなら、こんな楽しいことはない。
第1章の「興福寺創建と中金堂鎮壇具」の部屋は大混雑していたのでほとんど駆け足で通りすぎ、お目当ての第2章の「国宝 阿修羅とその世界」に向かった。最初のブースには、法隆寺所蔵の橘夫人念持仏と伝えられている阿弥陀三尊像と厨子が展示されていた。
厨子に納められた橘三千代の念持仏は、今までも何回か法隆寺の大宝蔵院で拝見している。薄暗い照明のもとでは、その造形がよく分からなかった。だが、今回は厨子から取り出して、厨子とは別に三尊像をガラスケースの中で展示されていた。間近に見る阿弥陀三尊像と光背は、精巧に作られているだけでなく、実に美しい。その美しさに衝撃を覚え、しばらくその前から立ち去りがたかった。
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| 国宝の華原磬(かげんけい) |
このブースには珍しい打楽器も置かれていた。黒木さんの解説によると、創建時の西金堂に置かれていた国宝の華原磬(かげんけい)である。華原磬とは、中国の華原地方の名石を用いた磬、すなわち銅鑼(どら)のような古代中国の打楽器のことをいう。唐の高宗から興福寺に贈られた品だそうで、獅子の台座に立てられた柱に、雌と雄の各2匹の龍が尾を巻きつけ、胴の空間に金鼓(こんく)をかかえて周囲を睥睨している構図は、実に見事だ。総高は96cmもあり、かなり大型の楽器である。黒木さんの解説のバックには、この楽器から収録した音色が響いていた。意外と優しい音色だった。
次のブースには、左側に八部衆の立像が、右側に十大弟子像が並んでおかれていた。八部衆とは、古代インドのバラモン教で鬼神、戦闘神、音楽神、動物神などとされた神々である。仏教が流布してくるに従ってこれらのバラモン教の神々が仏教に取り入れられ、仏教の守護神になったという。しかし、八部衆の成立はインドではなく、中国で考案されたとの説もある。
八部衆の名は、「舎利弗問経」を基本に「金光明最勝王経」や「法華経」などの説により、通常は、天(てん)、龍(りゅう)、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩■羅伽(まごらか)を指すとされている。しかし、興福寺ではこれらとは異なって、八部衆を五部浄(ごぶじょう)、沙羯羅(さから)、鳩槃荼(くはんだ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅(ひばから)と呼んでいる。
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| 五部浄(ごぶじょう)像(*) |
迦楼羅(かるら)像(*) |
八部衆には変わった姿で表されるものが多い。たとえば、五部浄像は象頭の冠をかぶっている。迦楼羅像は鳥頭人身の着甲像である。緊那羅像は頭上に一角をはやしている。そして阿修羅像は三面六臂に表わされる。今回の特別展示では、阿修羅像は特別扱いで、次のブースに独立して展示されている。残る2体は写真参加で、実際には5体の八部衆立像が並んでいた。
興味深かったのは、五部浄像である。五部浄は、地界を支配する閻魔(えんま)に対応して、天界を支配する神将だが、この像は頭部と上半身の一部を残すのみで大破している。しかし、この像の右手の残欠が興福寺ではなく東京国立博物館に所蔵されていた。その残欠部分が、今回五部浄像の横に展示されていた。この破損部分の解説に、脱活乾漆(だっかつかんしつ)と呼ばれる制作技法が、八部衆の制作に採用されていたことが紹介されていた。
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| 五部浄の右腕残欠 |
脱活乾漆技法とは、張り子の虎を作る工程に似ている。最初に大まかな形の塑像を作って乾かし、その表面を漆を浸した麻布で包む。漆は接着剤の役割を果たし、乾燥すると麻布同士を固着させる。漆が乾燥すれば、その上にさらに漆を浸した麻布で被っていく。こうした工程を5回ほど繰り返した後、立像の場合は背中(座像の場合は底)を切り裂いて塑像をばらばらにして取り出し、代わりに空洞になった像内に薄板の木枠を入れて固定する。
こうして張り子になった麻布の像の表面を、木屎漆(こくそうるし)を使って細かい仕上げをしていく。木屎漆とは漆に木の粉を混ぜてペースト状にしたものである。木屎漆によって造型を整え完全に乾燥させて、最後に漆箔または極彩色を施せば、脱活乾漆像が完成する。五部浄像の右手の指は、鉄心に木屎漆を用いて作ってあった。
天平時代の仏像制作には脱活乾漆技法が盛んに用いられた。この技法では、漆の高い粘着性を利用して漆が乾燥する間に仏像の姿を理想の表現に整えることができる。そのため、写実を重んじた当時の仏像制作に適していた。しかし、制作後に漆のひび割れを避けるためにはきわめて高純度の漆を必要とした。当時の漆は貴金属の金と同じくらい高価な材料だった。
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| 十大弟子の一人富楼那像 |
我が国で産する漆は世界で最高の品質であるとされている。脱活乾漆像の制作には、そうした高価な漆が大量に使われた。上記のように西金堂の仏像制作に費やされた漆の総使用量は、20石9斗1升にも達したと記録されている。ちなみに英語では我が国を「Japan」と呼ぶが、ジャパンとは漆とか漆器の意味もある。
脱活乾漆の技法は八部衆だけでなく、十大弟子像の制作にも用いられている。十大弟子とは釈迦に従った高弟たちのことで、彼らはそれぞれが優れた能力の持ち主だったとされている。たとえば、舎利弗(しゃりほつ)は知恵第一、富楼那(ふるな)は説法第一、阿難(あなん)は多聞第一と言ったように、各自がそれぞれ”・・・第一”と称されている。興福寺には6体の十大弟子像が現存している。そのうちの5体が今回展示されていた。
一年半ぶりに再会した阿修羅像
八部衆像と十大弟子像が並べられたブースから次のブースに向かう通路は、照明を落とした緩やかなスロープになっている。両側の壁の所々にはめ込まれた複数の小さなモニター画面に、阿修羅像の各部が映し出されている。それを眺めながらスロープをゆっくりのぼっていくと、年甲斐もなく胸の高鳴りを覚えた。いよいよこの先で、あの端正な風貌の天平の少年が待っている・・・・・。
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| 三面六臂の特異な造形をした阿修羅像(*) |
そもそも阿修羅とは、いかなる護法善神なのか? 阿修羅は、もともとインド古来の異教の神で,怒りや争い,戦いなどが好きな鬼神とされてきた。インド神話や仏教神話では、阿修羅は人に害をなす凶悪な魔神である。しかし、興福寺宝物殿の解説では、阿修羅はインドヒンドゥーの太陽神、または火の神と記されている。
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| 阿修羅像の正面(*) |
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| 阿修羅像の背面(*) |
仏教伝承では、阿修羅は須弥山の北に住んで帝釈天と戦い、そのたび帝釈天に斃されて滅ぶ。しかし、何度でも蘇り、帝釈天との戦いを続けているという。帝釈天と戦うことになった経緯として、次のような説話が伝わっている。阿修羅には舎脂という娘がおり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていた。ところがある日、帝釈天が舎脂を力ずくで犯してしまった。そのことに怒った阿修羅はそれ以後帝釈天に戦いを挑み続けているという。血みどろの激しい戦いや争いの行われる場所を、我々は「修羅場」というが、原義は阿修羅が帝釈天に戦いを挑んでいる場所のことだ。
阿修羅はサンスクリットの"asura"の音写とされている。本来、サンスクリットでは「asu」が「命」、「ra」が「与える」を意味することから善神だったとされた。しかし、「a」が否定の接頭語であり、「sura」が「天」を意味することから、非天、非類などと訳され、帝釈天の台頭に伴いヒンドゥー教で人に害をなす凶悪な魔神のイメージが定着した。その怒りや争い,戦いの好きな戦闘神が釈迦に帰依したことで、仏法の守護者として八部衆に入れられた。
仏典には「阿修羅、身は三面六臂(ぴ)にして青黒色、忿怒裸形相」とある。確かに像高153cmの阿修羅立像は、三面六臂の異形であり、裸形である。上半身には条帛(じょうはく)と天衣(てんね)をかけ、胸飾りや臂釧(ひせん)、腕臂(わんせん)をつけているが、下半身は裳(も)をまとっているだけにすぎない。護法善神ならば、四天王や十二神将のような甲冑姿と思われがちだが、そうではない。さらに、三面の顔も忿怒の形相というにはほど遠い。
誰が見ても、興福寺の阿修羅像は護法神ではなく、衆生の救済を願う菩薩のイメージである。だが、眉根を寄せて前方を見据えた姿は、菩薩の静謐な風貌ではない。たとえは悪いが、思春期の少年が己の内部からこみ上げてくる様々な情念に思い悩み、必死に堪えている表情のように見える。
興福寺の国宝館で阿修羅像を拝観したとき、ガラスケースに額を押しつけて、熱心に像を見上げていた少女がいたことを思い出した。少女はこの像の正面の顔のみずみずしい美しさと真摯なまなざしに、すっかり魅せられたようだ。あるいは、端正な阿修羅の風貌に理想の男性像を見いだし、淡い恋心を抱いたのかもしれない。
スロープを登り切ると、そこはテラスになっていて、三面六臂の阿修羅像を正面から目線の高さで鑑賞できる仕掛けになっていた。テラスの端に立つと、眼下の空間は黒色の壁に囲われ、部屋の中央の台座に置かれた阿修羅像が、LEDダイオードが四方から放つライトで明るく照らし出されいた。その周囲には何重もの人垣ができていて、像を見上げながらゆっくりと時計回りに動いている。しかし、その様子は、像の明るさとは対照的に暗がりの中にとけ込んで判然としない。
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| 何かを思い詰めた表情の正面の顔 |
テラスの端に立って阿修羅の正面の顔を見た。端正な顔が鋭い視線で私を見返した。その目線は睨み付けているようでもあり、懇願しているようでもあった。相変わらず眉を寄せ、口元の引き締めて、前方を見やっていた。その何かを思い詰めているような風貌は、以前と少しも変わっていない。華麗で独創的な上半身の美しさも、相変わらず目を奪わうものがあった。しかし、以前とは何かが違っているような印象を受けた。
その違和感がどこからくるのか、最初は分からなかった。やがて原因が阿修羅像との距離と、四方の上空から照射されている照明のせいだと気付いた。国宝館ではガラスケース越しに間近に拝観できたが、テラスからは遠目の拝観になる。上空から投げかけられるLEDの光は、この像から陰影を奪っていて、国宝館で見た表情の素晴らしさを平板にしていた。
テラスから下って、阿修羅像の周囲を人混みに混じって一周した。阿修羅の3つの顔はそれぞれ違った表情をしている。両手を合掌印に結び、一点を見据えて何かを必死で祈っているような正面の顔が良い。左顔も憂いを含んでいて、正面の顔よりもさらに端正である。右顔は小さく唇を噛んで何かを睨み付けているような顔相をしている。
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| 三様の顔を持つ阿修羅像(左:右顔、中央:正面、右:左顔) |
モデルになった少年がいて、その風貌を写したような顔の写実性に比べて、カニのような6本の腕や体躯は異常に細く、はかなさを感じさせる。とても護法神の体躯には見えない。現代流に言えば、さしずめ拒食症を患っている少年のようだ。作家の小松左京は、阿修羅の腰から下に注目して、この像は少女だと言ったそうだ。司馬遼太郎も同じ見方をしたという。 だが、男性だか女性だか分からない造形こそ、本来仏像に求められるものであろう。
帰途、久しぶりに再会した天平の少年像を脳裏に思い描きながら、この仏像制作に関与した将軍万福(しょうぐんまんぷく)という仏師に興味を抱いた。百済からの渡来人とのことだが、詳細は不明である。
当時は、奈良仏教華やかなりし時代だった。しかし、興福寺の西金堂が建てられた頃は、天平という年号とは裏腹に大飢饉や大地震、疫病の流行などで不安な世相が蔓延していた。万福はおそらく平城京の官営仏像制作工房で働く優秀な仏師だったにちがいない。その彼が西金堂に安置する群像の制作を任された。
おそらく彼は多くの仏工たちを指揮しながら、自らも群像の制作にあたったはずである。彼が豊かな感性を備えた仏師であればあるほど、時代の世相を敏感に感じとっていたであろう。そして、飛鳥時代から引き継がれてきた仏像彫刻の伝統を破って、世相を映す彫像の制作を試みたにちがいない。その結論が、眉間に思い詰めた緊張感を漂わせて、必死に仏に救いを求める少年のイメージではなかったか。あるいは阿修羅像は万福自身が手がけた作品だったかもしれない。
(*) 絵はがきよりコピー
2009/04/26作成 by pancho_de_ohsei
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