2009/04/07

大和国の宇陀の里に鎮座する八咫烏神社(やたがらすじんじゃ)

建角身命(たけつぬみのみこと)を祭神として祀る八咫烏神社
建角身命(たけつぬみのみこと)を祭神として祀る八咫烏神社(2009/04/05 撮影)

日本サッカー協会(JFA)のシンボルマークは八咫烏(やたがらす)

■ 三本足の黒い烏(からす)を、我が国では八咫烏と呼んでいる。八咫烏の咫(あた)は長さの単位で、親指と人差指を広げた長さ(約18cm)をいう。したがって八咫烏は1.4mを越える体長の巨大なカラスということになる。

本宮大社の幟
熊野本宮大社の幟
■ 熊野地方では、三本足の八咫烏は太陽の化身、またはミサキ神(神使)として信仰されてきた。熊野三山の幟(のぼり)には八咫烏が描かれており、熊野本宮は1月7日に太陽の蘇りを表す「八咫烏神事」を行っている。

■ 日本神話では、イワレヒコ(後の初代天皇・神武天皇)が大和平定のため熊野から大和に攻め入る道中で道に迷った。それを高天原から見ていた日の神のアマテラスは、天から八咫烏を遣わして道案内をさせて進軍を支援したとされている。その八咫烏は、鴨県主(カモノアガタヌシ)の祖とされる賀茂建角身命(カモタケツヌミのミコト)の化身だったという。

■ このように八咫烏は太陽と深く結びついていて、古代には太陽の化身あるいは太陽神の使いと理解されていたようだ。しかし、こうした理解は我が国だけに特異なものではない。ギリシャ神話では、烏は太陽神アポロンに仕えていた。本来は白かったが、悪戯が高じてアポロンの怒りを買い、炎に焼かれて黒こげにされ天界を追放された。からす座のカラスはこの烏であると理解されている。

JFAのシンボルマーク
高句麗古墳壁画に描かれた八咫烏
■ 古代中国の『淮南子』という書物には、「昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、三足烏が10羽住んでいた……」と記されている。この10羽の三本足の烏が順番に空に上がり、口から火を吐き出すと、その火が太陽になるという。 中国では三本足の烏は太陽そのものの象徴だったようだ。

■ 古代に朝鮮半島北部にあった高句麗では、三本足の烏は天孫の象徴だったという。高句麗の古墳壁画には三本足の烏が描かれているものがある。

JFAのシンボルマーク
JFAのシンボルマーク
■ ところで、日本サッカー協会(JFA)は「ゴールに導く神の使い」として、八咫烏(やたがらす)をシンボルマークやエンブレムとして採用している。サッカーと八咫烏がどのように結びつくのかよく分からなかったが、調べてみると興味深い関係があることが分かった。

■ 日本に初めて近代サッカーを紹介したのは、中村覚之助(1878-1906)という人物である。彼は和歌山師範学校を経て東京高等師範学校に進み、米国の「アソシエーション・フットボール」を翻訳して紹介した。また、ア式蹴球部を創設し、横浜外人倶楽部との試合を1904年に横浜で実現させている。

JFAのシンボルマーク
日名子実三がデザインした八咫烏
■ こうした功績から中村覚之助は「日本サッカーの生みの親」とされてきた。実は、彼の出身地は那智勝浦町である。そこで、日本サッカー協会は中村覚之助が日本サッカー史で果たした役割を顕彰する意味で、その出身地の熊野三山の神鳥「八咫烏」をシンボルマークとして採用したという。

■ このシンボルマークの八咫烏をデザインしたのは、大分県臼杵市出身の彫刻家・日名子実三(1892-1945)である。彼がデザインしたシンボルマークは、昭和6年(1931)に日本サッカー協会の理事会で正式に採用された。

■ 八咫烏の三本足の意味に関しては、いくつかの説がある。ある説では、「宇井」「鈴木」「榎本」という熊野地方で勢力を誇った熊野三党を表しているという。別の説では、熊野本宮の主祭神である家津美御子大神(ケツミミコノオオカミ)の三つの神徳である「智」「仁」「勇」を表しているという。「天」「地」「人」を表すとする説もある。

八咫烏の伝承はもともと大和の宇陀地域で語られていた?

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八咫烏
■ 古代、金剛・葛城山系の東麓に盤踞して勢力を築いた鴨氏がいた。しかし、神武天皇東遷の時、烏(からす)に化けて天皇を熊野から大和へ道案内した賀茂建角身命(カモタケツヌミのミコト)を祖と仰ぐ山城鴨氏は、どうやら葛城鴨氏の分派か別系統だったようだ。

■ 葛城鴨氏は国つ神の大賀茂津美命(オホカモツミのミコト)を祖として祀っていたが、山城鴨氏の祖とされるカモタケツヌミは天つ神である。カモタケツヌミは八咫烏に化身してイワレヒコの大和平定を助けた。そのためイワレヒコはその功に対して厚く報償したという。そのときからカモタケツヌミを八咫烏(やたがらす)と称するようになったとされている。

■ 『山代国風土記』逸文は、鴨氏の祖神カモタケツヌミが山代の国に祀られるようになった経緯を次のように説明している。すなわち、カモタケツヌミは、初め大和の葛木山の峰に下り、そこから山代の賀茂(相楽郡)に遷り、さらに木津川を下って、葛野川と鴨川の合流点から賀茂川をさかのぼり、久我国の北の山本に鎮まったという。その場所が現在の下鴨神社の社地である。『日本書紀』では、八咫烏の子孫が山代国の葛野に住む鴨県主(カモノアガタヌシ)であるとしている。

■ しかし、歴史学者の和田萃氏は、山城鴨氏が葛城鴨氏より有力になり、8世紀に入って山背国の賀茂祭が盛んになった頃にこのカモタケツヌミの遊幸伝承が成立したものと推察しておられる。さらに、和田氏は八咫烏伝承はもともと大和の宇陀地方で語られていたと見ておられる。その根拠として、神武伝承では八咫烏は神武の一行を熊野から宇陀まで先導したが、それ以後の活躍が記されていないこと、慶雲2年(705)9月2日に、八咫烏神社が大倭国宇陀郡に創始されたと『続日本紀』に記されていること、などを挙げておられる。

宇陀市榛原区高塚に鎮座する八咫烏神社

■ 先月、葛城山麓に盤踞していた鴨氏が奉斎していた神社を探訪した(3月12日付け橿原日記参照)。その時の探訪記でカモタケツヌミが八咫烏であると記したが、迂闊にも、八咫烏を祭神とする神社が宇陀市内にあるとは知らなかった。

八咫烏神社周辺のマップ
八咫烏神社周辺のマップ
■ 八咫烏神社の存在を知るきっかけを作っていただいたのは、このHPの掲示板に投稿して頂いているハンドル名すみれさんからの情報だった。実は先月14日、橿考研の友史会が実施した遺跡見学会「宇陀を歩く」に参加した。そのとき、阿騎野人麻呂公園の音声ガイダンスを聞いて、推古天皇19年(611)の夏5月5日の薬猟(くすりがり)が行われた菟田野(うだの)はこの地だったと理解した。

■ ところが、この薬猟が行われた菟田野は、『日本書紀』の註では大和国宇陀郡足立村(すなわち、現在の宇陀市榛原区足立)となっていて、『大和志』にもそう記されている、との指摘をすみれさんから受けた。その場所は、『三代実録』に源融が鷹狩りした所で、禁野の地になっていたという。

■ 宇陀郡足立村がどのあたりか気になって地図で調べてみたら、現在は宇陀市の榛原(はいばら)区足立になっていて、かぎろひ丘から北北西の約4キロ地点のようだ。地図で見る限り、榛原区足立は東を流れる芳野(ほうの)川に向かって下る緩やかな丘陵地帯のように思える。何故この地が飛鳥時代の菟田野に比定されたのかは分からない。

■ その時、榛原区の足立から芳野川を少し上流に遡ったところに高塚という地域があり、そこに八咫烏神社の表示があるのに気がついた。場所は、国道370号線の野依付近から分岐して東へ延びる県道217号線(高塚野依線)と榛原市内から芳野川沿いに南下する県道31号線との「高塚」交差点付近だ。

■ インターネットで八咫烏神社へのアクセス方法を調べてみると、近鉄「榛原」駅の南口から出る奈良交通バスの「菟田野町」行きに乗れば、10分ほどで「高塚」交差点にあるバス停に着くという。バス停の近くにガソリンスタンドがあり、その向かい側に鳥居が建っている。鳥居をくぐって100mほど進んだ所が社地とのことだ。そこまで確認して、今月の5日にこの神社に参拝してきた。

道路脇に立つ八咫烏神社の鳥居
道路脇に立つ八咫烏神社の鳥居
振り返って仰ぐ伊那佐山
振り返って仰ぐ伊那佐山

■ バスを降りると、ガソリンスタンドから10mほど北側の道路脇に石の鳥居がそびえていた。鳥居の前に立つと、一直線に延びる参道が集落に向かって続いている。水路に架かる朱色の橋を渡って振り返ると、三角錐の「とんがり帽子」のような山がひときわ高くそびえて見えた。標高637mの伊那佐山(いなさやま)である。『日本書紀』では「伊那瑳山」という名で登場する。

■ この山の山頂には、式内社・都賀那岐(つがなぎ)神社があり、社殿の横に次の歌を刻んだ歌碑が建っているそうだ。
楯並(たたな)めて 伊那佐(いなさ)の山の 木の間ゆも い行き目守(まも)らひ 戦へば 吾はや飢(ゑ)ぬ 島つ鳥 鵜養(うかひ)が伴(とも) 今助けに来(こ)ね

■ 『古事記』に記載されている歌謡で、意味は、
伊那佐の山の木の間を通って、見張りながら戦っていると、私はいよいよ腹が減ってしまった。鵜飼いの伴よ、今すぐ助けにきてくれ
だそうだ。イワレヒコが東征の際この地に至って鵜飼いをしていた人に食べ物を持ってきて欲しいと要望する内容である。

八咫烏神社の参道 あっけらかんとした拝殿

■ 参道を進み二の鳥居をくぐると、広い神域の右手に、まことにあっけらかんとした拝殿が建っている。一段高くなった基壇の正面に賽銭箱がおいてあるだけの、周囲には壁も何もない拝殿だった。ただ、菰をかぶった清酒やたがらすの樽が2つ、奥の方に置かれていた。

拝殿に飾られた酒樽
拝殿に飾られた酒樽
拝殿横に置かれた八咫烏の像
拝殿横に置かれた八咫烏の像

■ 拝殿の横の芝生の中に、黒っぽい像が置かれていた。近寄ってみると、頭にサッカーボールを載せた三本足の八咫烏だった。なんともひょうきんな顔をしたカラスの表情には、つい笑ってしまった。

■ 二の鳥居の近くに立てられた説明板によると、この神社の創起は慶雲2年(705)9月とのことだ。『続日本紀』には、八咫烏のカモタケツヌミのミコトをその年にこの地に祀ったことが記されている。慶雲2年と言えば、太安万侶が『古事記』を編纂する7年前、『日本書紀』が完成する15年前にあたる。イワレヒコの軍隊を熊野からヤマトに導き入れた八咫烏の伝承が、それ以前にすでにこの宇陀の地で語り継がれていたにちがいない。

■ こうした由緒によって、祭神の八咫烏は古来、軍神として崇敬され、南北朝時代には後醍醐天皇に篤く信仰されて、当社は大いに栄えた。しかし、南北朝の衰頽とともに社運は傾き、加えて度重なる戦禍に見舞われて江戸時代の中頃には廃絶寸前の状態にあったという。

■ 江戸時代の文政年間(1818-1829)に、その惨状が京都の下鴨神社の神官の目にとまり、彼の働きかけと在郷有志の協力で、神社が再興され、本殿が現在の春日造りに造り替えられた。その本殿は、拝殿前の急な山腹を利用して作られた石段の上に築かれている。朱塗りの建物が周囲の常緑樹に囲まれてひときわ映える。

■ 石段を登って、本殿を囲む垣根の中をのぞくと、本殿の左に小さな石造りの祠が置かれていた。由緒書きによると、それが旧本殿とのことだ。

山の斜面に築かれた本殿 本殿の横に置かれた旧本殿の石造小祠

■ 再興なった神社の例大祭では、下鴨神社から奉幣使が送られて祭典が執り行われてきた。しかし、当時は9戸しかなかった貧村の氏子には負担が大きすぎ、明治初年には例大祭の中止を余儀なくされたという。しかし、大正3年に神社合祀令によって近隣の鎮守の神がこの神社に合祀されるようになり、再び隆盛を取り戻した。昭和15年(1940)には皇紀2600年を記念して県社に昇進した。それを機に、神域が拡張・整備されて、現在に至っているという。

【参考文献】御所市教育委員会編『古代葛城とヤマト政権』所収の和田萃著「葛城氏と鴨氏」
2009/04/07作成 by pancho_de_ohsei
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