横大路が敷設された背景を推理する古代、奈良盆地を東西に横切る直線道路があった。「横大路」と通称されている官道で、さしずめ古代の国道1号線とみなしても良いような道幅の広い道路だった。和田教授によれば、横大路の東の端は、近鉄/JR桜井駅のすぐ南西を流れる寺川に架かる小西橋(磐余橋)で、西の端は近鉄南大阪線の磐城駅のやや西方にある長尾神社に近い小字「鳥養」付近だそうだ。両地点間の距離は12.74km、すなわち古代の24里(1里=530m)に相当するという。
何時、そして何故このような巨大な道路が奈良盆地に登場したのだろうか。その疑問を解くヒントは、実は『日本書紀』の中にある。『日本書紀』は推古21年(613)、難波から京(みやこ)に至るまでに大道(おおぢ)を置く、と伝えている。難波には、大和王権にとっては海の玄関ともいうべき難波津がある。そこから、推古女帝の小墾田宮がある飛鳥まで大道を敷設したと言うのである。横大路はその官道の一部として、それまでに存在した旧道を整備して築かれたのであろう。 そうした官道敷設の契機となったのは、推古15年(607)に遣隋使節として隋に派遣された小野妹子らの帰朝報告ではなかったかと、筆者は推測している。当時彼らが大陸で目撃したのは、絶頂期にある隋帝国の強大な道路ネットワークだった。国都大興城から発せられる指令を地方の行政の末端まで速やかに伝達する通信網として、また地方に政情不安が生じたとき大規模な軍隊を速やかな移動させる軍用道路として、道路網の整備は律令体制を維持するためのインフラだったはずだ。 隋の律令制度を見習って国内改革を推し進めようとしている聖徳太子にとって、妹子たちの帰朝報告は大きな刺激だったにちがいない。隋との国交の樹立に成功した太子は、近い将来に彼我との交流が盛んになることが見えていたであろう。また、外交の体面上からも、難波津から王宮がある飛鳥までの道路の整備を痛感したであろう。そして、5年の歳月をかけて敷設されたのが上記の大道ではなかったか。
江戸時代の中頃になると、庶民が集団で伊勢神宮に参詣する「おかげ参り」が大流行した。西国や近畿一円の庶民が大阪から大挙して大和に入り、横大路を通って伊勢神宮に参詣することが多くなり、天保元年(1830)には年間で500万人にも達したという。そのため、近世には横大路は伊勢街道と呼ばれるようになった。しかし、古代には30m近い道幅だった古道の面影はすでに失われていた。 |
下ツ道と横大路の交差点だった「札の辻」
我が国の古代史に興味を抱き、当地に来て史跡探訪しているくせに、往年の横大路が現在どうなっているのか知らないとは・・・、いささか恥ずかしい思いがした。そこで、せっかく橿原市が歴史の古道を紹介するガイドブックを作ってくれたのだから、和田教授の解説を読みながら、橿原市内に息づく横大路を散策して見ることにした。 和田教授によれば、古代の下ツ道の南の端は五条野丸山古墳の裾だそうだ。下ツ道はここを起点として、大和盆地の中央一直線に北上し平城京の朱雀大路(現在の平城宮跡)まで続いていたという。その距離は24.56kmにも達する。現在の車道でこんなに長い距離を文字通り一直線に敷設された道路はおそらく存在しないのではなかろうか。
神道橋の先の坂道を下ると、その先は狭いながら近世の町並みがよく残っている旧道が、ほぼ直線上に北に向かって続いている。下ツ道の道幅は25m、両側の側溝やその外側に設けられた犬走りを含めると、道路の規模は35.5mだったことが発掘調査で確認されている。その巨大な官道も時代とともに寂れ、近世には道幅も現在のように狭まり、名前も中街道に変わった。現在は、住人たちが肩を寄せ合いながら静かに暮らす裏通りである。
江戸時代の暁鐘成(1793−1860、あかつきのかねなり)が著した『西国三十三所名所図絵』には、「八木札街」と題する図絵がある。その挿絵には、当時の伊勢街道と中街道との交差点の中央に高札場があり、高札を読んでいる旅人や、高札場の傍らの八角形の井戸から水をくみ上げている者、東南角の魚屋で魚の競りを行っている様子などが生き生きと描かれている。こうした挿絵は、鐘成に同行した絵師の松山半山(はんざん)と浦川公左(こうさ)が描いたものとされている。 正面に描かれた2階建ての大きな建物と道路を挟んで左手に建つ二階建ての建物は、いずれも旅籠(はたご)である。現在も平田家の建物が道路を挟んで建っていて、東側の平田家が名所図絵の正面に描かれた旅籠で、二階は昔のまま残っている。西側の平田家の建物は、近世には「きわらや」という屋号で旅籠として賑わい、現在も二階への大階段がそのまま残っているという。
暁鐘成も書いているように、古代はおろか近世にも、札の辻は四方往還の十字路だった。東への道は桜井から泊瀬(はつせ)を経て伊勢へ向かう。南への道は岡寺から高取を経て吉野へ向かう。西への道は大和高田から竹之内や当麻へ向かう。北への道は田原本から奈良や郡山へ向かう。文字通り、四方往還の十字路だったのだ。
谷三山は享和2年(1802)に八木町にあった富裕な造り酒屋の次男として生まれた。実名は操で、通称は新助といった(後に昌平と改める)。三山は郷里の大和三山にちなんでつけた号である。11歳のとき眼と耳を同時に患った。眼は治ったが聴力は失われ14歳で全くの聾者になった。当時一流の儒学者だった京都の猪飼敬所に敬服し、その門下生となって勉学に励んだ。その学識は地方にまで聞こえ、彼の名声を慕って集まってきた門人を集めて私塾の興譲館を開き、吉田松陰や頼山陽らと親交を結んだ。 幕末国事の紛乱に際しては、専ら尊攘の大義を唱え、士気を鼓舞した。高取藩の第10代藩主・植村家教(いえのり)は、谷三山を招聘して尊皇攘夷に傾倒したため、幕末の高取藩に影響を与えたとされている。
谷家の近くに、福島家がある。高取藩の下屋敷として、参勤交代の起点となった家とされ、現在も御殿部屋が残っている。享保10年(1725)の棟札があり、見るからに古そうな建物で、軒瓦などは今にもずり落ちそうである。早めの修復が望まれる。
八木は宿場町であったため、接待連中(せったいれんちゅう)が組織され、伊勢神宮参詣者に茶湯や食事の接待を行い、宿泊の世話を行なってきた。その場所が接待場であり、訛(なま)ってセンタイバと呼ばれていた。 現在、横大路に面した住宅の間に接待場跡が肩身を狭くして残っている。以前はこの接待場跡に二基の常夜灯があった。おかげ灯籠と金比羅灯籠である。おかげ灯籠は、伊勢神宮までの道先案内として街道筋に設置された太神宮灯籠のことで、正面に「太神宮」、側面に「明和八年辛卯九月参宮接待連中」と彫られていた。この灯籠が立てられた明和8年(1771)は、おかげ参りが大流行した年で、その数は200万人にも達したという。 しかし、最近はおかげ灯籠の痛みがひどくなり、倒壊の恐れも出てきた。そこで、補修の手を加え、現在の場所からおよそ200m西に移された。新しい設置場所は、横大路と近鉄八木駅から市役所方面に延びる道との交差点の東南隅である。接待場跡には現在、金比羅灯籠が1基立っているだけである。
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橿原市を横切る横大路の東端に位置する三輪神社
横大路の旧道は国道の先をさらに東に向かって一直線に延びていく。しかし、このあたりまで来ると、伝統的建物は無くなり、普通の民家の町並みが続く。左手を近鉄電車の線路が平行して走っており、空き地の向こうに耳成山を望むことができる。 米川を渡るあたりから、今まで直線で延びてきた道路がすこし右や左にカーブを描くようになる。おそらく米川の流れに沿って近世以降の道が築かれたためだろう。やがて石原田町で近鉄電車の「耳成」駅方面に向かう道路と交差する。その交差点の角に比較的新しい地蔵菩薩の石像が置かれている。
石地蔵が立つ交差点から東へおよそ450mで桜井市の境域に入り、その境界に沿って用水路が築かれている。境界線は古代の中ツ道の名残であり、札の辻の交差点から直線距離で2136m東に位置している。当時使用されていた高麗尺(こまじゃく)で4里に相当する距離である。
三輪神社は祭神として大物主櫛甕玉命(おおものぬし くしみかたまのみこと)を祀るが、神社の創建時期は不明である。現在は、地蔵寺にあった白山神社(祭神 菊理姫命)も合祀しているという。本殿は平成17年に改築されて新しい。 石の鳥居をくぐって境内に入ると、社殿の南側に石灯籠や磐座らしい巨石が置かれている。石灯籠には「安永5年(1776)12月吉日」と刻まれていて、おかげ参りの道しるべとなった常夜灯のようだ。磐座には注連縄が巻いてあった。この磐座が存在することから、和田教授は、当社の起源は古代に遡り、三輪山を遙拝する神マツリの場だった可能性を指摘しておられる。
境内の南西の隅は、中ツ道と横大路が交差した場所である。そこに小安子育(こやすこそだて)地蔵を安置した地蔵堂が建っている。鬼瓦に刻まれた年号から、文化14年(1817)に建てられたものと推察されている。この地蔵堂の背後に「面堂の礎石」と呼ばれている平たい石が露出している。古代の寺院に用いられた礎石で、大半は横大路の路面下に埋もれているが、一部が用水路に突き出ている。 桜井市教育委員会が立て説明板によると、この礎石は直径が140cm、円座直径が110cm、厚みが40cmの花崗岩で、藤原京内にあった寺院のものを持ち出したか、あるいは『大和旧跡幽考』に記された面堂の遺構、すなわち面堂にあった寺院の礎石かもしれないが、はっきりしないとのことだ。ちなみに、橿原市出垣内(でがいと)町には「面堂」という地名が残っている。 |
橿原市内の横大路を西に向かって探訪する橿原市の西の端は曲川(まわりかわ)町である。今でこそ東洋一のショッピングセンター「イオンモール橿原アルル」が2004年4月にオープンして脚光を浴びているが、それ以前から国道166号線を自転車を駆って曲川へはよく出かけた。電化製品の量販店があり、パソコン関係の消耗品を調達するためだった。しかし、横大路を通って訪れたことはない。
なにはともあれ、三輪神社から札の辻に引き返すと、ガイドブックに従って横大路を西にたどることにした。上述の交差点に移築された太神宮灯籠の前を通り、近鉄電車の踏切を渡ると、すぐに飛鳥川に架かる高橋にぶつかる。この橋の上流と下流の両岸は見事なサクラ並木になっていて、毎年見事な花吹雪を川面に散らす。ただ、今年は”寒のもどり”が長く続いていて、いまだに3分咲き程度だ。 飛鳥川を渡ると小綱(しょうこ)町に入る。最初の交差点を右折して200mほど住宅街の中に入ると、大日堂と入鹿(いるか)神社がある。
入鹿とは、645年の乙巳の変(いっしのへん)で中大兄皇子や中臣鎌子らによって飛鳥板蓋宮で誅殺された蘇我本宗家の族長である。なぜ古代史上の極悪人とされる入鹿がこの地で祀られているのかよく分からない。しかし、小綱町の西は曽我町であり、曽我川が流れている。もともと曽我川の中流域は蘇我氏の発祥の地とされている。古代においては小綱町一帯も蘇我氏の支配する領地であったのであろう。 入鹿神社付近は蘇我入鹿の邸宅だったとする伝承があるようだ。正史では悪人とされている入鹿だが、その実像は、氏人たちに慕われる族長ではなかっただろうか。そのため、蘇我氏の末裔たちが入鹿を追慕して密かにその霊を祀ってきたと想定できないこともない。 大日堂は、もともと普賢寺の本堂だった。同寺が明治7年(1874)に廃絶したため、現在は近くの浄土宗の正蓮寺に管理を委ねられている。大日堂の棟札から、康正2年(1456)から文明17年(1485)まで30年余を費やして建立されたことが判明しており、国の重要文化財に指定されている。堂内に安置されている本尊の大日如来座像は鎌倉時代前期の作で、やはり国の重要文化財に指定されている。
金綱井は現在の橿原市小綱町付近にあった。戦闘は672年7月7日、当麻の葦池(あしいけ)付近で行われ、倭古京防衛軍が勝利した。その葦池は近鉄南大阪線の「磐城」駅の南にある池ではなかったかと、和田教授を想定しておられる。 せっかく道幅が広がった横大路が、曽我町に入った途端にまた対向車がすれ違うのも覚束ない道に変わる。その狭い道を抜けると、曽我川に架かる豊津橋に出る。豊津橋は曽我川と高取川の合流点近くに架けられた橋で、東詰めと西詰めに道標が立っている。
東詰めの道標は嘉永元年(1848) 11月に立てられた高さ142cmの方柱で、曽我川の右岸をたどれば龍田・法隆寺に行くつくことを示している。一方、西詰めの道標は高さ85cmほどの大きさで、曽我川の左岸を南へ4町(1町=109m)ばかりたどると、天太玉命(あめのふとだまのみこと)神社があることを示している。
この神社が主祭神として祀る天太玉命は、玉作り集団を支配下において大和王権の宮廷祭祀を一手に預かってきた忌部(いみべ)氏の祖神である。そして、忌部町付近は忌部氏の本拠地だった。この神社にほど近い所に曽我遺跡がある。京奈和自動車道の敷設に先立って実施された発掘調査で、我が国で最大規模の玉作り工房が発見された。調査によって、碧玉や緑色凝灰岩、滑石、琥珀などのさまざまな玉が5世紀中頃から6世紀中頃にかけて制作されていたことが明らかになった。その原石は、出雲や紀伊、北陸など各地から運ばれてきたとのことだ。 |