石舞台古墳から幡方面への分岐点へ
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上畑の先の舗装道路に端に位置築かれた良助法親王墓
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| 亀山天皇の皇子・良助法親王の冬野墓 |
良助法親王(1268-1318)の墓は、明日香村の冬野地区にある。そのため、宮内庁でも「冬野墓」の名前で管理しているようだ。それにしても驚いた。明日香村の東にそびえる標高650mの山頂に立地していながら、参道の両脇のツツジの木はきれいに剪定されている。参道の石段には木の葉一枚落ちていない。
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| 側面から見た良助法親王墓。
ツツジの株もきれいに剪定されている。 |
良助法親王墓の正面。
参道の石段にも木の葉一枚落ちていない。 |
どう見ても、今朝人手によって清掃されたとしか思えない。この墓から少し北に行ったところに、冬野の集落がある。あるいはそこの住人が請け負って定期的に掃除をしているのだろうか。それとも、橿原市内にある宮内庁書陵部の職員がときどき車で上ってきて掃除してゆくのだろうか。そういえば、途中で出会った赤の乗用車には二人が乗っていた。その車が折り返して下山して来るのにも出会っている。
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| 追造された五輪の供養塔 |
良助法親王は、幼少から仏門に入り、京都青蓮院の尊助法親王の弟子となった。成長して、天台宗延暦寺の座主をつとめたこともあるという。後に多武峰の清浄院に住み、文保2年(1318)年8月18日、50歳で没した。親王の遺志によりこの地に埋葬されたと伝えられている。墓域には、五輪塔が残されており、様式から親王没後の南北朝末期に作られたものだとされている。
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| 冬野墓の前に立つ石標 |
書画の素養がまったくない筆者には、きちっと書かれた楷書文字であることは分かるが、どこに清涼さがあるのかさっぱり分からない。しかし、書道の大家を感動させたほどの書体なら、さぞかしすばらしいものなのだろう。
帰路は同じ道を6km引き返すか談山神社に出るかで迷う
明日香村観光課の職員は徒歩で1時間少々と言っていたが、筆者の足ではたっぷり2時間かかった。いささか筋肉疲労を起こしている足では、再び6kmの道のりを歩いて下るのは厳しい。一方、多武峰方面に向かえば800mで談山神社に着けるのなら遙かに楽であり、その先はバスが利用できる。 時計を見ると、午後の3時半である。談山神社に着く頃、まだバスが運行しているだろうか。運行しているとしても、バスは近鉄の「桜井」駅までである。自転車を取りにゆくには、そこからさらに石舞台古墳まで回らなければならない。どちらを選ぶか迷った末に、結局談山神社に向かうことにした。自転車は明日にでも取りに行けばよい。
江戸時代の明和9年(1772)、本居宣長は吉野・飛鳥を旅して、その見聞を『菅笠日記』にまとめている。それによれば、宣長は多武峰の桜を愛でた後、冬野から竜在峠を越えて吉野へと下っている。したがって、ここからは宣長が歩いた道を逆にたどることなる。 驚いたことに、標識の近くの道を白の乗用車が塞いでいた。冬野がまだ無人の集落でないことが分かって、なぜかほっとした。実際は、民家は建っているが、村民たちは住んでいない。世代が変わり、若い世代になって本拠は山麓の村に移したそうである。ただ、古い家は別荘代わりにそのまま残し、時々屋内の空気を入れ換えるためにやってくるそうだ。民家の庭先に、多武峰方面の小さな標識があった。矢印の通り進むと、すぐに檜の枯れ枝がうずたかく散乱した山道に出た。
冬野の集落を後にして枯葉が散乱した地道を下り始めると、やがて道がカーブする近くに冬野水源地があった。湧き水である。冬野の集落では、この湧き水を飲み水として利用しているようだ。ここから湧き出した水は、谷間を流れ下ってやがて石舞台の脇を通り、最後に飛鳥川に合流する。
周囲に植林された檜以外に何も見えなかった山道を20分ほど下ると、前方に明るい空間見えた。植林が消え、車道に架かるコンクリート製の橋があった。長い山道を降りてきて初めて接した人工物である。橋の近くに石垣だけが残った「西大門跡」があった。花崗岩の一石彫りの石仏が、その石垣跡の上に置かれている。
資料によると、この石仏は座高80cm、左手は甲を表にした弥勒触地印をしており、光背部の左右に「文永三年八月八日奉造立、大勘進正延大工藤井延清」の銘が刻まれているという。文永三年と言えば西暦の1266年である。蒙古が来襲してそれを撃退した文永の役の8年前にあたる。在銘石仏では桜井市内では最古の仏だそうだ。
近寄って何処まで行かれるのか聞くと、これから石舞台へ回る予定だという。それなら好都合で、道順を教えるから乗せていってもらえないか、と頼み込んだ。二人連れは、東京から来た観光客だった。奈良市内のホテルに宿泊して、本日はレンタカーを借りて南を方を探訪しているという。筆者の図々しい頼みを喜んで受け入れてくれて、大いに助かった。石舞台古墳に着くと、お礼に吉野名物のくず餅を土産物屋で買って渡した。 |