橿原日記 平成21年3月23日

6キロの山道を踏破してたどり着いた良助法親王墓(りょうすけほっしんのうのはか)

書家榊莫山を感動させた石標

日前の読売新聞夕刊に、書家の榊莫山(さかき ばくざん)さんが書かれたコラムが載っていた。その中に次のような一節があった。
 大和の心臓は、明日香村。明日香村の臍(へそ)は石舞台。
巧いこと言うなー、と感心した。その石舞台の駐輪場に新しく買った自転車を入れた。時計を見ると、ちょうど午後1時20分だった。

良助法親王の所在地
舞台の横を冬野川が流れている。これから向かう先は、冬野川の源流にある冬野という集落。地図でみても山奥深い寒村のようだ。20年前には家が3軒ばかり並んでいるだけの集落だったと、莫山さんも書いておられる。過疎化が進んだ現在、集落として存続しているのかどうかも分からない。

の集落の近くに、第90代亀山天皇の第4皇子とも第8皇子とも言われる良助法親王(りょうすけほっしんのう)(1268-1318)の墓がある。墓を管理する宮内庁は「冬野墓」と呼んでいる墓だ。莫山さんがその石標の楷書文字の美しさに感動されたことを、何かで読んだことがある。書道の専門家を感動させた文字とはどんなものか一度見ておきたい、と以前思った。そのことを読売新聞のコラム欄を読んで思い出した。

直なところ、良助法親王がどのような人物か全く知識がなかった。親王ではなく法親王と呼ばれている理由すら知らなかった。まして、人里遠く離れた山中に宮内庁が管理する陵墓があるとはまったく気付かなかった。しかし、地図で調べてみると、確かにその所在地が示されている。

っそく明日香村の観光課に電話して、アクセスの仕方を聞いてみた。
「車で行かれますか?」開口一番、受話器の向こうで担当者がそう聞いてきた。
「いいえ、歩きです。石舞台からどれくらい時間がかかりますか?」
「そうですね、歩きなら1時間は最低みておかれたほうがよいですね」
「では、往復で3時間ほど覚悟すれば大丈夫ですね?」
「ええ、大丈夫だと思います」
担当者はそう答え、さらに
「冬野川の上流の細川という集落の中に「畑」方面への標識がでているので、そこから山道へ入れば、後は一本道です」
と教えてくれた。

週は”寒の戻り”だそうだ。先週までの馬鹿陽気とうって変わって、日差しはあるものの、北風が冷たい。石舞台古墳休憩所の自動販売機でお茶のペットボトルを買い、1時27分に冬野に向かって歩き出した。以下は、途中で目にした景観である。



石舞台古墳から幡方面への分岐点へ

石舞台古墳。明日香村の臍(へそ)。
月曜日のせいか、見学者の人影はほとんどない。
すこし離れた岡の上で、色鮮やかに咲いた菜の花
が北風に震えていた。
県道155号線(多武峰見瀬線)の道路標識。
石舞台から少し上の三叉路に立っている。
左へ進めば2kmで行き止まりの表示が出ている。

県道155号線の緩やかな登り勾配の坂道が続く。
正面そびえているが多武峰(とうのみね)。
道路脇の桃の林が満開の花をつけていた。
1時40分、上居(じょうご)の「立石」を見つける。
上居以外に岡、小原、立部でも見つかっている。
飛鳥地域の結界石とする説がある。

2時7分、石舞台を出発して40分。
細川地区の道路脇に立つ「畑」方面の標識。
ここから分岐して山道に入る。
細川地区で分岐して冬野方面へ向かう途中で、
車道から見下ろした眼下の景観。
手前の集落が細川地区。遠くに二上山が見える。

檜の植林の間を縫って続く車道。
2時15分、比較的幅が広かった道路が狭くなる。
後ろから、赤い乗用車が追い越していった。
自分を映したミラー。
途中で出会うのはミラーとゴミ捨て禁止の看板のみ。
聞こえるのは、梢を揺るがして吹く北風のうなりのみ。

2時20分、奈良盆地を一望できる場所に出る。
かなりの高さまで登ってきたことを実感した。
2時25分、後ろから白の軽自動車が来た。
車を止めて運転手に冬野墓までの距離を聞く。
2時37分、ようやく山の稜線に出た。
道は比較的平坦になる。すでに1時間以上、
上り坂を歩いてきて、足に相当疲労がたまった。
途中の石地蔵の脇で、5分ほどしばし休息。

2時43分、バイクで郵便配達の青年が下山して
きた。冬野までの道のりを再度確認する。
この先、道が二股にわかれる。左手の上り道を
行けば、
10分ほどで明日香村クリーンセンター着く。
冬野はその先10分ほどの距離だと教えてくれた。
教えられた通り、分岐点で左手の上り坂を選んで進む。
相変わらず、檜の枯葉が散乱する山道が続く。
まもなく林の向こうから、モータ音に似た響きが聞こえてきた。
明日香村クリーンセンター〔ゴミ焼却場)が近いようだ。

2時51分、やっとゴミ焼却場に着く。
こんな山頂にゴミ焼却場が築かれているとは・・・。
事務所で、冬野墓までの聞く。
まだ2kmほど先のようだ。
また檜の植林の間を、枯葉が散乱した山道が続く。
不思議なことに、この道路の表示がどこにもない。
特定森林地域開発林道(スーパー林道)なのだろうか。
そんなことを考えて歩いていると、明るい空間に出た。

道路脇に「上畑」の標識を見つける。
山頂付近にある天空の村である。
このような高地で自然を相手に暮らすのも良いが、
自分にはできないな、というのが正直な感想。
眼下の山の斜面にたたずむ民家
周囲の山桜がほころび始め、山里にも春が来た。
道路脇の牛舎から、独特の匂いが漂っていた。



上畑の先の舗装道路に端に位置築かれた良助法親王墓(りょうすけほっしんのうのはか)

時25分、道の左手に石段が見えた。何の標識もなかったが、気になって昇ってみることにした。上には何もなかった。だが頂上から反対側に少し下ると、山の斜面に沿って細い道が続いていた。その道を辿ると、小さな小屋が見えた。実は、その建物は良助法親王墓の向かって右手に建てられた守衛の小屋だったが、人影はない。

亀山天皇の皇子・良助法親王の冬野墓
亀山天皇の皇子・良助法親王の冬野墓

助法親王(1268-1318)の墓は、明日香村の冬野地区にある。そのため、宮内庁でも「冬野墓」の名前で管理しているようだ。それにしても驚いた。明日香村の東にそびえる標高650mの山頂に立地していながら、参道の両脇のツツジの木はきれいに剪定されている。参道の石段には木の葉一枚落ちていない。

良助法親王墓の側面 良助法親王墓の正面
側面から見た良助法親王墓。
ツツジの株もきれいに剪定されている。
良助法親王墓の正面。
参道の石段にも木の葉一枚落ちていない。

う見ても、今朝人手によって清掃されたとしか思えない。この墓から少し北に行ったところに、冬野の集落がある。あるいはそこの住人が請け負って定期的に掃除をしているのだろうか。それとも、橿原市内にある宮内庁書陵部の職員がときどき車で上ってきて掃除してゆくのだろうか。そういえば、途中で出会った赤の乗用車には二人が乗っていた。その車が折り返して下山して来るのにも出会っている。

追造された五輪の供養塔
追造された五輪の供養塔
助法親王は、第90代亀山天皇の皇子である。資料によっては、第4皇子としたり第8皇子としていて、どちらが正しいのか分からない。一般に、天皇の嫡出の男子や天皇の兄弟を親王というが、特に法親王(ほっしんのう)と称されていたようだ。古くは出家後に親王宣下を受けた皇族を法親王という。なにか訳ありの皇子だったようだ。

助法親王は、幼少から仏門に入り、京都青蓮院の尊助法親王の弟子となった。成長して、天台宗延暦寺の座主をつとめたこともあるという。後に多武峰の清浄院に住み、文保2年(1318)年8月18日、50歳で没した。親王の遺志によりこの地に埋葬されたと伝えられている。墓域には、五輪塔が残されており、様式から親王没後の南北朝末期に作られたものだとされている。

冬野墓の前に立つ石標
冬野墓の前に立つ石標
て、書家の榊莫山さんを感動させた楷書文字の書かれた石標だが、それは墓に向かって左側の石の柵の前に立っていた。淡い苔におおわれた石の正面に「良助親王冬野墓」と彫られている。莫山さんは、この石の文字を”かって見たこともないほど清涼な楷書”と評しておられる。

画の素養がまったくない筆者には、きちっと書かれた楷書文字であることは分かるが、どこに清涼さがあるのかさっぱり分からない。しかし、書道の大家を感動させたほどの書体なら、さぞかしすばらしいものなのだろう。





帰路は同じ道を6km引き返すか談山神社に出るかで迷う

a道路の端に立つ標識
道路の端に立つ標識
川の集落からこの山頂まで続いていた舗装道路は冬野墓で行き止まりである。その先は二手に分かれた細い地道が続き、分岐点近くに標識が立っていた。石舞台古墳まで6km、多武峰・談山神社まで0.8kmと表示されている。このとき初めて、石舞台古墳から6kmも山道を登ってきたことを知った。

日香村観光課の職員は徒歩で1時間少々と言っていたが、筆者の足ではたっぷり2時間かかった。いささか筋肉疲労を起こしている足では、再び6kmの道のりを歩いて下るのは厳しい。一方、多武峰方面に向かえば800mで談山神社に着けるのなら遙かに楽であり、その先はバスが利用できる。

計を見ると、午後の3時半である。談山神社に着く頃、まだバスが運行しているだろうか。運行しているとしても、バスは近鉄の「桜井」駅までである。自転車を取りにゆくには、そこからさらに石舞台古墳まで回らなければならない。どちらを選ぶか迷った末に、結局談山神社に向かうことにした。自転車は明日にでも取りに行けばよい。

冬野集落内にある標識
冬野集落内にある標識
股に分かれた左側の道は、すぐにコンクリートで固めた急な上り坂に続いている。坂の上は、天空の村・冬野である。海抜650mの山頂にまだ数件の家がきびすを接するように建っていた。上り坂の片側は横長の物置小屋のようだった。薪に使うのか割木の山が軒下に積まれていた。坂を登り切ると、また標識があった。そのまま進めば、多武峰に向かうが、もう一方の矢印は竜在峠を指していた。

戸時代の明和9年(1772)、本居宣長は吉野・飛鳥を旅して、その見聞を『菅笠日記』にまとめている。それによれば、宣長は多武峰の桜を愛でた後、冬野から竜在峠を越えて吉野へと下っている。したがって、ここからは宣長が歩いた道を逆にたどることなる。

いたことに、標識の近くの道を白の乗用車が塞いでいた。冬野がまだ無人の集落でないことが分かって、なぜかほっとした。実際は、民家は建っているが、村民たちは住んでいない。世代が変わり、若い世代になって本拠は山麓の村に移したそうである。ただ、古い家は別荘代わりにそのまま残し、時々屋内の空気を入れ換えるためにやってくるそうだ。民家の庭先に、多武峰方面の小さな標識があった。矢印の通り進むと、すぐに檜の枯れ枝がうずたかく散乱した山道に出た。

民家に庭先にある多武峰方面の標識 どこまでも下っていく急な坂道

野の集落を後にして枯葉が散乱した地道を下り始めると、やがて道がカーブする近くに冬野水源地があった。湧き水である。冬野の集落では、この湧き水を飲み水として利用しているようだ。ここから湧き出した水は、谷間を流れ下ってやがて石舞台の脇を通り、最後に飛鳥川に合流する。

冬野川の水源
冬野川の水源
日来の雨で幾分湿った檜の枯葉に埋まった山道は滑りやすい上に、どんどん下っていく。多武峰に向かうのは上り道だとばかり思っていたが、間違いだった。冬野の集落は標高650mの丘陵面に立地する天空の村である。一方、多武峰の談山神社付近の標高は450m程度にすぎない。両者間の距離は800mかもしれないが、比高差は200mもある。単純計算でも、10m歩いて2.5m下ることになる。かなりの傾斜だ。逆方向から登ってくるとすれば、心臓破りに登山道である。

囲に植林された檜以外に何も見えなかった山道を20分ほど下ると、前方に明るい空間見えた。植林が消え、車道に架かるコンクリート製の橋があった。長い山道を降りてきて初めて接した人工物である。橋の近くに石垣だけが残った「西大門跡」があった。花崗岩の一石彫りの石仏が、その石垣跡の上に置かれている。

談山神社西大門跡近くの車道に架かる橋
談山神社西大門跡近くの車道に架かる橋 談山神社西大門跡の「石仏」

料によると、この石仏は座高80cm、左手は甲を表にした弥勒触地印をしており、光背部の左右に「文永三年八月八日奉造立、大勘進正延大工藤井延清」の銘が刻まれているという。文永三年と言えば西暦の1266年である。蒙古が来襲してそれを撃退した文永の役の8年前にあたる。在銘石仏では桜井市内では最古の仏だそうだ。

暮色が迫り人影もない談山神社
暮色が迫り人影もない談山神社
仏の横手の石垣の間を抜けて下っていくと、お馴染みの談山神社の前に出た。午後4時に近い夕暮れを迎えて、神社には参拝者の影はほとんど見あたらなかった。バス停がある広場に到着して運行表を見ると。バスは出た直後だった。次の便まで50分以上待たなければならない。困っていると、たまたま年配の夫婦が神社の参拝から戻ってきて車に乗り込もうとしていた。

寄って何処まで行かれるのか聞くと、これから石舞台へ回る予定だという。それなら好都合で、道順を教えるから乗せていってもらえないか、と頼み込んだ。二人連れは、東京から来た観光客だった。奈良市内のホテルに宿泊して、本日はレンタカーを借りて南を方を探訪しているという。筆者の図々しい頼みを喜んで受け入れてくれて、大いに助かった。石舞台古墳に着くと、お礼に吉野名物のくず餅を土産物屋で買って渡した。



  2009/03/25作成 by pancho_de_ohsei return