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2009/03/22
纒向遺跡で見つかった3世紀前半の建物跡
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| 現地説明会に参加した多くの考古学ファン(撮影2009/03/22) |
冷静な判断を欠くマスコミのセンセーショナル報道の異常さ
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| 一面トップで発掘成果を伝える奈良新聞 |
奈良県の桜井市教育委員会は、現在発掘調査中の纒向遺跡で、3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵(さく)が見つかったと、一昨日マスコミの記者に発表した。それを受けて、新聞各紙は昨日、その内容を大々的に報道した。奈良新聞は一面トップで発掘成果を伝え、13面の社会面でも”卑弥呼の都」中核か 専門家も驚く複雑区画”と、さも卑弥呼が君臨した邪馬台国の中核施設が発見されたとでも言いたげな見出しを付けている。
四大紙がインターネット版として配信した関連記事の見出しが面白い。参考までに以下に列挙しておこう。馬鹿の一つ覚えのように”卑弥呼”の文字が乱れ飛んでいる。
●3世紀、卑弥呼の宮殿?整然と並ぶ建物跡 奈良・纒向 (朝日新聞)
●卑弥呼時代の建物群 王権の中枢か 奈良 (毎日新聞)
●卑弥呼時代の遺跡中枢部か、奈良・桜井で建物跡 (読売新聞)
●卑弥呼宮殿の一角か 纒向遺跡で柵など出土 (産経新聞)
桜井市教育委員会の記者発表で配布された資料には、”邪馬台国”の文字も”卑弥呼の宮殿”という表現もなかったはずだ。そのことは現地説明会の資料を見ても容易に判断できる。事実だけを淡々と述べた極めて学術的な表現に終始している。それにもかかわらず、マスメディアはまるで世紀の大発見でもあったように、センセーショナルな見出しをつけて報道する。それが、高松塚古墳の壁画発見以後に見られる、日本のマスメディアの発掘報道の常態である。
発掘調査がずいぶん以前に終了しているのに、あたかも現在進行形のような書き方の新聞記事を信じて現場に足を運んだ苦い経験を、筆者は何度も味わっている。新聞の穴埋め記事のガセネタに踊らされた訳だが、それ以来マスメディアの発掘報道は話半分くらいしか信用しないことにしている。今回の場合もその適例だ。
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纒向遺跡のイメージ図 (桜井市教委作成の現地案内板より) |
発掘調査の結果が、新聞の一面トップを飾るほどの大発見だったのか、四大紙が三流紙顔負けの大げさな見出しをつけるほど大発見だったのかと、先ず疑ってみた。疑った最大の理由は、見出しに踊る”卑弥呼の宮殿”の文字である。
纒向遺跡は、全長280mの箸墓古墳を含む東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ全国屈指の大規模遺跡である。この地がヤマト王権の発祥の地であることはほぼ間違いないであろう。だからと言って、3世紀の前半に女王卑弥呼が治めた”邪馬台国”の所在地であるとは言い切れない。纒向遺跡を”邪馬台国”に比定するのは、単なる仮説の一つにすぎない。専門の学会でも、邪馬台国の所在地に関して複数の説が存在することは周知の事実である。
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纒向遺跡のイメージ図 (桜井市作成「ふるさと寄付金の案内」より |
ご当地の桜井市は、邪馬台国の最有力地であるとして纒向遺跡を町おこしの一環に利用することを考えている。それはそれで結構なことである。だが、昭和46年(1971)以来すでに160回以上の調査を実施しながら、その大半が住宅などの開発工事に伴う小規模な発掘だった。調査ずみ面積は全体の5%にすぎず、とてもではないが遺跡の全容解明にはほど遠く、この地に邪馬台国が存在したと声を大にして言える状況ではない。そこで、今年から遺跡の中枢部を本格的に学術調査することにした。その手始めが、今回の調査である。
しかも、今回の調査地は、30年以上も前の昭和53年(1978)に県立橿原考古学研究所(=橿考研)が第20次調査で発掘を行った場所だ。そのときの調査で、一辺約5mの祭殿とおぼしき建物跡(SB-101)やその周辺の柵列跡(SA-101)の一部をすでに検出している。今回は、検出された遺構の全体像を解明するために、前回の調査地も含めて約385平米を新たに掘削して再調査したにすぎない。
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| 巻向駅のホームから見た発掘現場 |
では、今回の調査でどのような新しい知見が得られたか。新聞記事に内容を整理すると、新しい知見は以下の3点にすぎないことが分かる。すなわち、前回検出された建物跡を橿考研はSB−101の記号で呼んでいるが、その周囲に張り巡らされた柵列の状況が確認されたこと、SB−101の東側に別の建物の跡と思われる3本の柱列が新たに検出されたこと、この新たな建物跡を含めて今までに見つかった建物が東西方向に軸線を揃えて建てられていたこと。以上である。
これだけの”新発見”が、我が国の四大紙を含め、公器とも言うべき新聞紙の一面を飾るほどのニュースバリューがあるのか、はなはだ疑問だ。今、日本経済も世界経済も100年に一度と言われる大不況のまっただ中にある。大恐慌の到来と言い換えてもよい。マスメディアとしては、取り上げるべき重大な話題は他にもっとあるであろう。
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| 現地見学会の受付 |
それにもかかわらず、邪馬台国や卑弥呼に興味を示す考古学ファンに迎合する形で、大した調査結果でもないのに、今回の調査現場が卑弥呼の宮殿跡だったと思わせるような記事を一面に書き、しかもその現場を写した大きなカラー写真を掲載する。そうしたニュースの扱い方に疑問を感じない各新聞社の常識がよほど問題だ。政治問題などに対しては公器を理由に中立性・客観性を標榜するくせに、考古学的報道となるとその冷静さを失う各紙の実態はいかがなものか。
本日見学に訪れた2500人が見たもの
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| 大勢の見学者を前に丁寧に説明する発掘責任者(撮影2009/03/22) |
本日の天気は、寒冷前線の通過で関西地方は朝から雨の荒れ模様の予報が出ていた。雨は朝の散歩に出る午前6時すぎには降り出した。「これで、現地見学会の出席は断念だな」とあきらめた。雨の日の現地見学会は、どこでも足場がぬかるんで往生する。
午前9時に、窓の外を見ると、雨は止み、雲が切れて青空が一部のぞいていた。どうやら予報をはずれたようだ。そう思った瞬間、急に発掘現場を見ておきたくなった。今ならまだ10時の説明会開始に間に合う。急いで電車に飛び乗って、近鉄の大和八木駅と桜井駅で乗り継いで,9時45分にJR桜井線の「巻向」駅のホームに着いた。駅のホームから、発掘現場の人だかりが見えた。現場は「巻向」駅の線路脇と言って良いほど近くだった。
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| 柱列G付近で見つかった庄内T,U式土器片 |
溝から見つかった庄内V式土器 |
説明会の受付は駅の近くに置かれていたが、発掘現場とはずいぶん離れた場所にあった。そこで、説明会の資料を受け取り、隣のテントで今回の出土品の土器を見た後、現場に向かった。10時少し前だったが、説明会は前倒しで開始されており、現場の周囲は3重4重の人だかりで埋まっていた。
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調査区遺構配置図 (説明会資料より) |
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調査区遺構配置図 (説明会資料より) |
結局、第一回の説明を聞きながらの現場撮影はできず、二回目の説明を待つことにした。その間にも、どんどん見学者がやってくる。後で知ったのだが、発掘担当者の話では本日の見学者は2500人くらいに達したとのことだ。新聞という公器の威力のすごさに、あらためて驚かされた。
ほぼ長方形に掘削された現場のほぼ中央西よりは、昭和53年(1978)の第20次調査地である。そこを再度掘り起こし、当時の調査地を北、南および東に拡大し、さらに西側も一部掘り起こして約385平米の範囲を今回調査した。
前回見つかった5m四方の建物SB−101の柱列跡が黄色のポールで表示され、また今回見つかった建物跡と思われる3本の柱列Gも同様に表示されていた。一方、柵の跡と思われる柱列はAからFまでの番号が付され、白いポールで示されていた。そのため、柵は建物SB−101を北・西・南から囲むために、西側に凸状に張り出しており、また柱列Aが調査地の東に延びて、新しく見つかった建物をも囲んでいると思われる様子もよく分かった。これらの建物や柵は東西方向や南北方向の軸線を揃えて築かれており、そのことが分かったことは今回の再調査の成果である。
さらに、現地説明会資料には、前回の第20次調査と今回の第162次調査の遺構平面図を合成したイラストも示されていた。それを見ると、前回の調査で建物SB−101から少し離れた西側にも柱列が見つかっていた。当時はそれが何の柱列だったか分からなかったが、合成平面図を検討した結果、それが東西3間(約5m)x南北1間以上の建物跡であることが判明したとのことだ。そして、この建物も他の2棟と同様に軸線を揃えて築かれていたようだ。つまり、この現場付近には3棟あるいはそれ以上の建物が建っていたことになる。
これらの建物群が建っていた場所は東側から派生する扇状地の上に位置する標高75m前後の微高地で「太田微高地」と呼ばれている。3世紀頃、この微高地の北と南には旧河道が流れており、南北方向に存在した谷部分より約2m高い地形だった。また、周辺には纒向遺跡の中でも比較的古い段階(3世紀前半)の遺構が密集して分布する地域があり、多くの遺構が確認されている。
調査区の南側も北側も地山が落ち込んでいて、整地土が厚く盛られていた。建物群はその整地された微高地の西端に位置し、微高地の幅は南北約500m、東側はJR桜井線の線路をまたいで旧上ツ道まで達していたと推定されるという。そうした整地が行われた後に建物群が建てられた。その時期は出土する庄内TまたはU式土器の破片から3世紀の前半と推定される。建物が廃絶されたのは、溝から庄内V式土器が見つかっていることから、3世紀中頃とされ、建物はせいぜい50年ほど存続したにすぎないとのことだ。
では、その建物群の用途はなんだったのか。建物SB−101は住居としては小さすぎ、用途は不明としか言いようがない。柱跡をもとに建物を復元すると、神社形式の建物になるそうだが、3世紀前半に神社が存在したとは思えない。柵で囲まれた特殊な空間から何かの祭祀が行われた場所ではないかと推察できるようだ。3棟の建物をセットに考えても、卑弥呼の宮殿とするには無理があるようだ。
発掘現場で意外な人物に出会った。石原軍団の元メンバーの狩谷俊介さんだ。邪馬台国の魅力に惹かれ、十数年前から纒向遺跡の調査には毎年のように参加しているとのことだ。説明員の腕章をつけて、データを几帳面に書き込んだ手帳を開きながら見学者の質問に親切に応対しておられた。
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| 俳優の狩谷俊介さん |
今回の調査地に対して、狩谷さんは独特の視点をお持ちのようだ。建物の柱跡の間隔から割り出して当時使用されていたのは後漢尺だと推理しておられる。大陸では漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が王莽に滅ぼされた前漢を西暦25年に再興するが、その後漢も184年の黄巾党の乱以後、全国的に乱れて220年には亡びてしまう。
苅谷さんは黄巾党の乱などの戦乱を避けて、東海の島国へ亡命し卑弥呼に仕えた技術集団がいたというのだ。彼らは高度な測量技術を有し、また当時の漢尺をもたらした。そうした彼らによって、建物の軸線を合わせた建物がこの地に築かれたにちがいないという。
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