橿原日記 平成21年3月14日

友史会の遺跡見学会「宇陀を歩く」に参加

古代、阿騎野は神仙境だった?!

特別陳列「宇陀 悠久のとき」
特別陳列「宇陀 悠久のとき」
在、県立橿原考古学研究所(=橿考研)の付属博物館では、今月22日までの会期で特別展示「宇陀 悠久のとき」が開催されている。宇陀市は奈良県宇陀郡の旧大宇陀町・菟田野町・榛原町・室生村が合併して2006年に誕生した新しい都市だが、宇陀市内の埋蔵文化財は古くから注目されていた。その中の優品資料を一堂に展示して、悠久の宇陀の歴史を再認識しようという企画である。

日はこの特別展示の会期中の行事として、「宇陀を歩く」という遺跡見学会が行われることになっていた。予定では大宇陀地区のかぎろひの丘万葉公園や阿騎野・人麻呂公園(中之庄遺跡)、史跡・宇陀松山城跡、松山重要伝統的建造物群保存地区などを見学することになっている。

陀と聞いて、筆者にはすぐに思い浮かぶイメージが二つある。一つは、6年前に大宇陀町中央公民館大ホールで見た壁画のイメージである。「阿騎野の朝」と題する幅5m、高さ2.5mの壁画だった。故中山正実画伯が柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)の次の歌に画材を得て描かれた大作だ。
  ひむがしの 野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ (巻1-48)

故中山正實画伯製作の壁画「阿騎野の朝」
故中山正實画伯製作の壁画「阿騎野の朝」
統天皇6年(西暦692年)、草壁皇子の遺児である軽皇子(683-707、後の文武天皇)の一行が、狩を行うためこの地を訪れ、野宿した。軽皇子はまだ10歳の少年だった。一行に同行した宮廷歌人の人麻呂は、狩りの日の朝、払暁の雄大な阿騎野の情景をこの歌に詠みこんだとされている。

かぎろひ」については、さまざまな説がある。しかし、大宇陀町観光協会は”厳冬のよく晴れた早朝、太陽が水平線上に現れる約1時間前に太陽光線のスペクトルにより現れる最初の陽光”という説を採用している。 壁画に描かれた馬上の人物は人麻呂である。背景に描かれた高い山は、奈良県と三重県の境界にそびえる標高1248mの高見山とのことだ。

山画伯は、東の山々の稜線を白く染めやがて赤みを増してきた空を馬上から眺めていた人麻呂が、ふと振り返って西の空にかかる残月を仰ぎ見た姿をイメージされて、この作品を仕上げられたのであろう。人麻呂の歌が醸し出すイメージが見事に壁画に再現されていて、宇陀と聞くと、筆者は先ずこの壁画の構図が目に浮かぶ。

かぎろひの丘万葉公園
かぎろひの丘万葉公園 (2003/4/18撮影)
山画伯がこの作品を制作されたのは、昭和15年(1940)のことだった。しかも、大宇陀町中央公民館に飾るために制作された壁画ではなかった。昭和15年と言えば、戦前は皇紀2600年として記念すべき節目の年だった。その年、橿原神宮外苑内に記念事業として大和国史館(橿原考古学研の前身)が建設され、同館の万葉室の壁を飾る壁画の制作が中山画伯に依頼された。昭和52年に大和国史館が改築されることになり、昭和57年(1982)2月に壁画が奈良県から旧大宇陀町に寄贈され、現在は中央公民館の所蔵になっている。

者が思い描くもう一つの光景は、時代も時期も違うが、やはり菟田野(宇陀野)で色とりどりの衣装を身にまとって馬を疾駆させながら鹿狩りを楽しむ飛鳥人の姿である。時は人麻呂がかぎろひを見た狩りの日から80年ばかりさかのぼる。『日本書紀』によれば、推古天皇19年(西暦611年)の夏5月5日、薬猟(くすりがり)が菟田野(宇陀野)で行われた。参加者は夜明け前に藤原池のほとりに集合し、曙に出発した。この日、諸臣はみな冠位十二階の冠と同じ色の服を着て参加したという。

又兵衛桜 (2003/4/18撮影)
又兵衛桜 (2003/4/18撮影)
原池の位置は特定されていないが、おそらく明日香村小原付近にあっただろうと推定されている。どのようなルートで菟田野に出たのかも不明である。多分、現在の桜井市高家から倉橋に出て、西山岳と音羽山・経ケ塚山の間の谷沿いの山道を通り、又兵衛桜あたりに下りて来たものと思われる。一行の中には、聖徳太子はもちろん、遣隋使の大役を果たした小野妹子(おののいもこ)や太子の股肱の臣だった秦河勝(はたのかわかつ)らも、参加してたにちがいない。

位十二階とは8年前に聖徳太子が定めた官人の位階制度で、儒教の徳目である徳・仁・礼・信・義・智を大小にわけて十二階とした。位階の違いは徳の紫以下、青・赤・黄・白・黒の色であらわし、大小の冠の違いは色の濃淡で示し、身分の差がひと目で分かるようにした。したがって、『日本書紀』の記述が事実なら、参加者はこれらの色の狩着をまとった実に華やかな一団だったはずである。

の頃の薬猟とは、鹿の若角をとる猟のことをいう。薬猟が変じて薬草採りを表すようになるのは、もっと後の時代になってからである。一般には、このとき女性たちも参加して薬草を摘んだとされるが、史書からはそのような事実があったかどうか確認できない。鹿の若角は鹿茸(ろくじょう)と呼ばれ、陰乾しにして補強壮剤として用いられた。

阿騎野人麻呂公園
阿騎野人麻呂公園 (2003/4/18撮影)
月5日に薬猟を行なうのは、当時の年中行事の一つになっていたものと思われる。実は、推古19年の薬猟は、史書に記載された最初の事例である。『日本書紀』は、翌年の推古天皇20年には羽田(現在の高市郡高取町)で、さらに推古天皇22年にも、5月5日に薬猟を行なったと伝えている。だが、最初の薬猟の場所が、なぜ菟田野だったのか。また、真冬の極寒の日に年端もかない軽皇子が、なぜ阿騎野に狩りに出かけたのか。阿騎野とは宇陀野のことである。

いぶんと以前から、そのことに疑問を持っていた。しかし、今回の遺跡見学会に参加したことで、ようやくその疑問に対する回答を得た。結論から先に言えば、古代の人々にとって吉野が神仙境であったように、阿騎野もまた神仙境だったようだ。



悪天候に見舞われた遺跡見学会

跡見学会が行われた本日、あいにくと悪天候の朝を迎えた。昨晩から豪雨と強風の猛烈な春の嵐が日本列島を襲い、近畿地方ではその余波が本日の午前中一杯は続くとの予報だった。予報は的中し、一晩中降り続いた雨は朝になっても止みそうもない。8時過ぎまで、何回も窓を開けて雨空を見上げ、見学会に参加しようかどうか迷っていた。見学予定地は以前に訪れて知っていたが、宇陀松山城だけはまだ訪れたことがなく興味があった。結局、意を決して雨用の完全装備で出かけることにした。

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大ホールの壁画「阿騎野の朝」
合場所は大宇陀町中央公民館、集合時間は午前10時と決められていた。近鉄「榛原」駅前から9時10分に出発する「大宇陀」行くのバスに乗ったが、乗客のほとんどは見学会参加者だった。バスはワイパーを激しく左右に振って降りかかかる雨滴を払いながら、宇田川沿いの国道370号線をひた走った。バスの進行方向とは逆に流れる宇田川が、増水し濁っていた。

しぶりの訪れた大宇陀町中央公民会の大ホールには、6年前に見た「阿騎野の朝」の壁画が展示されていた。現場見学に先立つ説明会は10時ちょうどに開始された。演壇に立たれたのは宇陀市教育委員会の辻本宗久氏である。

本氏は、午前中に見学するかぎろひの丘万葉公園と阿騎野・人麻呂公園(中之庄遺跡)について概括されたが、氏の説明で特に興味を引いたのは以下のの点だった。


見学地を解説する辻本宗久氏
見学地を解説する辻本宗久氏
陀で我が国で初めての薬猟が行われ、その後は宇陀の地が当時の王権の猟場、すなわち禁野(しめの)とされてきた。その理由として、辻本氏は宇陀の自然の豊かさを指摘された。この地には、さまざまな鳥獣が生息し、多種多様の薬草が繁茂していた。そのため、大和王権は5世紀後半には宍戸部(ししどべ)や鳥養部(とりかいべ)などを宇陀に設置していた。

かし、大和王権が薬猟のために宇陀を禁野としてきた背景には、もう一つ、宇陀と神仙思想の結びつきがあるという。そのことを証明する文献史料として、次の二つをあげられた。一つは『日本書紀』の皇極3年(644)3月の記述である。菟田郡の押坂直(おしさかのあたい)という人物が子供を連れて菟田山に入り、生えていた紫色のキノコを大量に採ってきた。村の人々は毒キノコではないかと疑ったが、二人はこのキノコを食べてしまった。しかし二人は病気もせずに長生きしたという。そのキノコはキノコではなく芝草、すなわち今で言う霊芝で、神仙の効能を持つ仙薬ではなかったかとされている。

かぎろひの丘万葉公園に向かう参加者たち
かぎろひの丘万葉公園に向かう参加者たち
日本霊異記』には、宇太(うだ)郡の漆部里(うるしべのさと)の女性が日々水浴し、宇陀の山野の野草を摘んで食べていたところ、孝徳天皇の時代に仙人になって空を飛んだという。こうした文献史料から、7世紀代には宇陀の地が神仙境と意識されていたと思われ、その要因として宇陀に産する水銀(丹砂)の存在が考えられるという。

陀が水銀の特産地であったことは、『万葉集』の次の歌からも分かる。
大和の 宇陀の真赤土(まはに)の さ丹著かば そこもか人の 吾を言なさむ (巻7-1376)
真赤土(まはに)とは、辰砂(しんしゃ)すなわち水銀のことであり、宇陀は奈良時代の辰砂の主要産地だった。この地方の辰砂の採取は、4〜5世紀にまでさかのぼり、丹生氏が採取していたという。当時は露天掘りだったが、坑道採掘が6世紀後半に秦氏によって始められ、宇陀の地は秦氏の管轄下におかれた。

かぎろひの丘万葉公園の万葉歌碑
かぎろひの丘万葉公園の万葉歌碑
老不死の妙薬とされる仙薬の主成分は、水銀である。人間は猛毒である水銀を直接摂取することはできない。しかし、水銀を産する土地の水を飲み、鳥獣の肉を食べ、野草や山菜を食することで、間接的に水銀を摂取することが可能である。そのため、当時の王権は神仙の効用がある鳥獣や野草を独占的に採取するため、この地域を禁野(しめの)に指定し薬猟を行ってきた、と辻本氏は推測される。納得できる推論だった。


本氏の説明で、もう一点興味を引いたことがある。現在の阿騎野・人麻呂公園は、1995年に中之庄遺跡で実施した発掘調査で検出された飛鳥時代の建物群を全面保存するため、史跡公園として整備したものである。調査時には掘立柱建物11棟以上、竪穴式住居3棟、塀、石敷溝、苑池状遺構などが見つかり、現在は掘立柱建物2棟と縦穴住居1棟が復元されている。

中之庄遺跡のSB0掘立柱建物
中之庄遺跡のSB01掘立柱建物
ころで、復元されているSB01と呼ばれる掘立柱建物は、桁行5間、梁間3間の規模を持ち、検出された建物群の中では最大であり、しかも正方位、すなわち建物の造営方位を真北に向けるように建てられている。当時は正方位の建物は寺院や王宮の建物に限定されていた。そのため、SB01や周囲に付属する建物群、苑池状遺構の配置を考慮すると、この場所に宮的な施設の一部が存在した可能性が強いという。その時期は、出土した土器から7世紀後半から末に位置づけられるとのことだ。

本氏は、現在の那須の御用邸のような天皇家の施設があったものと推測されておられる。しかも発掘されたのはその施設の一部であり、施設の本体は当時すでに建設されていた体育館の地下に存在したと思われるが、今や調査は不可能とのことだ。

こで、辻本氏は持統天皇6年(西暦692年)に阿騎野に狩りに訪れた軽皇子一行について、興味深い推論を展開された。『日本書紀』には宇陀の地を「菟田我城」(うだのあき)と表示され、天武・持統天皇にとって因縁浅からぬ土地であるという。先ず、西暦672年の陰暦6月24日、吉野で挙兵した当時の大海人皇子の一行30数名は、吉野宮を脱出して東国に向かった。一行には皇后(後の持統天皇)やその一粒種の草壁皇子も加わっていた。一行が最初に休息して食事を取ったのが、菟田我城とされている。

阿騎野・人麻呂公園の人麻呂像
阿騎野・人麻呂公園の人麻呂像
の後、壬申の乱に勝利した天武天皇は8年後の天武9年(680)3月、草壁皇子を伴って菟田我城へ行幸している。実は前年の5月、天武天皇は皇后や諸皇子を伴って吉野に行幸し、そこで、草壁皇子立太子の布石として諸皇子に吉野の盟を誓わせている。菟田我城へ行幸は、単なる狩猟目的ではなく、草壁皇子に壬申の乱当時を思い起こさせ、王位継承者としての自覚を促すためだったと推測されている。

が、天武天皇亡き後その皇位を継承するはずだった草壁皇子は持統天皇3年(689)、7歳の幼い軽皇子を残して死去してしまう。持統天皇6年の阿騎野の狩りは、孫の軽皇子に皇位を継承させるべく繋ぎの天皇として即位した女帝の強い意志だったであろう。父親同様に病気がちだった孫が少しでも強健になって欲しいとの願いを込めて、女帝は様々な思い出がある神仙境へ一行を送り出したはずである。

ころで、上記の中山画伯は「阿騎野の朝」を制作するにあたって様々な考証をされ、東京天文台技師の助力を得て、柿本人麻呂がかげろひを見たのは、持統6年11月17日午前6時50分の日の出約一時間前と推定されたという。通説では、一行は前の晩、阿騎野で野宿したことになっている。だが、辻本氏は疑問を挟まれた、かげろひが出現するのは、氷点下5度から6度に冷え込む極寒の朝である。次期天皇とされる10歳の少年をそんな冬場に野宿させるだろうか、と言うのだ。

武天皇が若い草壁皇子を伴って菟田我城に行幸した680年頃ころには、中之庄遺跡から検出された飛鳥時代の皇室の施設はすでに存在したであろう。そうであれば、その施設を利用しないはずはない。そうであれば、人麻呂が詠んだかぎろひの歌は、狩りの朝に野宿の現場で詠んだのではなく、別の機会に何かの催しで詠んだ可能性が高まる。たとえば蒲生野の薬猟における大海人皇子と額田王の相聞歌が、宴会の戯れ歌として詠まれたように・・・


本氏の説明を受けた後、参加者たちは雨傘を広げて「かぎろひの丘万葉公園」に上った。公園内の東屋で雨宿りしながら、そこでも辻本氏の補足説明を受けた。雨脚はいっこうに弱まらず、皇紀2600年の記念事業にちなんで建てられた佐々木信綱氏の揮毫による万葉歌碑の見学もそこそこに丘を下りた。近くの阿騎野・人麻呂公園では、中山画伯の壁画に描かれた人麻呂を模して作られた石像の周りで一通りの説明を受けたが、降雨に寒さも加わって参加者は足早に中央公民館に戻った。そこで、午後からの予定が気になりながら昼食を取った。雨が続くようだと、菟田松山城の見学は山道がぬかるんで危険だから中止とのことだった。



松山重伝建地区を通って菟田松山城跡に登る

跡が起きた、としか言いようのない天候の激変ぶりだった。あれほど切れ目なく降り続いていた午前中の雨が、昼食が終わって12時15分に中央公民館を出発する頃には、ピタリと止んでいた。そればかりか、松山重要伝統的建造物群保存地区を通って松山城趾に向かう間に、雲が切れて日差しが降り注ぐようになった。気象庁の予報もこれだけ的確に当たることがあるのかと、変な感心の仕方をした。

松山重伝建地区案内図
松山重伝建地区案内図
成20年6月現在,文化財保護法によって重要伝統的建造物群保存地区に選定されている場所は、71市町村で83地区あるそうだ。奈良県にはそのうちの2地区がある。橿原市の今井町と菟田市の松山重要伝統的建造物群保存地区、略して松山重伝建地区である。

在の松山地区は、戦国時代の国人領主・秋山氏が本拠地とした秋山城の城下町としてスタートした。天正13年(1585)、豊臣秀吉の異父弟の秀長が大和郡山に入部し、秋山氏は伊賀に追放される。その後、相次いで入封してきた秀吉・秀長配下の豊臣系大名によって城の大改修が行われ、それと平行して城下町の拡大整備が行われた。関ヶ原の戦いのあと、福島孝治が31000石の宇陀の領主になった。彼は改易されるまでの15年間、この地を治めた。その間に松山城を完成させ、現在の松山町の骨格を形作ったと言われている。

伝統的町屋の正面に配した平格子や出格子
伝統的町屋の正面に配した平格子や出格子
和元年(1615)、大阪夏の陣で徳川方が勝利すると、福島孝治は改易され松山城も破却されて、この地区は織田家の支配を受けるようになる。しかし、元禄7年(1694)に織田家が国替えになり、その後は松山町は徳川幕府の天領となり、明治維新を迎える。、

山城が破却されても、交通の要衝にあった松山町は地域経済の中心として栄え、活発な経済活動を示す町屋が数多く建てられた。そのため、松山町は「宇陀千軒」とか「松山千家」と呼ばれ、江戸時代を通して、活況を呈した。ちなみに、織田藩の頃の人口は3000人あまり、家の数は1500近くあり、酒問屋だけでも二十数軒あったという。明治時代になっても宇陀郡役所や裁判所がおかれるなど地域の中心として発展してきた歴史をもつ。

薬の館(薬問屋だった旧細川家)
銅板葺きの看板を掲げた薬の館
(薬問屋だった旧細川家)
在の松山地区は、各時代の歴史と文化が重層的に堆積している町であると言ってよい。近世から昭和前期に建てられた意匠的に優れた町屋をはじめ、貴重な建造物が文化遺産として残っている。そのため、松山城跡がある古城山の西側と宇陀川との間の東西約340m、南北約1470mの範囲が、平成18年(2006)7月に松山重伝建地区として指定された。

陀川に沿って緩やかにカーブを描きながら南北に伸びる二本の通りと、それをつなぐ東西の通りで構成される松山地区は、伝統的な町屋の建物が多く、散策するには趣のある空間である。その道筋は江戸時代の初めに町割が行われた当時の道路とほとんど変わっていない。道路に面した伝統的な町屋の構えは、間口が広いのが目立つ。


松山西口関門
松山西口関門
跡・宇陀松山城跡を見学するために最初に訪れたのは、国史跡に指定されている松山西口関門である。松山という城下町は、宇多川を外堀として、川の東側の河岸段丘に作られた。この西口関門は松山城下町の虎口(こぐち、出入口)であり、ここから城下町のメインストリートである大手筋が春日門まで続いていた。

西口関門は、福島孝治が宇陀松山城を居城したころの建築物として残っている唯一のものだそうだ。切妻屋根を持ち控柱に小屋根を設けた高麗門(こうらいもん)であり、一般には「黒門」と呼ばれている。


西口関門を入ると、敵の侵入を妨げるため道は意識的にコの字に曲がって作られていた。その道をだとると、恵比寿神社の前に出る。恵比寿神社の前から東に向かって一直線に伸びている道が現在の本町通りであり、かっての大手筋である。松山町の町割はこの道を起点として行われた。

恵比寿神社から見た本町通り 春日門東櫓跡
恵比寿神社から見た本町通り 春日門東櫓跡

比寿神社から本町通りを眺めると、正面に青い屋根の家が見える。その後ろに春日門の跡がある。町屋地区と家臣団居住区を分かつ虎口(こぐち)である。春日門の跡には現在、虎口を形成していた東西二つの石垣積みの櫓台が残っている。

かし、これらは17世紀後半の宇陀松山藩(織田藩)時代に築かれた向屋敷と上屋敷の造営の際に再構築されたものであることが判明している。宇陀松山城の春日門は、現在の東西櫓台の間を通り抜け、左折れしたところに位置していたようだ。

春日神社の参道 山頂の宇陀松山城(秋山城)へのアクセス
春日神社の参道 山頂の宇陀松山城(秋山城)へのアクセス

日門から春日神社の参道を進み、神社の石段の手前で脇道に入る。その脇道が杉木立の登城道に続いている。杉木立は間伐もされ枝打ちもされて美しい杉山だが、その中を貫く登城道は狭く険しい。それに加えて昨夜来からの雨で、道に散乱した枯れ落ち葉が濡れて、さながら泥道を行くようなものである。足下が滑らないように気遣いながら登る15分ほどの山道は、けっこう厳しかった。

山氏が築いた秋山城やその後大改修された松山城への登城も、このような細い道では馬や駕籠での登城もままならないのでは、と思えた。後で案内役の辻本氏に質問すると、当時は幅6〜7mの立派な登城道が築かれていたとのことだ。


宇陀松山城(秋山城)跡測量図(*)
宇陀松山城(秋山城)跡測量図(*)

山地区の東にそびえるのは標高457mの古城山だが、町屋付近からの比高差はせいぜい120〜130mほどである。その山頂に城を築いたのは、南北朝の内乱期に付近を地盤として活躍していた豪族秋山氏である。しかし、秋山氏の居城はこの山から南に下る尾根上に築かれ、山頂に築かれたのは詰めの城だった。この段階の城郭を阿紀山城、または秋山城という。

正13年(1585)、紀伊・和泉・大和を支配する100万石の大大名にのし上がった豊臣秀長は、大和郡山城に入ると、高取城を詰めの城とした。その前後は秀吉と家康が小牧・長久手で戦っており、秋山城は戦略上重要な位置を占めた。そのため、秀吉・秀長配下の豊臣系大名(伊藤義之、加藤光泰、羽田政親)が次々と秋山城に送り込まれ、高取城と並ぶ支城とするため城の大改修が行われている。

城の南西部に築かれた雀門跡
城の南西部に築かれた雀門跡
600年の関ヶ原の戦い以後は、この城は逆に大阪城包囲網の重要な意味を持つようになる。そのため、福島孝治が領主に封じられると、さらに城の改修や城下の町割を進めている。こうして織豊期から江戸初期にかけて大改修された城は、秋山城とは区別して宇陀秋山城と呼んでいる。

高差わずか120mほどの悪路に悪戦苦闘することおよそ15分、前方の山の稜線にようやく石垣が見えた。城の南西側に築かれた雀門の跡だ。雀門は宇陀松山城の要となる虎口の一つで、本丸はもちろんのこと、本丸の西下にある曲輪(くるわ)や南下にある腰曲輪(くるわ)と城外を結ぶ門になっている。門の跡は上下二段に構成され、上段から南に折れると隅櫓があり、北に折れると50mほど先の本丸西側の虎口に続いている。まっすぐ進むと、腰曲輪から本丸南東部の虎口に向かう。


山城趾の本体部分の規模は東西400m 南北250mの範囲にあり、中心部分の約2ヘクタールは市が買収して樹木が伐採されている。この部分が石作りで築かれた城郭部分である。雀門跡を抜けて北へ進むと本丸西側の虎口があり、その上の広場が本丸跡である。大きな木が二本生えている根本付近で、現在発掘調査が進められていてブルーシートで覆われていた。本丸に建っていた建物群の屋根に葺かれた瓦が、多数見つかっているとのことだ。

本丸跡付近の発掘調査現場 同左
本丸跡付近の発掘調査現場 同左

丸は城郭の中で一番大きい曲輪であり、謁見などの儀式や公の宴会といった表向きの政務を行なう建物が建っていた。発掘調査の結果、5つくらいの建物があったことが分かっている。一方、領主の日常生活の場は本丸跡から東側の一段高い場所だった。そこが領主の奥向きの御殿である天守閣が建っていた。

天守閣があった高台
天守閣があった高台
んな山頂で生活するのは、気温が氷点下に下がる冬場は大変だっただろうと思われる。しかし、天守閣がそびえていた場所からは、四方を一望のもとに見渡せる。敵ばかりでなく味方の裏切りで何時襲撃を受けてもおかしくない乱世だったことを考えれば、こうしたスポットが最も安全だったのかもしれない。

守閣があった場所に、不思議な柱が4本立っていた。聞いてみると、この山の持ち主が築いた休憩室の残骸だそうだ。その場所に立つと、榛原駅の裏のマンション群が見えた。天気さえ良ければ、さらに遠くまで見通せるとのことだ。

山頂から榛原方面を望む
山頂から榛原方面を望む


阪夏の陣が終わった元和元年(1615)、福島孝治が改易になり、松山城は破却されるになった。その役を担ったのが、茶人、建築家、作庭家として知られる小堀遠江守政一である。遠江守に任じられた事から、一般には小堀遠州の名で知られている。『徳川実記』には、元和元年 小堀遠州と中坊左近が来て城を壊したことが記録されている。

は、小堀遠州の母は近世城郭の名築城家として知られる藤堂高虎の養女である。母方の祖父から遠州は様々な築城技術を学んだ。だが、松山城に関しては、祖父とは逆に徹底的に城を破壊した。地上の建築物を撤去するだけでなく、石垣も徹底的に取り壊した。発掘してみると、最下層から順に建物の瓦、石垣石、大量の石垣裏詰め栗石、腐植土が2m以上にわたって蓄積しているという。

を破却することを「城割」という。小堀遠州が城割を行ったことは分かっていたが、その実態は不明だった。ところが、松山城の発掘調査中に城割の様子を記した遠州自筆の書簡が神田の古本屋で発見された。それにより、松山城の城割の実態が明らかになったとのことだ。

陀松山城は、元和元年の城割によってうち捨てられ、400年近い年月の間、腐植土の下で冷凍保存されてきた。その他の近世城郭は自然災害などで、大なり小なり後世に人手で修理されている。そうしたことがなかったため、この城は織豊期から江戸初期の城郭を研究する貴重な遺構となった。国もそのことを認め、古い町並みとセットで史跡として認定している。



(*)大宇陀町教育委員会作成「宇陀松山城(秋山城)跡1-虎口の調査-」添付図から抜粋
2009/03/16作成 by pancho_de_ohsei return