悪天候に見舞われた遺跡見学会遺跡見学会が行われた本日、あいにくと悪天候の朝を迎えた。昨晩から豪雨と強風の猛烈な春の嵐が日本列島を襲い、近畿地方ではその余波が本日の午前中一杯は続くとの予報だった。予報は的中し、一晩中降り続いた雨は朝になっても止みそうもない。8時過ぎまで、何回も窓を開けて雨空を見上げ、見学会に参加しようかどうか迷っていた。見学予定地は以前に訪れて知っていたが、宇陀松山城だけはまだ訪れたことがなく興味があった。結局、意を決して雨用の完全装備で出かけることにした。
久しぶりの訪れた大宇陀町中央公民会の大ホールには、6年前に見た「阿騎野の朝」の壁画が展示されていた。現場見学に先立つ説明会は10時ちょうどに開始された。演壇に立たれたのは宇陀市教育委員会の辻本宗久氏である。 辻本氏は、午前中に見学するかぎろひの丘万葉公園と阿騎野・人麻呂公園(中之庄遺跡)について概括されたが、氏の説明で特に興味を引いたのは以下のの点だった。
しかし、大和王権が薬猟のために宇陀を禁野としてきた背景には、もう一つ、宇陀と神仙思想の結びつきがあるという。そのことを証明する文献史料として、次の二つをあげられた。一つは『日本書紀』の皇極3年(644)3月の記述である。菟田郡の押坂直(おしさかのあたい)という人物が子供を連れて菟田山に入り、生えていた紫色のキノコを大量に採ってきた。村の人々は毒キノコではないかと疑ったが、二人はこのキノコを食べてしまった。しかし二人は病気もせずに長生きしたという。そのキノコはキノコではなく芝草、すなわち今で言う霊芝で、神仙の効能を持つ仙薬ではなかったかとされている。
宇陀が水銀の特産地であったことは、『万葉集』の次の歌からも分かる。
辻本氏の説明で、もう一点興味を引いたことがある。現在の阿騎野・人麻呂公園は、1995年に中之庄遺跡で実施した発掘調査で検出された飛鳥時代の建物群を全面保存するため、史跡公園として整備したものである。調査時には掘立柱建物11棟以上、竪穴式住居3棟、塀、石敷溝、苑池状遺構などが見つかり、現在は掘立柱建物2棟と縦穴住居1棟が復元されている。
辻本氏は、現在の那須の御用邸のような天皇家の施設があったものと推測されておられる。しかも発掘されたのはその施設の一部であり、施設の本体は当時すでに建設されていた体育館の地下に存在したと思われるが、今や調査は不可能とのことだ。 ここで、辻本氏は持統天皇6年(西暦692年)に阿騎野に狩りに訪れた軽皇子一行について、興味深い推論を展開された。『日本書紀』には宇陀の地を「菟田我城」(うだのあき)と表示され、天武・持統天皇にとって因縁浅からぬ土地であるという。先ず、西暦672年の陰暦6月24日、吉野で挙兵した当時の大海人皇子の一行30数名は、吉野宮を脱出して東国に向かった。一行には皇后(後の持統天皇)やその一粒種の草壁皇子も加わっていた。一行が最初に休息して食事を取ったのが、菟田我城とされている。
だが、天武天皇亡き後その皇位を継承するはずだった草壁皇子は持統天皇3年(689)、7歳の幼い軽皇子を残して死去してしまう。持統天皇6年の阿騎野の狩りは、孫の軽皇子に皇位を継承させるべく繋ぎの天皇として即位した女帝の強い意志だったであろう。父親同様に病気がちだった孫が少しでも強健になって欲しいとの願いを込めて、女帝は様々な思い出がある神仙境へ一行を送り出したはずである。 ところで、上記の中山画伯は「阿騎野の朝」を制作するにあたって様々な考証をされ、東京天文台技師の助力を得て、柿本人麻呂がかげろひを見たのは、持統6年11月17日午前6時50分の日の出約一時間前と推定されたという。通説では、一行は前の晩、阿騎野で野宿したことになっている。だが、辻本氏は疑問を挟まれた、かげろひが出現するのは、氷点下5度から6度に冷え込む極寒の朝である。次期天皇とされる10歳の少年をそんな冬場に野宿させるだろうか、と言うのだ。 天武天皇が若い草壁皇子を伴って菟田我城に行幸した680年頃ころには、中之庄遺跡から検出された飛鳥時代の皇室の施設はすでに存在したであろう。そうであれば、その施設を利用しないはずはない。そうであれば、人麻呂が詠んだかぎろひの歌は、狩りの朝に野宿の現場で詠んだのではなく、別の機会に何かの催しで詠んだ可能性が高まる。たとえば蒲生野の薬猟における大海人皇子と額田王の相聞歌が、宴会の戯れ歌として詠まれたように・・・ 辻本氏の説明を受けた後、参加者たちは雨傘を広げて「かぎろひの丘万葉公園」に上った。公園内の東屋で雨宿りしながら、そこでも辻本氏の補足説明を受けた。雨脚はいっこうに弱まらず、皇紀2600年の記念事業にちなんで建てられた佐々木信綱氏の揮毫による万葉歌碑の見学もそこそこに丘を下りた。近くの阿騎野・人麻呂公園では、中山画伯の壁画に描かれた人麻呂を模して作られた石像の周りで一通りの説明を受けたが、降雨に寒さも加わって参加者は足早に中央公民館に戻った。そこで、午後からの予定が気になりながら昼食を取った。雨が続くようだと、菟田松山城の見学は山道がぬかるんで危険だから中止とのことだった。 |
松山重伝建地区を通って菟田松山城跡に登る奇跡が起きた、としか言いようのない天候の激変ぶりだった。あれほど切れ目なく降り続いていた午前中の雨が、昼食が終わって12時15分に中央公民館を出発する頃には、ピタリと止んでいた。そればかりか、松山重要伝統的建造物群保存地区を通って松山城趾に向かう間に、雲が切れて日差しが降り注ぐようになった。気象庁の予報もこれだけ的確に当たることがあるのかと、変な感心の仕方をした。
現在の松山地区は、戦国時代の国人領主・秋山氏が本拠地とした秋山城の城下町としてスタートした。天正13年(1585)、豊臣秀吉の異父弟の秀長が大和郡山に入部し、秋山氏は伊賀に追放される。その後、相次いで入封してきた秀吉・秀長配下の豊臣系大名によって城の大改修が行われ、それと平行して城下町の拡大整備が行われた。関ヶ原の戦いのあと、福島孝治が31000石の宇陀の領主になった。彼は改易されるまでの15年間、この地を治めた。その間に松山城を完成させ、現在の松山町の骨格を形作ったと言われている。
松山城が破却されても、交通の要衝にあった松山町は地域経済の中心として栄え、活発な経済活動を示す町屋が数多く建てられた。そのため、松山町は「宇陀千軒」とか「松山千家」と呼ばれ、江戸時代を通して、活況を呈した。ちなみに、織田藩の頃の人口は3000人あまり、家の数は1500近くあり、酒問屋だけでも二十数軒あったという。明治時代になっても宇陀郡役所や裁判所がおかれるなど地域の中心として発展してきた歴史をもつ。
宇陀川に沿って緩やかにカーブを描きながら南北に伸びる二本の通りと、それをつなぐ東西の通りで構成される松山地区は、伝統的な町屋の建物が多く、散策するには趣のある空間である。その道筋は江戸時代の初めに町割が行われた当時の道路とほとんど変わっていない。道路に面した伝統的な町屋の構えは、間口が広いのが目立つ。
西口関門は、福島孝治が宇陀松山城を居城したころの建築物として残っている唯一のものだそうだ。切妻屋根を持ち控柱に小屋根を設けた高麗門(こうらいもん)であり、一般には「黒門」と呼ばれている。 西口関門を入ると、敵の侵入を妨げるため道は意識的にコの字に曲がって作られていた。その道をだとると、恵比寿神社の前に出る。恵比寿神社の前から東に向かって一直線に伸びている道が現在の本町通りであり、かっての大手筋である。松山町の町割はこの道を起点として行われた。
恵比寿神社から本町通りを眺めると、正面に青い屋根の家が見える。その後ろに春日門の跡がある。町屋地区と家臣団居住区を分かつ虎口(こぐち)である。春日門の跡には現在、虎口を形成していた東西二つの石垣積みの櫓台が残っている。 しかし、これらは17世紀後半の宇陀松山藩(織田藩)時代に築かれた向屋敷と上屋敷の造営の際に再構築されたものであることが判明している。宇陀松山城の春日門は、現在の東西櫓台の間を通り抜け、左折れしたところに位置していたようだ。
春日門から春日神社の参道を進み、神社の石段の手前で脇道に入る。その脇道が杉木立の登城道に続いている。杉木立は間伐もされ枝打ちもされて美しい杉山だが、その中を貫く登城道は狭く険しい。それに加えて昨夜来からの雨で、道に散乱した枯れ落ち葉が濡れて、さながら泥道を行くようなものである。足下が滑らないように気遣いながら登る15分ほどの山道は、けっこう厳しかった。 秋山氏が築いた秋山城やその後大改修された松山城への登城も、このような細い道では馬や駕籠での登城もままならないのでは、と思えた。後で案内役の辻本氏に質問すると、当時は幅6〜7mの立派な登城道が築かれていたとのことだ。
松山地区の東にそびえるのは標高457mの古城山だが、町屋付近からの比高差はせいぜい120〜130mほどである。その山頂に城を築いたのは、南北朝の内乱期に付近を地盤として活躍していた豪族秋山氏である。しかし、秋山氏の居城はこの山から南に下る尾根上に築かれ、山頂に築かれたのは詰めの城だった。この段階の城郭を阿紀山城、または秋山城という。 天正13年(1585)、紀伊・和泉・大和を支配する100万石の大大名にのし上がった豊臣秀長は、大和郡山城に入ると、高取城を詰めの城とした。その前後は秀吉と家康が小牧・長久手で戦っており、秋山城は戦略上重要な位置を占めた。そのため、秀吉・秀長配下の豊臣系大名(伊藤義之、加藤光泰、羽田政親)が次々と秋山城に送り込まれ、高取城と並ぶ支城とするため城の大改修が行われている。
比高差わずか120mほどの悪路に悪戦苦闘することおよそ15分、前方の山の稜線にようやく石垣が見えた。城の南西側に築かれた雀門の跡だ。雀門は宇陀松山城の要となる虎口の一つで、本丸はもちろんのこと、本丸の西下にある曲輪(くるわ)や南下にある腰曲輪(くるわ)と城外を結ぶ門になっている。門の跡は上下二段に構成され、上段から南に折れると隅櫓があり、北に折れると50mほど先の本丸西側の虎口に続いている。まっすぐ進むと、腰曲輪から本丸南東部の虎口に向かう。 松山城趾の本体部分の規模は東西400m 南北250mの範囲にあり、中心部分の約2ヘクタールは市が買収して樹木が伐採されている。この部分が石作りで築かれた城郭部分である。雀門跡を抜けて北へ進むと本丸西側の虎口があり、その上の広場が本丸跡である。大きな木が二本生えている根本付近で、現在発掘調査が進められていてブルーシートで覆われていた。本丸に建っていた建物群の屋根に葺かれた瓦が、多数見つかっているとのことだ。
本丸は城郭の中で一番大きい曲輪であり、謁見などの儀式や公の宴会といった表向きの政務を行なう建物が建っていた。発掘調査の結果、5つくらいの建物があったことが分かっている。一方、領主の日常生活の場は本丸跡から東側の一段高い場所だった。そこが領主の奥向きの御殿である天守閣が建っていた。
天守閣があった場所に、不思議な柱が4本立っていた。聞いてみると、この山の持ち主が築いた休憩室の残骸だそうだ。その場所に立つと、榛原駅の裏のマンション群が見えた。天気さえ良ければ、さらに遠くまで見通せるとのことだ。
大阪夏の陣が終わった元和元年(1615)、福島孝治が改易になり、松山城は破却されるになった。その役を担ったのが、茶人、建築家、作庭家として知られる小堀遠江守政一である。遠江守に任じられた事から、一般には小堀遠州の名で知られている。『徳川実記』には、元和元年 小堀遠州と中坊左近が来て城を壊したことが記録されている。 実は、小堀遠州の母は近世城郭の名築城家として知られる藤堂高虎の養女である。母方の祖父から遠州は様々な築城技術を学んだ。だが、松山城に関しては、祖父とは逆に徹底的に城を破壊した。地上の建築物を撤去するだけでなく、石垣も徹底的に取り壊した。発掘してみると、最下層から順に建物の瓦、石垣石、大量の石垣裏詰め栗石、腐植土が2m以上にわたって蓄積しているという。 城を破却することを「城割」という。小堀遠州が城割を行ったことは分かっていたが、その実態は不明だった。ところが、松山城の発掘調査中に城割の様子を記した遠州自筆の書簡が神田の古本屋で発見された。それにより、松山城の城割の実態が明らかになったとのことだ。 宇陀松山城は、元和元年の城割によってうち捨てられ、400年近い年月の間、腐植土の下で冷凍保存されてきた。その他の近世城郭は自然災害などで、大なり小なり後世に人手で修理されている。そうしたことがなかったため、この城は織豊期から江戸初期の城郭を研究する貴重な遺構となった。国もそのことを認め、古い町並みとセットで史跡として認定している。 |