古代の勇族・葛城氏以前に葛城山麓に盤踞していた鴨族
奈良県と大阪府を区切る葛城・金剛連山は、北に標高970mの葛城山、南に標高1125mの金剛山がそびえている。古くは、この二つの山を合わせて「葛城山」と呼んでいたそうだ。今年の1月、1週間ほど緊急入院して、病院のベッドからその葛城山を毎日見て暮らした。山の稜線に雪雲が次々と現れて、ゆっくりと大和盆地の上に広がってくる。その様子を飽きることなく眺める日々だった。 その時、葛城山の東麓に住んでいた古代人たちに思いを馳せ、彼らはこうした雲をどのように眺めていたか想像してみた。背後の山から湧き出て東へ流れ行く雲は、おそらく彼らの畏敬の対象だったに違いない。彼らのほとんどは山の向こうに、広大な河内平野が広がっていることなど知らなかった。雲は、山の神々が吐き出す吐息に思えたであろう。
つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯(をだて) 倭(やまと)を過ぎ 我が見が欲(ほ)し国は 葛城高宮 吾家(わぎへ)のあたり 磐之媛が”我が見が欲(ほ)し国は葛城高宮”と詠んだ高宮は、大和国葛上郡(かずらきのかみのこおり)の高宮だったとされている。延喜神名式に記載されている葛木坐一言主(かつらきにいますひとことぬし)神社はここにある。第二代綏靖天皇の「葛城高丘宮」もこの地にあり、一言主神社から少し北の丘辺に宮址の碑が立っている。五世紀に栄えた豪族・葛城氏はこの地を本拠とした。蘇我馬子は「葛城県は元、臣が本居(うぶすな)」と称してここを請い、息子の蘇我蝦夷は祖廟を葛城高宮に建てたという。
しかし、襲津彦一代でこれほどの古墳が築かれるほど巨大な勢力を確立したとは思えない。何代にもわたる祖先たちの長い歴史があったことは想像に難くない。襲津彦の遠い祖先は、地元で勢力を蓄えた鴨族の一派が葛城氏を名乗るようになったのだろうか。それとも他の土地から移動してきて、先住の鴨族を従えたのだろうか。いずれの歴史書も襲津彦の先代を明確にしておらず、そのルーツは深い闇の中にある。 古代の部族や氏族はその産土(うぶすな)を族名としていることが圧倒的に多い。鴨族も渡り鳥の「鴨」を最初から族の呼称としていたのではあるまい。古代には、平野が深く山際に入り込んだ地形を「カモ」と呼んでいたようだ。そうした地形は、葛城山や金剛山の東麓で多く見かけられる。おそらく鴨族は、カモに住む部族ということでカモ族と呼ばれたのであろう。それが後世、「鴨」や「加茂」、「賀茂」などの字が当てられるようになったにちがいない。 鴨族は、弥生時代にはすでに葛城山の東麓に開けた段丘上の斜面を住み着いて、陸稲や稗、粟などの畑作農耕に従事したようだ。彼らは阿治須岐託彦根(あじすきたかひこね)という神を祀っていた。「阿治須岐」とは、美しい農具で開墾することを表す形容詞である。このことから、阿治須岐託彦根神を開拓者としての歴史的祖先、または農耕生産の神として崇めたものと思われる。御所市の字鴨神の地に鎮座する高鴨神社は、この神を祭神とする神社である。
弥生中期ごろに、その集団の一部が葛城山と金剛山の谷間が開ける平坦地へ降りてきて、そこで水稲耕作を営むようになった。彼らは田の神である事代主(ことしろぬし)を祀った。この神を祭神として祀っているのが鴨都波神社(かもつばじんじゃ)であり、一般には高鴨神社に対して下鴨社とよばれている。
その御歳神を祀る神社が葛木御歳神社(かつらぎみとしじんじゃ)である。上鴨社と下鴨社のちょうど中間に位置することから、中鴨社と呼ばれている。古代の鴨族の関わりのあるこれら3ツの神社を総称して鴨三社という。
京都には、古代山代国に移り住んだ鴨(賀茂)族が祀る有名な神社がある。葵祭りで知られる上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)である。上賀茂神社は、賀茂族の氏神で、祭神として賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を祀る。この神は葛城山の峰から山代国に移った賀茂建角身命の娘・玉依媛(たまよりひめ)命との乙訓(おとくに)社の雷神との間に生まれた若き雷神であったと伝える。単に賀茂神社といえば、この上賀茂神社を指す。一方、下鴨神社は奈良時代の頃新しく作られた神社で、上賀茂神社の祭神の賀茂別雷大神の母である玉依姫とその父の賀茂建角身命を祀る。 本日は、この時期にしては珍しく晴れて暖かな朝を迎えた。いつもの散歩で畝傍山に登ると、山頂から見る葛城・金剛連山が青空の下で輝いていた。思い返してみれば、葛城古道を歩いたのは、もう8年も前になる(「葛城の道」を歩く参照)。久しぶりに遊びにこないか、と山が招いているように思えた。 今まで鴨族に関係した神社をゆっくりと探索したことがない。良い機会だからサイクリングを兼ねて鴨三社を参拝しよう。そう思ってアパートに戻ると身支度を調えて階段を下りていった。ところが、階段下の駐輪場に置いておいた愛用のチャリンコが見あたらない。昨晩スーパーに買い物に出かけ、施錠するのを忘れたようだ。オンボロの自転車だから盗難にあったとも思えないが、ともかく消えていた。仕方なく、近鉄電車で「御所」駅まで出て、そこから歩くことにした。 |
事代主命と下照姫
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| 国道24号線に面した鴨都波神社の参道 |
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| 鴨三社の位置関係 |
樹木の間から抜けてきた朝の光が参道の上に様々な縞模様を描いていた。参道を進むと、右手に赤い鳥居が並ぶ稲荷神社があり、その先に、日本の薬祖神である少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀った神農社があった。
朝のこの時間、神社の境内に参拝者の人影はない。廣い境内の左手に拝殿があり、横手に回ると、奥に重厚な本殿が建っていた。その門が最近新調されたようで、朝日に照らされた銅板の屋根が周囲とは不釣り合いなほどまぶしい。拝殿の右側にしめ縄を巻いた神木のイチイガシの巨木が枝を張っている。その下に遙拝所の碑が立っていた。
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| 鴨都波神社の拝殿 |
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| 鴨都波神社の本殿 |
祭神の鴨都味波八重事代主命(かもつみはやえことしろぬしのみこと)は、よく実態が分からない神様だ。『御所市史』では、鴨の都味波(つみは)は弥都波(みづは)の誤記で元々は水の神だったが、後に出雲から迎えられた八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)と合体されたとしている。しかし、別々の神を合体して一つの神として祀ることがあるのだろうか。納得のいかない説明である。
八重事代主命とは、国譲りの神話に登場する大国主命(おおくにぬしのみこと)の息子の事代主命(ことしろぬしのみこと)のことである。異本三輪神三社鎮座次第」は事代主の神がこの神社で祀られるようになった背景を次のように伝えている。すなわち、太田田根彦(おおたたねひこ)の孫にあたる大賀茂都美命 ( おほかもつみのみこと ) が、崇神天皇の勅に奉じて、大神神社(おおみわじんじゃ)の別宮として葛城の賀茂に事代主命を奉斎したのがこの神社の始まりだという。
一方、一昨年死去された歴史学者の鳥越憲三郎氏は、その著書『神々と天皇の間』の中で、鴨都味波の「鴨都」は「鴨の」であり、「味波」は「水端」すなわち水辺を意味するとして、字のまま率直に「鴨の水辺の」と解すべきだとしている。 また「八重事代主命」についても、まず下の「代主」は「田主」すなわち田の神のことであるとし、さらに「八重事」の「事」は「事始め・事祭」のように折り目のことで、八重事で「しばしば折り目ごとに祀られる」の意味に解されている。鳥越氏の解釈が正しければ、「鴨の水辺でしばしば折り目ごとに祀られる田の神」を意味することになる。
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| 鴨都波遺跡の範囲 |
通説では、弥生時代の前期には鴨族は金剛山の東麓で陸稲などを栽培して生計を立てていたとされている。ところが。鴨族の一派が弥生時代中期初頭になって、柳田川と葛城川の二つの川にはさまれたこの地に下りてきて水稲栽培を始めたという。彼らは稲作栽培の節目ごとに五穀豊穣をこの地で田の神に祈っていた。どうやらそれがこの神社の原初的な姿のようだ。
実は、鴨都波神社は柳田川と葛城川の二つの川によって築かれた河岸段丘の上に位置し、この神社を中心に南北約500m、東西約450mの広い範囲を占める鴨都波遺跡が地下に眠っている。すでに20数次をこえる発掘調査が実施されていて、数多くの成果が得られている。そのため、田原本町の唐古・鍵遺跡と並んで、奈良盆地では最大級の弥生時代の拠点集落とされ、南葛城地域の古墳時代前史を知る上で非常に貴重な遺跡である。
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| 鴨都波1号墳出土の銅鏡4面 |
御歳神
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| 御年(みとし)山を背にして静かにたたずむ葛木御歳神社 |
御所市内には、葛城・金剛の山腹を南北に貫く古道が走っている。御所市や近鉄はこの古道を「葛城の道」の名でハイキングコースとして宣伝していて、確かにコース沿いには名所旧跡として見るべきものが多い。だが、鴨三社のうち高鴨神社以外は、この葛城の道沿いにない。
マイカーでもあれば、国道24号線を利用して、下鴨社も中鴨社も簡単に訪れることができる。国道を運行している奈良交通バスでもアクセスは可能だが、バスの運行はせいぜい1時間に1本あるかないかで、決して便利とは言えない。
そこで、自転車の利用を考えたのだが、盗難にあってしまった。残された手段は、己の足で国道24号線の歩道をテクテクと南下する以外にない。だが、晴天の空の下を間近にそびえる葛城・金剛連山を眺めながら移動するのは、思いの外楽しい。
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| 水越峠へ続く葛城山と金剛山の鞍部 | 葛木御歳神社の標識が出ている小殿北交差点 |
鴨都波神社を出てから、南に向かって歩くことおよそ1時間、「小殿北」交差点の角に「葛木御歳神社」方面の標識が出ていた。ちなみに、近鉄御所駅からこの交差点までは4.1キロを歩いたことになる。しかし、神社まではまだ0.7キロの道のりが残っている。交差点を左折して県道215号線(古瀬小殿線)に入り、工業団地を抜け、さらに東持田町の集落を抜けて行かなければならない。
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| 葛木御歳神社の鳥居 |
弥生時代の中頃、上鴨社付近から下鴨社付近に移動した鴨族の一派とは別に、同じ頃この扇状地に移って水稲栽培を始めた別の一派がいた。彼らは豊かな実りをもたらしてくれる御歳神を一族の団結のシンボルとして斎き祀った。祭神の名前のトシとは、穀物、とりわけ”稲”を指す古語だそうだ。
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| 葛木御歳神社の拝殿と本殿 |
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| 境内に祀られている様々な神々 |
『古語拾遺』はこの神の興味深い逸話の載せている。その昔、大地主神がこの地に田を開いたとき、百姓に牛の肉をふるまった。御歳神はそのことを大いに怒り、イナゴをその田に放って稲を枯れさせたてしまった。そこで、百姓たちは白猪や白馬、白鶏を奉納して神の怒りを鎮めたという。
阿治須岐託彦根命
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| 県道30号線に面して立つ高鴨神社の朱塗りの鳥居 |
御所市と隣の五條市との境付近に風の森峠(かぜのもりとうげ)がある。大和・紀伊両国を結ぶ古代交通の要所で、葛城川や宇智川はこの辺りを発源地としている。旧葛上郡地域は、この風の森峠を境として南(高鴨)と北(上賀茂、下賀茂、中賀茂)の両文化圏に分かれていたという。
国道24号線は標高約250mのこの峠を越えていき、峠付近に奈良交通バスの「風の森」バス停がある。バスを利用すれば、御所駅から15分ほどでこのバス停に到着できる。しかし、徒歩となると、「小殿北」からバス停までダラダラと続く3キロの坂道が、疲労した体には厳しい。
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| 風の森の峠付近 | 風の森バス停から高鴨神社へむかう県道30号線 |
風の森峠付近は、金剛山麓を南西から吹き抜ける強い風の通り道にあたる。そのため、古代には風の神の志那都比古命(しなつひこのみこと)を祀って、吹く風の平穏を祈ってきた。その志那津彦神社が風の森峠の頂上に鎮座していると聞いていた。祭神は風の神であると同時に、五穀の実りを風水害から守る農業神でもある。地元では志那津彦神社を風の森神社と呼んでいるが、以前ここを訪れたとき、その所在が分からなかった。今回、地元に住人に聞いてやっとその場所が分かった。
「風の森」バス停から高鴨神社へ向かう道は、金剛山の山麓を緩やかに上っていく坂道である。この付近は御所市の鴨神地区で、所々に民家が点在する高原の趣がある。山麓を吹き渡る風が気のせいか少し強いようだが、汗ばんだ肌には心地よい。最初の集落の入口で、畑仕事から戻ってきた婦人に出会ったので、風の森神社の場所を聞いた。
『集落の中の道を上っていくと、頂上付近の右側に生け垣で囲まれた寺の境内があり、その隅に小さな祠が建っている、それがお目当ての神社かもしれない』、と婦人は自信がなさそうに教えてくれた。地元でも余り知られていない神社のようだ。
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| 風の森神社 |
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| 風の森神社の案内板 |
風の神を祀った神社は、奈良時代や平安時代には朝廷の儀礼として豊作を祈ったお宮である。一般の農民も、秋の収穫時の暴風を吹かないことを風の神を祀っていた。明日香に都があった頃は、この風の森神社も大いに信仰されたのであろう。だが、平城に都が移されると、龍田大社が重きをなすようになり、いつしか風の森神社はうち捨てられたにちがいない。今は、訪れる人もなく寂しい神社である。
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| 高鴨神社の正面 |
鴨族は謎の多い一族で、その出自はよく分からない点が多いが、土着の氏族だったのではと言われている。解説書によると、弥生時代にはこの丘陵地帯で陸稲や粟・稗などの畑作農業を行っていたようだ。しかし、弥生時代中期になると、その一派が大和平野の西南端にある今の御所市に移り住んだ。そして、葛城川の岸辺に鴨都波(かもつば)神社を祀って水稲生活をはじめた。また東持田の地に移った一派も葛木御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作に入った。それで、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになったという。ともに鴨族が奉斎してきた神社である。
鴨族は、その後ひろく全国に分布するようになった。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよぶ。中でも京都の上賀茂神社や下賀茂神社は有名であるが、この高鴨神社はそれらの賀茂神社の総社にあたる。
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| 金剛山を水面に映す氷室池 | 社殿が建つ石段に向かう参道 |
朱塗りの鳥居をくぐって一歩境内に足を踏み入れると、そこは別世界である。右手の社務所と左手の氷室池の間を参道が一直線に正面の石段まで続き、参道の両脇には巨大な杉の古木が枝を生い茂らせている。そのうちの一本は神木とされているのだろう。幹に大きな注連縄(しめなわ)が巻かれていた。
石段を上ると拝殿があり、その奥に檜皮葺の豪壮な本殿が建っている。この本殿は室町時代(1543年)に再建された三間社流造の建物で、国の重要文化財に指定されている。残念ながら、今は修復工事中で覆屋で目隠しされて、外部から眺めることはできない。
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| 石段の上に聳える拝殿 |
この神社の祭神は、古くは大国主命(おおくにぬしのみこと)が宗像氏の神の多紀理毘売命(たきりひめのみこと)を娶って生まれた味耜高彦根神(あじすきたかひこねのみこと)とその妹の下照比売神命(したてるひめ)の2柱だったようだ。しかし、後に神話の影響を受けて、下照姫命の夫とされた天稚彦命(あめのわかひこのみこと)と母の多紀理毘売命の2柱が加えられた。「延喜式」神名帳には「高鴨阿治須岐託彦根命神社四社」とある。
味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)は、大己貴命(おほなむちのみこと、すなわち大国主命)を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)の神の分霊として、この「葛木の鴨の神奈備」に座して皇孫を守護した神とされている。しかし「味耜」とは、美しい農具で開墾することを表す形容詞である。このことから、当初は味耜高彦根命を農耕生産の神として鴨族が崇めていたものと思われる。それが、後世になって出雲神話を核とする記紀神話の影響を受けて、現在のような神々が付加されたのであろう。
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| 県指定重要文化財の東宮 | 貞享2年(1685)に建てられた西宮 |
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| 石灯籠を埋め込んだ(?)石垣 |
一方、石垣に沿って左に進むと、氷室池の先に貞享2年(1685)に建てられた西宮がある。この社には、多紀理毘売命(たきりひめのみこと)、塩治彦命(えんやひこのみこと)、瀧津彦命(たきつひこのみこと)、天御勝姫命(あめのみかちひめのみこと)の4柱が鎮座している。しかし、現在修理中のため、これらの神々は東宮に遷座されているとのことだ。
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| 日本サクラソウ |
高鴨神社には、先代宮司が京都の自宅から持ち込んで、手塩にかけて保存栽培してきた結果、現在は約500種類の品種が2千数百鉢栽培され、季節になると美しい花を咲かせる。社務所の前には、まだ芽を出していないサクラソウの鉢が整然と並べられていた。
高鴨神社の隣に、葛城歴史資料館がある。歴史資料と言っても、近世の農耕機具などが中心で、古代に関するものは鴨都波遺跡から出土した土器類がいくつか展示してある。