2009/03/08

大福遺跡:
弥生時代後期の質素な木製よろいを出土

発掘担当者の説明を待つ考古学ファン(撮影2009/03/08)
発掘担当者の説明を待つ考古学ファン(撮影2009/03/08)

「倭国大乱」を実証する遺物の発見か!?

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発掘された木製よろい
(産経新聞より)
月5日の新聞各紙は、桜井市の大福遺跡で弥生時代後期後半(2世紀後半)の木製よろいが溝跡から出土したと報じた。同遺跡で第28次調査を実施している桜井市教育委員会が前日に行った記者発表を受けての報道である。市教委は「極めて残存状態がよく、全体の形が復元できる貴重な発見だ」としている。新聞紙上のカラー写真を見ても、文様や彩色がない質素な作りのよろいであることが分かる。

の報道に接して、中国の史書に記されている倭国大乱(わこくたいらん)を実証する遺物が出土した、と早合点した考古学ファンも多かったのではないか。かく言う筆者もその一人である。

国大乱とは、弥生時代後期の2世紀の末葉に倭国で起こった争乱である。中国の正史である『三国志』の魏志倭人伝には、次のように記されている。
"その国(倭国)は元々、男子を王としていたが70〜80年ほどで終わった。倭国は乱れ、何年も互いに攻め合うに及んで、一人の女子を共立し王とした。名を卑弥呼という。"

まり、邪馬台国の卑弥呼が女王に共立される以前に、倭国は何年も戦争状態が続いた時期があった。『後漢書』はその時期を桓帝・霊帝の治世の間(146年〜189年)とし、『梁書』はさらに限定して後漢の霊帝の光和年間(178年〜184年)としている。

第3次発掘調査で出土した銅鐸
第3次発掘調査で出土した銅鐸
に出土した木製よろいが倭国大乱に何らかの形で関連した遺物であれば、邪馬台国=畿内説は俄然有利になる。卑弥呼の墓かもしれない箸墓古墳は大福遺跡から北北東2.6キロの地点に築かれているのだ。

が、別の疑問も湧いてきた。なぜ木製のよろいなのか? 大福遺跡では、昭和60年(1985)の第3次調査で弥生時代後期末ごろの銅鐸が見つかっている。近畿では初めての発掘調査で出土した銅鐸として知られ、大福銅鐸と呼ばれている。さらに第15次調査では青銅器を鋳造する鋳型も見つかっている。大福遺跡のどこかに青銅器鋳造工房があったはずである。青銅でよろいを作ることを考えなかったのだろうか?

現地説明会で明らかにされたこと

大福遺跡第28次調査区の所在
大福遺跡第28次調査区の所在
のガイドマップに示すように、桜井市の大福遺跡は、橿原市と桜井市のまたいで広がる坪井・大福遺跡の東側に隣接する弥生時代後期の遺跡である。この遺跡を400mにわたって南北に貫く市道が建設されることになった。そこで桜井市教育委員会は2006年度から3年間、継続して発掘調査をて実施してきた。

回が最終年度の第28次調査では1244平米の調査地を設定し、南北2区に分けて発掘を行ってきた。その結果、上記の木製よろいの発見などさまざまな新しい知見が得られたので、本日午前10時から現地説明会が開催された。


説明会の会場に参集してきた考古学ファン
説明会の会場に参集してきた考古学ファン
手前に見えるのは藤原京期の遺構
0時少し前に現地説明会の会場に到着して、受付で資料を貰った。説明会は調査地の中で行われると教えられて、そちらに回った。狭い調査地の中の会場は、古代のロマンを求めて早々とやってきた考古学ファンですでに一杯だった。10時になって、発掘担当者は資料に示されたイラストを参考にしながら、発掘調査の成果を語ってくれた。

回調査を実施した北区と南区でも、昨年度と同様に弥生時代中期から藤原京期までの遺構が多く見つかっている。その中でも、弥生時代中期中葉と弥生時代後期後葉の2つの時期の遺構で、注目すべき遺物が出土したとのことだ。しかし、北区はすでに埋め戻されていて遺構の状態は確認できなかった。

弥生時代中期中葉(BC1世紀中頃)に築かれた方形周溝墓

弥生時代中期中葉の遺構概略図(現説資料より)
弥生時代中期中葉の遺構概略図(現説資料より)

生時代中期の遺構は、後世の掘削で破壊されて全容が分かるものはほとんど見あたらなかった。その中にあって、方形周溝墓と推定できる墓跡が3カ所、その可能性があると思われる場所が2カ所検出できたとのことだ。

回の調査区の北側で昨年実施した調査でも、方形周溝墓と推定できる箇所が6〜8カ所見つかっている。昨年度も今年度も市道建設に伴う緊急調査なので、調査地の幅は13mと狭い。それにもかかわらず10基以上の方形周溝墓の存在が確認できた。調査区域を東西に拡大すれば、おそらく数十基の方形周溝墓が見つかるはずだと、説明員はいう。

福遺跡の西に隣接する坪井・大福環濠集落は、弥生時代中期頃が最盛期だったことがすでに判明している。そのため、環濠集落の外側にあたる今回の調査地付近は、その集落の墓域だったと想定できるようだ。

井・大福遺跡の環濠集落は、弥生時代後期になると面白い現象が見られるという。後期の段階でも環濠帯は存続しているが、遺構量は減少していくというのだ。専門家はこの減少を、分村によって住民が周辺に進出していった結果だと見ている。

方、坪井・大福遺跡の東に位置する大福遺跡では、弥生時代前期から中期にかけての遺構はほとんど見つかっていない。遺構が出現してくるのは、弥生時代後期になってからだ。坪井・大福遺跡の人々がこちらに進出してきた結果であると考えられている。大福遺跡では、今までに土器をはじめ、銅鐸片や完形の銅鐸、銅剣の切っ先など弥生時代後期から古墳時代初期にかけて、さまざまなものが見つかっている。そのくせ住居跡がまだ検出されていない変わった遺跡である。

弥生時代後期後葉(2世紀中頃〜後半)の溝から出土した遺品

弥生時代の2つの時期の遺構
弥生時代後期後半の遺構概略図(現説資料より)

生時代後期後半といえば2世紀中頃から後半にかけての時期をいう。この時期の遺構として調査区の中央部分を南北に流れる溝が検出された。溝は北側と南側で西方向にそれぞれ流れを変えており、西側から張り出して来たように孤を描いている。幅3〜4m、長さ50m、深さ1.5〜1.6mのこの溝から実に多くのものが見つかった。

出土した完形土器の一部
出土した完形土器の一部
鍬や杵など木製品の一部
鍬や杵など木製品の一部
多量に出土した炭化米の一部
多量に出土した炭化米の一部
倒的に多かったのは土器である。出土品を保管するコンテナケース400箱以上、たぶん600箱に達する量の土器が掘り出されたとのことだ。これらの土器は溝が埋まる過程で捨てられたもので、完形の土器も100から200個は見つかっている。

述の木製よろいなどの武具類の他に、多数の木製品も見つかっている。槽(そう)、籠(かご)などの容器、鋤(すき)、鍬(くわ)、木包丁、竪杵(たてきね)、横杵などの農具、楽器の琴の一部、梯子(はしご)、杭などの建築部材である。これらの出土品から、近くに大勢の弥生人が住んで農業に従事していたことをうかがわせる、また、梯子の一部が見つかったことは、農作物を蓄える高床式建物が近くに建っていた証拠となる。

量に出土したものに、溝の中ほどから見つかった炭化米がある。コンテナケース10箱分、現在の単位で言えば10升以上はあったとのことだ。そのほとんどは脱穀されておらず、穂付き籾の状態で出土している。穂首刈りを行ったままの状態で保存していた籾が、保存場所が火事にあい燃えてしまったのだろう。食べれなくなった炭化米を仕方なしに溝に捨てたにちがいない。

からは梯子の一部や炭化した木材も出土しているから、高床式倉庫が燃えてそこに保管されていた籾が焼けてしまったのかもしれない。溝の横断面の観察から、炭化米は西側から捨てられたことが分かるという。ということは、坪井・大福環濠集落の集団が分村化して再編成される過程で、環濠から外へ進出した集団の一部が調査地の西側に居住していたと推定できる。

青銅器鋳造関係の遺物
青銅器鋳造関係の遺物
化米が出土した地点の溝の一番上の層の東側から、送風管青銅の塊、および銅滓(どうさい)など青銅器鋳造関係の遺物が見つかった。送風管は長さが約30cm、直径が4.2cmで先端が曲がっている。青銅塊は重さが82gある。銅滓は椀形をしているところから、取瓶(とりべ)などに付着していたものが剥落したものと推測されている。さらに溝の近辺の包含層からも青銅片が出土している。なんらかの製品の一部と思われるが、用途は不明とのことだ。

うした青銅器鋳造関係の遺物によって、近くに銅鐸を製造したり、あるいは銅鐸を他のものに造り替えて再利用するための工房があったと推測できる。発掘担当者は現在の調査地の東側を発掘すれば、工房跡が見つかるのではと期待している。

問題の木製よろいは実際に着用して戦闘に使われたか?

出土した木製よろいの右前胴 出土した木製よろいの後胴
出土した木製よろいの右前胴 出土した木製よろいの後胴

て、問題の木製よろいである。このよろいは調査地の南区の溝の中層から見つかった。時期的には2世紀後半のもので、左前胴、右前胴、後銅の部位がほぼ同じ場所で、内面を上に向けた状況で出土したという。発掘現場の出土地点にはよろいの写真が置かれ、調査員がその場所を示していた。展示コーナーでは、2つの黄色いコンテナケースに、よろいの左前部と後銅部がそれぞれ水に湿らせながら展示されていた。

木製よろいの出土地点
木製よろいの出土地点
出土した木製よろいの部位
出土した木製よろいの部位(現説資料より)
のよろいは全国で30例ほど出土している。だが 弥生時代だけに限ると15〜16例しかない。今回出土したものは、右前胴は肩の部分が一部欠けているだけで、ほぼ完全に残っていた。左前部は脇下一部が残っており、後銅は左半分強が残っていた。これほど残りの良いものは、今回が奈良盆地では初めてで、木製よろいの系譜を考える上で重要な資料となるという。残存状態が良好なため全体の復元像を描くことができる。復元イメージが現地説明会の資料に載っていた。

のよろいはトチノキの巨木をくり抜いて加工したもので、前板と後ろ板を革ひもで結びつける構造をしている。厚さ1cmの板が剣や弓矢などにも耐えられるように、ほぼ全面に紐孔(ひもあな)をあけ水平方向に紐を通して補強していたようだ。表面に模様を彫刻したり、漆や顔料を塗った形跡は見あたらない。そのため、無飾刳抜式木甲(むしょくくりぬきしきもっこう)と呼ばれる種類だそうだ。

細に調べても、刀や槍の傷跡が見あたらず、戦闘で着用した様子は伺えないそうだ。そのため、発掘担当者は、戦いに備えて準備したものか、あるいは戦さの祭祀用だったのではないかと推測している。

製よろいが造られた時期は2世紀後半であり、倭国大乱の時期と重なる。しかし、この出土品を倭国大乱に直接結びつけることは無理なようである。それどころか、考古学的見地からいうと、当時の西日本は、倭国大乱の時代といわれながら、邪馬台国候補地の奈良盆地内を含めて、戦乱状態を示す遺跡はほとんど見つかっていないという。奈良盆地で戦いがあったのは100年ほど前で、2世紀の後半は戦いが収束していく時期だったとのことだ。

【参考・引用文献】(財)桜井市文化財協会・桜井市教育委員会作成「大福遺跡第28次調査現地説明会資料」


2009/03/10作成 by pancho_de_ohsei
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