橿原日記 平成21年3月7日

名築城家・藤堂高虎が築いた未完の伊賀上野城 

模擬復元された伊賀上野城の天守閣
昭和10年(1935)に復元された伊賀上野城の天守閣 (撮影 2009/03/07)

初めて模擬復元された伊賀上野城の天守閣を見る

週間前の土曜日の午後、筆者は東京の上野公園にいた。伊賀・伊勢藩主だった藤堂家の墓所が上野動物園の中にあると聞いて、それを確認するためだった(2月28日付け橿原日記参照)。それから1週間後の本日の午後、また上野公園に来た。と言っても、同じ公園ではない。本日訪れてきたのは、三重県の伊賀市にある上野公園である。

上野城の天守閣
伊賀上野城の天守閣
の公園には、伊賀上野城がある。近世城郭の創始者の一人とされる名築城家・藤堂高虎(とうどうたかとら)が、江戸時代の初期に大改修したことで知られる城だ。慶長13年(1608)8月、徳川家康は藤堂高虎に伊予今治からの転封を命じ、伊賀・伊勢22万石を与えた。高虎はその年の9月に伊賀上野城に、さらに10月には安濃津(あのうつ)城に入城している。そして、3年後の慶長16年(1611)の正月から、高虎はほぼ同時並行的にこの二つの居城の改修に着手する。後述するように、これらの城の改修にはある目的があった。

月の初め、三重県の津市にある津城趾を訪れた(2月1日付け橿原日記参照)。俗に、”伊勢神宮に参拝しても、津の国府阿弥陀(こうあみだ)に参らねば片参宮”という。そんな故事にあやかる訳ではないが、津城趾を見学して伊賀の上野城を見学しないでおくのは、なんとなく心残りである。昨日の雨を降らした前線も東に抜けて幸い本日は晴れるというので、思い切って伊賀市の上野公園まで出かけてきた。高虎式築城の特徴の一つとされる30mの高石垣を一度見ておきたかった。


者らの年代には、伊賀市という呼称はどうもまだなじめない。三重県の北西部に位置する伊賀市は、5年前の平成16年(2004)11月に上野市・伊賀町・島ヶ原村・阿山町・大山田村・青山町の6市町村が合併して誕生した。この新しい市は、北は滋賀県、西は京都府、奈良県とそれぞれ接している。特に旧上野市は、古来より都(飛鳥、奈良、京都など)に隣接する交通の要衝として栄え、また伊賀忍者や俳聖松尾芭蕉のふるさとでもあり、俗に伊賀上野とも呼ばれてきた。

上野公園付近の観光マップ
上野公園付近の観光マップ
賀上野は、江戸時代には藤堂家の城下町だったことでも知られている。藤堂家の伊賀支配の拠点だった伊賀上野城は、現在の伊賀市上野地区の北側に位置していた。その城跡は現在、上野公園として整備されている。

道を利用して伊賀上野城を訪れるには、JR関西本線の「伊賀上野」駅を利用する方法と近鉄大阪線の「伊賀神戸」駅を利用する方法がある。いずれの場合も、近鉄の伊賀線(伊賀鉄道)に乗り換えて最寄りの「上野市」駅で下車、そこから徒歩で5分ほど歩くことになる。

伊賀線(伊賀鉄道)
伊賀線(伊賀鉄道)の電車
者は後者の方法を選び、「伊賀神戸」駅から伊賀線の2両編成ワンマン運転の電車に乗り継いだ。サイケチックなペンキを車体全体に塗りたくった電車は、山に囲まれた九里四方の小さな伊賀盆地をゆっくり北上して行く。昼下がりで乗客がほとんどいない列車は、田園の中の無人の駅を一つ一つ拾って歩くように進む。その風情が何とも心地よい。およそ26分で列車は10番目の「上野市」駅に到着した。

上野市」駅の横にある地下道を通って線路の反対側に出ると、目の前を国道163号線が東西に走っている。道路の反対側に市役所の建物があり、その脇から一直線に北に延びる緩やかな坂道が続く。坂道をたどれば、2〜3分で上野公園の入り口に到着する。

市役所横の上野公園アクセス道路 芭蕉翁記念館
市役所横の上野公園アクセス道路 芭蕉翁記念館

園を入ると、すぐ右手に「芭蕉翁記念館」がある。記念館に立ち寄らずにそのまま進むとレストハウスの前に出る。レストハウスの横手で道が二手に分かれ、右へ進めば、すぐのところに「伊賀流忍者博物館」がある。左へ進めば、芭蕉の旅姿をイメージして建てられた「俳聖殿」がある。その先で、左手に続く石段を登れば、伊賀上野城の天守閣の前の広場に出る。

伊賀流忍者博物館 芭蕉の旅姿をイメージした俳聖殿
伊賀流忍者博物館 芭蕉の旅姿をイメージした俳聖殿

場から見上げた三重三層の大天守閣は、紺碧の空を背景にして高さ10mの基台の上にすっくとそびえていた。その美しい姿が鳳凰がまるで翼を休めているように見えることから、伊賀上野城は「白鳳城」という雅号を持つ。残念ながら、小天守閣は修理中で覆屋に囲まれていた。

伊賀上野城に続く石段 広場から見上げた天守閣
伊賀上野城に続く石段 広場から見上げた天守閣



伊賀上野城の歴史を追う

在の伊賀上野城は大天守閣と小天守閣を持つが、藤堂高虎が大改修を施した城には、天守閣はなかった。現在の天守閣は昭和10年代に築かれた”模擬”天守閣で、正式には伊賀文化産業城という。この昭和の天守閣が築かれるまでには、長い歴史があった。ここで、伊賀上野城の築城の歴史を振り返っておこう。

伊賀上野城の絵図
享保9〜10年頃の伊賀上野城の絵図
賀上野城は、上野台地の北部にあたる海抜180mほどの丘陵の上に築かれている。だが、最初にこの丘に築かれたのは城ではなく、上野山平楽寺という真言宗の古刹だった。後白河法皇の勅願により 平清盛が造営したと伝えられている。最盛時には広大な敷地に七堂伽藍が建ち並び、数百人という屈強な僧兵を擁していた。伊賀の土豪・地侍といえども、平楽寺の荒法師に出会えば道を譲ったという。

かし、天正9年(1581)の 織田信長による伊賀攻めで、織田勢は徹底した放火・破壊・殺戮を行なったため、伊賀の国はほぼ全域が焦土と化した。このとき、平楽寺の伽藍も破壊され焼き尽くされてしまった。この天正伊賀の乱の際に、滝川雄利(たきがわ かつとし)は伊賀の豪族を調略して結束力を弱め、平楽寺の跡に砦を築いたとされている。

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初代上野城藩主・筒井定次
下統一を進める豊臣秀吉は、大阪城を中心とする大名配置を行い、異父弟の 羽柴秀長を大和郡山に置いて大和・和泉・紀伊の三国を治めさせた。そして、それまで大和郡山の領主だった 筒井定次(つついさだつぐ)を、伊賀国へ国替えさせた。天正13年(1585)に伊賀の入国した定次は、旧伊賀守護仁木氏の城館跡(後の西之丸の地)に仮館を建てて、平楽寺などの寺院跡に新しく城を築いた。

次は丘陵の一番高い場所に本丸を造り、本丸の北東に三層の天守閣を構え殿門を整えた。本丸の東側の丘陵とは濠を切り開いて区切り、西に二之丸、北の山の下に三之丸を配し、三之丸の北谷口を大手とした。これが筒井氏が築いた伊賀上野城である。

在の天守閣がある広場から東を見ると、一段高くなった台地が見える。そこが筒井定次によって築かれた筒井古城の本丸跡である。現在、その本丸の石垣が修理を兼ねて発掘調査が行われており、穴太(あのう)積みの石垣の構造を間近で見ることができる。近寄ってみると、大きな自然石を積み重ねた後ろに、こぶし大の石が大量に埋められていた。

筒井定次が築城した本丸の跡 発掘調査中の石垣
筒井定次が築城した本丸の跡 発掘調査中の石垣

長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、筒井定次は東軍に与した。そのために、徳川家康から伊賀の所領を安堵された。しかし慶長13年(1608)6月になって、家康は筒井家のお家騒動に介入して定次を改易してしまった、そして、 藤堂高虎を伊予今治から移封して、伊賀・伊勢両国の領主とした。

の定次の改易に関しては、一般にはお家騒動が原因だったとされているが、別の推測もある。筒井定次は豊臣恩顧の大名であり、伊賀という大坂近郊の要地を支配していることを危険視した幕府が、内部の派閥争いを口実に改易してしまったというものである。

藤堂高虎の肖像画
藤堂高虎の肖像画
ヶ原の戦いでは、東軍の徳川家康が西軍の石田三成に勝利したが、豊臣家が滅亡したわけではない。 豊臣秀頼は摂津・河内・和泉三カ国65万石の一大名に転落したとはいえ、母の 淀君とともに大阪城で健在だった。加えて西国には 加藤清正、福島正則、加藤嘉明をはじめとする豊臣恩顧の大名がいる。江戸に幕府を開いたといっても、決して徳川政権は盤石ではなかった。

長13年(1608)には、家康はすでに67歳の高齢に達していた。徳川家安泰のために、彼の余命は豊臣家を滅亡に追いやることに費やされたと言ってよい。家康はこの頃から、藤堂高虎を築城顧問として、着々と大阪包囲網を形成していった。そして、6年後の慶長19年(1614)の大阪冬の陣、その翌年の元和元年(1615)の大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた。夏の陣から1年もたたない元和2年(1616)4月17日、まるで目的は果たしたとでもいうように家康は75歳の生涯を閉じた。

阪包囲網の形成に積極的に関わった藤堂高虎は、来るべき大阪方との決戦に備えて、転封先の伊賀上野城と安濃津城の大改修を行う。しかし、転封直後の高虎は家康の内意を受けて、丹波篠山(ささやま)城丹波亀山城などの天下普請に積極的に関与し、己の居城の改修に取りかかるのは転封から3年後のことである。

日本一の高さを誇る上野城の石垣 あ同左
藤堂高虎築城の本丸の高石垣 同左

井定次の居城だった伊賀上野城は、大坂城の出城として大坂を守る形をとっていた。高虎はこの城を、大坂方からの攻撃に備える城に造り替えた。藤堂高虎は、平時の居城は津城、有事の居城はこの伊賀上野城と考えて城の大改修を行なったという。そのため、本丸は津城の倍の広さにし、地山を利用して濠を深くし、石垣も高くして高さ約30mの高石垣を巡らした。南には二ノ丸を構築し、外郭には、10棟の櫓(二重櫓二棟、一重櫓八棟)と長さ21間という巨大な渡櫓(多聞)をのせた東西の両大手門や御殿などを建設した。また、城下町を南へ移して、完全に武装した軍備の町とした。

の中心となる本丸の天守閣については、筒井定次が建設した天守閣の位置を西側に移動し、新規に5層の天守閣を建設することにした。高虎は当初、それまでの居城だった伊予今治城の天守閣を移築してこようと考えたようだ。しかし、天下普請となった丹波亀山城に献上することになり、伊賀上野城には10mの基台を築き、その上に新しく天守閣が建設された。しかし、せっかく建設した天守閣が、慶長17年(1612)9月に当地を襲った大暴風で、完成寸前に倒壊してしまった。

上野城の石垣を上から見下ろす 上野城の石垣を濠の面から見る
伊賀上野城本丸の高石垣を上から見下ろす 伊賀上野城の高石垣を濠の面から見る

の後、大坂の役によって豊臣家が滅亡し、元和偃武(いぶ)以降は武家諸法度によって諸大名の城普請を禁止したため、伊賀上野城の大改修は中止され、天守閣が再建されることはなかった。伊賀上野城には城代が置かれ、本丸は城代屋敷となる。その結果、本丸・二ノ丸などの主要部分は、城代屋敷を除いて未完成のまま江戸時代を過ごした。

治維新を迎えて、明治政府は各地にある城郭のうち、58城を残し144城の廃棄を決定した。そのため伊賀上野城も廃棄処分の対象とされ、他の多くの城と同様に石垣の上に築かれていた構造物の多くが取り壊されてしまった。幸か不幸か、伊賀上野城は小高い丘に位置していたため、その後の転用もままならず、城跡はうっそうと草に覆われた状態のまま放置された。

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天守閣の復興者・川崎克
治29年(1896)になって、伊賀出身の実業家・田中善助は、この状態の改善に乗り出した。彼は、城の周辺を整備して公園として一般に開放し、住民の憩いの空間に変えた。 その後、昭和10年(1935)に衆議院議員であった川崎克(かわさき こく)の私財により天守閣が再建された。

守閣復興の計画は、昭和6年1月に地元に帰省した川崎が名所旧跡の保存について地元の意見を求めたのに始まるとされている。天守基台の使用許可を名古屋税務監督局から得た川崎は、昭和7年10月に地鎮祭を執り行い本格的な天守閣復元工事に入った。

守閣の復元を鉄筋コンクリート様式で行なうことを進言するものもいたが、川崎は木造建築にこだわった。彼の手記によれば、「滔々(とうとう)と西洋建築の陶酔時代にあって、日本精神のために日本建築の美を賛美することが、国民精神高揚のためきわめて意義深いことである」と信じていたようだ。

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復元された伊賀上野城
建の資金は、潅漑事業に協力した川崎の銅像建設のために集められた資金や、川崎が所蔵していた古書画や古陶器の売却代金が当てられた。また、天守木材は三重県南牟婁郡の山林家の提供を受けたという。天守閣は昭和10年(1935)10月18日に落成した。川崎は、”攻防作戦の城は亡びるときもあるが、産業の城は人類生活のあらん限り不滅である”との信念から、この城を市の産業陳列館として「伊賀文化産業城」と名付けた。

和42年(1967)12月、伊賀上野城は国の史跡に指定され、平成18年(2006)には、日本100名城の一つに選定された。



昭和初期建築の模擬天守閣でも年輪を感じさせる建造物

我が国最後の木造の城「伊賀文化産業城」<
我が国最後の木造の城「伊賀文化産業城」

在、高さ10mの天守台の上にそびえている三層の天守閣は、厳密な意味では復元された天守閣ではない。藤堂高虎が築いたのは五層の天守閣であって三層の天守閣ではない。しかもその天守閣は、慶長17年(1612)9月に当地を襲った大暴風で、完成寸前に倒壊してしまった。当時の設計図も絵図面も残っていないため、どのような天守閣だったかは不明としか言いようがない。

城壁に並ぶのは「白餅3つ」の藤堂家の旗印
城壁に並ぶのは「白餅3つ」の藤堂家の旗印
在そびえているのは、川崎克(かわさき こく)が私財を投じて昭和10年に建設した”模擬”天守閣である。正式には上野市の郷土資料を展示する「伊賀文化産業城」と呼ばれている。だが、築75年近い歳月を経れば、訪れた見学者によって床板の板目が浮き彫りにされ、階段の手すりは人の手あかで磨かれ黒光りしていて、いかにも古城らしい雰囲気を醸し出している。木造の天守閣として我が国最後の建造物であり、市の文化財に指定されてるのも当然かもしれない。

守台への石段を登ると、受付がある。天守閣を見学するにはさらに右側の階段を進めばよいが、受付の左に小天守閣があり、内部に「忍び井戸」が掘られていた。この井戸に関して、有名な話が伝えられている。伊賀上野城の改修にあたって、徳川家康は「大阪城の攻略が万一不首尾に終わったときは、ワシは高虎とこの城に籠城する覚悟だから、三カ年の籠城に耐える城を造れ」と藤堂高虎に密命を下したという。

小天守の中に掘られた「忍びの井戸」
小天守閣の中に掘られた「忍びの井戸」
陵の頂に構築された城郭の悩みは、敵による水脈の断絶である。浅い井戸では水は沸かない。そこで、普請奉行を任された家臣の 西島八兵衛尉之友は、小天守内に五十間の深さの井戸を掘り、井戸側から横へ三カ所の隧道をうがって抜け穴とした。

け穴は一里におよび、兵糧の搬入や、外部との連絡、援軍を場内に引き入れる通路としての利用が考えられたという。万一、城が落城した場合、この通路を利用して忍びの者を城内に潜入させて攪乱することも考えたとのことだ。そこで、小天守閣に忍びの者を常駐させ井戸の監視にあたらせた。そのため、「忍びの井戸」と呼ばれている。

守閣の玄関入口には、藤堂高虎の像が置かれ、見学者を迎えてくれる。高虎の肖像画を下敷きにした彫刻だろうが、どうも間延びした顔からは戦国武将の厳しさは伝わってこない。一階では、藤堂家ゆかり遺品が並べられ、藤堂高虎の子文書展が開催されていた。その中で特に注意を引いたのは、鳥が翼を広げたような形の黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬりとうかんなりかぶと)である。伝承によれば、高虎が豊臣秀吉から拝領したもので、後に高虎が一族の 藤堂良重に与えている。良重はこの兜を着用して大阪夏の陣に参戦したが、 木村重成の軍と戦って討ち死した。

玄関先に置かれた藤堂高虎の像 ああああ
玄関先に置かれた藤堂高虎の像 高虎が秀吉から拝領したと
伝えられる黒漆塗唐冠形兜

虎はこれを「手柄の討死」と讃え、良重の弟で9歳になったばかりの良次に家督を継がせた。同家は伊賀上野城下にあって藤堂家の重臣として仕え、遺品の兜を家宝として大切に保存してきたが、近年上野市に寄贈された。この現物がこの城に保管され展示されている。

二階の壁に掲げられた100名城の写真 三階の格天井に描かれた著名人の墨書と絵
二階の壁に掲げられた100名城の写真 三階の格天井に描かれた著名人の墨書と絵

上野城本丸の高石垣
伊賀上野城本丸の高石垣
階に上がると、四方の壁に100名城に選ばれた城の写真が並べてあった。今までに訪れたことがある城を数えてみたが、20指に及ばなかった。三階に上がると、そこは展望楼になっていて四方を見渡すことがでる。上を見上げると、竣成を記念して贈られた横山大観河合玉堂など著名人の墨書や絵画46枚が天井にはめ込まれていた。

かし、伊賀上野城見学の最大の目玉は、やはり本丸西側の内堀沿いに築かれた高石垣であろう。慶長16年(1611)に藤堂高虎が伊賀上野城を大改築したときに、現在の姿に改修したと伝えられている。東を除く三方に高く積まれた石垣は、総延長が320mに達し、高さは根石から測って15間、すなわち29.7mもあり、日本一を競う高さだそうだ。

垣の縁には、一部の箇所を除いてフェンスが設けられていない。端に立って下を覗きこむと、その圧倒的な高さに思わず足がすくむ思いがした。当地は伊賀忍者の故郷である。強靱に鍛えられた忍者でも、30mの石垣を素手で上ってくるのは容易ではなかったであろう。あるいは、伊賀忍者の総帥・服部半蔵に忍者の体力の限界を確かめた上で、高虎は15間の高さを決めたのかも・・・と、ふと思ったりした。



BGMはhttp://www.ne.jp/asahi/minako/watanabe/Mond.htmよりダウンロード)
2009/03/09作成 by pancho_de_ohsei return