![]() |
| 昭和10年(1935)に復元された伊賀上野城の天守閣 (撮影 2009/03/07) |
|
初めて模擬復元された伊賀上野城の天守閣を見る
一週間前の土曜日の午後、筆者は東京の上野公園にいた。伊賀・伊勢藩主だった藤堂家の墓所が上野動物園の中にあると聞いて、それを確認するためだった(2月28日付け橿原日記参照)。それから1週間後の本日の午後、また上野公園に来た。と言っても、同じ公園ではない。本日訪れてきたのは、三重県の伊賀市にある上野公園である。
先月の初め、三重県の津市にある津城趾を訪れた(2月1日付け橿原日記参照)。俗に、”伊勢神宮に参拝しても、津の国府阿弥陀(こうあみだ)に参らねば片参宮”という。そんな故事にあやかる訳ではないが、津城趾を見学して伊賀の上野城を見学しないでおくのは、なんとなく心残りである。昨日の雨を降らした前線も東に抜けて幸い本日は晴れるというので、思い切って伊賀市の上野公園まで出かけてきた。高虎式築城の特徴の一つとされる30mの高石垣を一度見ておきたかった。 筆者らの年代には、伊賀市という呼称はどうもまだなじめない。三重県の北西部に位置する伊賀市は、5年前の平成16年(2004)11月に上野市・伊賀町・島ヶ原村・阿山町・大山田村・青山町の6市町村が合併して誕生した。この新しい市は、北は滋賀県、西は京都府、奈良県とそれぞれ接している。特に旧上野市は、古来より都(飛鳥、奈良、京都など)に隣接する交通の要衝として栄え、また伊賀忍者や俳聖松尾芭蕉のふるさとでもあり、俗に伊賀上野とも呼ばれてきた。
鉄道を利用して伊賀上野城を訪れるには、JR関西本線の「伊賀上野」駅を利用する方法と近鉄大阪線の「伊賀神戸」駅を利用する方法がある。いずれの場合も、近鉄の伊賀線(伊賀鉄道)に乗り換えて最寄りの「上野市」駅で下車、そこから徒歩で5分ほど歩くことになる。
「上野市」駅の横にある地下道を通って線路の反対側に出ると、目の前を国道163号線が東西に走っている。道路の反対側に市役所の建物があり、その脇から一直線に北に延びる緩やかな坂道が続く。坂道をたどれば、2〜3分で上野公園の入り口に到着する。
公園を入ると、すぐ右手に「芭蕉翁記念館」がある。記念館に立ち寄らずにそのまま進むとレストハウスの前に出る。レストハウスの横手で道が二手に分かれ、右へ進めば、すぐのところに「伊賀流忍者博物館」がある。左へ進めば、芭蕉の旅姿をイメージして建てられた「俳聖殿」がある。その先で、左手に続く石段を登れば、伊賀上野城の天守閣の前の広場に出る。
広場から見上げた三重三層の大天守閣は、紺碧の空を背景にして高さ10mの基台の上にすっくとそびえていた。その美しい姿が鳳凰がまるで翼を休めているように見えることから、伊賀上野城は「白鳳城」という雅号を持つ。残念ながら、小天守閣は修理中で覆屋に囲まれていた。
|
昭和初期建築の模擬天守閣でも年輪を感じさせる建造物
現在、高さ10mの天守台の上にそびえている三層の天守閣は、厳密な意味では復元された天守閣ではない。藤堂高虎が築いたのは五層の天守閣であって三層の天守閣ではない。しかもその天守閣は、慶長17年(1612)9月に当地を襲った大暴風で、完成寸前に倒壊してしまった。当時の設計図も絵図面も残っていないため、どのような天守閣だったかは不明としか言いようがない。
天守台への石段を登ると、受付がある。天守閣を見学するにはさらに右側の階段を進めばよいが、受付の左に小天守閣があり、内部に「忍び井戸」が掘られていた。この井戸に関して、有名な話が伝えられている。伊賀上野城の改修にあたって、徳川家康は「大阪城の攻略が万一不首尾に終わったときは、ワシは高虎とこの城に籠城する覚悟だから、三カ年の籠城に耐える城を造れ」と藤堂高虎に密命を下したという。
抜け穴は一里におよび、兵糧の搬入や、外部との連絡、援軍を場内に引き入れる通路としての利用が考えられたという。万一、城が落城した場合、この通路を利用して忍びの者を城内に潜入させて攪乱することも考えたとのことだ。そこで、小天守閣に忍びの者を常駐させ井戸の監視にあたらせた。そのため、「忍びの井戸」と呼ばれている。 天守閣の玄関入口には、藤堂高虎の像が置かれ、見学者を迎えてくれる。高虎の肖像画を下敷きにした彫刻だろうが、どうも間延びした顔からは戦国武将の厳しさは伝わってこない。一階では、藤堂家ゆかり遺品が並べられ、藤堂高虎の子文書展が開催されていた。その中で特に注意を引いたのは、鳥が翼を広げたような形の黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬりとうかんなりかぶと)である。伝承によれば、高虎が豊臣秀吉から拝領したもので、後に高虎が一族の 藤堂良重に与えている。良重はこの兜を着用して大阪夏の陣に参戦したが、 木村重成の軍と戦って討ち死した。
高虎はこれを「手柄の討死」と讃え、良重の弟で9歳になったばかりの良次に家督を継がせた。同家は伊賀上野城下にあって藤堂家の重臣として仕え、遺品の兜を家宝として大切に保存してきたが、近年上野市に寄贈された。この現物がこの城に保管され展示されている。
しかし、伊賀上野城見学の最大の目玉は、やはり本丸西側の内堀沿いに築かれた高石垣であろう。慶長16年(1611)に藤堂高虎が伊賀上野城を大改築したときに、現在の姿に改修したと伝えられている。東を除く三方に高く積まれた石垣は、総延長が320mに達し、高さは根石から測って15間、すなわち29.7mもあり、日本一を競う高さだそうだ。 石垣の縁には、一部の箇所を除いてフェンスが設けられていない。端に立って下を覗きこむと、その圧倒的な高さに思わず足がすくむ思いがした。当地は伊賀忍者の故郷である。強靱に鍛えられた忍者でも、30mの石垣を素手で上ってくるのは容易ではなかったであろう。あるいは、伊賀忍者の総帥・服部半蔵に忍者の体力の限界を確かめた上で、高虎は15間の高さを決めたのかも・・・と、ふと思ったりした。 |