名築城家の藤堂高虎が手がけた各地の近世城郭
 |
| 冬枯れの不忍池 (2009/02/28 撮影) |
作家の童門冬二氏は、その著書『二番手を生ききる哲学』の中で、藤堂高虎の生き様に対して面白い評価を与えている。高虎は”自ら選んで、二番手主義を生き抜いた人”であるという。人間誰しもこの世に生まれてきたからには、何の分野においてもトップを目指したい。まして戦国時代に生まれた武士ならば、なおさらだ。誰もが一国一城の主になりたいという夢を持って生きた時代である。
 |
| 藤堂高虎の肖像画 |
だが、高虎はある目的のために、自ら選んで二番手で生きる生き方を選択した人間である、と童門氏は指摘する。トップに立って気苦労するよりも、自分を信頼し才能を買ってくれる主君に仕えて、自分が本当にやりたいこと、すなわち城つくり、城下町づくりで世に名を残したいと考えたという。
その根拠として、童門氏は次のような理由をあげている。高虎が生まれた弘治2年(1556)、信長はすでに22歳、秀吉は20歳、家康は14歳であり、戦国時代は大きく天下統一に向かって動き出していた。加えて、武士でありながら農業に従事していた郷士(ごうし)の次男として生まれたにすぎない高虎には、まともな家臣すら持たなかった。周回遅れでこの世に誕生した高虎は、どんな野望を抱いたとしても、これらの戦国武将に伍して天下を狙うのはもはや夢のまた夢だった。
さらに、巨漢だった高虎は槍働きで相応の名をあげることもできたはずだが、彼には技術者としての素質を兼ね備えていた。そうしたテクノクラートの資質が彼を名築城家の道を歩ませた、と童門氏は言う。戦場で戦うだけでなく、人命を守る為には築城技術も心得なくてはならない。そう考えた高虎は、信長の安土城の築城に参加して、積極的に城の縄張り、石積みといった築城の技術を学んだとされている。
 |
| 豊臣秀吉の肖像画 |
幸いなことに、高虎の生地・藤堂村にほど近い甲良庄には、古くから建築にまつわる高度な技術を蓄積した甲良大工(こうらだいく)集団がいた。琵琶湖を挟んで対岸の近江坂本には、穴太積み(あのうづみ)という野面石(自然石)の石工集団がいた。高虎は、頼み込んで彼らの作業を手伝い、築城の技術を学ぶと同時に、これらの技術集団との人脈を深めていった。羽柴秀長に仕えていた時には、秀長の居城があった大和郡山に近い法隆寺の工匠だった中井家とも親しくなり、後に徳川将軍家の「大工頭」となる中井正清とも一緒に築城を担当するようになる。
こうして築きあげた技術集団との人脈をバックに、やがて秀吉や家康の依頼を受けて各地で城を建設するようになる。その結果、築城家藤堂高虎の名は日を追って高まった。そして、関ヶ原の戦い以後は、家康の築城顧問として大阪城包囲網を形成するために、各地で城を新設したり改修している。だが、高虎が目指したのは、戦国時代の山城的な城郭ではない。家康が推し進める幕藩体制で天下泰平の世の到来を予期して、平和のシンボルとも言える美しい平山城や平城だった。そのため、高虎は近世城郭の創始者とされている。
それでは、高虎はどのような城を築いたのであろうか。主な城を年代を追って紹介しよう。
 |
| 現在の和歌山城 |
天正13年(1585)3月、羽柴秀吉は紀州攻めをおこない、紀北の雑賀一揆、粉河・根来寺、さらに紀南の諸勢力を平定した。紀伊平定後、副将として参陣した異母弟の羽柴秀長に秀吉は紀伊一国を与えた。これにより、秀長は和泉・大和に紀伊を加えて100万石の所領となし、名実ともに秀吉の片腕となった。
熊野地方は豊臣政権の木材供給地として重要視されていた。そのため、秀吉は若山と呼ばれていた当地に築城を命じ、自ら吹上の峰を城地に選定して縄張り(設計)を行ったとされている。秀吉は普請奉行に藤堂高虎を任じ、1年で築城を完成させている。
藤堂高虎にとって、和歌山城は最初の築城だった。彼は石垣普請に穴太衆、作事に大和大工衆の中井家を当てて城づくりを行なったとされている。
天正14年(1586)、豊臣秀吉と徳川家康は小牧・長久手で戦った。秀吉は和睦のため家康に臣従を要求し続けるが、家康はガンとして要求を拒絶した。そこで、秀吉は異父妹にあたる旭姫を家康に嫁がせ、さらに生母の大政所までも人質として岡崎城に送った。これにより、家康は大坂城に出向いて秀吉に謁見し、臣従を誓うことになった。
 |
| 徳川家康の肖像 |
秀吉は家康を迎えるために京都に屋敷を新築することにし、弟の秀長の推薦で藤堂高虎を作事奉行に命じた。縄張りを見せられた高虎は、その不備に築き、己の費用負担で縄張りの一部を変更し、警戒厳重な屋敷を独断で造り上げた。
その年の10月27日、大阪城で秀吉との謁見を済ませた家康は、11月1日、秀吉から贈られた京都の新しい屋敷に入った。ところが、屋敷の縄張りが秀吉から聞いていたのと全く異なっていた。不審に思った家康は藤堂高虎を呼び出して、その変更理由を問いただした。
高虎は、東海一の弓取りである徳川様の屋敷が敵に襲われることがあっては主人の恥と、その防備のため外構えや外門の作りを独断で変更したことを正直に話した。「その費用はどうされた?」と聞かれて、高虎は「それがしが負担いたしました」と答えたという。
これが、高虎と家康との最初の出会いだった。関白の弟羽柴秀長の家老でありながら、不測の事態を未然に防いでくれた高虎の行為に、家康は深く感謝し、その存在を深く心に刻んだ。この出会いがきっかけとなって、やがて高虎の人生が大きく変わっていくことになる。関ヶ原の戦いでは東軍の家康に味方し、その後は、徳川政権樹立のために家康の築城顧問として積極的に行動して大阪包囲網を形成していった。
 |
| 猿岡城址の碑 |
天正15年(1587)、秀吉は2年前の紀州および四国平定の際の高虎の戦功に対して、紀伊粉河(こかわ)2万石の領主に封じた。粉河城主となった高虎は粉河寺すぐ南に接する丘に城を築いた。その城跡は猿岡山城跡と呼ばれ、現在は秋葉権現神社公園として整備されている。
粉河城の遺構から、この城はかっての粉河寺の支城を改修した城郭だったと推測されている。天正13年3月の秀吉の紀州攻撃で、粉河寺が焼き討ちにあっている。高虎は粉河寺の再建に当たっていたから、粉河城にその拠点を置いたものと思われる。
文禄4年(1595)、豊臣(羽柴)秀長から後見を依頼された養子の秀保(ひでやす)が、療養中の大和十津川で不慮の死を遂げる(一説には、秀吉に粛正されたの説がある)。主家が廃絶となった藤堂高虎は、秀保の菩提を弔うため高野山に出家する。しかし、その才能を惜しんだ秀吉は腹心を高野山に送り説得して高虎を還俗させた。そして、伊予板島(現在の宇和島)7万石を与えた。
 |
| 宇和島城の天守閣 |
板島には中世に築かれた丸串城という城郭があり、高虎の前任大名によって板島城と改名されていた。高虎がその板島城に入城すると、天守や高い石垣をもち、最高所に本丸を置くなど典型的な一二三段の梯郭式の平山城に変えていった。また、この城は東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接していたため、海城(水城)でもあった。
宇和島城は海辺に築かれ、海水を巧みに利用した縄張りは、この城を近世城郭へと改築した藤堂高虎の得意とする手法で、後に築城した伊予今治城や伊勢安濃津城にも大きな影響を与えている。城の外郭は、上から見ると不等辺5角形をしており、随所に築城の名手と言われた高虎ならではの工夫が見受けられたという。現在見られる天守などの建築は後任の伊達氏によるものであるが、縄張りそのものは藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌慶長6年、現在の近江大橋西詰のすぐ南側に突き出た地に、家康の天下普請第1号として新しい城を築かせている。近江膳所城である。近江から京へ入る東海道を押さえると同時に、大阪方に備える役割を担った築城だった。築城にあたっては、藤堂高虎に縄張りさせ、諸国の大名に普請を命じている。
 |
| 膳所公園の湖岸に残る石垣の一部 |
琵琶湖畔には京極高次の居城だった大津城があった。関ヶ原の戦いで高次は家康に味方したため、大津城は西軍の砲撃に晒され完全に破壊された。当初、高虎は大津城を修復することを考えたようだが、破壊のひどさに修復は無理と判断して、膳所に新しく築城することにした。ただし、経費節減のため、用材や石垣は大津城から運んだという。
高虎が築いた膳所城は、湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(やぐら)が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に素晴らしかった。現在は、膳所城の本丸跡が、湖岸道路沿いにある膳所公園として整備され、公園内の湖岸には石垣の一部が遺構として残っている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、藤堂高虎は福島正則と共に徳川軍の先陣で活躍した。その功で12万石加増され、伊予半国20万3千石の大名に取り立てられ、伊予国府城に入城した。しかし、高虎は発展性に乏しい山城の国府城を捨てて、海陸の交通や経済発展にも便利な越智平野中央の今張に新しく城を築く決心をし、「今張」を「今治」と改めた。
当時の高虎は、近江膳所城の縄張り(設計)や伏見城の修築に多忙で、今治城の縄張りから原案づくり、工事の施工などすべてを、新しく召し抱えた重臣の渡辺勘兵衛を当てている。高虎と勘兵衛は同郷の顔見知りだった。
 |
| 海面に美しい影を落とす現在の今治城址 |
ただ、高虎は一つだけ条件をつけた。建物には白壁を用いろというのである。それまでの城は、敵に威圧感を与える目的で、壁を黒く塗り烏城(からすじょう)と呼ばれていた。だが、徳川の時代になって天下泰平の世になることを予見した高虎は、平和な時代を象徴する城の建設を意図した。高虎によって、それまでの山城のような戦略的城郭から、平城の政治的城郭へと脱皮が図られたとされている。
今治城は慶長7年(1601)6月に普請が開始され、2年後の慶長9年9月に完成した。その広さはおよそ八町十六間四方、現在の金星川以南、旭町以東を城域とし、三重の堀に海水を引き入れ、南方は総社川、東方は瀬戸内海を自然の守りとした大規模な海城だった。
本丸には高さ八間の石垣の上に五層五階の天守閣があり、二之丸に藩主館、中堀以内に上級武士、外堀以内に侍屋敷が、要所要所には城門が9カ所、櫓が20カ所あったという。石積みは自然石をそのまま使う野面積みで、軟弱な地盤を補うために、本丸、二之丸の石垣の下に、犬走りを巡らせたていた。
慶長13年(1608)8月、藤堂高虎は徳川家康に伊賀・伊勢への転封を命じられ、22万石を領することになる。高虎は9月に伊賀上野城に入城し、10月には安濃津城に入城する。実はこの転封は家康が進める大阪包囲網の一環だった。
関ヶ原の戦いの結果、豊臣秀頼は摂津・河内・和泉三カ国65万石の一大名に転落したとされている。しかし、西国には加藤清正、福島正則、加藤嘉明をはじめとする豊臣恩顧の大名がいて、徳川政権は盤石ではなかった。そこで、家康は豊臣家滅亡を存命中の最大の課題として、さまざまな手を打っていく。高虎は家康の築城顧問として、大阪包囲網の形成に積極的に関わった。
当時、伊賀上野の城主は豊臣家ゆかりの筒井定次だったが、家康はお家騒動に介入して慶長13年6月に筒井氏を改易し、その後任として伊予宇和島城主だった高虎を転封した。伊賀は山国だが、周囲を山城・大和・近江・伊勢と接する要衝の地であり、畿内をうかがう絶好の土地だった。家康はそこにくさびを打ち込んだことになる。
 |
| 丹波篠山城趾 |
しかし、新しい任地を与えられながら、高虎がその居城を修築するのは3年後である。転封直後の高虎は、家康の内意を受けて、丹波篠山(ささやま)城や丹波亀山城などの公儀普請に積極的に関与し、大阪包囲網を強化することに従事している。
篠山城は篠山盆地のほぼ中央に位置する東西・南北ともおよそ400mの規模を持つ平山城だった。京都や摂津方面からの攻撃に対しては、篠山川によって防ぐことができる。高虎は直接現地で築城を指揮し、ほぼ半年で石垣普請を完了したと言われている。
篠山城は矩形の曲輪(くるわ)に北・東・南の虎口(こぐち、出入り口)が設けられ、いずれも立派な馬出(うまだし)が付属していた。また、高い石垣に犬走りが付属していて、高虎の代表的な作品だったとされている。二之丸には天守は築かれなかったが、代わりに立派な大書院が建設された。残念ながら1994年に焼失してしまい、現在は資料館として復元されている。
 |
| 伊賀上野城の復興天守閣 |
慶長16年(1611)の正月になって、藤堂高虎は伊賀上野城と安濃津城の改修に着手する。筒井定次の居城だった伊賀上野城は、大坂城の出城として大坂を守る形をとっていたのに対し、高虎は全く逆の立場の根城に造り替え、大坂を攻撃するための城とした。すなわち、本丸を西に拡張し、高さ約30mという高石垣をめぐらして南を大手とした。
建設中の五層の天守閣は、慶長17年(1612)9月に当地を襲った大暴風で倒壊し、再興されることはなかった。しかし、外郭には、10棟の櫓(二重櫓二棟、一重櫓八棟)と長さ21間という巨大な渡櫓(多聞)をのせた東西の両大手門や御殿などが建設された。現在は当時の内堀と石垣、昭和10年に建てられた天守閣が残っている。
 |
| 昭和33年に復元された安濃津城の三重隅櫓 |
三重県の津は古くは安濃津(あのうつ)と呼ばれ、重要な港が築かれるとともに、伊勢神宮への参宮街道の重要地点だった。永禄年間(1558 - 1570)に長野氏一族の細野藤光・藤敦父子がここに初めて城を築いた。永禄11年(1568)に伊勢平定に乗り出した織田信長は、長野氏を攻略して安濃津城に弟の織田信包(のぶかね)を入れた。
信包は城を拡張整備して、天正8年(1580)に五層の天守を築き、15万石を領していた。信長の死後、信包は秀吉に仕えたが、朝鮮の役で秀吉の機嫌を損ねて改易され、替わって文禄4年(1595)に冨田知信が5万石でこの城にはいった。 知信の子の信高は、関が原の戦いで東軍に味方したため、その前哨戦で毛利秀元に攻められて、天守閣は焼け落ち開城した。しかし、西軍を足止めした功により、2万石加増され、再び津城主に返り咲き、灰燼と化した津城の復興に力を注いだ。
慶長13年(1608)、家康は富田信高を伊予宇和島に移し、伊予今治から藤堂高虎を転封して伊賀伊勢22万石の領主とした。高虎は豊臣方との合戦を予想して、伊賀上野城の改修と平行して津城の大改造を行った。本丸の北側を広げて石垣を高くし、両端に三重層の櫓(やぐら)を新築し、内堀・外堀を整備した。しかし、本丸の天守閣は再建しなかった。
現在は、本丸と西の丸部分だけが残り、本丸内は近代的な洋風庭園、西の丸は日本庭園の「お城公園」として整備されている。かってはかなり広かった内掘も、埋められて幅が狭くなり、本丸と西の丸の一部(城の北と西側)が残っている。
|