2009/02/24
江戸のある街、谷中・根津界隈を散策する


京に谷根千(やねせん)と呼ばれる場所がある。下町にあたる文京区から台東区一帯の谷中・根津・千駄木周辺地区を指す地名である。しかし、公認された地名ではない。今から25年前、谷中・根津・千駄木の頭文字をとった情報雑誌『谷根千』が創刊され、この地域の歴史や文化、生活情報などを、地域おこしのために掲載してきた。その雑誌名がいつしかこの界隈を指す総称として使われるようになった。

根津・谷中付近のおすすめ散策コース
根津・谷中付近のおすすめ散策コース
根千は、山手線、本郷通り、東大、そして不忍池と上野公園に囲まれた地域で、東西2km、南北3km程の広さしかない。だが、東京を襲った大震災や第二次世界大戦の戦火を免れた町並みが多く、江戸から昭和の香りを色濃く今に残している。また、高台には七十余とも言われる寺社と谷中霊園があり、都心の近くにありながらあまり目立たない、言ってみれば隠れ里のような地域である。

玉都民として半世紀を過ごし、サラリーマン時代は通勤電車で毎日のように近くを通りながら、この年になるまで谷根千を一度も訪れたことがない。ところが、久しぶりに橿原から自宅に戻った筆者に、サラリーマン時代懇意にしていた同期入社の友人からメールが届いた。久しぶりに会おうという。ついては、谷中(やなか)あたりの霊園を中心にのんびり散策してみないか、と誘われた。

も二もなく彼の提案を受けて、本日の午前10時に最寄りのJR日暮里駅で会うことにした。彼の名前を仮にG君としておこう。10時きっかりにG君は駅の北改札口に現れた。彼はカメラに凝っていて、地方へ撮影に出かけていることが多い。そのためか、相変わらず日焼けした元気そうな顔に笑顔を浮かべて近寄ってきた。

君は、ある雑誌からお勧めの散歩コースの記事を見つけたと、そのルート図の切り抜きを用意していた。そして、今日はこの地図に示されたコースを歩いて見ようと、先に立って駅の構内を出て御殿坂に向かった。あいにくの空模様で、本日は一日曇り空である。所によっては、小雨がぱらつくかもしれいないとの予報が出ていた。

夕焼けの名所「夕やけだんだん」から朝倉彫塑館へ

谷中銀座商店街に続く夕焼けだんだん
「夕やけだんだん」の階段上から谷中銀座商店街を見下ろす

君が最初に案内してくれたのは、「夕やけだんだん」という変わった名前の坂である。御殿坂の緩やかな傾斜道を上りきると、車道が突然階段に変わる。それほど急でも長くもない階段だが、その先に谷中銀座商店街が続いている。都内有数の夕焼けの名所で、夕日の当たる時間にここから見下ろす風景は、東京の原風景を思わせるという。

かし、谷中銀座のはるか向こうに、今では高層マンションが数棟そびえていて、西の空の眺望を遮っている。おそらく、この坂道に立っても、以前のような美しい夕焼けは見えないにちがいない。G君の話では、以前来たとき、付近には野良猫が沢山たむろしていたという。猫の姿を探してみたが、一匹も見あたらなかった。


朝倉彫塑館
朝倉彫塑館の正面玄関
君は「夕やけだんだん」の階段を下りず、来た道を少し戻ると左折して狭い道に入った。階段で足止めをくった車がどんどんこの道に入ってくる。少し歩いたところに、黒っぽい洋風の建物があった。朝倉彫塑館(あさくらちょうそかん)である。明治から昭和にかけて我が国の彫刻界で活躍し、「東洋のロダン」と称された朝倉文夫(1883 - 1964)がアトリエ兼住居として使って建物である。

和61年(1986)、遺族からが台東区に建物が寄贈され、現在は、当時の雰囲気をそのまま残しながら、彼の作品を展示して一般に公開する彫刻の博物館として運用している。ここには、石膏原型が国の重要文化財に指定された朝倉文夫の代表作である「墓守」をはじめ、「進化」、「時の流れ」といった彫刻、大隈重信や9世団十郎などの人物像、猫などの動物像などが、約50点常設展示されている(入館料、400円)。

朝倉彫塑館の一階平面図
朝倉彫塑館の一階平面図(パンフより)
倉彫塑館は鉄筋コンプリート造りのアトリエと、丸太と竹をモチーフにした数寄屋造りの住所で構成されている。朝倉自身が設計し、材料を吟味して、幾人もの優秀な大工との共同作業で7回も増改築を繰り返しながら昭和10年頃完成させたという。いわば建物自体が彼の作品であると言える。

塑館の中央に、「五典の水庭」と呼ばれる庭園がある。自然の湧き水を利用した日本庭園で、朝倉本人が自己反省の場として設計したそうだ。庭園には儒教の五常を象徴した「仁・義・礼・智・信」の五つの巨石が配され、四季折々に白い花を咲かせる木が植えられている。

一階のアトリエ 五典の水庭
一階のアトリエ (絵はがきより) 五典の水庭 (絵はがきより)

階に行けば、「朝陽の間」と呼ばれる和室の客間があり、その中央に大きな円卓が置かれている。廊下から外を見ると、近くの建物に屋根に中腰の女性の彫刻が置かれている。係員に聞いてみると、建物は初期のアトリエで、その屋根の頂きに据えられた彫像も朝倉の作品とのことだ。

リッパを履き替えて屋上に上がると、そこは屋上庭園になっていて、観葉植物だけでなく、樹木まで植えてある。玄関ホールの上にあたる屋上の端には、ロダンの「考える人」に似た彫像が下界を見下ろしていた。屋上に来て、新しい作品の構想を練る朝倉文夫その人のイメージのように思えた。

倉文夫は無類の猫好きだったようだ。常に身の回りに15〜16匹の猫を飼っていたという。「吊された猫」など、猫のさまざまな姿態を描いた作品も多い。不思議なのはいずれの猫の彫像にもヒゲがない。ヒゲのような細い線は彫刻では表現しづらいのだろう。

谷中のシンボルの一つ、観音寺の築地塀

中(やなか)という呼称は、上野台と本郷台という二つの台地の谷間に位置していることから、江戸時代以前に付けられたとされている。徳川家康が江戸に幕府を開くと、この付近に多くの寺院が集められた。そのため、谷中界隈は今でも実に寺が多い。少し歩いただけでも道の左右でいくつもの山門に出くわす。山門から中を覗いてみると、狭い境内に墓がところ狭しと並んでいる。朝倉彫塑館の少し先にも、道路の反対側に寺があった。観音寺である。

観音寺の山門
観音寺の山門
門の前で、G君が左右を見ながらしきりの首を傾げている。
「どうしたのか?」
と聞くと、
「以前来たときあった築地塀が無くなってしまった」
という。言われてみれば、山門の両側に延びているのは確かに築地塀ではない。大谷石を積んだような石塀である。しかし、石塀は最近築かれたようにも見えない。

音寺は慶長16年(1611)に神田北寺町に創建された古刹で、当初は長福寺と称していた。慶安元年(1648)にいったん谷中清水坂に移され、その後延宝8年(1680)になって現在地に移されたという。さらに、享保元年(1716)には、寺名を長福寺を観音寺に改称している。徳川吉宗の長子・長福丸と同名では、恐れ多いとの理由からだった。

観音寺の築地塀
観音寺の瓦を何層にも重ねた築地塀

音寺の塀は、補強のため層状に板や瓦を何層にも埋め込まれている築地塀(ついじべい)だった。関東大震災で一部崩壊したものの、戦災を免れることができた。その後は、小さな崩れを起こすたびに補修されて来たという。長さ37.60m、高さ2.06mの築地米は、平成4年(1992)に「台東区まちかど賞」を受賞した。以来、谷中のシンボルの一つとして、人々に親しまれてきた。

の観音寺の築地塀が消えてしまったと、G君は不思議がったが、彼の思い違いだった。塀は観音寺の正面ではなく、左手を入った二間にも満たない狭い路地に沿ってのびていた。彼はカメラを構えながら舌打ちした。築地塀に沿って工事表示の三角帽子が並べられていて、残念ながら絵にならないようだ。

谷中霊園の中にある天王寺の五重塔跡

谷中霊園の中のメインストリート「さくら通り」
谷中霊園の中のメインストリート「さくら通り」

音寺の先に、七福神巡りで知られる長安寺がある。その寺の前で道を左に取り住宅街の中を進むと、やがて谷中霊園(やなかれいえん)の「ぎんなん通り」にでる。谷中霊園は、東京都台東区谷中一丁目にある都立霊園である。

治維新の後、政府は神仏分離政策を進めたため、神式による葬儀が増えた。しかし、墓地の多くは寺院の所有であったため、埋葬場所の確保が難しく、公共の墓地を整備する必要にせまられてた。そこで、明治7年(1874)に明治政府は天王寺の寺域の一部を没収し、東京府管轄の公共墓地として谷中墓地(やなかぼち)を開設した。昭和10年(1935)には谷中霊園と改称したが、旧称の谷中墓地で呼ばれることが多い。

谷中霊園の案内
谷中霊園の案内図
中霊園の面積は、約10万平米で、およそ7,000基の墓がある。その中には、徳川家15代将軍慶喜や鳩山一郎・横山大観・渋沢栄一など多くの著名人も眠っている。

中霊園の中央園路は、南北に築かれた「さくら通り」である。かっての天王寺の参道で、現在はその名の通り、園路を覆う桜の枝に花が咲くと、まるで桜のトンネルのようになり、桜の名所として知られている。「ぎんなん通り」と「さくら通り」が交差する角に、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなった四天王寺の五重塔の跡がある。

幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなった五重塔跡
幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなった五重塔跡

の五重塔跡は東京都の史跡に指定されている。跡地に建てられた説明板によると、最初の五重塔は正保元年(1644)に完成した。しかし、明和9年(1771)の火事で焼失し、19年後の寛政3年(1791)に近江国高島郡の棟梁・八田清兵衛ら48人によって再建された。塔は総ケヤキ造りで、高さは11丈2尺8寸(34.18m)、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月に塔は東京市に寄贈され、震災や戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていた。

長谷川一夫の墓
長谷川一夫の墓
かし、昭和32年(1957)7月6日、放火により五重塔は紅蓮の炎に包まれて炎上、焼失してしまった。塔跡を囲ったフェンスに、3枚の写真パネルが張られている。焼失前の谷中五重の塔、昭和37年7月に炎上する五重の塔、そして、無残に焼け落ちた塔の姿である。焼け跡からは男女の焼死体が発見されたという。塔跡には、現存する方三尺の中心礎石と四本の柱礎石が残っている。すべては花崗岩である。

通りを挟んで五重塔跡とは反対側に、往年の銀幕のスター長谷川一夫の墓があった。

最後の征夷大将軍だった十五代徳川家当主・慶喜の墓

寛永寺の徳川慶喜公墓所
寛永寺の徳川慶喜公墓所

中霊園では、もう一カ所訪れてみたい墓所があった。最後の征夷大将軍となった徳川慶喜の墓である。慶喜が眠る墓は寛永寺の徳川家墓地にある。五重塔跡の近くで「さくら通り」と交差する「ぎんなん通り」を東に向かって進むと、寛永寺の徳川家墓地にぶつかる。

の途中に、徳川慶喜公墓所の標識が出ていた。その矢印にしたがって進むと、徳川家墓地の前に出たが、墓地の周囲は土塀で囲まれている。入口の鉄柵は施錠されていて、いくつかの円墳が遠望できるだけである。墓所に入れないものと諦めかけたが、念のための土塀の周囲を回って反対側に出たら、墓所の正面に出ることができた。

徳川慶喜の墓
徳川慶喜の墓(中央の神式円墳が徳川慶喜のもの)

後の征夷大将軍だった徳川慶喜は、天保8年(1837)水戸藩の徳川斉昭らの七男として生まれた。幕末の激動の嵐が吹き荒れていた慶応2年(1866)2月に第15代将軍に任じされたが、慶応3年(1867)10月には明治天皇に政権返上を上奏した(大政奉還)。明治維新政府によって蟄居を命じられるが、明治13年(1880)には罪を許され、大政奉還の功によって正二位に叙された。明治30年(1897)には東京に転居し、明治35年(1902)には公爵を授けられている。そして、最後の徳川将軍は大正2年(1913)11月22日、77歳で永眠した。

昭和43年に建てられた慶喜公事蹟顕彰
昭和43年に建てられた慶喜公事蹟顕彰碑
代の徳川将軍は、次に示すように家康が日光東照宮に埋葬されたのをはじめ、増上寺、輪王寺、寛永寺に葬られている。将軍経験者で一般墓地に葬られたのは慶喜だけである。
●日光東照宮(初代家康)
●増上寺(二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂)
●日光輪王寺(三代家光)
●寛永寺(四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定)
●谷中霊園(十五代慶喜)

の中の正面には、明治100年祭にあたる昭和43年(1968)11月に建てられた慶喜の事蹟顕彰碑建っている。その奥の左側の石製の神式円墳が徳川慶喜のもので、右側は夫人のものとのことだ。因みに、ここから歩いて10分程の寛永寺墓地内の徳川家墓地には、昨年のNHK大河ドラマの主人公だった篤姫の墓ががある。

下町風俗資料館付属展示場になっている旧吉田屋酒店

下町風俗資料館付属展示場(旧吉田屋酒店)
下町風俗資料館付属展示場(旧吉田屋酒店)

川慶喜の墓から「さくら通り」に戻り、南に向かって歩いていくと、「言問通り」の角に旧吉田屋酒店があった。谷中6丁目にあった明治時代の酒屋を移築してきたもので、出桁造(だしげたづくり)と呼ばれる重厚な雰囲気を醸し出す様式の建物である。

在は、下町風俗資料館の付設展示場として一般に公開されている。建物の中を覗いてみると、明治から昭和に至るまでの酒屋道具の数々が展示されていた。

地蔵信仰の寺、東叡山浄名院

東叡山浄名院の門
東叡山浄名院の門
言問通り」を寛永寺坂方面に向かうと、道路面から一段低いところに寺の山門があった。「東叡山浄名院」の札がかかった享保年間建立の木造の門である。浄名院は天台宗の寺で、寛文6年(1666)、圭海大僧都によって創建された。当初は浄円院という山号で、東叡山寛永寺三十六坊のひとつとされ、四代将軍家綱の母・寶樹院の菩提寺だった。東叡山と山号を冠しているが、享保8年(1723)に浄名院と改名し、寛永寺とは独立した寺として存続してきた。

の寺は、八万四千体地蔵の寺として知られている。その名の通り、一歩境内に入ると、左手に青銅製の巨大な地蔵菩薩座像がそびえ、その奥におびただしい数の地蔵菩薩の石造が、整然と並べられている。

境内に累々と並ぶ石造地蔵菩薩像
境内に累々と並ぶ石造地蔵菩薩像

内に立てられた説明板によると、浄名院が地蔵信仰の寺になったのは、明治の第三十八世妙運和尚の代からである。妙運は25歳で日光山の常観庵に籠もった時、地蔵信仰を得て一千体の石造地蔵菩薩像建立の発願を立て、明治9年に浄名院に入った。12年で願が満ちるとさらに八万四千体の大誓願に進み、各地から多数の信者も加わって地蔵石仏の寄進が増え続けている、という。

然と並べられた石仏の間には、細い道が設けられていて、寄進した信者が花を手向けてお参りできるようになっている。たまたま一体の仏像の前で袈裟を着た僧侶二人が読経している場面に遭遇した。その石仏を寄進した信者が水子供養か何かを依頼したのであろう。

僧が通りかかったので、本当に8万4千体も石仏があるのか聞いてみた。妙運の大誓願が満願に達するのは、まだまだ先のようだ。

徳川将軍家の祈祷所・菩提寺として近世には強大な権勢を誇った寛永寺

言問通り」を挟んで浄明院とは反対側にある寛永寺は、徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、上記のように徳川歴代将軍15人のうち6人がここに眠っている。寛永寺は天台宗の関東総本山で、山号を東叡山(とうえいざん)、すなわち「東の比叡山」と号し、京の宮都の鬼門(北東)を守る比叡山にあやかって、江戸城の鬼門を守る寺として建立された。創建は寛永2年(1625)、そのため当時の元号をそのまま寺号としている。

寛永寺の根本中堂
川越喜多院から移築された寛永寺の根本中堂

永寺を開いたのは、徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海である。この寺の創建に関しては、次のような逸話が伝えられている。

川家康は元和2年(1616)4月17日、駿府城で死んだ。享年75歳だった。その直前に、家康のブレーンだった崇伝と天海、それと腹心の本多正純を枕元に呼んで、こう遺言した。
「わしが死んだ後は、棺は久能山に納めよ。仏会(ぶつえ)は江戸の増上寺で行え。位牌は岡崎の大樹寺に置け。そして、一周忌の後は、下野の日光山に廟を建てよ」
そして、こう付け加えた。
「日光山に建てる寺の縄張りは、藤堂高虎に命ずる」

堂高虎とは、外様大名でありながら幕閣に準じる信任を家康から得ていた伊勢津藩主である。築城技術に優れた才能を見せ、異能の武将として知られていた。彼は元和2年の秋から日光東照宮の工事にかかり、約半年後に完成した。そして、二代将軍秀忠の許可を得て、久能山に仮埋葬されていた家康の霊柩を日光に移した。

のあと、高虎は秀忠に次のような建言をしている。
「今、江戸市中で別荘地になっている忍ケ丘に~君家康公をお祀りする一寺をお造りになってはいかがでしょうか」
忍ケ丘とは現在の上野の山である。当時この地には、藤堂高虎の下屋敷の他に、弘前藩主・津軽信牧と越後村上藩主・堀直寄の屋敷もあった。秀忠は、高虎の申し出を快諾し、三大名の屋敷を公収して寺地にあてると、天海を開基として「東叡山寛永寺」を建立させた。秀忠が隠居した後3代将軍徳川家光の寛永2年(1625)に、今の東京国立博物館の敷地に寺の本坊が完成したため、この年を寛永寺の創立年としている。

上野動物園の中にある旧五重塔
上野動物園の中にある旧五重塔
7世紀半ばからは、皇族が寛永寺の歴代住職を務め、また日光山や比叡山をも管轄する天台宗の本山として機能したため、近世には寛永寺は強大な権勢を誇った。その寛永寺も幕末の慶応4年(1868)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ主要な堂宇を失ない壊滅的打撃を受けた。

在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、明治12年(1879)、川越喜多院の本地堂を移築したもので、寛永寺本来の建物ではない。この根本中堂の内陣には、秘仏本尊薬師三尊像が厨子内に安置されている。五重塔は寛永8年(1631)に建立された。しかし、8年後の寛永16年(1639)に焼失したので同年ただちに古河城主・土井利勝によって再建された。それが現在上野動物園の敷地内にある旧寛永寺五重塔(重要文化財)である。


徳川綱吉霊廟の勅額門(重文)
徳川綱吉霊廟の勅額門(重文)
京国立博物館の裏手に、寛永寺墓地がある。この墓地には、徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は、旧国宝に指定されていた貴重な歴史的建造物だったが、昭和20年(1945)の空襲で大部分を焼失してしまった。かろうじて焼け残った綱吉霊廟勅額門などの建造物が重要文化財に指定されている。

年のNHK大河ドラマで話題になった天璋院篤姫は十三代将軍・家定に嫁ぎ、明治16年(1883)に亡くなった。彼女の墓も夫家定の墓所の隣にあり、好物だったとされるビワの木が植えられているという。昨年秋に篤姫の墓所が一般公開されて話題になった。

江戸時代に作られた我が国独自の時計を展示する大名時計博物館

永寺から根津神社へ向かう途中に、大名時計を陳列している博物館があるというので寄ってみることにした。寛永寺を出て、東京国立博物館の脇を通り、黒田記念館が角にある交差点に出た。そこを右折して、東京芸術大学の前を抜けた。時計を見ると、すでに正午を過ぎていたので、通りに面した学生相手のレストランに立ち寄って食事をした。

大名時計博物館の入口
大名時計博物館の入口
び「言問通り」に出て、善光寺坂を下って行った。そこまでは覚えているが、後の道筋はG君任せである。細い路地裏をくねくねと進んで、ようやく目的の博物館の所在(谷中2−1−27)を示すロードマップが表示されている場所に出た。博物館は、住宅街の中にある「あかじ坂」を登り切った一角に位置している。

塀に囲まれた屋敷の前まで来て、「ここだ」と言われたとき、思わず「ここが・・・」と絶句した。しかし、廃屋のような敷地の入口に古びた門柱が立っていて、「大名時計博物館」と書かれた表札が掲げてある。門を入ると、草木が野放図に生い茂った庭の奥に質素な建物が建っていた。呼び鈴を押すと、入口のドアが開き、若い男性が顔をのぞかせた。アルバイトで受け付けを任されているとのことだった。

大名時計博物館の入口
入場券に示された
櫓置時計
内は、陶芸家の上口愚朗が生涯をかけて収集した大名時計が、四方の壁に沿って展示されている。 大名時計の他にも、外国製時計や明治・大正期の日本製時計や参考文献なども展示してある。室内の様子を撮影して良いかと受付の男性に聞くと、駄目ですという返事が返ってきた。

名時計とは、江戸時代に大名お抱えの時計職人が、手作りで制作した国産の時計をいう。その制作技術や、機構、材質に優れたものがあり、美術工芸品としても世界に類がないとのことだ。掛時計や、櫓(やぐら)時計、台時計、尺時計、枕時計、印籠時計、置時計などさまざまな種類があるようだ。

れらの大名時計の特徴は、ヨーロッパで使用された24時間の定時法とは異なって、江戸時代の不定時法を用いている。つまり、日の出から日の入りまでと日の入りから日の出までをそれぞれ6等分した日本独自の時刻を採用していた。夜明けと日暮れの時間は季節によって時間が変わるため、この時刻の決め方では昼と夜の長さが変わり、一時(いっとき)の長さも変わる。それ故、不定時法と呼ばれた。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が創始したと伝えられる根津神社

根津神社の正面
根津神社の正面

京区根津1−28−9に鎮座する根津神社の由緒書きによれば、この神社を創建したのはなんと日本武尊だと伝えている。祭神は須佐之男命・大山咋命・誉田別命の三体で、元は千駄木の別の社地に祀られていた。それを現在の地に遷座させたのは、徳川幕府の五代将軍・綱吉とのことだ。

根津神社の唐門
根津神社の唐門
吉は、世継が定まった際に、自分の屋敷地を献納して、諸大名に命じて天下普請で権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・透塀・楼門を造営させた。世継ぎの決定と根津神社の遷宮がどのように結びつくのかよく分からないが、神社の造営は宝永3年(1706)に完成した。そのときの建物は全てが現存し、国の重要文化財に指定されている。

要文化財に指定された建物群を見たかったが、楼門や社殿は現在補修中で覆屋で目隠しされていた。根津神社はツツジの名所としても知られている。境内にある約2000坪のツツジ苑には3000株のツツジが毎年4月下旬には見頃を迎える。ツツジ苑の中を乙女稲荷の小さな鳥居の放列が続いていた。それをたどっていくと六代将軍家宣公の胎盤が納められている 胞衣塚(えなづか)があった。

江戸川乱歩に心酔したマスターが経営する喫茶店「乱歩」

りは「不忍(しのばず)通り」を歩いて千駄木に出ると、三崎坂と団子坂の谷間にある店で「菊見せんべい」を家の土産に買った。G君のお薦めである。彼の話では、このあたりは江戸川乱歩が職業作家として世に出た「D坂の殺人事件」の舞台となったゆかりの場所だそうだ。D坂で起きた密室殺人事件を“私”と素人“明智小五郎”が追及していくストーリだそうだが、あいにくと筆者は読んでいない。G君はD坂とは団子坂をもじったものだと教えてくれた。

喫茶店「乱歩」の看板
喫茶店「乱歩」の看板
の江戸川乱歩の作品に惚れ込んだマスターが、店の名前まで「乱歩」としてしまった喫茶店が谷中三崎坂商店街にある。そこで一休みしてから帰ろうと、G君が誘った。折も折、なんとか持ちこたえていた空から小雨がぱらつきだした。

茶店「乱歩」はその名にふさわしい不思議な雰囲気の店である。一見したところ山小屋風の古びた建材がむき出しの狭い空間の中に、カウンターとテーブル席が5つほど置かれている。カウンターの周りにはいろんな物が雑然と置かれ、壁にはやたらと猫の写真や絵が飾ってある。聞いてみると、マスターの愛猫で、店の看板猫の三代目「良介」だそうだ。

されたコーヒーをすすっていると、何だか半世紀も時代を遡ったような錯覚に襲われた。学生時代、こうした雰囲気の店によく出入りしていたような気がして、不思議と気分が落ち着いた。谷中界隈を案内して貰った礼を言い、一時間近くG君と雑談した。彼は、この夏友人二人を案内してヒマラヤへ写真撮影に行く計画を今練っているそうだ。海抜6千メートルあたりにキャンプを張るらしい。ヒマラヤの山中で見る空の青さを楽しげに語ってくれた。彼の話を聞きながら、40年近く前に海抜4000mのラパス市から眺めたイリマニ山(Nevado del Illimani、最高峰の標高6,439m)を思い出した。山は濃紺の空の下で雪を抱いて、いつも銀色に光り輝いていた。


2009/02/25作成 by pancho_de_ohsei
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