橿原日記 平成21年1月25日

明日香村の二カ所で行われた現地説明会

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石神遺跡の現地説明会で熱心に発掘担当者の話を聞く参加者たち (撮影 2009/02/14)

境界を求めて二カ所で実施されてきた発掘調査

日、珍しく橿原考古学研究所(以下、橿考研)と奈良文化財研究所(以下、奈文研)からそれぞれ電子メールが届いた。いずれも現在実施している発掘調査の現地説明会の開催通知だった。

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文研は昨年の秋から石神遺跡で第21次発掘調査を実施している。一方、橿考研も同様に飛鳥京跡で第161次発掘調査を実施している。興味深いことに、奈文研は石神遺跡の東限を、橿考研は飛鳥浄御原宮の北限を、それぞれ確認するための調査だった。

して、これまた偶然にも、説明会の日にちが重なった。それが本日である。他に講演会の聴講や史跡探訪の予定が入っていたが、いずれもキャンセルして、2カ所で開かれる現地説明会に参加することにした。開始時間は飛鳥京跡が午前10時30分から、石神遺跡が午後1時30分からであり、二度にわたって愛用のチャリンコを駆って明日香を訪れることになった。

日は全国的に「春一番」が吹き荒れた。予報とは裏腹に橿原では日中は大した風も吹かなかった。だが、寒冷前線の通過で夜半になって暴風雨が吹き荒れ、その余波が夜明けまで続いた。幸いアパートを出る頃は雨も止み風もかなりおさまった。静岡あたりでは、正午の気温が25.1度という馬鹿陽気だというのに、明日香は今にも泣き出しそうな雨雲の下をけっこう冷たい風が吹き抜けていた。采女の袖吹き返す爽やかな春風を期待したが、それはまだ先のことらしい。



飛鳥京外郭北部から出土した掘立柱建物遺構と石組み溝

平成18年度の調査で検出した石組み遺構
平成18年度の第157次調査で検出した
東西石組溝SD0605
鳥京跡で、橿考研は昨年11月から第161次発掘調査を実施してきた。調査の目的は、天武天皇が即位した飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)を史跡に指定するために必要な北端の確定だった。飛鳥京跡の遺構や自然地形から、浄御原宮の東・西・南の端はほぼ確定している。

側についても、平成18年度の第157次調査で東西石組溝SD0605(幅1.7m、深さ70cm)が見つかり、宮の北端を示す溝とみられた。また平成19年度の第158次調査では、その溝の東90mのところで東西掘立柱列SA0740とSA0741、および南側の砂利敷SH0739を検出している(ただし、現地説明会は行われなかった)。

【参考】上記のSD0605とかSA0740といった記号は、検出された遺構を客観的に表示するために用いられる名称で、SAは塀、SBは建物、SDは溝、SEは井戸、SHは石敷を示す。また数字の最初の二桁は調査年度、次の二桁はその年度に見つかった遺構の順番を示す。たとえば、SD0605は2006年度の調査で5番目に見つかった溝の遺構を示す(ただし、番号の振り方は、調査機関によって異なる)。

トレンチが設定された場所 トレンチの位置
トレンチが設定された場所(*) トレンチの位置(*)

回の調査では、3カ所にトレンチ(試掘坑)が設定された。1トレンチは、第158次調査で検出された東西掘立柱列と砂利敷を確認しその様相を明らかにする目的で、前年度のトレンチを再発掘し、これを南北に拡大した。2トレンチは、第157次調査で見つかった東西石組溝を東に延長した部分を検出するために、1トレンチの北に設定された、さらに、第157次調査と第158次調査の中間地点で東西石組溝を確認するために、3トレンチが掘られた。

れらのトレンチの発掘で、東西石組溝SD0605が東へ延長した部分を確認する予定だった。溝の延長部分が検出できれば、浄御原宮は東西約500m、南北約800mの規模だったことが確定する。

大規模建物跡(東→西) 石敷き広場
大規模建物跡(東→西) 建物跡の南に広がる石敷き広場(南→北)

2トレンチで検出した建物跡
2トレンチで検出した建物跡
ころが、1トレンチと2トレンチから出土したのは石組み遺構ではなくて、東西約15m、南北7m以上の大規模な建物跡だった。建物には南北の両方に長さ1.8mの庇(ひさし)があり、また南辺と東辺に幅0.45mの雨落溝があったことから、切り妻造りの建物だったと思われる。この建物跡の南側には、東西8m、南北15mの石敷き広場が昨年見つかっている。

の大規模建物跡は何なのか非常に興味がもたれるが、それよりもっと重要な問題を提示することになった。建物跡は想定された北限ラインから北に展開していたのである。2トレンチで見つかったのは予定していた石組溝ではなく、この建物の北の部分である。その意味するところは大きい。飛鳥浄御原の北限が想定ラインの北に広がる可能性が出てきたのだ。

3トレンチで検出された東西石組溝) 3トレンチで検出された東西石組溝(北→南)
3トレンチで検出された東西石組溝(東→西) 3トレンチで検出された東西石組溝と
掘立柱建物跡(南→北)

は、北限ラインと想定された石組み遺構はどうなったのか。建物跡から西へ約60mの所に設定した3トレンチで基幹排水路とみられる石組み溝が見つかった。検出した溝は東西方向の長さが約8m、幅が約1.8m、深さが約0.8mで、最大約0.7mの石で護岸され、拳(こぶし)の大きさの底石が敷き詰められていた。

の溝の延長部は建物跡が見つかった調査区には届いていない。おそらく建物に遮られておそらく南に曲がっているのであろう。また、3トレンチでは、溝の北側で掘立柱建物跡が見つかっている。溝が北端である可能性は低くなった。


早々と現説会場に詰めかけた愛好家たち
早々と現説会場に詰めかけた古代史愛好家たち

地説明会は10時30分からと聞いていたが、余裕をみて少し早めに会場に着いた。すでにかなりの古代史愛好家や考古学ファンが詰めかけていた。彼らの多くは、飛鳥浄御原宮の規模が北限想定ラインを超えて大きく北に広がる・・・とのセンセーショナルな新聞報道に興味を抱いて足を運んできたのであろう。説明会は予定を15分ほど前倒しして開始された。

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最大の推定範囲
(産経新聞より)
の北限を区切ると思われた東西石組溝を東に延ばした先に溝はなく、大型建物跡が立ちはだかっていた。そればかりではない。溝の延長を確認するために発掘した3トレンチでは、溝の北側に掘立柱建物の跡まで出現した。東西石組溝は宮の境界ではなく、単なる排水溝だったのか? 想定外の発掘成果に研究者は頭を悩ませているという。

もそも飛鳥京とは、藤原京遷都が行われる694年以前にこの地に営まれた舒明天皇の飛鳥岡本宮(630〜636年)、皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643〜645年)、斉明天皇・天智天皇の後飛鳥岡本宮(661〜667)、天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮(686〜694年)の総称であり、研究者が便宜的に用いている呼称にすぎない。

が、時代とともに宮の規模が拡大していったことは容易に想像できる。特に、645年に始まる大化の改新以降は、律令体制の整備とともに律令官僚が勤務する役所は拡大の一途をたどったにちがいない。浄御原宮の外郭と呼ばれている地域には役所のような建物が並んでいたのかもしれない。だが、一部の新聞が予想しているように、斉明天皇の時代(655―661年)に築かれた迎賓館の跡とされる石神遺跡まで宮の範囲が拡大するのだろうか? 

現場で質問に答える発掘担当者
現場で質問に答える発掘担当者

武天皇は母の斉明天皇の宮居だった後岡本宮をそのまま踏襲して浄御原宮としたが、迎賓館設備も宮の一部として利用したなら、宮の東西幅は一挙に拡大し、北限ラインは600mも北上し石神遺跡を含む南北1.4キロに達してしまう。しかし、浄御原宮と石神遺跡との間には、蘇我馬子が一族の威信をかけて建立した飛鳥寺がある。発掘調査によって、創建時の飛鳥寺は東西200m、南北300mという広大な寺域を有していたことがすでに確認されている。

飛鳥寺遠望
現在の飛鳥寺遠望
時は我が国の仏教の興隆期にあたるとは言え、仏教寺院まで王宮の中に取り込むというのは、いささか不自然である。やはり飛鳥寺の寺域と境を接するあたりに北限の境界線があったと見なすべきではないだろうか。迎賓館が王宮とは別の施設として少し離れて築かれていたと考えても不自然ではない。それよりも、天武天皇の時代、石神遺跡が迎賓館であり続けたという確証はない。

回発見された大型建物跡について、古代史の和田萃(わだあつむ)京都教育大学教授は、新聞紙上で面白い見解を語っておられる。この建物が建っていた一角だけ意図的に特別に張り出して見張りのような守衛施設だった可能性もあると言うのだ。しかし、建物跡の南で幅15mにわたって砂利を敷き詰めた広場があったことから、政治的儀礼のために使われた建物跡の可能性が高いのでは・・・。



石神遺跡の東限を区画する東門跡の基壇の検出

鳥川に架かる甘樫橋の近くに、旧飛鳥小学校の建物を利用した明日香村埋蔵文化財展示室がある。その小学校の敷地の東から北に広がる田圃の中から、明治35年(1902)から36年にかけて二つの石像物が掘り出された。

飛鳥資料館の庭にある須弥山石
飛鳥資料館の庭にある石人像
つは巨石を加工して組み合わせた「須弥山(しゆみせん)石」(高さ2・3m)、もう一つは男女が抱き合う姿を現した「石人像」(同1・7m)と呼ばれる噴水施設である。このあたりの地名を「石神」というところから、石造物が出土した場所は「石神遺跡」と名付けられた。

って、この石神遺跡付近は「飛鳥浄御原宮」の跡と推定されたことがあった。しかし、その後の発掘調査で、須弥山石や石人像の他にも、内側が黒い蝦夷(東北地方)独特の特色を持つ土器や新羅からの長頸壺,中国からの緑釉椀などが出土している。そのため、現在では斉明天皇の時代(655―661年)には、蝦夷(えみし)や隼人(はやと)など辺境の民や、外国使節を饗宴する迎賓館的な施設があったと考えられている。


石神遺跡の調査区
石神遺跡の調査区(*)
文研は昭和56年(1981)から27年にわたって継続的石神遺跡を発掘してきた。昨年度の第20次調査では斉明朝の遺跡の東限施設と見られる南北方向の総柱建物が見つかった。そこで今年度の第21次調査では、その東限施設の南の続きを確認し、あわせて周辺の状況を明らかにする目的で、480平米の調査地を設定して昨年10月から調査を実施してきた。

文研は2月12日、瓦葺きの東門と思われる建物跡基壇を発見したと記者発表した。基壇の周囲には、斉明朝のものと見られる幅1〜1.5m、深さ20cmの溝が巡らされ、そこから多数の瓦片が出土した。しかし、これらは軒先に飾る瓦ではなかった。そこで、東門は棟の周囲だけ瓦ぶきにし、後は檜皮(ひわだ)葺きにしていたと、奈文研は推定している。そして、7世紀当時、瓦葺きの屋根は寺院以外ほとんど例がなく、貴重な発見であると位置づけている。

門跡の周辺では、数十年間に建物や塀などの改築を幾度も繰り返した痕が見つかっている、また、東門も2回の建て替えを経て瓦ぶきになったらしく、奈文研は施設の拡充・改装に合わせ、門も見栄えよくしたのでは、と考えているとのことだ。

お、今回の調査で7世紀代の石神遺跡の変遷が明らかになり、南北約180m、東西180mの規模と推定される石神遺跡の全容がほぼ把握できるようになった。そのため、奈文研の27年間の発掘調査は今回で終了し、今後は膨大な資料の整備にあたるという。


上空から見た発掘現場(*)
上空から見た発掘現場(*)
分的に瓦を葺いた東門跡が見つかった程度の発掘なら、たいした内容でもあるまいと、橿考研の現地説明会の帰りに立ち寄ってみた。説明会は午後1時半からであり、見学者はまだほとんど来ていなかった。空模様も怪しくなってきて、何時降り出してもおかしくない。雨になれば、2時間後にまた出向いてくるのを躊躇するかもしれない。そのため一通り発掘現場を見ておきたかった。

地説明会資料を貰って、見学通路に立って驚いた。L字形に掘削された調査地の周囲に巡らされた通路から見下ろす現場は、4色のテープで建物や溝の跡が示されているが、複雑すぎて何がなんだか分からない。これでは、説明会でじっくりと出土遺構の見方を説明して貰わなければお手上げだと悟って、いったんアパートに戻ることにした。

発掘現場(北→南) 発掘現場(西→東)
発掘現場(北→南) 発掘現場(西→東)


気予報では、午後から晴れを予想しているが、橿原地域は相変わらず今にも降り出しそうな空模様である。雨具を用意して、説明が始まる15分前に会場に戻った。驚いたことに、わずか2時間足らずの間、何処から沸いたのかと思うほど大勢の見学者で会場は埋め尽くされていた。

現地説明会の会場風景
現地説明会の会場風景

地説明会の資料には、今回の調査区で見つかった遺構を時代別にカラー表示されていて、それに建物や塀、溝などの配置が赤線で表示してある。分かりづらい配置図だが、有り難いことに各時期ごとの遺構変遷図を用意してくれていた。

発掘現場(北→南) 遺跡の変遷図(*)
今回の調査区(*) 遺跡の変遷図(*)

掘担当者は、ボードに貼りだしたこれらのイラストに基づいて、石神遺跡の変遷を説明してくれた。彼の説明を要約すると、出土した土器の形式からこの遺跡は7世紀前半と後半に2回大がかりな整地が行われたことが分かるという。さらに、整地の時期や整地上に築かれた遺構の重複関係から、出土遺構の変遷は便宜的に8時期(T〜[期)に分けることができるとのことだ。

初の整地は7世紀前半に実施され(T期)、その後に南北に塀が3列築かれている(U期)。塀1と塀3は、どうやら通路を区切る塀だったようだ。7世紀の中頃のV期になると、遺跡の東限を区切る門のような建物2と建物3、およびこれらを結ぶ塀が築かれ、斉明朝の頃に建物3が瓦葺きの門に建て替えられたようだ。

屋根瓦を葺いた東門遺構あたりを説明する説明員
屋根瓦を葺いた東門遺構あたりを説明する説明員

度目の整地は7世紀の後半に行われ(W期)から7世紀末(Z期)にかけて、溝や建物が盛んに造り替えられた。しかし、7世紀末以降([期)になると、調査地の中では溝5が一本南北に築かれていたにすぎないという。

のように説明されると、石神遺跡の機能がおぼろげながら見えてくる。土木工事好きの皇極天皇の時代から重祚(ちょうそ)して斉明天皇の時代には、この地に迎賓館的施設が築かれていたに違いない。それが7世紀後半の天武天皇の頃になると、新たに整地し直して律令官僚が勤務する官衙(かんが)的な施設に作り変えたのではあるまいか。

掘現場に表示された遺構の配置が分かりづらかったのは、二度目の整地が行われる前と後の遺構の状態が同時にテープで示されていたためだ。発掘現場では二度目に整地された表土はすでにはぎ取られ、露出されているのは最初の整地の後に築かれた遺構である。それにもかかわらず、二度目の整地以後の遺構の配置も示されていた。

瓦片が埋まっていた溝1
瓦片が埋まっていた溝1
スコミに報道された”瓦葺きの東門と思われる建物跡”がどのあたりか気になり、説明員の話に耳を傾けた。検出したのは東門の柱穴ではなく門が建っていた基壇(土台)部分である。調査区のイラストでW期に該当する溝1が緑に表示されている。この幅1〜1.5m、深さ20cmほどの溝跡から多数の瓦片が出土した。しかも溝跡は途中でコの字形に東側に飛び出している。この部分が基壇に登る階段が取り付けられていた箇所と思われる。出土した瓦の中には軒先を飾る瓦が見あたらない。そこで奈文研は「棟の周囲だけ瓦葺きにし、後は檜皮(ひわだ)などを葺いたのでは」と考えた。


土品を展示したテントでは、今回見つかった瓦片を含めて、今までの発掘調査で発見された出土品の一部を展示していた。この時代の出土品としては定番の土師器や須恵器の他に、新羅系の土器や破片も並べられていた。完形の新羅系土器の胴の周りには、様々な文様が施されていたが、いつ頃の物か聞くのを忘れた。

出土遺物−瓦片 出土遺物−新羅系土器
出土遺物−瓦片 出土遺物−新羅系土器

出土遺物−土師器 出土遺物−須恵器
出土遺物−土師器 出土遺物−須恵器


【参考】石神遺跡の発掘調査は今回の第21次調査で最後とのことだが、筆者は過去に第17次、第18次、第20次の発掘調査に対する現地説明会にも参加している。参考までに、その時のレポートを下記しておく。
橿原日記 平成16年9月23日
橿原日記 平成18年3月11日
橿原日記 平成19年12月15日



<*)現地説明会資料から流用

2009/02/14作成 by pancho_de_ohsei return