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| 石神遺跡の現地説明会で熱心に発掘担当者の話を聞く参加者たち (撮影 2009/02/14) |
境界を求めて二カ所で実施されてきた発掘調査先日、珍しく橿原考古学研究所(以下、橿考研)と奈良文化財研究所(以下、奈文研)からそれぞれ電子メールが届いた。いずれも現在実施している発掘調査の現地説明会の開催通知だった。
そして、これまた偶然にも、説明会の日にちが重なった。それが本日である。他に講演会の聴講や史跡探訪の予定が入っていたが、いずれもキャンセルして、2カ所で開かれる現地説明会に参加することにした。開始時間は飛鳥京跡が午前10時30分から、石神遺跡が午後1時30分からであり、二度にわたって愛用のチャリンコを駆って明日香を訪れることになった。 昨日は全国的に「春一番」が吹き荒れた。予報とは裏腹に橿原では日中は大した風も吹かなかった。だが、寒冷前線の通過で夜半になって暴風雨が吹き荒れ、その余波が夜明けまで続いた。幸いアパートを出る頃は雨も止み風もかなりおさまった。静岡あたりでは、正午の気温が25.1度という馬鹿陽気だというのに、明日香は今にも泣き出しそうな雨雲の下をけっこう冷たい風が吹き抜けていた。采女の袖吹き返す爽やかな春風を期待したが、それはまだ先のことらしい。 |
石神遺跡の東限を区画する東門跡の基壇の検出飛鳥川に架かる甘樫橋の近くに、旧飛鳥小学校の建物を利用した明日香村埋蔵文化財展示室がある。その小学校の敷地の東から北に広がる田圃の中から、明治35年(1902)から36年にかけて二つの石像物が掘り出された。
かって、この石神遺跡付近は「飛鳥浄御原宮」の跡と推定されたことがあった。しかし、その後の発掘調査で、須弥山石や石人像の他にも、内側が黒い蝦夷(東北地方)独特の特色を持つ土器や新羅からの長頸壺,中国からの緑釉椀などが出土している。そのため、現在では斉明天皇の時代(655―661年)には、蝦夷(えみし)や隼人(はやと)など辺境の民や、外国使節を饗宴する迎賓館的な施設があったと考えられている。
奈文研は2月12日、瓦葺きの東門と思われる建物跡基壇を発見したと記者発表した。基壇の周囲には、斉明朝のものと見られる幅1〜1.5m、深さ20cmの溝が巡らされ、そこから多数の瓦片が出土した。しかし、これらは軒先に飾る瓦ではなかった。そこで、東門は棟の周囲だけ瓦ぶきにし、後は檜皮(ひわだ)葺きにしていたと、奈文研は推定している。そして、7世紀当時、瓦葺きの屋根は寺院以外ほとんど例がなく、貴重な発見であると位置づけている。 東門跡の周辺では、数十年間に建物や塀などの改築を幾度も繰り返した痕が見つかっている、また、東門も2回の建て替えを経て瓦ぶきになったらしく、奈文研は施設の拡充・改装に合わせ、門も見栄えよくしたのでは、と考えているとのことだ。 なお、今回の調査で7世紀代の石神遺跡の変遷が明らかになり、南北約180m、東西180mの規模と推定される石神遺跡の全容がほぼ把握できるようになった。そのため、奈文研の27年間の発掘調査は今回で終了し、今後は膨大な資料の整備にあたるという。
現地説明会資料を貰って、見学通路に立って驚いた。L字形に掘削された調査地の周囲に巡らされた通路から見下ろす現場は、4色のテープで建物や溝の跡が示されているが、複雑すぎて何がなんだか分からない。これでは、説明会でじっくりと出土遺構の見方を説明して貰わなければお手上げだと悟って、いったんアパートに戻ることにした。
天気予報では、午後から晴れを予想しているが、橿原地域は相変わらず今にも降り出しそうな空模様である。雨具を用意して、説明が始まる15分前に会場に戻った。驚いたことに、わずか2時間足らずの間、何処から沸いたのかと思うほど大勢の見学者で会場は埋め尽くされていた。
現地説明会の資料には、今回の調査区で見つかった遺構を時代別にカラー表示されていて、それに建物や塀、溝などの配置が赤線で表示してある。分かりづらい配置図だが、有り難いことに各時期ごとの遺構変遷図を用意してくれていた。
発掘担当者は、ボードに貼りだしたこれらのイラストに基づいて、石神遺跡の変遷を説明してくれた。彼の説明を要約すると、出土した土器の形式からこの遺跡は7世紀前半と後半に2回大がかりな整地が行われたことが分かるという。さらに、整地の時期や整地上に築かれた遺構の重複関係から、出土遺構の変遷は便宜的に8時期(T〜[期)に分けることができるとのことだ。 最初の整地は7世紀前半に実施され(T期)、その後に南北に塀が3列築かれている(U期)。塀1と塀3は、どうやら通路を区切る塀だったようだ。7世紀の中頃のV期になると、遺跡の東限を区切る門のような建物2と建物3、およびこれらを結ぶ塀が築かれ、斉明朝の頃に建物3が瓦葺きの門に建て替えられたようだ。
二度目の整地は7世紀の後半に行われ(W期)から7世紀末(Z期)にかけて、溝や建物が盛んに造り替えられた。しかし、7世紀末以降([期)になると、調査地の中では溝5が一本南北に築かれていたにすぎないという。 このように説明されると、石神遺跡の機能がおぼろげながら見えてくる。土木工事好きの皇極天皇の時代から重祚(ちょうそ)して斉明天皇の時代には、この地に迎賓館的施設が築かれていたに違いない。それが7世紀後半の天武天皇の頃になると、新たに整地し直して律令官僚が勤務する官衙(かんが)的な施設に作り変えたのではあるまいか。 発掘現場に表示された遺構の配置が分かりづらかったのは、二度目の整地が行われる前と後の遺構の状態が同時にテープで示されていたためだ。発掘現場では二度目に整地された表土はすでにはぎ取られ、露出されているのは最初の整地の後に築かれた遺構である。それにもかかわらず、二度目の整地以後の遺構の配置も示されていた。
出土品を展示したテントでは、今回見つかった瓦片を含めて、今までの発掘調査で発見された出土品の一部を展示していた。この時代の出土品としては定番の土師器や須恵器の他に、新羅系の土器や破片も並べられていた。完形の新羅系土器の胴の周りには、様々な文様が施されていたが、いつ頃の物か聞くのを忘れた。
【参考】石神遺跡の発掘調査は今回の第21次調査で最後とのことだが、筆者は過去に第17次、第18次、第20次の発掘調査に対する現地説明会にも参加している。参考までに、その時のレポートを下記しておく。 |