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| 現地説明を熱心に聞く考古学ファン(2007/02/07 撮影) |
古代の仏教寺院・高麗寺とは・・・
第U期調査は、昭和59年から63年(1984〜88)にかけて寺域の確認するために実施された。現在行っている第V期調査は、高麗寺跡の史跡整備のための基礎資料の収集を目的としたもので、平成16年に開始され今年度はその4年目にあたる。第U期調査から数えれば、第9次調査にあたるという。 これまでの発掘調査によって、以下のような古代寺院がこの場所に存在したことがすでに明らかにされている。
●高麗寺の創建は古く、610年前後には寺として存在した。この根拠として、我が国最古の飛鳥寺の屋根を飾った単弁八葉軒丸瓦と同笵(型)の瓦がまとまって出土していることがあげられる。
山間部などの特殊な立地条件がなければ、寺院の正面にあたる中門や南門は、伽藍の中軸線上に配置されるのが通例である。何故か、高麗寺の中門と南門は金堂の正面に位置していていて、その特異な配置が謎とされている。しかし、このような配置を採用したのには、それなりの理由があったはずであり、以前からこの寺の発掘調査には興味を抱いていた。平成18年の12月には、第7次発掘調査の現地説明会に足を運んでいる(平成18年12月2付け橿原日記参照)。 その高麗寺跡の第9次発掘調査を実施してきた木津川市教育委員会は去る2月3日、伽藍の回廊北側に位置する講堂の基壇の外装が三重構造だったと発表し、仏像を安置する金堂並みの高い格式だったとみられるという。講堂の基壇に入念な外装が施された例は極めて珍しく、市教委は「飛鳥時代の古代寺院の伽藍配置の変遷が分かる貴重な成果」としている。 通常、仏教寺院の堂宇の中では講堂は金堂より格式が一段低い。それなのに、金堂並の格式をもった建物だったとは何を意味するのか。興味が沸いて本日の現地説明会に参加することにした。説明会は午前10時半、午後1時、同2時半の3回の行われるというので、午後1時の説明会に参加すべくアパートを出た。 |
疑問が残る飛鳥創建期伽藍帰りの列車の中で、現地説明会資料を読み返してみた。先ほど聞いた発掘責任者の話で引っかかる箇所があった。彼は、創建時の高麗寺は西暦610年ころ作られたと言った。それは良い。だが、寺の規模は一・二堂程度で構成された捨宅寺院、草堂程度だったと考えられると言った。その頃、七堂伽藍が完備した寺は飛鳥寺以外にはなく、本格的に伽藍が整備され寺容が整うのは7世紀中葉以降だとも言った。はたして、そうだろうか? 通説に従えば、7世紀初めの頃の仏教は「氏族仏教」だった。仏教寺院を競って建立したのは、それぞれの有力氏族たちであり、彼らは仏教の教義を理解し仏教に帰依した上で寺を建立したのではない。それまでの首長墓に代わる権力の象徴として、当時としては最新最高の仏教文化を具現した施設である寺を建立した。 そうであれば、邸宅の一部を仏堂に改造して仏を祀り個人的に信仰した草堂のような施設だったとは思えない。草堂のような寺と言えば、現在の飛鳥寺安居院(あごいん)がイメージとして浮かぶが、あの程度の堂宇では、権力の象徴としてふさわしくない。まして、当時は仏教護持者の聖徳太子が存命の時期である。太子が建立したとされる四天王寺のように、塔・金堂・講堂が南北中軸線に並ぶ伽藍様式がもてはやされたことであろう。 当時の仏教寺院の隆盛を物語る有名なデータが『日本書紀』に記されている。推古天皇32年9月に実施した調査によれば、その当時存在した寺の数46,僧の数816,尼僧の数569,合計1385人だったとのことだ。推古天皇32年は西暦624年にあたるが、これらの数字は当時の仏教界の実勢を反映していると筆者は考えている。 と言うのは、こうした調査の原因となった事件がその年の4月に発生している。一人の僧侶が斧で祖父を打った。彼だけでなく、仏道に仕えながら悪逆非道を働く僧侶が増えている。そのことが女帝の耳に入り、彼女は僧正・僧都を任命して僧尼を検校することを命じた。その結果、実施されたのがこの調査だった。単純計算で、46の寺院に1385人の僧尼が止宿していたとすれば、一寺平均30人である。こうした数字からも、当時の寺院が単なる草堂程度の規模ではなかったことが容易に想像できる。 蘇我氏の飛鳥寺を皮切りに、中央豪族たちは競って氏寺の建立に精を出した。推古天皇の治世36年間に建立されたと確認される寺址は,今日、奈良県21,大阪府6,京都府4,兵庫県1,岡山県1の計33ヵ寺に達する。高麗寺はそのうちの一つだった。そして、高麗寺を建立したのは、当時南山城に盤踞していた高句麗系の渡来氏族・狛(こま)氏だった。 狛氏がどのような氏族だったのか、筆者は寡聞にしてよく知らない。高句麗系氏族としては、本国が滅亡した後に遺民を率いて武蔵国の高麗(こま)郡を開いた亡命王族の高麗若光(こまのじゃっこう)が有名だが、南山城の狛氏は別系統で、はるか以前からこの地に住み着いた渡来氏族のようだ。 仮想敵国として朝鮮半島で戦った好太王の時代は別として、我が国と高句麗との通交はかなり古い時代から行われていた。仏教関係でも想像される以上に深い関係があったとされる。高句麗から来朝し蘇我馬子の仏法の師となった恵便(えびん)や、聖徳太子の仏教の師となった慧慈(えじ)、彩色(絵の具)、紙墨、碾磑(てんがい、大きな石臼)の製作技術を伝えた曇徴(どんちょう)などの名が『日本書紀』には記されている。彼ら以外にも史書に名を連ねない多くの高句麗僧が来朝していたはずである。 彼らは仏法弘通のためという崇高な善意で我が国にやって来たのではない。仏教文化の伝授という餌で、百済に対抗して我が国との親善を図ろうとする高句麗王の特別の指令を受けてやってきた言わば親善大使だった。当然のことながら、同国出身者を束ねる南山城の狛氏と交流をもったはずである。 その狛氏が一族の象徴として氏寺の建立を思い立ったとき、これらの渡来僧たちはもちろん、生国である超大国高句麗からのさまざまな支援があったと思われる。高麗寺創建の背景に、こうした支援母体の存在を想定すると、創建高麗寺が捨宅寺院ていどの寺であったはずがない。高麗寺の開祖は慧慈とする説があるくらいで、それなりの堂宇を兼ね備えた仏教寺院だったにちがいない。このように想像するのは、筆者の思い過ごしだろうか? |