橿原日記 平成21年2月7日

高麗寺(こまでら)跡:中金堂から講堂への変化を示す三重基壇出土

aaaa
現地説明を熱心に聞く考古学ファン(2007/02/07 撮影)

古代の仏教寺院・高麗寺とは・・・

aaaaa
鳥時代に創建され、白鳳時代に伽藍整備がなされたとされる古代寺院・高麗寺。その寺院跡の発掘の歴史は古く、今から70年も昔にさかのぼる。最初の発掘調査は昭和13年(1938)に2度行われた。これを第T期調査という。その成果を受けて、回廊に囲まれた主要な伽藍の一部が昭和15年(1940)に国の史跡に指定された。現在、史跡指定を記念する碑が高麗寺跡の入口に建っている。

U期調査は、昭和59年から63年(1984〜88)にかけて寺域の確認するために実施された。現在行っている第V期調査は、高麗寺跡の史跡整備のための基礎資料の収集を目的としたもので、平成16年に開始され今年度はその4年目にあたる。第U期調査から数えれば、第9次調査にあたるという。

れまでの発掘調査によって、以下のような古代寺院がこの場所に存在したことがすでに明らかにされている。

●高麗寺の創建は古く、610年前後には寺として存在した。この根拠として、我が国最古の飛鳥寺の屋根を飾った単弁八葉軒丸瓦と同笵(型)の瓦がまとまって出土していることがあげられる。
●高麗寺は7世紀の後半の660年代に伽藍として完全整備が行われた。天智天皇が母の斉明天皇の菩提を弔うために建てたとされる川原寺の軒瓦と同じ瓦も出土している。
●整備された主要伽藍の配置は、東に塔、西に金堂を並置し、それを囲む回廊が北で講堂、南で中門に接続するいわゆる法起寺式を採用している。
●回廊の規模は、南北方向が約200尺(0.297m/唐尺で計算して59.4m)、東西方向が約208尺(61.6m)であり、ほぼ正方形に整然と計画された伽藍設計に基づいて建立されている。
●高麗寺が何時廃絶されたかは文献上ではわからないが、平安時代の土器である灰釉陶器が見つかっていることから、おそらく平安時代の末頃(12世紀代)には廃れたものと思われる。

aaaaa
市教委作成の高麗寺跡整備構成図
(現地説明会資料よりアレンジ)
ころで、高麗寺には大きな謎があった。高麗寺は自然の地形に左右される山間部に建てられた寺院ではなく、木津川の段丘の平坦な場所に建てられている。しかも法起寺式伽藍配置が採用されている。それにもかかわらず、中門や南門が当初から伽藍の中軸線上ではなく、大きく西に偏った金堂の正面に位置しているのだ。

間部などの特殊な立地条件がなければ、寺院の正面にあたる中門や南門は、伽藍の中軸線上に配置されるのが通例である。何故か、高麗寺の中門と南門は金堂の正面に位置していていて、その特異な配置が謎とされている。しかし、このような配置を採用したのには、それなりの理由があったはずであり、以前からこの寺の発掘調査には興味を抱いていた。平成18年の12月には、第7次発掘調査の現地説明会に足を運んでいる(平成18年12月2付け橿原日記参照)。

の高麗寺跡の第9次発掘調査を実施してきた木津川市教育委員会は去る2月3日、伽藍の回廊北側に位置する講堂の基壇の外装が三重構造だったと発表し、仏像を安置する金堂並みの高い格式だったとみられるという。講堂の基壇に入念な外装が施された例は極めて珍しく、市教委は「飛鳥時代の古代寺院の伽藍配置の変遷が分かる貴重な成果」としている。

常、仏教寺院の堂宇の中では講堂は金堂より格式が一段低い。それなのに、金堂並の格式をもった建物だったとは何を意味するのか。興味が沸いて本日の現地説明会に参加することにした。説明会は午前10時半、午後1時、同2時半の3回の行われるというので、午後1時の説明会に参加すべくアパートを出た。



2つの新しい発見があった高麗寺跡第9次発掘調査

aaaaa
高麗寺付近のマップ(所在地:木津川市山城町上狛)
麗寺跡は、京都府相楽(そうらく)郡山城(やましろ)町大字・上狛(かみこま)に所在する、と記憶していた。寺は、西流する木津川右岸のなだらかな河岸段丘の上に築かれていた。おそらく古代の渡来氏族・狛(こま)氏の氏寺として建てられたのだろう。木津川沿いの道を往来する当時の人々は、必ずこの寺を仰ぎ見たにちがいない。

ころが、その所在地がいつの間にか相楽郡から木津川市に変わっていた。調べてみると、相楽郡の山城町と木津町、加茂町の3町が2007年3月12日に合併して、新しく木津川市が誕生していた。古代史愛好家にとって、地名がころころ変わるのは決して歓迎すべきことではない。せっかく覚えた地名を馴染みのない地名にインプットし直すのは、それなりに脳にストレスがかかる。

堤防に立てられた木津川の標識
堤防に立てられた木津川の標識
れはともかく、高麗寺跡はJR奈良線の「上狛」駅の東およそ600mほどの所にある。JRの踏切を渡り、共同墓地の間を抜けて発掘現場に向かう道は「高麗寺道」と呼ばれている。前回見学会に訪れたため、周囲の景観はよく覚えている。

回は説明会までに時間があったので、木津川の堤防を歩いてみる気になった。現在は、泉大橋の手前から国道163号線が東へ延びているが、この道は高麗寺跡の前面あたりで木津川の堤を走るようになる。泉大橋のたもとに出て、堤防を東に向かって歩いた。途中でJRの踏切をまたいだが、枯れ草が茂った堤の上を川風が緩やかに渡っていく。堤の上で、一人の男性が腰を下ろして、川面を見ながら昼食を食べていた。手元に説明会の資料があった。午前中の説明会参加者だったのだろう。

土交通省が立てた木津川の標識には、この辺りが大阪湾から約61.1キロにあたると書いてある。古代の主な交通手段は陸路よりも水路だったかもしれない。そうであれば、木津川を行き来する旅人は船べりから高麗寺の南門の屋根に輝く鴟尾を仰いだことになる。

木津川の堤防から見た発掘現場
木津川の堤防から見た発掘現場

を降りて、田んぼの中の小径を高麗寺跡の方向に近づいた。発掘現場を遠景からカメラにおさめたかった。同じ事を考えた老人がいて、小型自動車でやってくると、同じようにカメラを向けていた。その場所から発掘現場までは直線距離で100mもなさそうだ。だが、間に田んぼがあり、その先がブッシュになっている。田のあぜ道から現場に近づけるか、と老人に聞くと、無理だという。かなり遠回りをしなければならない。覚悟を決めて歩き出すと、後から彼の車が追いかけてきて、現場近くまで乗せてくれた。


今回の第9次発掘調査地
今回の第9次発掘調査地(現説資料より)
後1時ちょうど、金堂跡地で現地説明会か開始された。市教委の文化財保護室長が挨拶した後、今回の発掘と担当した社会教育課長補佐の中島正氏が発掘調査の概要とその意義を説明した。

島氏の説明によれば、今回の調査では昨年の第8次調査で検出した南門跡に続く築地塀の西辺と東辺付近、および講堂跡と北・西回廊跡の確認調査を行なうために、3カ所にトレンチが入れられた。そして昨年10月から実施してきた発掘の結果、二つの大きな成果が得られたという。その一つは、創建時の高麗寺の様子を探る糸口が掴めたこと、そして,もう一つは伽藍整備が行われた7世紀中頃の高麗寺の位置づけが分かってきたこと、だという。

新たに出土した南北溝に意味するもの

東辺の築地塀跡
東辺の築地塀跡
島氏の説明を要約すると次のようになる。先ず、今回の調査では、南門の東西に築かれた築地塀の史跡指定地内での最東端と最西端が確認できたが、思わぬ副産物が見つかった。それは西辺付近で築地塀を分断する上肩幅約3m、深さ約1.7mのV字形の南北溝である。その位置は西回廊の延長線から西側に平行線に築かれてていて、寺域内の排水溝だったと考えられるという。そして、この溝は高麗寺の伽藍が整備される以前から機能していたようだという。しかも、この溝の西は築地塀ではなく、上土塀(あげつちべい)に変わっている。

新たに見つかったV字形の南北溝
新たに見つかったV字形の南北溝

こで、考えられることは、この南北溝は飛鳥期に作られた伽藍の西辺外郭施設の可能性である。この南北溝と南門を挟んで対象の位置では、飛鳥期の軒瓦がほぼ完全な状態で出土している、とのことだ。そうであれば、創建時の高麗寺の東西の規模は50m程であり、南北線が伽藍の中心線上に来ることになる。

島氏の推理に従えば、創建時の寺は七堂伽藍を完備した寺院ではなく、せいぜい1〜2堂程度で構成される捨宅寺院で、草堂段階の寺だったようだ。そうであれば、塔や講堂は存在せず、ただ仏堂の前に門を構えた程度の寺だったことになる。そして、7世紀の660年代に伽藍を整備する段階で、何らかの理由で創建時の配置を一部温存した。こうした理解が可能ならば、中門や南門の位置が中軸線より西にぶれている謎も氷塊する。

三重に荘厳された講堂基壇から見えてくるもの

三重構造の講堂基壇が出土した状況
三重構造の講堂基壇が出土した北回廊と講堂の接続部付近

院の講堂は,通常横長の建物である。ところが、高麗寺の講堂基壇は東西約24m、南北約20mで、金堂の基壇とほぼ相似の正方形プランが採用されている。そのことは以前から分かっていて、注目されていたが、今回の調査で新たな事実が加わった。

発掘された三重基壇
発掘された三重基壇
発掘された三重基壇
三重基壇のイメージ(@最下部の石敷き 
A高さ15cmの土壇 B高さ75cmの瓦積み基壇)
(現説資料より)
麗寺の塔と金堂の基壇は、地覆石を用いずに平瓦を平積みにし、その下段周辺に5.5尺(1.65m)幅の石敷きを巡らしている。ところが、講堂の基壇では、B地覆石を用いて瓦を高さ75cmに平積みした後、Aその下段周囲に幅2.5尺(0.75m)、高さ15cm程度の、外縁を玉石で囲んだ土壇が巡らし、@さらにその周りに石敷きが巡らしてあった。つまり、講堂の基壇は三重構造の外装が施してあったのだ。

廊に囲まれた堂塔には格があり、基壇の高さでその格の違いを表している。一番基壇が高いのは、仏舎利を納めた塔であり、古代寺院では約5尺(1唐尺=29.7cm)を測る。次いで高いのは仏像を安置する金堂の基壇で、その高さは約4尺。仏法について僧たちが議論する講堂の基壇は、2尺5寸から3尺の高さにすぎない。

麗寺では、講堂基壇は塔・金堂に比べ高さは低いものの、外装は塔・金堂よりも入念に仕上げられている。それだけではない。講堂の外側で雨落ち溝が検出され、講堂の軒が非常に長く外側に延びていたことが分かる。それだけ組み物が複雑になり、手の込んだ豪華な建物だったことを彷彿とさせる。

三重基壇を説明する田中氏
メディア関係者に三重基壇を説明する中島氏
うした特異な基壇を持つ講堂が建立された理由として、中島氏は川原寺式伽藍配置の関係に注目されている。川原寺とは、661年に崩御した斉明女帝の冥福を祈るために天智天皇が建立した寺である。その創建年は特定されていないが、天智天皇がなくなる672年以前には創建されていたようだ。

原寺は、一塔二金堂様式の伽藍であったことが判明している。すなわち、正面に中金堂、手前東に塔、西に西金堂を配置している。塔と西金堂が並ぶ点は、法隆寺の伽藍配置と似ているが、位置は逆であり、また西金堂は南面せず東の塔と向かい合っている点が違っている。

の川原寺の伽藍配置と非常によく似た寺が、実は667年に近江遷都が行われた大津宮周辺で見つかっている。南滋賀廃寺(みなみしがはいじ)である。そして、南滋賀廃寺の主要部分を取り出すと、慶雲3年(706)に完成したとされる法起寺(ほうきじ)の伽藍配置になる。

川原寺式から法起寺式伽藍配置への変化
川原寺式から法起寺式伽藍配置への変化(現説資料より)

で述べたように、伽藍整備期の高麗寺には川原寺式の瓦が使用されている。このことは、高麗寺の伽藍を整備するにあたって、川原寺の存在が強く意識されたはずである。川原寺には、高麗寺の講堂に位置する場所に中金堂が建っていた。つまり、講堂であるとは言え、川原寺の中金堂を意識して、格式の高い建物を装うためさまざまな工夫が凝らされた。その証が三重基壇であり、軒先の長い屋根でり、講堂としては珍しい正方形のプランだった。中島氏によれば、それが高麗寺の講堂の特徴であるという。

2個の礎石が点在する講堂跡地
2個の礎石が点在する講堂跡地
して、同紙は「高麗寺の講堂は、川原寺式の中金堂から、法起寺式の講堂に変わったばかりのものと思われる」と分析している。高麗寺の伽藍整備がなされた段階は法起寺の伽藍配置の出発点と位置づけられ、当時の仏教政策の最先端にあった寺と位置づけられる、と言うのだ。



疑問が残る飛鳥創建期伽藍

りの列車の中で、現地説明会資料を読み返してみた。先ほど聞いた発掘責任者の話で引っかかる箇所があった。彼は、創建時の高麗寺は西暦610年ころ作られたと言った。それは良い。だが、寺の規模は一・二堂程度で構成された捨宅寺院、草堂程度だったと考えられると言った。その頃、七堂伽藍が完備した寺は飛鳥寺以外にはなく、本格的に伽藍が整備され寺容が整うのは7世紀中葉以降だとも言った。はたして、そうだろうか?

説に従えば、7世紀初めの頃の仏教は「氏族仏教」だった。仏教寺院を競って建立したのは、それぞれの有力氏族たちであり、彼らは仏教の教義を理解し仏教に帰依した上で寺を建立したのではない。それまでの首長墓に代わる権力の象徴として、当時としては最新最高の仏教文化を具現した施設である寺を建立した。

うであれば、邸宅の一部を仏堂に改造して仏を祀り個人的に信仰した草堂のような施設だったとは思えない。草堂のような寺と言えば、現在の飛鳥寺安居院(あごいん)がイメージとして浮かぶが、あの程度の堂宇では、権力の象徴としてふさわしくない。まして、当時は仏教護持者の聖徳太子が存命の時期である。太子が建立したとされる四天王寺のように、塔・金堂・講堂が南北中軸線に並ぶ伽藍様式がもてはやされたことであろう。

時の仏教寺院の隆盛を物語る有名なデータが『日本書紀』に記されている。推古天皇32年9月に実施した調査によれば、その当時存在した寺の数46,僧の数816,尼僧の数569,合計1385人だったとのことだ。推古天皇32年は西暦624年にあたるが、これらの数字は当時の仏教界の実勢を反映していると筆者は考えている。

言うのは、こうした調査の原因となった事件がその年の4月に発生している。一人の僧侶が斧で祖父を打った。彼だけでなく、仏道に仕えながら悪逆非道を働く僧侶が増えている。そのことが女帝の耳に入り、彼女は僧正・僧都を任命して僧尼を検校することを命じた。その結果、実施されたのがこの調査だった。単純計算で、46の寺院に1385人の僧尼が止宿していたとすれば、一寺平均30人である。こうした数字からも、当時の寺院が単なる草堂程度の規模ではなかったことが容易に想像できる。

我氏の飛鳥寺を皮切りに、中央豪族たちは競って氏寺の建立に精を出した。推古天皇の治世36年間に建立されたと確認される寺址は,今日、奈良県21,大阪府6,京都府4,兵庫県1,岡山県1の計33ヵ寺に達する。高麗寺はそのうちの一つだった。そして、高麗寺を建立したのは、当時南山城に盤踞していた高句麗系の渡来氏族・狛(こま)氏だった。

氏がどのような氏族だったのか、筆者は寡聞にしてよく知らない。高句麗系氏族としては、本国が滅亡した後に遺民を率いて武蔵国の高麗(こま)郡を開いた亡命王族の高麗若光(こまのじゃっこう)が有名だが、南山城の狛氏は別系統で、はるか以前からこの地に住み着いた渡来氏族のようだ。

想敵国として朝鮮半島で戦った好太王の時代は別として、我が国と高句麗との通交はかなり古い時代から行われていた。仏教関係でも想像される以上に深い関係があったとされる。高句麗から来朝し蘇我馬子の仏法の師となった恵便(えびん)や、聖徳太子の仏教の師となった慧慈(えじ)、彩色(絵の具)、紙墨、碾磑(てんがい、大きな石臼)の製作技術を伝えた曇徴(どんちょう)などの名が『日本書紀』には記されている。彼ら以外にも史書に名を連ねない多くの高句麗僧が来朝していたはずである。

らは仏法弘通のためという崇高な善意で我が国にやって来たのではない。仏教文化の伝授という餌で、百済に対抗して我が国との親善を図ろうとする高句麗王の特別の指令を受けてやってきた言わば親善大使だった。当然のことながら、同国出身者を束ねる南山城の狛氏と交流をもったはずである。

の狛氏が一族の象徴として氏寺の建立を思い立ったとき、これらの渡来僧たちはもちろん、生国である超大国高句麗からのさまざまな支援があったと思われる。高麗寺創建の背景に、こうした支援母体の存在を想定すると、創建高麗寺が捨宅寺院ていどの寺であったはずがない。高麗寺の開祖は慧慈とする説があるくらいで、それなりの堂宇を兼ね備えた仏教寺院だったにちがいない。このように想像するのは、筆者の思い過ごしだろうか?




2009/02/09作成 by pancho_de_ohsei return