天香久山に登り、さらに山麓の神社を巡る
案内板に描かれた山のイラストを見ると、ここで登山道は3方向に分かれる。まっすぐ進めば山頂へ向かう。右へ進めば「天岩戸神社」(あまのいわとじんじゃ)へ、左へ進めば「天香山神社」(あまのかぐやまじんじゃ)へ向かう。
この付近は天香久山の西麓にあたり、舒明天皇の国見の歌の歌碑と佐々木信綱氏の歌碑が建っている。ここにたって西方向を見ると眺望が大きく開け、畝傍山から耳成山にかけて見事に見渡す事ができる。舒明天皇はこの付近で国見をしたのであろう。そのとき詠んだとされる次の歌が『万葉集』に載っている。
山頂へ向かう道は、丸太を並べて築いたかなり急な階段の連続である。登り初めて5分ほどで尾根にたどり着く。そこがまた三叉路になっていて、左へ行けば山頂、右へ下れば「下の御前」を経て「天岩戸神社」へ向かう。とりあえず山頂を目指して左へ進むことにした。 ほぼ1分ほどで山頂に到着した。かなり広い空間の隅に国常立神社(くにのとこたちじんじゃ)が南向きに鎮座している。近づいてみると、覆屋(おおいや)の中に二社が並んで建っている。向かって左側の神殿に国常立神を祀り、右側の神殿に高おかみの神(たかおかみのかみ)を祀っている(”おかみ”は雨かんむりに口が三つ並んだ下に龍という字である)。 この神社の本来の主神は、天地開闢とともに現れた国土形成の神である国常立神である。それがいつの間にか雨を司る竜王神である高おかみ神に主神の座を奪われたようだ。大和盆地では農業用水を確保するために、盛んに雨乞い神事が行われたため、国常立神社が竜王社と呼ばれるようになり、香久山そのものも竜王山と呼ばれていた時代があった。
天保9年(1838)年に安田相郎が著した『大和巡日記』には、「これは雨乞い壺の由。ここへ水入れ減りたれば雨降り、減らざれば降らず、十度に九度は雨降りと申す」と記してあるという。
山頂から先へ進めば道は「万葉の森」へ続くが、先ほどの三叉路の所まで引き返し、天岩戸神社を訪れることにした。登山道は急斜面の下り坂にかかる。濡れて堆積している枯葉に足を捕られないように用心しながら下っていくと、枯葉の絨毯を敷き詰めた美しい林があった。
山道をさらに下っていくと南浦の集落に入った。集落のほぼ中心に南面して鎮座する神社がある。祭神として天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)である。『古事記』や『日本書紀』で語られる神話では、天照大神が弟の素盞嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴狼藉に怒り、天岩戸に引き籠もったとされている。その舞台となったのがこの地であると言うのだ。
大神が岩戸がくれされたとき、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が天香具山の笹の葉を手草にして岩穴の前で踊り舞ったとされている。その笹の葉は湯笹という女笹のことである。湯笹の湯の字は、斎戒沐浴の斎の転じたもので、本来は齋笹(ゆささ)と書いた。 天岩戸神社から南東へ100mほどの所に湯笹大明神が祀られていて、その周りに湯笹が生えているという。どのような笹なのか見てみたいと思ったが場所が判らない。たまたま畑仕事に出かけようとしている老人を見かけたので、湯笹大明神の場所を聞いた。すると、他所の者には分かりづらいからと、わざわざ案内してくれた。
老人に礼を言って、集落の中に道を北へ向かった。途中に「天香山神社」方面の標識が出ていたので、標識に従って進むと、簡易舗装された道が山麓に沿って続き、やがて出発点だった登山口に戻った。そこから道をさらに北に取った。左手の傾斜地が柿の植林となっていて、畝傍山や耳成山が遠望できた。舒明天皇がこのあたりで国見をしたというのも納得できるような気がする。
山麓の道が大きく右にカーブすると、集落の外れに鎮座する神社の鳥居が見えてきた。天香久山の北側の山麓に鎮座する天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ)だった。境内に入ると参道に右脇に波波迦(ははか)の木があった。波波迦とはウワミズザクラの古名で、占いをするとき用いる木と伝えられている。
この神社は、占い(亀卜あるいは鹿卜)を掌る櫛真知神(くしまちのかみ)を祭神として祀っている。そのため、『延喜式』神名帳には天香山坐櫛真智命神社の名で記録されている。しかし本殿の背後には巨石が屏風状に三枚あり、太古にはそれが磐座だったようだ。つまり、この神社はその名の通り天香久山そのものをご神体として祀ってきたのであろう。 神社の境内に「天真名井」(あまのまない)があると聞いている。『古事記』には、天安河での制約(うけい)の時、天照大神(あまてらすおおみかみ)が素戔嗚尊(すさのおのみこと)の十拳剣(とつかのつるぎ)を天真名井で振りすすぐと三女神が生まれ、素戔嗚尊が天照大神の八尺勾玉(やさかのまがたま)を振りすすぐと、五柱の男神が生まれたと記す。
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香久山の謎の巨石を巡る天香久山には、謎に満ちた不思議な巨石が点在していると聞いていた。今では「月の誕生石」とか「蛇つなぎ石」とか「月輪石」とか呼ばれているが、太古の昔は、神が降り立つ磐座として信仰されてきた巨石だったのだろう。 残念ながら手元の地図には、これらの巨石の所在地が示されていない。先ほど天真名井の場所を教えてくれた男性に聞いてみると、「月の誕生石」の場所を知っている、散歩の通り道の近くだから案内しよう、と言ってくれた。それで、彼について行くことにした。 妊婦が腹帯をして横たわっているようにも見える「月の誕生石」
標識に従って右の脇道へ入り、民家の間を抜けて山麓へ出た。枯葉が散乱する山道を登っていくと、道が二手に分かれた。左手へ進むよう標識が出ている。そちらへ進むとクヌギの林へ入っていき、まもなく正面に最後の標識が木にくくりつけてあった。そこで、彼は、左手の少し下がった場所を指し示した。そこに巨大な石が横たわっていた。 彼は、そこから道を右に取り散歩を続けるようだ。別れ際に、谷向こうの尾根を指さして、そこに「蛇繋ぎ石」があることを教えてくれた。彼に礼を言って、月の誕生石の方へ降りてゆくと、露出した巨大な石が横たわっていた。全体の3分の1ぐらいの位置に幅20cmほどの窪みがあるため、二個の石のようにも見える。 石には白い線が浮き出ていて、まるで妊婦が腹帯をして横たわっているように見える。そのため、地元ではこの石を「月の誕生石」と呼んでいるという。なぜ月なのか知りたくて、傍らに立てられた説明板を読んだ。 説明版によれば、この石は高さ1.5m、幅6.5m、奥行き3.5mの花崗岩で、円形の黒色斑点は月が使った産湯の跡で、小さな斑点は月の足跡と伝えられ、古代より信仰する人が多い、とのことだ。
説明板には、次のような民話も記されていた。 ”そんなある晩のこと、山の方で赤ちゃんの泣き声を聞いたような気がして、「ああ! 石の赤ちゃんが生まれた!」子供たちが外へ飛び出しますと、香久山の頂きから真ん丸いお月様が顔を出しました。翌日山へ見に行くと、石がしょんぼりと横たわり、胸の辺りに赤ちゃんの足跡が影の様に残っておりました。” 竜王神の大蛇を繋いだ「蛇つなぎ石」?
そこで万葉の森方面への遊歩道から分かれて、香具山の北に張り出した尾根を進むことになる。だが、背丈ほどもある笹藪が生い茂っていて、獣道のような細い道を笹をかき分けながら進まなければならない。笹藪が切れた雑木林の中で、進行方向の左手にその石は唐突に姿を現した。場所は、「月の誕生石」から谷を挟んで北東方向に位置している。 石は高さ1.5m、幅4m、奥行き2.5mもある。左手方向に回りこむと、縞模様があり、あたかも鎖でも巻きつけた痕のように見える。天香久山の山頂に鎮座する国常立(くにのとこたち)神社に祀られている”高おかみの神”は竜王神とされている。想像するに、雨乞い神事のとき、竜王神がまたがって降りてきた大蛇をつなぎ止めた石であるとされ、「蛇つなぎ石」と呼ばれるようになったのではあるまいか。残念ながら、詳しい伝承はのこされていない。
御厨子(みずし)神社の境内に鎮座する「月輪石」以前、秋月達郎という作家が書いた『奈良橿原殺人物語』という推理小説を読んだことがある。その中に事件現場として、「月輪石」という巨石が出てきた。「月輪石」は御厨子(みずし)山の山頂に鎮座する御厨子神社の境内にあると書いてあったように記憶している。事のついでに、この際見学していきたいと思ったが、神社の所在が判らない。御厨子観音で知られる妙法寺の名はよく聞くが、御厨子神社の名は今まで聞いたことがない。
ゲートボール近くの交叉点から天香久山を縦断して南に伸びる車道がある。その道が坂道にかかる辺りで、左側の竹藪を抜けていく脇道があり、その先に御厨子観音の駐車場がある。駐車場の隅に、古ぼけた石碑が立っていて、そこが御厨子神社の参道入口になっているという。 教えられた通りに自転車を走らせると、確かに駐車場がありその脇に碑が立っていた。そこから塀に沿って狭いじめじめした小径があり、その先に70段の石段が続いている。御厨子神社が鎮座する場所は、第22代清寧(せいねい)天皇の磐余甕栗宮(いわれみかぐりのみや)の跡地に比定されている。磐余池の池尻に位置するので、古くは社名を「水尻(みずしり)神社」と言ったという。 祭神として根折神(ねさくのかみ)と安産霊神(やすむすびのかみ)の2柱を祀っていた。ところが、室町時代の応仁の頃、御厨子観音(御厨子山妙法寺)がこの地に移建され、鎮守として八幡大神(誉田別命(ほんだわけのみこと))が合祀されたため、「御厨子神社」と改称された。 祭神の根折神(ねさくのかみ)は、伊耶那美尊(いざなみのみこと)が亡くなる原因となった軻遇突智(かぐつち)を伊耶那岐尊(いざなぎのみこと)斬った時その血から生まれました神とされている。根をも切り裂く威力のある神で、生気を授ける神とされている。
その根折神が切り裂いたのではと思いたくなる巨石が、神社の拝殿近くの、広々とした庭の斜面に横たわっていた。鬱蒼とした竹藪と老杉の木立に囲まれた腐葉土の上に注連縄(しめなわ)に守られて鎮座している。大きさは、長さ3.7m、高さ1.4m、幅1.9m。中央部の剣で切り裂いたような40cmほどの亀裂がある。 おそらく古代には神が降り立つ磐座として信仰の対象になっていたにちがいない。しかし、なぜ「月輪石」と呼ばれるようになったのか不明である。誰かに聞いてみたいと思ったが、無住の神社には人影はなかった。 |