古代の横大路の北に聳えていた神体山
現在、大和平野を南北に縦断する4車線の国道24号バイパス線は標準幅員38mだから、ほぼそれに匹敵する道路だったようだ。かって考古学者の岸敏男氏が唱えた藤原京復元説では、横大路は北の京極だった。 横大路を行き来した当時の人々は、大路の北側に聳える笠形の小山を仰ぎ見て、その美しさに感銘を受けた。その山は大和三山の一つ、耳成山である。この山の海抜は139.7mだが、山麓の海抜は60mであり、比高差は79.7mに過ぎない。しかし、見た目には80m足らずの小山は、奈良盆地の南部の各地から良く見え、古代には神の住む山として仰がれた。
地図で見ると、耳成山の等高線はほぼ同心円を描いている。つまり、東西南北どちらの方向から仰ぎ見ても、人間の顔の耳のように端っこに邪魔な稜線がない。そのため、古代の人々はこの山を「耳無山」と呼んだ。「無」の代わりに「成」を用いるのは、おそらく奈良時代に佳字を当てるようになったためだろう。
『日本書紀』の推古紀には、次のような一文が掲載されている。
耳梨の行宮の所在地は特定されていない。ただ『大和志』は何を根拠にしたのか知らないが、「耳無行宮は木村村にあり」としている。木村村とは現在の橿原市木原町である。木原町は耳成山を含む地域で、山の西側の集落には推古天皇を祭神として祀る「樋口神社」がある。樋口神社は米川にも近い。あるいはそのあたりに耳梨の行宮があったのだろうか。 筆者はまだ耳成山に登ったことはない。耳成山の山頂近くには耳成山口神社が鎮座している。各地にある山口神社は山麓に鎮座するのが相場のようだが、なぜ耳成山の場合山上にあるのか不明である。 何はともあれ、本日は耳成山登山を兼ねて付近の史跡を訪ねてみることにした。 |
耳成山の8合目付近に鎮座する耳成山口神社
たまたま参道を降りてきた夫婦連れがいたので聞いてみると、参道は山腹をほぼ斜めに登るのでそれなりにきつい坂道のようだ。二人は、歩きやすい登山道を行くことを勧めてくれた。登山道とは、鳥居の前から山腹をらせん状に巻きながら続く山道だ。傾斜が緩やかな上に、小型自動車が走れるほど道幅が広いという。
登山口の近くの木に「猫を捨てないで」と書かれた張り紙が何枚か目についた。飼えなくなった猫をこの山に捨てる人間がいるのだろう。橿原神宮の深田池の近くに建つ東屋にも、5〜6匹の捨て猫が住んでいる。毎朝、池の畔でラジオ体操をするのに集まってくる年寄りが餌を与えているので、野良猫にしては太っていて、人なつっこい。しかし、耳成山の登山道付近には野良猫の姿が見あたらない。なぜ張り紙がしてあるのかいぶかったが、その理由を後で知ることになる。
緩やかな勾配の登山道は、呼吸を弾ませなければならないほどの坂道ではない。昼時近かったが、坂を下ってくる人や犬の散歩を兼ねてゆっくりの登っていく人に何人も出会った。どうやら近隣の人たちにとって、耳成山の登山道は格好の散歩道のようだ。道の左手に木枠で入口を塞いだ箇所がいくつか目についた。古墳の入口かと思ったが、行き会った老人に聞いてみると、戦時中に掘られた防空壕の跡だった。
途中で追いついてきた婦人と雑談を交わしながらゆっくりと登った。そのせいで神社に到着するまで20分近くかかった。山頂を目指すという彼女とは途中で別れた。別れ際に、彼女は前方の廃屋のような建物を指さして、神社はあの建物の向こう側に建っていると教えてくれた。
山口神社は、おおむね山麓に鎮座していて、古代に皇室の舎殿に使う用材を切り出す山の神を祀っていた。『延喜式』には14社の名が記載されているという。耳成山口神社はその一つだが、山の頂上付近に鎮座しているのは珍しい。何かの理由で、山麓から上部に遷座したのかもしれない。『延喜式』では、成務天皇5年に神託により創建と記されているが、もとより当てにはならない。しかし、天平2年(730)に作られた東大寺正倉院文書にこの神社の名が見えているというから、相当古い神社であることは間違いない。
一方、大山祇神も日本神話に登場する神で、神格は全国の山を管理する総責任者であるが、なぜか神話の中でも多くを語られていない。天孫ニニギノミコトが降臨したとき、この神は二人の娘、コノハナノサクヤビメとその姉のイワナガヒメを差し出した。しかし、ニニギノミコトは容姿が醜いイワナガヒメだけを送り返してきた。そこで、大山祇神は怒って、「イワナガヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げたとされている。
拝殿に腰掛けて奉納された額を眺めていると、突然背後で物音がした。驚いて振り返ると、一枚の額の後ろから一匹の黒猫が顔を出した。それがきっかけとなって、拝殿の周りからさまざまな野良猫が集まってきた。数えただけでも10匹以上確認できた。人見知りをしないですり寄ってくる猫もいる。散策で山を登って餌を与えて帰る人がいるのであろう。神社の拝殿付近は、野良猫が雨露をしのぐ格好の住まいとなっているようだ。登山口に貼られた捨て猫禁止の張り紙の意味が、ようやく理解できた。
金刀比羅神社の脇に山頂へ続く小道があった。一分ほど登っただけで山頂の広場に到着したが、雑木林に囲まれて周囲の展望は全くきかない。山頂を示す三角点の近くに碑が建っていた。明治41年11月11日に行われた大演習を明治天皇がこの地で統監したことを記した碑だった。その碑の近くの木に、畝傍山の標高139.7mを記した小さなプレートが結びつけてあった。
●耳成の 山のくちなし 得てしがな 思ひの色の 下染めにせむ (1026) その他にも、耳成山はいろいろな名前で呼ばれた。江戸時代の寛延年間(1748 - 1750)、耳成山の山頂には天神社が置かれていたので、天神山と言った。新賀山や山坊山という呼称も伝わっている。
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木原町にある大師の井戸と樋口神社本日耳成山を訪れた直接きっかけは、推古女帝が行幸したという耳梨の行宮(あんぐう)がどの付近に所在したか知りたかったためだ。耳成山登攀は副次的な目的に過ぎなかった。と言って、耳梨行宮が何処に所在したか具体的な情報を持っていた訳ではない。唯一の手がかりは、推古天皇を祭神として祀る樋口神社が木原町に存在しているというくらいだ。 残念なことに手元の地図には、樋口神社の所在が記されていない。だが、林野庁の奈良森林管理事務が作成して耳成山登山口に張り出してあった国有林案内図に、その神社の位置が記されていた。不正確ながら、案内図では耳成山の北西に神社の位置が示されている。
覆屋に掲げられた額によれば、明治天皇が耳成山山頂で大演習を統監したとき、ここの水を飲んだとのことだ。さらに、『大和志』には「耳無井 耳無山西北 清冷甘味」と書かれ、『大和名所図絵』にも「耳無山西北にあり 耳無池 耳無山西麓にあり 恋池ともいう」と書かれているという。 だが、この耳無井に立ち寄ったことは無駄ではなかった。額の最後に「耳無行宮 飛鳥時代 推古天皇御造営さる 木原庄樋口会館一帯」と書かれていた。樋口会館とはおそらく樋口神社近くにある住民の集会所みたいなものであろう。樋口神社近辺を耳梨行宮の所在地と推定して良さそうだ。
神社は集落のはずれにあった。境内を囲む石の列柱も、鳥居も常夜灯も比較的新しい。鳥居に架かる扁額で樋口神社であることを確認した。しかし、拝殿の向こうに建つ祠は小さかった。周囲に人影はなく、本当に推古天皇を祀っている神社なのか確認しようがなかった。ただ、田んぼを挟んで50mほど先に白いフェンスが見えた。米川の堤防に築かれたおそらく遊歩道があるのだろう。 この場所に行宮が築かれていたならば、大雨で米川が氾濫し行宮の庭先まで水が押し寄せることは十分あり得る。そう思うことで、納得した。しかし、推古9年(601)5月という時期に、女帝はこの地に行幸し何を考えたのかは、気になるところだ。半島情勢が風雲急を告げていた時期である。その年の11月、女帝は新羅を攻めることを謀っている。翌年の2月には、聖徳太子の実弟である来目皇子を撃新羅将軍に任命し、兵2万5千人を授けて筑紫に赴かせている。そんな時期だった。
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