橿原日記 平成21年2月2日

大和三山に登る − 耳成山編

古代の横大路の北に聳えていた神体山

橿原市の市域を東西に貫いていた横大路
橿原市の市域を東西に貫いていた横大路
を遡ることほぼ1400年の昔、現在の橿原市の市街地を東西に縦断する巨大な幹線道路が築かれた。築造時期の詳細はわかっていないが、遅くも推古21年(西暦613年)までには、すでに官道として整備されていたようだ。30mから40mの道幅を持つ道路で、当時は「横大路」と呼ばれた。

在、大和平野を南北に縦断する4車線の国道24号バイパス線は標準幅員38mだから、ほぼそれに匹敵する道路だったようだ。かって考古学者の岸敏男氏が唱えた藤原京復元説では、横大路は北の京極だった。

大路を行き来した当時の人々は、大路の北側に聳える笠形の小山を仰ぎ見て、その美しさに感銘を受けた。その山は大和三山の一つ、耳成山である。この山の海抜は139.7mだが、山麓の海抜は60mであり、比高差は79.7mに過ぎない。しかし、見た目には80m足らずの小山は、奈良盆地の南部の各地から良く見え、古代には神の住む山として仰がれた。

藤原宮跡から見た北の耳成山>
藤原宮跡の北に位置する醍醐池から耳成山を望む (撮影 2009/02/02)

図で見ると、耳成山の等高線はほぼ同心円を描いている。つまり、東西南北どちらの方向から仰ぎ見ても、人間の顔の耳のように端っこに邪魔な稜線がない。そのため、古代の人々はこの山を「耳無山」と呼んだ。「無」の代わりに「成」を用いるのは、おそらく奈良時代に佳字を当てるようになったためだろう。

日本書紀』の推古紀には、次のような一文が掲載されている。
九年の”夏五月に、天皇、耳梨の行宮(かりみや)に居(ま)します。この時に大雨降る。河の水漂蕩(ただよ)ひて、宮庭(おほみや)に満(いはめり)"
推古9年は西暦601年に当たる。その年の2月には、聖徳太子が斑鳩に宮の造営を開始している。推古女帝は陰暦の5月に耳梨の行宮に行幸したが、時節は梅雨時である。大雨で近くを流れる米川が氾濫し、その水が行宮の庭に押し寄せたのであろう。

梨の行宮の所在地は特定されていない。ただ『大和志』は何を根拠にしたのか知らないが、「耳無行宮は木村村にあり」としている。木村村とは現在の橿原市木原町である。木原町は耳成山を含む地域で、山の西側の集落には推古天皇を祭神として祀る「樋口神社」がある。樋口神社は米川にも近い。あるいはそのあたりに耳梨の行宮があったのだろうか。

者はまだ耳成山に登ったことはない。耳成山の山頂近くには耳成山口神社が鎮座している。各地にある山口神社は山麓に鎮座するのが相場のようだが、なぜ耳成山の場合山上にあるのか不明である。 何はともあれ、本日は耳成山登山を兼ねて付近の史跡を訪ねてみることにした。



耳成山にまつわる悲しい縵児(かづらこ)の物語

耳成山の南麓に位置する古池
耳成山の南麓に位置する古池

鉄大阪線は、かっての横大路に沿うように耳成山の南を東西に貫いて敷設されている。車窓から耳成山を見ると、山麓に「耳成山公園」があり、その公園と電車の線路の間に大きな溜め池がある。奈良盆地特有の皿池で、その名を「古池」という。現在は渇水期で、池の底を見せている。

万葉集』の巻16は、由縁(ゆえん)のある雑歌(ぞうか)を集めた歌集である。巻頭には、畝傍山の所で紹介した桜子(さくらこ)の死に関する2首が収められている。それに続くのは、縵児(かづらこ)という女性の死に関する由縁の雑歌3首である。

古池の畔に立つ万葉歌碑
古池の畔に立つ万葉歌碑

れらの歌には、いささか長い次のような詞書きが付してある。
”ある人の言うことには、昔三人の男がいて、同時に一人の女に求婚した。娘子が嘆いて言うことに、「一人の女の身は消えやすい露のようにはかないが、三人の男の心の和らげがたいこと石のようだ」。そこで、思いあぐねて池のほとりをさまよい歩き、水底に入水自殺してしまった。男たちはあまりの悲しさにたえず、それぞれ思いを歌に記した。それが次の3首である。なお、娘子の名は、縵児(かづらこ)という”。 そして、次の歌が続く。

耳無しの 池し恨めし 吾妹子(わぎもこ)が 来つつ潜(かづ)かば 水は涸(か)れなむ (巻16−3788)
【大意】耳梨の池は、恨めしい。あの子がさまよって来て水にはいったら、水が涸れて死ねないようにしてくれればよかったのに。
あしひきの 山縵(やまかづら)の児 今日行くと 吾に告げせば 還り来ましを (巻16−3789)
【大意】私の縵児が今日耳梨の池に行くと、前もって私に知らせてくれたなら、死なせずに助けて帰って来たことであろうに。
あしひきの 玉縵の児 今日の如(ごと)いづれの隈(くま)を 見つつ来にけむ (巻16−3790)
【大意】死に後れた自分は、今日ここに来てさまよい歩いているが、玉縵にも似たあの美しい縵児は、あの時死に場所を求めてどのあたりを、今日の自分のようにさまよい歩いたことであろうか。
(注)大意は、岩波書店刊 日本古典文学大系『万葉集四』による。

歌碑の横に立つ説明版
歌碑の横に立つ説明版
まり、三人の男が同時に縵児という一人の女性に恋をした。三人の愛を同時に受け入れることができない縵児は、思いあまって耳梨山のほとりにあった池に身を投げてしまった。そのことを知った男性三人がそれぞれの恨み節を歌に詠んだ。それが上の三首であるという。

池のほとりに、東海大学教授石井庄司氏の揮毫による万葉歌碑が立っている。歌碑に刻まれているのは、巻16−3788の歌である。だが、縵児が入水自殺したのは、この古池ではないようだ。『大和名所図絵』や『大和志料』には、「(耳成の池は)耳無山の西麓にあり、今水涸れて名ばかりなり」と記されているという。



耳成山の8合目付近に鎮座する耳成山口神社

耳成山口神社の参道
耳成山口神社の参道
成山の八合目付近に、大山祇神(おおやまつみのかみ)と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の二柱を祭神として祀る耳成山口神社がある。神社への参道は、「耳成山公園」の脇から築かれている。石段の上に鳥居が聳えているのが見えた。その先は石灯籠が片側に並ぶ地道の上り坂が続いている。

またま参道を降りてきた夫婦連れがいたので聞いてみると、参道は山腹をほぼ斜めに登るのでそれなりにきつい坂道のようだ。二人は、歩きやすい登山道を行くことを勧めてくれた。登山道とは、鳥居の前から山腹をらせん状に巻きながら続く山道だ。傾斜が緩やかな上に、小型自動車が走れるほど道幅が広いという。

耳成山のイラスト
耳成山のイラスト
人のお勧めに従って、登山道を行くにした。なるほど、道幅は広い。日頃歩きなれている畝傍山の登山道より2倍以上ある。たまたま反対方向から下山してくる婦人と出会ったので、神社までの所要時間を聞いた。普通の人の早さでおよそ15分、参道を利用すれば5〜6分程度との答えが返ってきた。

山口の近くの木に「猫を捨てないで」と書かれた張り紙が何枚か目についた。飼えなくなった猫をこの山に捨てる人間がいるのだろう。橿原神宮の深田池の近くに建つ東屋にも、5〜6匹の捨て猫が住んでいる。毎朝、池の畔でラジオ体操をするのに集まってくる年寄りが餌を与えているので、野良猫にしては太っていて、人なつっこい。しかし、耳成山の登山道付近には野良猫の姿が見あたらない。なぜ張り紙がしてあるのかいぶかったが、その理由を後で知ることになる。

緩やかな登り勾配の登山道 昔の防空壕跡
緩やかな登り勾配の登山道 昔の防空壕跡

やかな勾配の登山道は、呼吸を弾ませなければならないほどの坂道ではない。昼時近かったが、坂を下ってくる人や犬の散歩を兼ねてゆっくりの登っていく人に何人も出会った。どうやら近隣の人たちにとって、耳成山の登山道は格好の散歩道のようだ。道の左手に木枠で入口を塞いだ箇所がいくつか目についた。古墳の入口かと思ったが、行き会った老人に聞いてみると、戦時中に掘られた防空壕の跡だった。

梢の間から見えた畝傍山
梢の間から見えた畝傍山
歩道は山腹をらせん状に登っていくのは、梢の間からこぼれてくる太陽光線の角度から実感できた。右手から射していた光がいつのまにか左手からの光に変わっている。残念ながら生い茂った灌木のため、登山道からは下界の見通しはほとんど効かない。唯一、梢が切れて畝傍山が遠望できる場所があった。耳成山と違って畝傍山の山麓は裾広がりである。

中で追いついてきた婦人と雑談を交わしながらゆっくりと登った。そのせいで神社に到着するまで20分近くかかった。山頂を目指すという彼女とは途中で別れた。別れ際に、彼女は前方の廃屋のような建物を指さして、神社はあの建物の向こう側に建っていると教えてくれた。

耳成山口神社
耳成山口神社の拝殿

口神社は、おおむね山麓に鎮座していて、古代に皇室の舎殿に使う用材を切り出す山の神を祀っていた。『延喜式』には14社の名が記載されているという。耳成山口神社はその一つだが、山の頂上付近に鎮座しているのは珍しい。何かの理由で、山麓から上部に遷座したのかもしれない。『延喜式』では、成務天皇5年に神託により創建と記されているが、もとより当てにはならない。しかし、天平2年(730)に作られた東大寺正倉院文書にこの神社の名が見えているというから、相当古い神社であることは間違いない。

耳成山口神社の本殿
耳成山口神社の本殿
段を昇って拝殿に着いたとき、ちょうど正午の時報が麓から聞こえてきた。一段高くなった本殿には、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と大山祇神(おおやまつみのかみ)との二柱が祀られている。高皇産霊神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や神皇産霊神(かみむすびのかみ)と共に造化の三神とされる神で、天地開闢のとき高天原に出現したとされている。天照大神の子供である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が高皇産霊神の娘と結婚して生まれたのが天孫ニニギノミコトである。したがって、高皇産霊神は天孫ニニギの外祖父に相当する。

方、大山祇神も日本神話に登場する神で、神格は全国の山を管理する総責任者であるが、なぜか神話の中でも多くを語られていない。天孫ニニギノミコトが降臨したとき、この神は二人の娘、コノハナノサクヤビメとその姉のイワナガヒメを差し出した。しかし、ニニギノミコトは容姿が醜いイワナガヒメだけを送り返してきた。そこで、大山祇神は怒って、「イワナガヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げたとされている。

耳成村役場を描いた奉納額
耳成村役場を描いた奉納額
内には、本殿の横に小さな社も置かれていた。左側が金刀比羅神社、右側が稻荷神社である。拝殿には相当古く、また痛んでいて何が描かれているのかよく判らない額が何枚も奉納されていた。その中には、文久元年(1861)に社前で行われた雨乞いの踊りの様子を描いた額や、安政2年(1855)の雨乞いの額があった。正面に掲げられた額は比較的新しく、昭和31年(1956)2月11日の市制実施で耳成村が廃村となったのを記念して当時の村役場が描かれていた。奉納されたのは、10年後の昭和41年10月23日である。

殿に腰掛けて奉納された額を眺めていると、突然背後で物音がした。驚いて振り返ると、一枚の額の後ろから一匹の黒猫が顔を出した。それがきっかけとなって、拝殿の周りからさまざまな野良猫が集まってきた。数えただけでも10匹以上確認できた。人見知りをしないですり寄ってくる猫もいる。散策で山を登って餌を与えて帰る人がいるのであろう。神社の拝殿付近は、野良猫が雨露をしのぐ格好の住まいとなっているようだ。登山口に貼られた捨て猫禁止の張り紙の意味が、ようやく理解できた。

耳成山の山頂
耳成山の山頂

刀比羅神社の脇に山頂へ続く小道があった。一分ほど登っただけで山頂の広場に到着したが、雑木林に囲まれて周囲の展望は全くきかない。山頂を示す三角点の近くに碑が建っていた。明治41年11月11日に行われた大演習を明治天皇がこの地で統監したことを記した碑だった。その碑の近くの木に、畝傍山の標高139.7mを記した小さなプレートが結びつけてあった。

くちなしの木
くちなしの木
弱な感じのくちなしの若木が広場に植えてある。それで見て思い出したことがある。耳成山はくちなしの自生地でもあるため、別名をミミナシ山はなくクチナシ山と言ったそうだ。ちなみに、『古今和歌集』には、読み人知らずの歌として次の和歌が載っている。
耳成の 山のくちなし 得てしがな 思ひの色の 下染めにせむ (1026)

の他にも、耳成山はいろいろな名前で呼ばれた。江戸時代の寛延年間(1748 - 1750)、耳成山の山頂には天神社が置かれていたので、天神山と言った。新賀山や山坊山という呼称も伝わっている。

石灯籠が並ぶ参道
石灯籠が並ぶ参道
び山口神社の境内に戻ると、参道を下ることにした。片側に石灯籠が並ぶ参道はかなり傾斜があるようだが、下りは楽だった。五分ほど坂道を下っていくと、眼下に参道入口の石の鳥居が見えてきた。



木原町にある大師の井戸と樋口神社

日耳成山を訪れた直接きっかけは、推古女帝が行幸したという耳梨の行宮(あんぐう)がどの付近に所在したか知りたかったためだ。耳成山登攀は副次的な目的に過ぎなかった。と言って、耳梨行宮が何処に所在したか具体的な情報を持っていた訳ではない。唯一の手がかりは、推古天皇を祭神として祀る樋口神社が木原町に存在しているというくらいだ。

念なことに手元の地図には、樋口神社の所在が記されていない。だが、林野庁の奈良森林管理事務が作成して耳成山登山口に張り出してあった国有林案内図に、その神社の位置が記されていた。不正確ながら、案内図では耳成山の北西に神社の位置が示されている。

耳無井、別名大師井戸
耳無井、別名大師井戸
成山の山麓には、この山を外周する道路が築かれている。樋口神社探しには、耳梨山公園から外周道路を時計方向に進めばよい。耳梨山の北西方向あたりまで来たと思ったとき、右手の山麓に神社のような建物が見えた。近寄ってみたが、樋口神社ではなかった。そこは平安時代に空海が掘ったため大師井戸と呼ばれている耳無井の覆屋だった。

屋に掲げられた額によれば、明治天皇が耳成山山頂で大演習を統監したとき、ここの水を飲んだとのことだ。さらに、『大和志』には「耳無井 耳無山西北 清冷甘味」と書かれ、『大和名所図絵』にも「耳無山西北にあり 耳無池 耳無山西麓にあり 恋池ともいう」と書かれているという。

が、この耳無井に立ち寄ったことは無駄ではなかった。額の最後に「耳無行宮 飛鳥時代 推古天皇御造営さる 木原庄樋口会館一帯」と書かれていた。樋口会館とはおそらく樋口神社近くにある住民の集会所みたいなものであろう。樋口神社近辺を耳梨行宮の所在地と推定して良さそうだ。

樋口神社
樋口神社
くの農家の庭先で、畑仕事の手を休めて立ち話をしている二人の老人の姿が目に入った。地元の人間なら、神社の所在くらいは知っているだろうと声をかけた。予想した通り、その中の一人が「これから自宅に戻るところだから、神社の近くまで案内しよう」と、自転車を押しながら先に立って歩き出した。集落の中に入り、民家の屋根越しに杉の木立が見える箇所を指さしながら、あそこが鎮守の森だと教えてくれた。

社は集落のはずれにあった。境内を囲む石の列柱も、鳥居も常夜灯も比較的新しい。鳥居に架かる扁額で樋口神社であることを確認した。しかし、拝殿の向こうに建つ祠は小さかった。周囲に人影はなく、本当に推古天皇を祀っている神社なのか確認しようがなかった。ただ、田んぼを挟んで50mほど先に白いフェンスが見えた。米川の堤防に築かれたおそらく遊歩道があるのだろう。

の場所に行宮が築かれていたならば、大雨で米川が氾濫し行宮の庭先まで水が押し寄せることは十分あり得る。そう思うことで、納得した。しかし、推古9年(601)5月という時期に、女帝はこの地に行幸し何を考えたのかは、気になるところだ。半島情勢が風雲急を告げていた時期である。その年の11月、女帝は新羅を攻めることを謀っている。翌年の2月には、聖徳太子の実弟である来目皇子を撃新羅将軍に任命し、兵2万5千人を授けて筑紫に赴かせている。そんな時期だった。



2009/02/02作成 by pancho_de_ohsei return