昨年は、藤堂高虎入府400年の節目の年だった
「明日、津へ行く。どうだ、付き合うか?」 「ツ?」 「そうだ、三重県の津だ」 「津がどうした?」 「津を知らないのか? 戦国武将の藤堂高虎が治めた32万石の城下町だ」 「それくらいの事は知っている。近鉄電車で名古屋に出るとき、いつも通る。下車したことはないが・・・」
電話の向こうで語るAの話を要約すると、次のようになる。
私が聞くと、Aは言下に答えた。 「彼の経歴だ。高虎は近江国犬上郡藤堂村(後の寛永年間に在士(ざいじ)村と改名。現在の滋賀県犬上郡甲良町)の出である。弘治2年(1556)、武士の身分のまま農業に従事していた郷士(ごうし)・藤堂虎高の次男として生まれた。そして、寛永7年(1930)に75歳で死去するまで、浅井長政を皮切りに織田・豊臣・徳川を含む10人の主君に仕えたそうだ。『忠臣二君に仕えず』が武士道の本分ならば、その逆を生きた戦国武将だったことになる。”武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ” とも豪語していたという。まあ、世渡り上手だったんだろうな」 Aの話では、高虎は姉川の戦いをはじめ、賤ヶ岳の戦い、文禄の役、慶長の役、関ヶ原本戦、大坂冬の陣、大坂夏の陣など歴史上名高い合戦にすべて参戦して手柄を立てている。単なる口先だけや才覚だけの世渡り上手ではなかったようだ。戦さだけでなく、高虎は加藤清正と並んで築城の名手でもあった。宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などは彼の手によるとされている。 電話でAの話を聞いているうちに、こちらも藤堂高虎という人物に興味を抱き始めた。近鉄大阪線の「大和八木」駅で午前9時3分に出る名古屋行き特急で落ち合うことをして受話器を置いた。 慶長13年(1608)、伊予から移封された高虎が改築した津城彼は座席指定の特急券を買っておいてくれたので、大和八木駅から並んで坐ることができた。この時間帯の近鉄特急は名張駅で途中停車するが、9時58分には津駅に到着する。わずか一時間たらずの列車の旅である。車窓を流れる冬山は落葉した雑木林が続き、稜線の上は雲一つない青空が光っていた。日差しはあっても風の強い寒い一日となりそうだった。
「なあに、駅前には観光案内所があるだろう。そこへ立ち寄って、必要な情報をゲットすればいいさ」 津駅はJR紀勢本線と近鉄名古屋線が相互に乗り入れていて、駅舎の東側はJR、西側は近鉄となっている。そんなことも知らないものだから、商店街のある東口とは反対側のたいした店もない西口に出た。近くに屯していた中学生に観光案内所の場所を聞くと、線路の反対側に聳える高層ビルを指さした。「アスト津」という超高層複合ビルだそうだ。そこの2階に観光案内所があると教えてくれた。そこまで行くには時間がかかると見たのか、Aは客待ちしているタクシーを捕まえて、「津城跡」と行き先を指定した。
中世には、安濃津は日本を代表する国際港湾都市だった。中国の歴史書にも、博多(福岡市)、坊津(ぼうのつ、鹿児島県南さつま市)と並んで、「三津」の1つと書かれたほど発展していた。当時は中国の外洋航海用大型船が熊野灘を越えて安濃津に入港でき、さらに安濃津から東海諸地域に寄港しながら関東と交易できる海運ルートが存在したためである。 だが、明応7年(1498)に発生した大規模な地震で、砂地にあった安濃津は壊滅してしまった。その後、安濃津は復興したが、織田信長の弟の信包(のぶかね)が、信長の命で伊勢侵攻の拠点として天正8年(1580)に津城を築いたのは、すこし北の地盤の安定した場所だった。
日曜日の、しかも午前中とあってか、大通りを走る車の数は少ない。交叉点の信号にもあまり引っかからず車はスムーズに流れた。街角の所々に幟が立っているのをみて、Aが運転手に声をかけた。
私は思わず横から口を挟んだ。 「藤堂家の旗指物については、有名なエピソードが伝えられている。浅井家を出奔して浪々の身となった高虎が三河の国の吉田宿まで来たときには、路銀をすべて使い果たしていたそうだ。しかし、空腹に耐えきれず街道筋の餅屋に飛び込んで、盆の上に積んであった丸餅をすべて平らげてしまった。まあ、あまりの空腹に我を忘れて無銭飲食をしてしまったわけだな」 「高虎は身長が6尺2寸(約190cm)、体重が約30貫(110キロ)近くあったというから、大食漢だったのだろうな。そんな大男に売り物の餅を全部食われてしまったとあっては、餅屋の主人もさぞかしカンカンになって怒っただろうに」 「ところが、さに非ず。詫びる高虎に対して、『これほど見事に召し上がっていただいて、餅屋冥利に尽きます』と笑って、故郷に帰って親孝行するようにと路銀まで恵んだという。高虎はこのときの恩を忘れず、紺地に白い丸餅を縦に3つ並べた白餅柄を、藤堂家の旗指物にしたといわれている」 「なるほど、「白餅」は「城持ち」に通じるという訳か」 運転手が私の言葉を継ぎ足した。 「ちなみに、記念事業のマスコットキャラクタは”シロモチくん”といって、丸餅を3つ重ねた人形が高虎のカブトをかぶっています」 「このエピソードには後日談がある」と、Aは続けた。 「それから30年後に22万石の出世した高虎の大名行列がその餅屋の前を通ったとき、高虎は昔の恩に感謝し、金銀の入った革袋を渡して、店中の餅を家臣に振る舞ったそうだ。そのとき以来、藤堂家の行列がこの餅屋の前を通るときは、かならず休息して餅を食べる慣例ができたとのことだ」
「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ という歌をご存じですか?」 Aは、すかさず答えた。 「ああ、伊勢音頭だろ」 「津が栄えるようになったのは、お伊勢参りのお陰だと言われています。その仕掛けを作ったのは藤堂高虎なんです」
「その話なら聞いたことがある。慶長13年(1608)に高虎が津に乗り込んでくると、城の改修とともに、精力的に街作りを始めたそうだ。まず城の北・西・南方に武家屋敷を作る一方、町人地・寺社地を東方に置き、城の東に堀川を切り開いた。そのとき、高虎は、お伊勢参りで賑わう伊勢街道に目をつけた。海岸近くに通っていた伊勢街道を城下町へと引き込むことで、人の流れを呼び寄せようとしたんだ。そのため津は宿場町としても伊勢神宮に詣でる参宮道者で大いに賑わった。それが津は伊勢でもつと謡われるようになった由縁だそうだ」
津市街地のほぼ中央に位置する津城跡は、現在お城公園として整備されている。この場所に城を築いたのは藤堂高虎ではなく、織田信長の弟の信包(のぶかね)である。信長の命で伊勢侵攻の拠点として築城をはじめ、天正8年(1580)に5層の天守閣をもつ城が完成した。文禄4年(1595)には秀吉の家臣である富田信高が5万5千石で津城主となったが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの際に東軍に味方したため、西軍の毛利秀元、長宗我部元親ら3万余の軍勢に攻撃され、奮闘むなしく開城、天守をはじめ建物の多くが焼失した。
明治維新で津城は廃城となり、角櫓などの建物は明治18年(1885)までに取り払われ、石垣を残すだけとなった。明治の終り頃には外堀が埋められ、戦後には内堀も埋め立てられ、現在では北堀の一部が残されているにすぎない。 タクシーを降りると、往年の内堀にかかる橋があった。橋の欄干に括り付けられた「白餅3つ」の旗指物が堀の水面を渡ってくる冷たい風にはためいていた。橋を渡ると、そこは現在は日本庭園になっているが、かっての二の丸A跡である。津市教育委員会が立てた県指定史跡「津城跡」の説明板を読みながら、Aが言った。
「復元できるほど、しっかりした資料が残っていたんだ」 「そうでもなかったらしい。伊賀上野城をはじめ高虎が築城したとされる10カ所の城を視察して苦労しながら復元作業をおこなったようだ」
「なるほど、入徳門の由来は「大学は諸学徳に入る門なり」という言葉から来ているのか。それにしても、明治4年(1871)に有造館が廃校になった後も、ずいぶんあちこちの学校の正門として使われたんだね」
”士たるべき者、常の覚悟のこと。 寝屋を出るより、其日を死番と心得るべし、かやうに覚悟極るゆへに、物に動ずる事なし、是本意となすべし” とある。昭和55年(1980)の藤堂高虎350年記念祭に建てられたもので、揮毫は当時の津市長岡村初博氏である。いかにも乱世を生きた戦国武将らしい遺訓だ。
その遺訓碑とは反対側の樹木の間に、騎乗姿の高虎像が聳えている。津市制施行100周年を記念して平成10年10月に津中央ライオンズクラブが寄贈した銅像である。まさに聳えているという言い方でしか表現できないほど巨大な像に圧倒されて、しばし呆然とその姿を見上げていた。
腕を組みながら、高虎の騎乗姿を眺めていたAが、ぽつりと言った。
Aはさらに続けた。
「戦国武将が築城技術に長けているとは珍しいね。どこで身につけたのだろうか?」 私が疑問を投げかけたが、Aはよく分からないというように首を振った。だが、高虎は近江の出身である。彼が生まれた甲良には甲良大工という伝統的な宮大工がいた。琵琶湖を挟んで対岸の近江坂本には、石垣普請の職業集団として知られる穴太(あのう)衆がいた。彼らとのなんらかの交流があったことは想像に難くない。 広場の先に、昭和33年(1958)に復元された津城本丸の三重隅櫓(すみやぐら)が見えた。だが、石垣の角に築かれたこの隅櫓は想像の産物である。場所も構造も実際に存在したものとは異なっているそうだ。それでも冬の日差しを受けて櫓の白壁がまぶしく、いかにも在りし日の津城を象徴しているように見えた。中に入れるのかと思って、石垣の上に登ったが、櫓の入口は施錠されていた。
公園を出て、城壁の下を走る道路の反対側にある駐車場から三重隅櫓を見上げて、Aが言った。
藤堂高虎は、寛永7年(1630)10月5日に、江戸柳原の藩邸で75歳の波乱に満ちた生涯を終えた。高虎を「希代の世渡り上手」と呼んだのは司馬遼太郎である。はじめ近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕え、天正元年(1573)に長政が織田信長に滅ぼされると、転々を主君を変えて渡りあるいた。
藤堂高虎を、徳川幕府260年の礎となった幕藩体制を築いた陰の功労者であると評価する専門家もいる。三重大学の藤田達生教授だ。藤田氏は著書の『江戸時代の設計者 − 異能の武将・藤堂高虎』の中で、徳川家康の参謀として幕藩体制作りに取り組んだ異能の武将として高虎を評価している。郷士の次男として生まれた大男が、やがて築城技術を身につけて城作りの名手として世に知られ、外様大名でありながら家康の信任が厚く、徳川幕府の基礎作りに寄与した生涯には、興味深いものがある。 藤堂高虎を祭神として祀る高山神社津市丸之内には、藤堂高虎を祭神として祀る高山神社がある。その場所は、津市の市役所に近い。この神社の歴史はそれほど古くはない。創始は明治10年(1877)で現在の偕楽公園の中にある八幡神社の境内に祀られたが、明治34年(1901)に津城址の本丸跡に遷された。しかし、空襲で社殿が焼失してしまった。その後復興したが、公園整備のため昭和44年(1969)に本丸跡から現在の内堀埋め立て地に遷された。
参道正面の石の鳥居の脇に立っている石碑には、「高山神社」と表示されている。
「ああ、こんな話が伝わっている。高虎に引導を渡したのは、天海和尚だ。高虎が死ぬ直前、和尚は長い院号を用意して高虎を訪れた。数日前から意識が薄れ眠り続けていた高虎だったが、天海が見舞いに来たのを感じ取って意識が戻ったのか、そばにいた養子の高吉(たかよし)に一通の書状を天海に渡すように命じた。
『ほう、何ですか、これは?』
社務所で、高虎の墓がある寒松院への道筋を聞いた。そしたら、「藤堂藩ゆかりの地スタンプラリーガイドブック」という小冊を渡してくれた。それには29カ所のゆかりの地の写真と付近の略図が示され、簡単な説明書きが添えてあった。さっそく高山神社のスタンプを押して、寒松院へ回ることにした。 高虎をはじめ藤堂家藩主の大名墓地がある寒松院
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| 上野動物園内の高虎の墓 |
途中に、極楽橋という名の橋が架かっていた。橋を渡りながら、左手の広々とした貯水場を指さしてAが説明してくれた。
「藤堂高虎は、津に移封されて3年後に城の大改修を始めるが、そのとき城の東の要害として岩田川の水を引き込む堀川を切り開いた。その川の一部がここだ。しかし、途中で掘削が中止され、堀川は水路や貯木場として利用されてきたとのことだ」
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| 寒松院の本堂 |
たまたま墓の掃除に来ていた隣家の婦人がいたので聞いてみると、やはりこの建物は戦後、他所から古い堂を持ってきたもので、昔の寒松院の本堂ではないとのことだ。
「でも、趣があっていいではないか」
と、本堂の周りを一回りしながらAが変な感心の仕方をした。
この寺は、江戸初期には昌泉院といったそうだ。二代藩主・藤堂高次(たかつぐ)が、高虎の霊を江戸からこちらに移して祀るようになってから、高虎の院号をとって寒松院と称するようになった。それ以後、この寺は藩主の菩提寺として重きをなし、藩費で維持された。藩祖高虎の150回忌には鐘と鐘楼、十代藩主・高兌公(たかさわ)のときには、本堂・新書院・山門が再建されたりして、その勢いは他に並ぶものがなかったという。ところが、明治になって藤堂氏が離檀し、昭和20年の戦災で全焼してしまった。
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| 本堂に掲げられた寒松院の扁額 |
高虎は本能寺の変の翌年の天正9年(1581),26歳のときに但馬の名門一色家の息女と結婚している。後の久芳夫人である。しかし、二人の間には子供が授からず、天正15年(1587)に羽柴秀長から養子仙丸(後の藤堂高吉(たかよし)、当時9歳)を得ている。その後、高虎は慶長4年(1599)に同じく但馬出身の長高連(ちょうたかづら)の息女・松壽夫人を側室としている。そして46歳のとき、ようやく跡継ぎの高次(たかつぐ)をもうけている。
寒松院の左手にある墓所には、高虎と側室だった松壽院をはじめ、歴代藩主の壮大な五輪塔が立ち並んでいる。西側にある第6代・高治(たかはる)から第10代・高兌(たかさわ)の墓は板石塔婆になっている。北側には、津の支藩だった久居藩の歴代藩主の墓塔が並んでいる。
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| 寒松院の左手にある藤堂家墓所 |
その中で第7代藩主・藤堂高朗の五輪塔が一部欠けているのが目についた。先ほどの婦人に確認すると、やはり昭和20年6月26日の爆撃で被弾した傷痕であるという。
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| 初代藩主・高虎の五輪塔 | 第7代藩主・高朗の被弾した五輪塔 |
寒松院を出たところで、Aがスタンプラリーのガイドブックを開いた。
「次の藤堂藩ゆかりの地は、浄明院だな」
「浄明院と藤堂家との関係は?」
私が問うと、彼はガイドブックを見ながら答えた。
「宝永3年(1706)に、第3代藩主・藤堂高久が自分の母の浄明院の菩提を弔うために建立した由緒ある寺で、臨済宗興聖寺派の寺だ。残念ながら、建物は戦災で消滅してしまっている」
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| 藤堂家系図 |
そこで、二人は寒松院から国道23号線を北に向かって歩き出した。しばらくすると、津市中央と津市なぎさまちを結ぶフェニックス通りとの交差点に来た。交差点の角にあるガソリンスタンドで浄明院を場所を聞くと、店員は自信がなさそうに、フェニックス通りを少し東へ下った反対側に石仏が沢山ならんでいる寺ではないか、と教えてくれた。
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| 津市中央から津市なぎさまちを結ぶフェニックス通り |
教えられた通りにフェニックス通りを海岸方面に向かうと、次の交差点で反対側の歩道に沿って仏龕(ぶつがん)が並んでいるのが見えた。交差点の角には、市指定文化財の梵鐘を吊した鐘楼も見えた。
「なんだ、これは!」
歩道に沿って長々と続く小さな仏龕の並びを見て、Aが驚きの声を上げた。それぞれの仏龕には摩耗して目鼻立ちもはっきりしない地蔵菩薩などの石仏が安置されている。あちこちに捨てられていた無縁仏を集めてきたという雰囲気でもない。やはり、当初からここに並べて置かれたもののようだ。
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| 歩道に沿って並べられた石仏の群れ | 浄明院の墓と覚しき五輪塔 |
あまり手入れが行き届いているようにも見えない境内の墓域で、ひときわ大きい五輪塔が眼についた。誰の墓かを示した標識はないが、Aはおそらく高久の母の墓にちがいないと決めつけた。この寺は、わが国探偵小説の先達として活躍した江戸川乱歩〈本名平井太郎、1894−1965)の実家の菩提寺で、乱歩が建立した先祖代々の墓があると聞いていたが、どれだか分からなかった。
今でこそ本堂は戦災で消滅してコンクリート製の建物が建っているだけの寺だが、二つの文化財がある。一つは境内の隅にある鐘楼につり下げられた市指定文化財の梵鐘であり、今一つは境内にある県指定文化財の宝篋印塔(ほうきょういんとう)だ。
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| 津市の文化財に指定されている梵鐘 | 宝篋印塔の説明板 |
梵鐘は、貞享元〜2年(1684 - 1685)頃の鋳造で、作者は津の辻越後家の鋳物師・陳種である。 祖父の家種は、有名な京都方広寺の梵鐘鋳造時の脇棟梁を務めたり、将軍献上の釜を作ったりした釜師でもあり、「梵鐘作りの名人」としてその名は全国的に知られていた。陳種が鋳造したこの総高約2mの梵鐘は辻越後家の伝統の作風を堅持しつつも、飛天を鋳出したり、縦帯や下帯に文様をあしらうなど新たな意図が認められるという。
残念ながら、もう一つの文化財である宝篋印塔は、解体修理中で実物はブルーシートに覆われて境内に横倒しになっていた。そばに立てられた説明板で、その姿を空想するより仕方がなかった。
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| 津観音寺の五重塔 |
そのはずである。付近は、藤堂高虎が町づくりをしたとき寺社地に指定したところだ。右を見ても左を見ても、寺の築地塀が続く。どうやらAも諦めたようで、道路脇の小さな日当たりのよい遊園地を見つけると、
「あの遊園地で少し休息しよう。歩き疲れた。途中で腹が空くのを考えて少しだがサンドイッチを持ってきている」
と、先に立って遊園地に入っていった。
日差しはあったが、海が近いせいか遊園地の中も時折突風が舞う。ベンチの上に広げた包装紙が飛ばないように片手で押さえながら、Aが次の見学場所を説明してくれた。
「これから行く津観音寺は、東京の浅草観音、名古屋の大須観音と並ぶ日本三大観音の一つだそうだ。創建は古い。和銅2年(709)とのことだ。中世には橋南地区(柳山地域)に建っていたが、明応7年(1498)の大地震で現在の地に移転したとのことだ。本尊は津の阿漕浦で漁夫の網にかかって出現した聖観世音菩薩を秘仏として祀っている。江戸時代以降は、伊勢街道が門前を通り、伊勢参りの客の往来とあいまって、城下町・宿場町の中心寺院として賑わったという」
「その観音寺院が藤堂家とどういう関係があるんだ?」
「たまたま、寺が津城の北東方向、つまり鬼門の方向にあたるため、高虎をはじめ歴代の藩主から庇護を受けたとのことだ。戦災で堂宇が焼失したが、かっての本堂は慶長18年(1618)に高虎が寄進した。本堂の前にある銅灯籠も寛永5年(1628)に高虎が寄進したもので、市の文化財に指定されている」
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| 津観音寺の仁王門 | 高虎が寄進した銅灯籠。バックは観音堂 |
やっと見つけた国道沿いのコンビニで観音寺の所在を聞くと、寺はすぐ裏手にあった。観音寺は庶民の帰依所であり、どこでも普段から雑然とした賑わいを見せている。今年で創建1300年を迎えるとあって、津観音寺の仁王門の前に大きな柱が立てられ、境内に一歩足を踏み入れると、売り物になるのかと首を傾げたくなる衣類や、茶碗、骨董品を、古物商が雑然と並べている。そんな境内の中央に、高虎が寄進した銅灯籠が立っていた。
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| 観音堂の内陣 |
彼女の案内で、観音堂の内陣を見せてもらった。本尊の聖観世音菩薩は秘仏で開帳されていないが、その厨子の前に置かれたお前立ちの仏像が金色に淡く輝き美しかった。阿弥陀如来は、国府阿弥陀(こうのあみだ)と呼ばれ、伊勢の天照大神の御本地仏とされている。そのため、せっかく伊勢神宮に参拝しても、津観音の「阿弥陀に参らねば片参宮」と言われた。江戸時代には、幕府や朝廷の後援により大規模な江戸出開帳を行い、全国にも有名になった仏像である。
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| 国府阿弥陀 | 本尊のお前立ち |
| 元号 | 西暦 | 年齢 | 高虎の主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 弘治2年 | 1556 | 1 | 近江国犬上郡藤堂村に生まれる |
| 永禄3年 | 1560 | 5 | (桶狭間の戦い) |
| 永禄4年 | 1561 | 6 | (川中島の戦い) |
| 元亀元年 | 1570 | 15 | 浅井長政に仕え、姉川の戦いに従事する |
| 天正元年 | 1573 | 18 | 同僚とのけんかの末浅井家を出て,阿閉貞征に仕える (この年、室町幕府が滅びる) 阿閉家を出て磯野員昌に仕える |
| 天正4年 | 1578 | 21 | 磯野家を出て織田信澄に仕える 織田家を出て羽柴秀長に仕える |
| 天正10年 | 1582 | 27 | (本能寺の変) |
| 天正19年 | 1591 | 36 | 豊臣秀長が没する。豊臣秀保に仕える |
| 文禄元年 | 1592 | 37 | 豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍する(文禄の役) |
| 文禄4年 | 1595 | 40 | 豊臣秀保が没し、高野山に出家する 豊臣秀吉の説得により下山する 伊予国板島(宇和島)7万石の大名となる |
| 慶長2年 | 1597 | 42 | 豊臣秀吉の命令により朝鮮に出兵する |
| 慶長3年 | 1598 | 43 | 豊臣秀吉が没する |
| 慶長5年 | 1600 | 45 | 徳川家康率いる東軍に従い関ヶ原の合戦で戦う |
| 慶長8年 | 1603 | 48 | (家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く) |
| 慶長13年 | 1608 | 53 | 徳川家康に伊賀・伊勢への転封を命じられ、 伊賀上野城、安濃津城に入城し、22万石を領する |
| 慶長19年 | 1614 | 59 | 大阪冬の陣に従軍する |
| 元和元年 | 1615 | 60 | 大阪夏の陣に従軍する |
| 元和2年 | 1616 | 61 | (徳川家康が没する) |
| 元和3年 | 1617 | 62 | 秀忠より5万石が加算され32万石を領する |
| 寛永7年 | 1630 | 75 | 江戸の藩邸で没する |
| 築城年 | (西暦) | 城名 | 所在地 |
|---|---|---|---|
| 天正13年 | 1586 | 紀州和歌山城 | 和歌山県 |
| 天正14年 | 1587 | 聚楽第 | 京都府 |
| 文禄4年 | 1595 | 伊予宇和島城 | 愛媛県 |
| 慶長6年 | 1601 | 伊予今治城 | 愛媛県 |
| 慶長6年 | 1601 | 近江膳所城 | 滋賀県 |
| 慶長7〜9年 | 1602〜1604 | 伏見城 | 京都府 |
| 慶長11〜12年、19年 | 1606〜1607、1614 | 江戸城 | 東京都 |
| 慶長14年 | 1609 | 丹波篠山城 | 京都府 |
| 慶長15年 | 1610 | 丹波亀山城 | 京都府 |
| 慶長16年 | 1611 | 伊賀上野城 | 三重県 |
| 慶長17年 | 1612 | 安濃津城 | 三重県 |
| 元和6年、寛永5年 | 1620、1628 | 徳川大阪城 | 大阪府 |
| 元和7年 | 1621 | 二条城 | 京都府 |