知人を案内して畝傍山の山頂に登る
「同じ山でも、場所によってずいぶん形が変わって見えるんだね」 Aは以前、明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)豊浦展望台や雷丘(いかづちのおか)の頂きから、畝傍山を眺めたことがある。そのときの印象が、彼の脳裏にインプットされていた。畝傍山は、昔の中折れ帽を大地に伏せたような形をして、背後に連なる金剛山や葛城山、二上山を従えた連隊長の姿を彷彿させたとのことだ。
「標高200mの山と聞いていたが、それにしては、それほど高さを感じさせない山だな」 「その筈さ。このあたりで標高はすでに70mある。俺たちの目線で見る高さは、130mにすぎない」 私が答えると、Aは妙な感心の仕方をした。 「なるほど、道が険しくなければ、健康維持には手頃な山登りかもしれないな」 橿原森林遊苑の端を県道125号線が南北に走っている。道路の両脇は樫などの常緑樹の大木が生い茂り、以前は、歩道を越えて車道の上まで枝葉を延ばしていた。真夏の暑い盛りでも歩道は涼しい木陰になっていて、散策するのに好きな場所だった。しかし、樫などが落とす枯れ葉や木の実は油性が強く、車道に散乱すると危険なのだろう。今は路上を覆う枝が伐採されて、上空が明るい。 その県道を横断したところに、大きな石の鳥居が立ち、そこから橿原神宮の北参道が続いている。北参道に入って100mほど進むと、右手に「畝傍山登山口」と書かれた小さな標識が立っている。朝の散歩では、いつもここからの登山道を利用している。
登山道に入りながら、Aがまた聞いた。
「ということは、他のルートはまだある?」
東大谷日女命神社を過ぎたところに、奈良森林管理事務所が立てた畝傍山国有林の古びた案内図が掲げられている。その横に、「名勝 大和三山 畝傍山」と題する比較的新しい案内板が並んでいる。平成17年に大和三山が国の名勝に指定されたのを受けて立てられたものだ。
案内板には、大和三山の由来を説明した後に、『万葉集』に詠まれた柿本人麻呂の長歌の一部が引用されている。
案内板を過ぎると、この登山ルートの最初の難関である急な坂道が少し続く。坂道の登り切ると、比較的平坦な道である。朝の散歩では、雑木林の間を縫って東の空に顔を出した朝日からの光が真横から差し込んでくる。その縞模様の光りの中を歩くのは、まさに豊饒のひとときである。
「あれは、ひょっとして先ほど俺が通ってきた高速道路かな?」 西の方角から延びてきている高架を指さしながら、彼が聞いた。 「ああ、5年前の3月に開通した南阪奈道だ。あの道路ができたおかげで、橿原市から大阪市内へ50分足らずで行けるようになった。関西国際空港だって約60分と大変便利になった」 「それ以前は、どうしていたんだ?」 「西名阪道の香芝ICを利用したんだろうな。下の道が混んで、ICに着くまでにずいぶん時間がかかったという話だ」
坂道を登り切ると、道は平坦になり、途中で折り返して頂上へ向かう。頂上の少し手前に、奈良森林管理事務所が立てた畝傍山国有林の案内板があり、次のように書かれてる。
「へえ、この山の山麓には4人の天皇の墓があるのか。初代の神武は分かるとして、後の3人は何代の天皇なんだ?」 「神武に続く第2代から第4代の天皇さ」 私が教えると、Aは頭の中に描いた地図で天皇陵が築かれている方向を確認するように、宙に 指を動かした。 「それにしても、うまい具合に時計とは反対回りに順番に築いたもんだな。でも、これらの天皇は実在が疑われている天皇だろ? 実在しなかった天皇の墓が何故あるんだ?」 「『古事記』や『日本書紀』が編纂された奈良時代、さらには『延喜式』が作られた平安時代の初め頃には、実在が信じられていたからさ」 「でも、不思議だね。第2代綏靖天皇の墓だけは天皇陵とは呼ばないんだ。綏靖塚と書いてあるよ」 「何だって?」 私は驚いた。迂闊にも彼に指摘されるまで、そのことに気が付かなかった。市の中心に出かけるときは、自転車で四条町にある綏靖天皇の墓のそばを通る。他の天皇陵に比べるといささか貧弱な気もするが、宮内庁が掲げた標識にも「綏靖天皇 桃花田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)」と書かれていたはずだ。 実は、江戸時代の初め頃には、神武天皇の墓も綏靖天皇の墓も、何処にあるのか分からなくなっていた。元禄時代には、現在の綏靖天皇の墓とされている場所にあった古墳が神武天皇陵に比定されて修理された。ところが、幕末になって、もっと畝傍山近くのミサンザイ古墳と呼ばれていた小さな墓に比定が変更され、現在の場所に神武天皇陵が実質的に築造された。そんな背景があることをAに話しても、彼をますます混乱させるだけなので止めにした。
畝傍山の山頂に到着した。山頂は小さいながら平坦な広場になっている。雨でも降らない限り、朝の6時半ごろには近在の住人が散歩を兼ねてこの広場にやってきて、ラジオ体操をする。奈良盆地の西の端を区切る葛城・金剛連山の雄大な姿を正面に見ながら、早朝の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで体を動かすのは誠に気分が良い。
Aにその話をすると、早速聞いてきた。
住吉大社のとても大切な神事のようで、埴使は途中の雲名梯(うなて)神社と畝火山口(おむねやまぐち)神社で祭典を行なった後、山に登ってくる。そして、山頂の秘地で口に榊の葉を含んで、埴土を三握半採取し、埴筥 (はにばこ) に収めて持ち帰る。住吉大社でのみ現在も伝承されている儀式だそうだ。 採取される埴土には、一握りに5〜6粒のネズミノフンのようなものが普通の土に混じっているそうだ。持ち帰った埴土は、土に混ぜてお供えを入れる神器を作るのに使われる。ところで、ネズミノフンのようなものは、コフキコガネの糞であるという説がある。コフキコガネはコナゲムシの仲間だが、全身に微毛が生えているため、その名のように粉を吹いているように見える昆虫である。
現在のように山頂から山麓に遷座されたのは比較的新しく、昭和15年のことである。昭和15年といえば、戦前の皇紀で言えば、神武天皇が橿原の宮で即位して2600年目にあたる節目の年だ。その記念事業として、橿原神宮の神域が大々的に整備・拡張された。この整備・拡張事業は軍国主義の高揚が目的だった。全国から延べ120万の国民が労力奉仕に参加し、8万本もの樹木が献納されたという。 その時、恐れ多くも初代神武天皇を祀る橿原神宮を上から見下ろすのは不敬である、との理由で、政府から畝傍山の西麓に遷座するように命じられた。考えようによっては、今は何も残っていない社殿跡が、太平洋戦争突入前夜の軍国主義華やかなりし頃の世情を密かに語ってくれているとも言える。
「うむ、毎朝ここまで登ってきてラジオ体操をしたいという君の気持ちも分かるな」
その山塊の稜線上を「ダイヤモンド・トレイル」、略してダイトレというハイキングコースが築かれている。畝傍山の山頂から眺めていると、そこを己の足で歩いてみたいという誘惑に駆られた。何年か前に三回に分けて挑戦したが、まだ南の方が一部未踏破のまま残っている。 |
下山して畝火山口神社と橿原神宮を訪れる山頂からの下りは、畝火山口神社からの登山道との合流地点まで同じ道を利用した。最近、別のルートで合流地点まで降りてこられるのを知ったが、その道は途中から補助ロープが脇に設置してあるほど急坂が続く。
合流地点から山口神社方面へ下る登山道は地道ではない。丸太を横に渡した階段が続く道である。それだけに登り道としては厳しいが、距離は短い。その道を降りようとすると、Aが声をかけた。
そこから少し下った山道の右手に大きな岩が露出している所がある。周囲の樹木に囲まれているので、うっかりすると見過ごして通り過ぎてしまうが、その岩肌には3カ所に人の手が加わった形跡がある。今では摩滅していて何が彫られていたのか分からなくなっているが、磨崖仏だったことは間違いないようだ。 やがて、山道は階段状に下ってきた登山道に合流して、神社の朱塗りの鳥居の横に出る。畝火山口神社は、神功(じんぐう)皇后、豊受比売命(とようけひめのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)を祭神として祀っていて、神功皇后は安産の神として信仰されているようだ。
この神社の年中行事を列挙した看板を見て、Aが驚いたような声を上げた。
この神社で7月の末に行われる夏祭りは”でんそそ”祭りとして近隣では知られている。”でんそそ”というのは、社頭で太鼓をデンデンデンソソと打った音から来る俗称”で、祭りは2日にわたって行われる。初日は10時から神楽、詩吟、民謡踊り、歌、和太鼓が奉納され、二日目は盆踊り大会が行われることになっている。 一度この祭りを見学したことがある。神社の夏祭りといえば、参道を飾り提灯で華やかに飾り、また参道の両側に屋台が並んで賑わいを見せるのが相場だ。しかし、この神社の”でんそそ”祭りでは、参道に提灯など一つも見あたらず、また参道を埋めたのは屋台ではなく参拝者が乗り付けた自動車ばかりだった。参拝者はいずれも年配者で、女性や子供の姿が見あたらず変な雰囲気だというのが、最初の印象だった。
山口神社の鳥居の前から大谷町の集落へ下る坂道から眺める二上山は、さながら一幅の絵である。いつもの散歩では、悲劇の大津皇子が眠る二上山をゆっくり眺めながら、坂道の横にある畑の間を抜けて溜め池の縁出る。民家の間の生活道路を抜けて県道207号線に出ると、車道の反対側に樹木が鬱蒼と生い茂る丘が前面に見えてくる。そして、第三代の安寧天皇の陵に擬せられた畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほといのへのみささぎ)である。
同じことが、第4代懿徳天皇についても言える。懿徳天皇の畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごだにのへのみささぎ)は、県道207号線を南下して西池尻町に入ったはずれにある。駐車場の奥に、陵墓はまるで畝傍山の一部のように築かれている。
何かを考え事をしているように、Aは腕を組み視線を空に向けながら後ろからついてくる。
彼の独り言を耳にして、私が言葉をついだ。
神饌田に続いて、右手には約4.8ヘクタールの大きな深田池が広がる。この池の歴史は古い。『日本書紀』には、推古21年(613)11月に掖上池(わきがみのいけ)、畝傍池(うねびのいけ)、和珥池(わにのいけ)を造った、と記されている。その中の畝傍池は、多分この深田池だろうといわれている。平成になってデッキや桟橋を備えた親水護岸に整備された。
深田池の縁に立つと、西方の金剛・葛城連山を眺望できる。今頃の時期、飛来してきた多くの鴨が水面で群れを作り、その鳥たちに混じって、白鳥が一羽悠然と泳いでいる。
現在、この休憩所には6匹ほどの捨て猫が住み着いている。捨て猫だが野良猫ではない。それぞれが立派な(?)住み家を持っている。誰が作ってくれたのか、縁台の下に段ボールのミカン箱を刳り抜き、中に古くなった布団綿や毛布を詰めた猫小屋が6個、整然とならんでいる。 深田池から北へ向かうと、正面に橿原神宮の南神門がある。橿原神宮は、神武天皇が大和を平定して即位した宮の跡に創建されている、という。明治の中頃まで、その宮跡が特定されることはなかった。明治政府は明治22年(1889)に神武天皇陵の考証と並行して、橿原の宮跡を治定するための調査を行なった。そして、現在の場所を宮跡と定めた。その年の7月には、京都御所の温明殿(賢所)が本殿として、神嘉殿が拝殿としてそれぞれ下賜された。これらの建物を移して、翌明治23年(1890)3月に神宮の造営が完成した。
したがって来年の2010年は橿原神宮鎮座120年目の記念の年にあたる。そこで、記念事業の一環として,神宮では各社殿の屋根を銅板に葺き替える工事を4年がかりで実施している。南手水舎と南神門の屋根葺き替えは昨年完了した。 今年は2月から9月までの予定で内拝殿の屋根を葺き替えることになっている。
神門を一歩入ると、そこは橿原神宮の神域である。白い砂を敷き詰めた広い庭は、毎朝丁寧に掃き清められ、筋目がつけられる。畝傍山を借景にして聳える巨大な外拝殿のたたずまいは、いつ見ても美しい。橿原神宮は、神武天皇と皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祭神として祀っている。
「おや? 神武天皇に参拝していかないのか?」 私が声をかけると、彼はまじめな顔で答えた。 「いや、いい。所詮、ここが神武天皇の宮があったという確証はないのだろ? それに、120年前に、政治的意図で新築されただけの神社じゃないか。何ほどの御利益があるのかね」 「明治神宮だって大正9年(1920)に造営された神社だよ。まだ90年にも満たない」 「でも、明治天皇は実在の人物だ。その霊を祀っている神社なら御利益はあるかもしれない。しかし、神武天皇は架空の天皇さんだろ? 実在しなかった人物の霊が存在するはずがないではないか」
「それでも、毎日参拝に訪れてくる人は結構いるよ。日曜日の早朝は、外拝殿に正座して一心不乱に読経している10人ほどのグループもいる。初詣客の数だって、奈良県では春日大社に次いで多い。2月11日の紀元祭りには、この境内にあふれんばかりの参拝者が集まってくる。一度、その様子を見学に来たらどうだ?」
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