橿原日記 平成21年1月29日

大和三山に登る − 畝傍山編

天武天皇が王城の地として選定した三山トライアングル

藤原宮跡から見た北の耳成山
藤原宮跡から見た北の耳成山

西暦672年の陰暦9月12日、壬申(じんしん)の乱で勝利した大海人皇子(おおあまのみこ)は、飛鳥に凱旋した。そして、明くる年の2月27日、母・斉明天皇の宮居だった後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)で天武天皇として即位し、従来のように左右大臣をおかず皇親政治を開始した。

江朝廷を武力で倒し、天智天皇の子の大友皇子を葬った大海人皇子は、確かに権力を掌中にした。だが、彼には欠けているものがあった。皇位を継承する正当性を保証する権威である。その権力を恐れて口にこそ出さなかったが、多くの人民には、大海人皇子は皇位の簒奪者にしか映らなかったであろう。

飛鳥京跡復元模型
飛鳥京跡復元模型
こで、天皇たる正当性を保証するものとして大海人皇子が着目したのが、中国の世界認識のための天の思想である。中国では、太極殿は天帝の代行者として天下に臨む天子の居住地を意味していた。天皇の正当性を象徴する殿舎として、大海人皇子は後飛鳥岡本宮の南に大極殿を造営し、そこで天皇位に登極することにした(その大極殿跡は、橿考研の飛鳥京復元模型では地名をとってエビノコ郭と呼ばれている)。

が、天武天皇にとって後飛鳥岡本宮はあくまで仮の王宮だった。当然のことながら、己の権力と権威にふさわしい都城の建設を計画した。『日本書紀』は676年(天武5年)の条に、天武天皇が”この年、新城(にいき)に都を造ろうとされた、と記す。

像するに、ある晴れた日、天武天皇は現在の藤原宮跡付近に行幸して、周囲を一望されたに違いない。南面して立つと、東に香久山(かぐやま)が、西に畝傍山(うねびやま)が遠望でき、背後の北側には耳成山(みみなしやま)が控えている。

藤原宮跡から見た畝傍山
藤原宮跡から見た西の畝傍山

の場所が、当時の中国や朝鮮でもてはやされていた四神相応(しじんそうおう)の地というわけではない。だが、『日本書紀』によると、天皇が新城に行幸したのは、682年3月である。うららかな春の日差しが降り注ぐ中で、常緑樹に覆われた三山は濃い緑に映えていたはずだ。三山に囲まれたこの地で、天皇は実に落ち着いた気持ちを味わい、文字通り三山が鎮(しずめ)をなす場所であることを実感されたにちがいない。

の2年後の3月にも、天武天皇は再びこの地に行幸して宮地を選定している。しかし2年後の686年5月、天武天皇は病に倒れた。病気平癒を祈って朱鳥(あかみとり)と改元され、このとき初めて天武の宮が飛鳥浄御原宮と命名された。しかし、9月9日、病が癒えず天皇は波乱に満ちた生涯を浄御原宮の正宮で閉じた。念願の王都完成を己の目で確かめることはなかった。

醍醐池の傍らに立つ万葉歌碑
醍醐池の傍らに立つ万葉歌碑
武の遺志を継いだのは、皇后だった持統天皇である。690年正月に飛鳥浄御原宮の大極殿で持統天皇として登極した女帝は、たびたび藤原の宮地に行幸して新都造営を督促している。そして、694年の年の瀬も押し迫った12月6日、彼女は新装なった藤原宮に宮居を遷した。

き夫の夢を我が手で実現させ、満ち足りた気持ちで次の年の夏を迎えたのであろう。女帝が詠んだ次の歌が『万葉集』に載っている。おそらく内裏から近くの香久山を望んで詠んだ歌であろう。
春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香久山 (巻1−28)
万葉学者だった犬養孝氏の揮毫による歌碑が、現在、藤原宮大極殿跡の北にある醍醐池の堤に建っている。


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大和三山の位置関係
良盆地の南部に位置する耳成山、畝傍山、香久山を、総称して大和三山(やまとさんざん)という。これらの山々は4年前の平成17年(2005)7月に「大和三山」の名で国の名勝に指定されている。

の配剤というべきか自然の妙というべきか、大和三山は、畝傍山を頂点とする見事な二等辺三角形を形づくっている。すなわち、耳成山と香久山の直線距離2.4キロを底辺とすれば、畝傍山と耳成山、畝傍山と香久山をそれぞれ結ぶ側辺の距離は、いずれも3.1キロである。

和三山のうち畝傍山と耳成山は、もともと瀬戸内火山帯に属する死火山で、溶岩の噴出で形づくられ、二次的な浸食を受けて現在のような円錐形の美しい山になった。しかし、香久山は多武峰から北西に延びた支脈が大和盆地に下りてきて、侵食に堪えた部分が残って小丘陵として残ったものである。

ずれの山もたいした高さではない。耳成山の海抜は139.7mだが、山麓の海抜は60m、したがって比高差は79.7mに過ぎない。香久山の海抜は152.4mだが、山麓ですでに海抜75mであり、比高差は77.4m。最も高いとされる畝傍山は海抜199.2mに対し山麓の海抜は70m、したがって、比高差は129.2mである。

藤原宮跡から見た東の天香久山
藤原宮跡から見た東の天香久山

ずれの山も、万葉の時代から人々に愛されてきた。とりわけ香久山は敬われていたようだ。伊予国風土記には、天から降ってきたという伝承が残っているように、昔から天の香久山と呼ばれてきた。『万葉集』でも「天」という美称がつけられている山は香久山だけのようだ。『万葉集』には舒明天皇が香久山に登って国見をしたとき作ったとされる次の歌が載っている。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香久山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきつしま 大和の国は(巻1−2)

かし、なんと言っても大和三山の名を有名にしているのは、中大兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)の作と伝えられる次の三山歌であろう。
香久山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔も  然にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそうらしき(巻1−13)

の歌の「畝火ををしと」を「畝火雄々(をを)しと」と解するか、「畝火を愛(を)し」と解するかによって、男女の三角関係を比喩した三山の性別が違ってくる。「雄々し」の意味に取れば、畝火山は男山であり、女山の香久山と耳成山が共に争ったことになる。「愛し」の意味に取れば、畝火山はは女山であり、男山の香久山と耳成山が一人の女性を争ったことになる。果たしてどちらだろうか。


者は橿原神宮の近くにアパートを借り、朝の散歩は畝傍山の山頂まで登るのを日課にしている。したがって、山頂までの登山道の様子や山麓にある神社や古墳の様子は熟知しているつもりでいる。だが、香久山や耳成山となると、今までに登ったことがない。せっかく三山の近くに住みながら、これでは片手落ちである。あらためて大和三山の探訪を試みたいと思っていた。

んな矢先、たまたま知人のAが訪ねてきて、畝傍山に登ってみたいという。そんなわけで、まずは畝傍山とその周辺の史跡から紹介しよう。



知人を案内して畝傍山の山頂に登る

明日香村の雷丘(いかづちのおか)から見た畝傍山 (2008/04/03 撮影)

山麓の若桜遊苑から見上げた畝傍山
山麓の若桜遊苑から見上げた畝傍山
パートを出て橿原考古学研究所前の公営駐車場あたりまで来ると、橿原森林遊苑の梢越しに円錐形の畝傍山を見上げることができる。晴れ渡った冬空の下で日差しを受けて樹木を輝かせている山肌を見上げながら、Aがつぶやいた。
「同じ山でも、場所によってずいぶん形が変わって見えるんだね」

は以前、明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)豊浦展望台や雷丘(いかづちのおか)の頂きから、畝傍山を眺めたことがある。そのときの印象が、彼の脳裏にインプットされていた。畝傍山は、昔の中折れ帽を大地に伏せたような形をして、背後に連なる金剛山や葛城山、二上山を従えた連隊長の姿を彷彿させたとのことだ。

畝傍山とその周辺
畝傍山とその周辺
路右手の橿原公苑第二体育館や弓道場の屋根越しに聳える山の頂きに視線を投げながら、Aは首をかしげた。
「標高200mの山と聞いていたが、それにしては、それほど高さを感じさせない山だな」
「その筈さ。このあたりで標高はすでに70mある。俺たちの目線で見る高さは、130mにすぎない」
私が答えると、Aは妙な感心の仕方をした。
「なるほど、道が険しくなければ、健康維持には手頃な山登りかもしれないな」

橿原森林遊苑の端を県道125号線が南北に走っている。道路の両脇は樫などの常緑樹の大木が生い茂り、以前は、歩道を越えて車道の上まで枝葉を延ばしていた。真夏の暑い盛りでも歩道は涼しい木陰になっていて、散策するのに好きな場所だった。しかし、樫などが落とす枯れ葉や木の実は油性が強く、車道に散乱すると危険なのだろう。今は路上を覆う枝が伐採されて、上空が明るい。

の県道を横断したところに、大きな石の鳥居が立ち、そこから橿原神宮の北参道が続いている。北参道に入って100mほど進むと、右手に「畝傍山登山口」と書かれた小さな標識が立っている。朝の散歩では、いつもここからの登山道を利用している。

橿原神宮北参道 登山口の標識
橿原神宮北参道 登山口の標識

山道に入りながら、Aがまた聞いた。
「山頂まで登るのは、これが唯一のルートではないだろうな? 円錐形の山だ。その気になれば、どこからでも登山ルートは作れる」
「たかだか130mの山でも、稜線に沿って一直線に登る山道はけっこう険しい。幸いこれから登る登山道は、山肌をぐるりと回るように築かれていて、2カ所を除けばそれほどの傾斜はない」

ということは、他のルートはまだある?」
「ああ、主なルートは、この登山道を含めて3つだ。一つは、畝傍山の西麓に鎮座する畝傍山口(おむねやまぐち)神社の鳥居脇から登る道だ。俺は、このルートはいつも下山に利用している。もう一つは、この先にある東大谷日女命(ひがしおおたにひめみこと)神社の前でこのルートから分岐する道だ。山腹をほぼ一直線に続く急坂で途中に岩場が多い。したがって、下山の時ときどき利用するが、登りに利用したことはない。だが、健脚はこの道を好んで上ってくる」

東大谷日女命神社の参道
東大谷日女命神社の参道
畝傍山の案内板の先に続く急坂
畝傍山の案内板の先に続く急坂
んな会話を交わしている間に、山麓に鎮座する東大谷日女命(ひがしおおたにひめみこと)神社の前に出た。登山道の脇に石の鳥居が立ち、拝殿は少し奥の石段の上に建っている。この神社は神武天皇の后・姫蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祭神として祀っている。

大谷日女命神社を過ぎたところに、奈良森林管理事務所が立てた畝傍山国有林の古びた案内図が掲げられている。その横に、「名勝 大和三山 畝傍山」と題する比較的新しい案内板が並んでいる。平成17年に大和三山が国の名勝に指定されたのを受けて立てられたものだ。

内板には、大和三山の由来を説明した後に、『万葉集』に詠まれた柿本人麻呂の長歌の一部が引用されている。
玉襷(たまたすき) 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)御代ゆ 生(あ)れましし ・・・(巻1−29)
ちなみに、玉襷とは美しい襷を首(うね)にかけるの意で、「畝火」の枕詞だそうだ。また、日知(ひじり)とは神武天皇のことで、「日知」は農耕の日を知るの意で、広く聖に用いられるとのことだ。

内板を過ぎると、この登山ルートの最初の難関である急な坂道が少し続く。坂道の登り切ると、比較的平坦な道である。朝の散歩では、雑木林の間を縫って東の空に顔を出した朝日からの光が真横から差し込んでくる。その縞模様の光りの中を歩くのは、まさに豊饒のひとときである。

三叉路
登山道の中間を過ぎたあたりにある三叉路
三叉路から長々と続く坂道a
三叉路から長々と続く坂道
山道は、中間点を過ぎたあたりで、畝火山口神社の脇から登ってくる別のルートと合流する。その先はかなり厳しい上り坂が長々と続く。道幅が狭い上に、足下から急な崖がほぼ直角に下っている。山歩きに慣れていないAは、坂道の途中で2回ほど立ち止まって呼吸を整えた。落葉した灌木の間から市街地が見え隠れしている。
「あれは、ひょっとして先ほど俺が通ってきた高速道路かな?」
西の方角から延びてきている高架を指さしながら、彼が聞いた。
「ああ、5年前の3月に開通した南阪奈道だ。あの道路ができたおかげで、橿原市から大阪市内へ50分足らずで行けるようになった。関西国際空港だって約60分と大変便利になった」
「それ以前は、どうしていたんだ?」
「西名阪道の香芝ICを利用したんだろうな。下の道が混んで、ICに着くまでにずいぶん時間がかかったという話だ」

道を登り切ると、道は平坦になり、途中で折り返して頂上へ向かう。頂上の少し手前に、奈良森林管理事務所が立てた畝傍山国有林の案内板があり、次のように書かれてる。
”ここは歴史的にも有名な大和三山の一つで、標高199.2m、面積41ヘクタールの死火山です。東部裾野に神武(じんむ)天皇陵、北西部に綏靖(すいぜい)塚、南西部に安寧(あんねい)天皇陵、南部に懿徳(いとく)天皇陵、東南部に橿原神宮があります。”そして、その後に中大兄皇子の三山歌が続く。

畝傍山東麓にある神武天皇陵
畝傍山東麓にある神武天皇陵
畝傍山の北西部にある綏靖天皇陵
畝傍山の北西部にある綏靖天皇陵
ち止まって案内板を読んだAは、感心したようにつぶやいた。
「へえ、この山の山麓には4人の天皇の墓があるのか。初代の神武は分かるとして、後の3人は何代の天皇なんだ?」
「神武に続く第2代から第4代の天皇さ」
私が教えると、Aは頭の中に描いた地図で天皇陵が築かれている方向を確認するように、宙に 指を動かした。
「それにしても、うまい具合に時計とは反対回りに順番に築いたもんだな。でも、これらの天皇は実在が疑われている天皇だろ? 実在しなかった天皇の墓が何故あるんだ?」
「『古事記』や『日本書紀』が編纂された奈良時代、さらには『延喜式』が作られた平安時代の初め頃には、実在が信じられていたからさ」
「でも、不思議だね。第2代綏靖天皇の墓だけは天皇陵とは呼ばないんだ。綏靖塚と書いてあるよ」
「何だって?」
私は驚いた。迂闊にも彼に指摘されるまで、そのことに気が付かなかった。市の中心に出かけるときは、自転車で四条町にある綏靖天皇の墓のそばを通る。他の天皇陵に比べるといささか貧弱な気もするが、宮内庁が掲げた標識にも「綏靖天皇 桃花田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)」と書かれていたはずだ。

は、江戸時代の初め頃には、神武天皇の墓も綏靖天皇の墓も、何処にあるのか分からなくなっていた。元禄時代には、現在の綏靖天皇の墓とされている場所にあった古墳が神武天皇陵に比定されて修理された。ところが、幕末になって、もっと畝傍山近くのミサンザイ古墳と呼ばれていた小さな墓に比定が変更され、現在の場所に神武天皇陵が実質的に築造された。そんな背景があることをAに話しても、彼をますます混乱させるだけなので止めにした。


畝傍山山頂
畝傍山山頂

傍山の山頂に到着した。山頂は小さいながら平坦な広場になっている。雨でも降らない限り、朝の6時半ごろには近在の住人が散歩を兼ねてこの広場にやってきて、ラジオ体操をする。奈良盆地の西の端を区切る葛城・金剛連山の雄大な姿を正面に見ながら、早朝の清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで体を動かすのは誠に気分が良い。

にその話をすると、早速聞いてきた。
「それで、どれくらいの数が集まってくるんだ?」
「夏場の夜明けが早い頃は、15人ほど。でも、今の時期は6時半はまだ太陽が昇っていない。暗い山道は足元が危ないから、懐中電灯片手に登ってくるのは、せいぜい4〜5人ほどだろう」
「それで、君は今はどうしているのか?」
「ラジオ体操で人が集まってくる場所は他にもある。橿原神宮の脇にある深田池の周囲だ。こちらには多いときは50人近く集まってくる」
「それでは、朝の散歩は畝傍山頂に登るのを日課にしているというのは嘘か?」
「いいや、嘘ではない。ラジオ体操の後明るくなってから登ることにしている」

埴土採取の聖地
埴土採取の聖地
頂には、石垣の上に石玉垣で厳重に囲った場所がある。大阪の住吉大社の埴使(はにつかい)神事で、埴土(はにつち)を採取する聖地である。埴使神事とは、住吉大社で行われる祈年祭(2月)と新嘗祭(11月)に付随した主要な行事で、祭の前に畝傍山の埴土を採ってくる神事をいう。

吉大社のとても大切な神事のようで、埴使は途中の雲名梯(うなて)神社畝火山口(おむねやまぐち)神社で祭典を行なった後、山に登ってくる。そして、山頂の秘地で口に榊の葉を含んで、埴土を三握半採取し、埴筥 (はにばこ) に収めて持ち帰る。住吉大社でのみ現在も伝承されている儀式だそうだ。

取される埴土には、一握りに5〜6粒のネズミノフンのようなものが普通の土に混じっているそうだ。持ち帰った埴土は、土に混ぜてお供えを入れる神器を作るのに使われる。ところで、ネズミノフンのようなものは、コフキコガネの糞であるという説がある。コフキコガネはコナゲムシの仲間だが、全身に微毛が生えているため、その名のように粉を吹いているように見える昆虫である。

かっての山口神社社殿跡
かっての山口神社社殿跡
場の中央付近に、石と丸太で囲われ「殿跡」という小さな標石が置かれている場所がある。かっての畝火山口神社の社殿の跡地である。この神社の鎮座地はたびたび変更されている。昔は畝傍山の山腹にあり、文字通り山口神社だった。それが、天正3年(1576)に作られた「畝火山古図」では、山頂に描かれている。

在のように山頂から山麓に遷座されたのは比較的新しく、昭和15年のことである。昭和15年といえば、戦前の皇紀で言えば、神武天皇が橿原の宮で即位して2600年目にあたる節目の年だ。その記念事業として、橿原神宮の神域が大々的に整備・拡張された。この整備・拡張事業は軍国主義の高揚が目的だった。全国から延べ120万の国民が労力奉仕に参加し、8万本もの樹木が献納されたという。

の時、恐れ多くも初代神武天皇を祀る橿原神宮を上から見下ろすのは不敬である、との理由で、政府から畝傍山の西麓に遷座するように命じられた。考えようによっては、今は何も残っていない社殿跡が、太平洋戦争突入前夜の軍国主義華やかなりし頃の世情を密かに語ってくれているとも言える。

山頂から葛城・金剛山を望む 山頂から二上山を望む
山頂から葛城・金剛山を望む 山頂から二上山を望む

うむ、毎朝ここまで登ってきてラジオ体操をしたいという君の気持ちも分かるな」
広場の端に立って西の方角を眺めながら、Aが感慨深そうに言った。眼下に広がる市街地の先に、北の端の二上山から連綿と連なる葛城・金剛の山塊は、晴れ渡った冬空の下では,普段以上にすっきり見える。

の山塊の稜線上を「ダイヤモンド・トレイル」、略してダイトレというハイキングコースが築かれている。畝傍山の山頂から眺めていると、そこを己の足で歩いてみたいという誘惑に駆られた。何年か前に三回に分けて挑戦したが、まだ南の方が一部未踏破のまま残っている。



下山して畝火山口神社と橿原神宮を訪れる

頂からの下りは、畝火山口神社からの登山道との合流地点まで同じ道を利用した。最近、別のルートで合流地点まで降りてこられるのを知ったが、その道は途中から補助ロープが脇に設置してあるほど急坂が続く。

流地点から山口神社方面へ下る登山道は地道ではない。丸太を横に渡した階段が続く道である。それだけに登り道としては厳しいが、距離は短い。その道を降りようとすると、Aが声をかけた。
「こちらにも細い道があるよ。この道は何処へ続いているんだ?」
「途中、お地蔵さんの前を通って、神社の少し手前で、こちらの登山道と合流する」
「神々が住む山に仏様とはおもしろい。こちらの道を降りてみよう」
そう言って、Aは先に立って歩き出した。

登山道の途中にある地蔵尊<a
登山道の途中にある地蔵尊
磨崖仏
何が彫られているのか分からなくなった磨崖仏
が選んだ道は、枯葉に埋まった細い山道である。ガサガサと枯葉を踏んで降りてゆくと、小さな崖の下に、地蔵菩薩の石像が赤いヨダレ掛けをし、こうもり傘をさして立っている。よほど熱心にお参りにくる近在の人がいるのだろう。いつ来ても、供花が涸れているのを見たことがない。

こから少し下った山道の右手に大きな岩が露出している所がある。周囲の樹木に囲まれているので、うっかりすると見過ごして通り過ぎてしまうが、その岩肌には3カ所に人の手が加わった形跡がある。今では摩滅していて何が彫られていたのか分からなくなっているが、磨崖仏だったことは間違いないようだ。


がて、山道は階段状に下ってきた登山道に合流して、神社の朱塗りの鳥居の横に出る。畝火山口神社は、神功(じんぐう)皇后、豊受比売命(とようけひめのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)を祭神として祀っていて、神功皇后は安産の神として信仰されているようだ。

畝火山口神社の参道
畝火山口神社の参道

の神社の年中行事を列挙した看板を見て、Aが驚いたような声を上げた。
「あれ! この神社の正式名称は”畝傍”ではなくて”畝火”と書くんだ。それに”ウネビヤマグチ”ではなくて”オムネヤマグチ”と読むんだ」
私も最近まで”うねびやまぐちじんじゃ”と読んでいた。

安産祈願の石
安産祈願の石
産の神を祀る神社らしく、拝殿横に男女の性器を模した石が置かれている。子供に恵まれない男女は三回さすって願をかけてくださいと書いてある。ただし、男女でさする対象が異なる。

の神社で7月の末に行われる夏祭りは”でんそそ”祭りとして近隣では知られている。”でんそそ”というのは、社頭で太鼓をデンデンデンソソと打った音から来る俗称”で、祭りは2日にわたって行われる。初日は10時から神楽、詩吟、民謡踊り、歌、和太鼓が奉納され、二日目は盆踊り大会が行われることになっている。

度この祭りを見学したことがある。神社の夏祭りといえば、参道を飾り提灯で華やかに飾り、また参道の両側に屋台が並んで賑わいを見せるのが相場だ。しかし、この神社の”でんそそ”祭りでは、参道に提灯など一つも見あたらず、また参道を埋めたのは屋台ではなく参拝者が乗り付けた自動車ばかりだった。参拝者はいずれも年配者で、女性や子供の姿が見あたらず変な雰囲気だというのが、最初の印象だった。

神楽を奉納する楽士たち 宮司による祝詞の読み上げ
神楽を奉納する楽士たち 宮司による祝詞の読み上げ


口神社の鳥居の前から大谷町の集落へ下る坂道から眺める二上山は、さながら一幅の絵である。いつもの散歩では、悲劇の大津皇子が眠る二上山をゆっくり眺めながら、坂道の横にある畑の間を抜けて溜め池の縁出る。民家の間の生活道路を抜けて県道207号線に出ると、車道の反対側に樹木が鬱蒼と生い茂る丘が前面に見えてくる。そして、第三代の安寧天皇の陵に擬せられた畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほといのへのみささぎ)である。

安寧天皇陵
安寧天皇陵
懿徳天皇陵
懿徳天皇陵
日本書紀』を見ても、安寧天皇の業績は何も記されていない。即位した翌年、宮居を片塩(現在の「近鉄高田市駅」付近)に遷して浮孔宮(うきあなのみや)と言ったという程度である。欠史8代の一人とされ、実在が否定されている天皇であるからには、『日本書紀』の編者としても書きようがなかったのかもしれない。

じことが、第4代懿徳天皇についても言える。懿徳天皇の畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごだにのへのみささぎ)は、県道207号線を南下して西池尻町に入ったはずれにある。駐車場の奥に、陵墓はまるで畝傍山の一部のように築かれている。

かを考え事をしているように、Aは腕を組み視線を空に向けながら後ろからついてくる。
「実在しない天皇であれば、墓が存在することはおかしい。しかし、神武以下の皇統譜が考え出された時代に、初期4代の天皇の墓を畝傍山の麓にあった被葬者も分からない古墳に比定したことになる・・・」
私に語りかける訳でもなく、彼はブツブツつぶやいている。
「ということは、その頃は畝傍山は死後の山、つまり黄泉(よみ)の山と見なしていたのだろうか?」

の独り言を耳にして、私が言葉をついだ。
「君と同じことを考えた歴史学者がいるよ。鳥越憲三郎という学者だ。彼は神武とそれに続く8代の天皇が、実は架空の天皇ではなくて、大和王権が成立する以前に葛城山麓に存在した葛城王朝の王だったという説を立てている。葛城の土地から見て畝傍山は北東にあたる。そこで、鳥越氏は黄泉思想に基づいて、畝傍山が墳墓の地ではなかったかと推測している」
「へえ、葛城王朝説ね。面白そうだね」
「彼が書いた『神々と天皇の間』という本が朝日文庫の中にある。一度読んでみたら」
私の推薦を聞いて、彼は忘れないようにと手帳にメモした。


神饌田
橿原神宮の神饌田(しんせんでん)
徳天皇陵を過ぎて近鉄南大阪線の踏切の手前まで来ると、左手に神宮の西参道の入口に鳥居が立っている。鳥居をくぐった先のすぐ右手に神饌田(しんせんでん)があった。神宮では年間を通じて様々な祭典が行われる。神饌田はそのとき神前に奉られる米を作るところだ。4月下旬に種を播き、6月中旬に田植えをし、10月中旬に穂を積み、11月23日の新嘗(にいなめ)祭で、この神饌田でとれた米が神前に供えられる。

饌田に続いて、右手には約4.8ヘクタールの大きな深田池が広がる。この池の歴史は古い。『日本書紀』には、推古21年(613)11月に掖上池(わきがみのいけ)、畝傍池(うねびのいけ)、和珥池(わにのいけ)を造った、と記されている。その中の畝傍池は、多分この深田池だろうといわれている。平成になってデッキや桟橋を備えた親水護岸に整備された。

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深田池の縁から金剛・葛城連山を遠望

田池の縁に立つと、西方の金剛・葛城連山を眺望できる。今頃の時期、飛来してきた多くの鴨が水面で群れを作り、その鳥たちに混じって、白鳥が一羽悠然と泳いでいる。
「ウーン、これはいい」
Aは岸辺に立って感嘆の声を上げると、金剛・葛城の山塊を背景に深田池を泳ぐ鴨の群れをデジカメにおさめた。毎朝、近隣の年配者たちがこの池の縁に集まってきてラジオ体操をする。その一人は私でもある。

長山稲荷社
長山稲荷社
長山稲荷社の横にある休憩所
長山稲荷社の横にある休憩所
田池の縁には橿原神宮の末社・長山稲荷社が鎮座している。橿原神宮が明治時代にこの地に築かれる以前から、この地の地主神として祀られ、神宮の造営・鎮座を加護したという。長山稲荷社の横に休憩所があり、天気の良い日などは、近所の老人たちのたまり場になっている。誰が捨てていくのか、捨て猫のたまり場でもある。老人たちが毎日餌を与えるので、ここの猫たちは少しも人見知りをしない。

在、この休憩所には6匹ほどの捨て猫が住み着いている。捨て猫だが野良猫ではない。それぞれが立派な(?)住み家を持っている。誰が作ってくれたのか、縁台の下に段ボールのミカン箱を刳り抜き、中に古くなった布団綿や毛布を詰めた猫小屋が6個、整然とならんでいる。

田池から北へ向かうと、正面に橿原神宮の南神門がある。橿原神宮は、神武天皇が大和を平定して即位した宮の跡に創建されている、という。明治の中頃まで、その宮跡が特定されることはなかった。明治政府は明治22年(1889)に神武天皇陵の考証と並行して、橿原の宮跡を治定するための調査を行なった。そして、現在の場所を宮跡と定めた。その年の7月には、京都御所の温明殿(賢所)が本殿として、神嘉殿が拝殿としてそれぞれ下賜された。これらの建物を移して、翌明治23年(1890)3月に神宮の造営が完成した。

橿原神宮の南神門
橿原神宮の南神門

たがって来年の2010年は橿原神宮鎮座120年目の記念の年にあたる。そこで、記念事業の一環として,神宮では各社殿の屋根を銅板に葺き替える工事を4年がかりで実施している。南手水舎と南神門の屋根葺き替えは昨年完了した。 今年は2月から9月までの予定で内拝殿の屋根を葺き替えることになっている。

橿原神宮の外拝殿
橿原神宮の外拝殿

門を一歩入ると、そこは橿原神宮の神域である。白い砂を敷き詰めた広い庭は、毎朝丁寧に掃き清められ、筋目がつけられる。畝傍山を借景にして聳える巨大な外拝殿のたたずまいは、いつ見ても美しい。橿原神宮は、神武天皇と皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祭神として祀っている。

上村淳之画伯の筆によるジャンボ絵馬
上村淳之画伯の筆によるジャンボ絵馬
村淳之画伯の筆による今年の干支のジャンボ絵馬が外拝殿に懸かっている。Aは近寄って雄渾な牛の姿を眺めていたが、やがて北の神門に向かって歩き出した。
「おや? 神武天皇に参拝していかないのか?」
私が声をかけると、彼はまじめな顔で答えた。
「いや、いい。所詮、ここが神武天皇の宮があったという確証はないのだろ? それに、120年前に、政治的意図で新築されただけの神社じゃないか。何ほどの御利益があるのかね」
明治神宮だって大正9年(1920)に造営された神社だよ。まだ90年にも満たない」
「でも、明治天皇は実在の人物だ。その霊を祀っている神社なら御利益はあるかもしれない。しかし、神武天皇は架空の天皇さんだろ? 実在しなかった人物の霊が存在するはずがないではないか」

それでも、毎日参拝に訪れてくる人は結構いるよ。日曜日の早朝は、外拝殿に正座して一心不乱に読経している10人ほどのグループもいる。初詣客の数だって、奈良県では春日大社に次いで多い。2月11日の紀元祭りには、この境内にあふれんばかりの参拝者が集まってくる。一度、その様子を見学に来たらどうだ?」
「人が何を信じようと、あるいは信じまいと、それは個人の自由さ。この国は宗教の自由が保証されているからね、でも、存在しない霊を拝むというのはどうかな。何か矛盾していないか?」
そう言って、Aは片目をつぶってみせた。互いにそれなりに年老いたが、何事にも先ず疑って懸かるという性格は、いつまでたっても変わらないようだ。彼はそう言っているような気がした。




2009/1/31作成 by pancho_de_ohsei return