「Yes, We Can」から「We are ONE」へ
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リンカーン記念館の リンカーン像 |
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リンカーン像の前で 演説するバラク・オバマ氏 |
現在、世界中がもっとも注目する時の人は、米民主党のバラク・オバマ氏(Barack Obama、47歳)であろう。昨年の激しい大統領選を勝ち抜き、現地時間の二十日午前(日本時間二十一日午前二時)、連邦議会議事堂で第四十四代大統領に就任する。人種差別の根強い米国で、初めて誕生する黒人大統領だ。彼の就任式は間違いなく歴史的なイベントである。就任式に出席する人々はもちろん、出席できない大多数の人々も、テレビの映像を通してその式典を見、そして就任演説を聞いて、歴史的な瞬間の証人となる。
オバマ氏は、第十六代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln、1809 - 1865)を政治家の英雄として常々畏敬してきたという。そのため己自身をリンカーンの再来として印象づける派手な演出をした。すなわち、リンカーン大統領が就任式に臨んだ際の歴史的な旅を再現するため、十七日には、米独立宣言が採択された東部の古都フィラデルフィアから特別列車で首都ワシントン入りした。十八日にワシントンで行われた祝賀行事では、リンカーン記念館のリンカーン像の前で演説し、米国の「再生」と国民の「連帯」を数万人の聴衆に呼びかけた。
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| 第44代大統領に就任するオバマ氏 |
大統領選の期間中にオバマ氏が掲げたスローガンは、「CHANGE」であり「Yes, We Can」だった。”そうだ、我々は変革できるのだ”と単純明快なフレーズを繰り返すことで、氏のカリスマ性が日に日に高まるのを、メディアを介して我々は目撃してきた。そのスローガンが大統領就任式を期に、「We Are ONE」に変わる。人種差別を越えて米国民が一丸となって世界不況に立ち向かおうというメッセージが込められているスローガンである。
Crear dos, tres ... muchos Vietnam (2つ、3つ、・・・多くのベトナムを)
政治家のカリスマ性を云々する場合、忘れてならない人物がいる。米帝国主義に対抗するために、"2つ、3つ、・・・多くのベトナムを"のスローガンを掲げ、ボリビアの山中に散った革命児、20世紀最大のカリスマと称えられるエルネスト・チェ・ゲバラ(Ernesto Che Guevara, 1928 - 1967)だ。現在、スティーヴン・ソダーバーグ監督、ベニチオ・デル・トロ主演の映画『CHE 』2部作(「28歳の革命」と「39歳別れの手紙」)が公開されて話題を呼んでいる。
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| 『CHE』2部作のスチール写真 |
ゲバラは28歳の時、キューバのバチスタ政権打倒を目指して武装ゲリラ闘争を画策するフィデル・カストロとメキシコで出会い、一夜にしてゲリラ闘争への参加を決めたとされている。1956年11月、82人で構成されるキューバ遠征軍と一緒に、ゲバラは軍医として8人乗りのヨット「グランマ号」でキューバに向かった。
上記の映画の第一部「「28歳の革命」では、2年後の1959年1月1日、バチスタ大統領がハバナから国外逃亡し、キューバ革命軍が勝利するまでの戦いを時系列で描いている。軍医として参加したゲバラはゲリラ活動を通じてゲリラ戦士に転身し、さらに司令官としてサンタクララ市の市街戦を指揮して大勝利を得ている。
カストロ首相を頂点とする革命政府の中にあって、ゲバラはカストロの右腕として国立銀行総裁や工業大臣などを歴任し、革命キューバの発展に寄与した。外交官としても優れた能力を発揮し、革命の年の1959年に、アジア・アフリカ諸国への親善使節団長として随員5名を従え、3ヶ月にわたって各国を歴訪している。
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| ゲバラとカストロ |
バチスタ政権を崩壊させ、アメリカ資本が独占するサトウキビ農園を国営化した新生キューバにとって、米国の経済封鎖に対抗するには唯一の農産物であるキューバ糖をより多く友好国に購入して貰う以外にない。そこで、革命成立からわずか半年後の大変な時期に、カストロは親善使節団をアジア・アフリカ諸国へ派遣することを決定し、その団長にゲバラを任命した。国の将来をゲバラに託したのである。
1959年6月12日にハバナを出発したキューバ親善使節団は、アジア・アフリカ諸国を歴訪して、9月8日に帰国している。実は、その間にゲバラの一行は我が国も訪れ、キューバ糖の買い付けの保証と増額を執拗に迫っている。しかし、当時はゲバラの来訪がほとんど話題にもならなかった。
ところが、ゲバラの足跡を可能な限り追った作家がいる。第58回直木賞受賞者の三好徹氏である。三好氏はゲバラの評伝を書くために広汎な情報収集を行い、昭和46年(1971)に文藝春秋社から「チェ・ゲバラ伝」を上梓しておられる。しかしそれより前に、キューバ革命直後にカストロの特使として日本に来たときのゲバラの足跡をレポートの形でまとめられた。それが昭和44年(1969)の文芸春秋5月号に掲載された「チェ・ゲバラ日本を行く」である。
個人的な趣味で、このレポートをもとにゲバラの日本滞在中の足跡をまとめてみた。言うならば、本人が書かなかった「ゲバラの日記」(El Diario del CHE en Japon)である。少し長ったらしいが、その内容を以下に紹介しよう。
ゲバラを団長とする親善使節団の日本滞在記録
■1959年6月12日
ゲバラはアジア・アフリカ諸国への親善使節団の団長として、5人の随行員を従えて各国歴訪の旅に出発した。その時点では、革命成立からまだわずか6ヶ月、キューバはまだ共産圏に入っておらず、政局も流動的な時期だった。またゲバラ自身はカバーニャ要塞司令官という地位にあり、まだ閣僚になっていなかった。しかし、カストロ首相の信頼は厚く、首相の特使として使節団を率いての旅たちだった(ちなみに、彼が国立銀行総裁に就任するのは帰国後である)。出発前には日本へ行くことにはなっていなかった。駐キューバ大使館が日本へ行く旨の正式通告を受けたのは7月4日である。
■7月15日
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| ゲバラの肖像の元になった写真 |
夜9時15分、少佐の星章をつけてベレー帽をかぶり、オリーブグリーンの戦闘服を着たひげ面のゲバラは、随行員を従えて羽田空港に降り立った。東京での滞在先は麻布のプリンスホテルだった。このホテルが選ばれたのは、帝国ホテルなどに比べて割安だったせいらしい。キューバの乏しい外貨事情に神経をつかっていたゲバラは、無駄な金は一円でも使おうとしなかった。部屋代を節約するために、一行はツインルームに予備ベッドを持ち込んだり、長椅子や床の上にそのまま寝たという。どこかの外交使節団に聞かせたい話である。
■7月16日
午前中は駐日アルスガライ大使や大使館職員と共に、都庁に東知事を表敬訪問し、知事から「東京都の鍵」236番を送られている。その後、記者会見が行われたが、当時の日本の新聞の大半は、この会見の模様を一行も伝えていない。わずかにサンケイ新聞の大阪版が通り一遍の記事を載せているだけだった。
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| 上の写真から作られたゲバラ像 |
■7月17日
午前中ゲバラの一行は農林省を訪問し、当時の福田ア夫農相と会っている。ゲバラは日本が戦後に実施した農地改革に大きな関心を示し、自国の農業改革の参考にしたいからと資料の提供を要請し、米作の専門家・技術者の派遣を求めている(日本側はこの求めを受け入れて、この年の11月から1年間4名の農業技術団をキューバに派遣し、米作指導をおこなっている)。
正午、一行は外務省に藤山愛一郎外相を訪問し、その後で当時の牛場経済局長と貿易交渉を行っている。主な議題は関税の差別撤廃だったという。当時のキューバは日本からの繊維品に対して国内産業保護の名目で高額の関税を課しており、一方、日本は大量のキューバ砂糖を買い付けていたため日本対キューバ貿易は日本の大幅入超だった。
■7月21日
午后3時から外務省の接見室で再び貿易交渉が行われた。やはり片貿易が問題となり、日本側は繊維製品の対日差別撤廃を求めた。これに対して、ゲバラは日本のキューバ糖の買い付けをもっと増やしてくれれば、機械その他の繊維製品以外の日本商品の買い付けをバーターその他の方法で合意する用意があると表明したという。
ゲバラを団長とする親善使節団の目的の一つは、キューバ糖の売り込みにあったようだ。当時、キューバ砂糖の三大輸入国は、アメリカ、日本、そしてアラブ連合だった。しかし、この年の6月に実施した農業改革法で、法人個人を問わず995エーカー以上の土地の所有を禁じたため、キューバ糖の利権を握っていたアメリカ資本は大打撃を受けることになった。この農地改革問題でアメリカは対抗措置として翌年からのキューバ糖の買い付けを停止すると表明した。砂糖輸出に経済全般を依存するキューバにとっては、砂糖の輸出先を増やし、砂糖の輸出量を増やすことは愁眉の課題だった。
しかし、日本側はキューバ糖の買い付けを保証せず、キューバの対日買い付けの増加を要求し、キューバの対日差別のみを要求したようだ。ゲバラとしては、キューバ糖の年間買い付け料を知らせて欲しい、それを本国政府への土産としたいと迫った。日本は毎年40万トン以上の砂糖をキューバから買っていたが、キューバとしてはそれを確約してほしかった。だが、色よい返事はしなかったようだ。キューバとしては砂糖の輸出がうまくできなければ、共産圏諸国と双務協定を結び、産業開発のためにこれらの国々と提携する必要に迫られるかもしれないと、ゲバラは会議の席で共産圏への接近をほのめかしたという(ちなみに、この年の8月11日、ソ連はキューバ糖17万トンの買い付けを発表して、世界をあっといわせた)。
■7月22日
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| 現在の帝国ホテル |
ゲバラは池田勇人通産相と会談した。場所は帝国ホテルで正午からだった。はじめ他の場所が予定されていたが、日本側の都合で急遽変更され、しかも通産相の時間がないからとわずか15分の会談だった。池田は通商協定に関し、差別的関税の撤廃について相談を持ちかけたが、ゲバラはキューバ糖の買い付け量を決定してくれないかぎり無理であると突っぱねた。時間がないため、後日、通商協定の話し合いで砂糖の問題は考えようということで、ゲバラと日本政府との交渉は一応終止符を打った。
■7月23日
前日の池田通産相との会談の後、ゲバラたちは関西に向けて出発し、名古屋に泊まった。この日は午前9時からトヨタの工場を視察した。ゲバラは乗用車よりトラックやジープに興味を持ったようだ。午後は新三菱重工の飛行機制作関係お視察し、大阪のグランドホテルに投宿した。
■7月24日
午前中、久保田鉄工の堺工場を見学。ゲバラは農業機械に非常に興味を示した。その後、丸紅飯田、鐘紡を訪問し、いったんホテルに戻ると、午後6時からコクサイ・ホテルで開かれた大阪商工会議所主催の「キューバ通商使節団」歓迎パーティに出席した。
■7月25日
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| 原爆死没者慰霊碑 |
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| 広島平和記念資料館 |
一行は川崎ドックを見学した後、神戸のオリエンタル・ホテルで繊維業者と懇談した。その後帰京するはずだったが、ゲバラは突然予定を変更して広島に向かった。ゲバラに同行したのはアルスガライ駐日大使と、フェルディナンデス大尉の二人だけだった。3人は午後1時に岩国空港に到着した。
土曜日だったため官庁などの訪問は遠慮し、広島県庁の外事関係担当者の出迎えを受けた3人は車で広島へ向かった。午後2時すぎに新広島ホテルに到着し、そこで献花を受け取ると、それを慰霊碑にささげ死者の霊を弔った。 それから一行は資料館に入り約1時間をかけて館内の原爆被害の遺品を見てまわった。
このときゲバラは案内した県外事関係担当者に対して、
「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」と問いかけ、原爆の惨禍のすざましさに同情と怒りを見せたという。
■7月26日
新広島ホテルに一泊した3人はこの日の朝広島を発ち、大阪から空路東京に戻った。そして麻布プリンスホテルでの「7月26日運動」記念パーティに出席した。7月26日は6年前に、フィデル・カストロ、ラウル・カストロ兄弟がバチスタ政権打倒のためモンカダ兵営を襲撃した日である。この襲撃が3年後には「7月26日運動」となって実り、キューバの革命政府の新しい記念日となった。
■7月27日
日本における最後の日、ゲバラは午後5時に外務省を訪問し、日本側と最後の交渉を行った。そのとき、日本が30万トンの買い付けを約束してくれるなら、そのうち15万トン分の代金は円価で受け取る用意があると提案している。この円払いの提案をゲバラはその場で持ち出したのであり、本国と相談していない。それはキューバ政府の提案か、と牛場経済局長と問い糾したのに対し、その通りと答えたという。
その日の夜11時15分、ゲバラを団長とする親善使節はインドネシアに向かって羽田を後にした。ゲバラの一行が、インドネシア、セイロン、パキスタン、スーダン、モロッコ、ユーゴなどの各国を歴訪して帰国したは9月8日だった。
追記
ゲバラはその後も日本を訪れたという未確認情報がある。1961年から63年のいずれかの夏だったようだが、三好氏は法務省入管の記録を調べたが、すくなくとも羽田からは入国していない。どうやら潜入の形で日本を再訪したようだ。ゲバラは兵器工場の見学を希望したので、川崎にあるライフル製造工場を案内したと語るのは当時外務省にいた古川武司氏である。ゲバラは武器の購入を申し出たが、日本側はアメリカに気兼ねして商談は成立しなかった。その後、ゲバラは浅草、神田の学生街の本屋を回り、靖国神社へも参拝した。その後、日本橋の三越も訪れている。
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