2009/01/10

丑年にちなんだ橿考研付属博物館の特別陳列


北野天満宮の三光門(中門) 北野天満宮のなで牛
北野天満宮の三光門(中門) 北野天満宮の撫(な)で牛

■「今年は孫の受験の年である。合格祈願に天神様のお守りを貰ってきてやると約束した。どうだ、付き合うか?」
そんな知人の誘いを受けて、今週は初詣も兼ねて北野天満宮に参拝してきた。前日までの寒さが嘘のように、風もなく穏やかな日差しが降り注ぐ日だった。北野天満宮名物の観梅にはまだ時期が早いが、境内は多くの参拝客で賑わっていた。

■ 天満宮は菅原道真を祭神として祀る神社だが、さまざまな言い伝えで道真と牛とは切っても切れない関係にある。まず、道真の誕生日の承和12年(845)6月25日も、死去した延喜3年(903)2月25日も、丑の日だった。道真が左遷されて太宰府に落ちてゆく途中で命を狙われたが、そのとき彼は白牛に助けられたという。墓所である大宰府天満宮は、「車を牛に引かせて、牛の行くままに任せ、牛の止まった所に葬ってくれ」との道真の遺言で定められたとのことだ。

■ したがって、何処の天満宮でも神の使いである牛の石象が置かれている。全国に一万以上あるとされる天満宮の総元締め的存在の北野天満宮の「撫(な)で牛」は彫刻としても優れている。牛の頭をなでた手で自分の頭をなでると頭が良くなるとの信仰があり、受験生や学生にとくに人気があるそうだ。

橿考研附属博物館の特別陳列・十二支の考古学

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特別陳列のチラシ
■ 北野天満宮の撫で牛で思い出した訳ではないが、橿原考古学研究所付属博物館がここ数年行っている年頭の特別陳列は、十二支にちなんだ動物を取り上げている。今年は干支は「丑(うし)」である。そこで「牛に引かれて善光寺参り」ではないが、「牛にひかれて博物館」という特別陳列を昨年の12月13日から開催している。

■ 考古学的知見によれば、我が国の縄文時代や弥生時代に家畜としての牛が存在した証(あかし)はないようだ。「魏志倭人伝」でも、倭国の生活、習俗を記した箇所で「牛・馬・虎・豹・羊・鵲(じゃく=カササギ)無し」と記載されている。

■ もっとも、岩手県の「花泉遺跡」から頭骨、鼻骨、臼歯(きゅうし)、あごの骨など千点以上の牛の化石が出土している。しかし、これらは気候の変化や人間の狩猟によって1万年くらい前に絶滅した野牛の化石であって、家畜ではない。家畜としての牛は、古墳時代に朝鮮半島からの渡来人が連れてきたとされている。

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羽子田遺跡の1号墳から
出土した牛形埴輪
■ 古墳時代の中期になると、牛を表現した埴輪が造られた。例えば田原本町の羽子田(はこた)遺跡の1号墳から明治29年に出土した牛形埴輪は有名で、国の重要文化財に指定されている。しかし、牛形埴輪の出土例は非常に少なく、全国で10例ほどしか見つかっていない。

■ 十二支の思想は8世紀代に中国から統一新羅に移入され、王都の慶州近辺で造られた王陵の外護石や寺院の仏塔などに盛んに十二支像が彫られた。新羅の獣頭人身の十二支像としてよく見かけるのは、金庚信(キム・ユシン)将軍(595-673)の墓の周りに埋納されていた十二支像の石版の拓本である。

那冨山の隼人石の拓本
那冨山の隼人石
の拓本
■ 奈良市法蓮町字大黒ヶ芝には、聖武天皇の第1皇子だった基皇子の墓とされる那冨山(なほやま)墓があり、その楕円型の墳丘の四隅に隼人石(はやといし)と呼ばれる石像が置かれている。これらの隼人石には獣頭人身像を線刻してあり、下半部が埋められている。線刻されているのは、十二支中のネズミ(子)、牛(丑)、犬(戌)、ウサギ(卯)とされており、今回の特別陳列では、金庚信墓の丑と隼人石の丑の拓本も展示されていた。

■ 十二支像はキトラ古墳の石室にも描かれている。退色して判然としないが、北壁の向かって右側に描かれているのは「丑」の獣頭人身像とされている。

子・丑・虎が描かれた石室 日本画家・烏頭尾精氏の復元イメージ
子・丑・虎が描かれた石室(*) 日本画家・烏頭尾精氏の復元イメージ(*)

一町西遺跡(かずちょうにしいせき)出土の動物が描かれた板絵

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一町西遺跡出土の4枚の板絵(**)
■ 今回の特別陳列で特に人目を引いたのは、昨年の3月に橿原市一町(かずちょう)の西遺跡から出土した4枚の板絵である。京奈和自動車道建設に伴う発掘調査で、平安時代後期の溝の深さ約1.0mの最下層から出土したとのことだ。

■ 墨書された木簡などの出土品は、空気に曝すとすぐに変色してしまうので、博物館などで展示されているのは大抵レプリカだ。だが、4枚の板絵は、3日間の期間限定で、レプリカと一緒に水溶液に浸した本物も展示されていた。

■ 板絵というのは、絵が描かれている板という意味の仮称である。いずれの板絵も幅はおよそ33cm、高さはおよそ10cm、厚さは0.2cmほどのヒノキの板目材(ただし、板絵4は2/3が欠損)に、馬・牛・犬・鶏の4種の動物が描かれ、牛はダブって2頭描かれている。

■ 午後から橿考研の講堂で講演会が開かれ、発掘を担当した研究所の菊井佳弥さんから発掘時の状況や板絵の解釈について説明があった。

■ これらの板絵に描かれた動物の絵は稚拙であり、絵師の手によるものではない。しかし、描きなれた人物による一筆書きに近く、筆致に勢いがあるとのことだ。板絵は人形(ひとがた)木製品や板状木製品、獣骨、瓦器椀、土師器小皿、甕などと一緒に出土している。そのため、11世紀後半から12世紀初め頃の祭祀遺物と判断されるとのことだ。

■ 動物の配列には一列と上下二段の2通りあり、動物の種類や数、順序には意味があると考えられが、どのような意味かは現時点では判断がつかないようだ。可能性として、菊井さんは2つの説を紹介された。

■ 一つは、検非違使だった平親信(たいらのちかのぶ)が天禄3年(972)から3年間記した日記の『親信卿記』に見える贖物(あがいもの)とする説である。贖物とは、人が罪穢れを祓い清めるために、その代償として差し出し、罪穢の償いをした品のことで、奈良大学名誉教授の水野正好氏などがこの説を唱えておられる。

■ もう一つは、大和地方の民俗神・ノガミ(野神)に関わる行事に使われた板絵とする説である。現在でも、この地方には、地域によって形態が多少異なるが、牛馬を描いた板絵をノガミに奉納する習俗があるという。


(*)朝日新聞社作成「キトラBook 2008」から流用
(**) 橿考研HPより転記
2009/01/10作成 by pancho_de_ohsei
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