2009/01/07

上宮王家(じょうぐうおうけ)の悲劇の主人公・山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)の墓はいずこ?



八木荘司氏の最近作『青雲の大和』
八木荘司氏の最近作『青雲の大和』
在、八木荘司氏が昨年の9月に角川書店から出版された『青雲の大和』を読んでいる。産経新聞に2007年5月8日から昨年の5月17日まで一年間にわたって連載された新聞小説を単行本化されたもので、645年に始まる「大化改新」をテーマにして壮大な歴史ロマンを描いておられる。

書以前にも、聖徳太子が派遣した遣隋使節が7世紀初頭の東アジア世界の緊迫した国際関係の中で活躍する壮大な歴史小説『遙かなる大和』を出版された。ストーリーテーラーとしての八木氏の筆力は冴え渡り、読者を古代史の舞台に引きずり込み一気に読ませる作品に仕上がっていた。その醍醐味をまた味わいたくて、その続編ともいうべき『青雲の大和』を手にした次第である。

語は「大化改新」前夜の皇極2年(643年)の旧暦11月1日、蘇我入鹿(そがのいるか)が巨勢徳太(こせのとくだ)と土師娑婆(はじのさば)に命じて、山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)らを斑鳩(いかるが)に急襲させた事件から始まる。この事件は、聖徳太子の死からおよそ20年後にその一族を襲った余りに悲惨な出来事であり、聖徳太子の伝記でも必ずその末尾に話題にされる。

我入鹿は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を独断で次期天皇にしようと企て、その対抗馬とされる山背大兄を武力で排除しようとしたと、『日本書紀』は事件の背景を記している。いかほどの軍勢が斑鳩宮(いかるがのみや)を急襲したのかは不明だが、山背大兄の数十人の側近はよく防ぎ戦ったという。その間に、皇子は馬の骨を寝殿に投げ入れ、妃や子弟を連れて生駒山に逃れた。

勢徳太は斑鳩宮を焼き、その灰の中から骨を見つけて皇子は焼け死んだと思い、囲みを説いて兵を帰した。皇子たちの一行は生駒の山中に逃げ込んだものの、十分な食糧は持ち合わせていなかったので、忠臣の三輪文屋(みわのふみや)は、「深草の屯倉(みやけ)に行き、そこから東国の上宮の乳部(かみつみやのみぶ)に逃れましょう。そして、乳部の部民とともに軍をおこして戻ってきましょう。必ず勝つことができます」と進言した。

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上宮王家の悲劇があった斑鳩寺(=若草伽藍)の塔跡
の進言に対して、皇子は「おまえの言う通りにしたら勝てるかもしれない。だが、自分は人民を労役に使うまいと心に決めている。己が身を捨てて国が固まるのなら、我が身を入鹿にくれてやろう」と答えたという。そして、生駒山を出て、斑鳩寺に入られた。皇子たちを見かけたとの報告を受けて、入鹿は再び軍隊を差し向けた。そこで、皇子は妃や子弟たちと共にに自決して果てた。

のとき亡くなったのは、山背大兄王をはじめとしてその妃や子供たち23人とも25人とも言われている。この事件から80年後に編纂された『日本書紀』の編者は、悲惨な上宮王家の滅亡に同情してか、「おりから大空に五色の幡(はた)や絹笠が現れ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった」と、一族の昇天の模様を書き記している。


の悲劇を扱った書籍を読むたびに、悲劇の犠牲者のなった山背大兄やその子弟妃妾が死後どのような扱いを受けたのか、以前から気になっていた。入鹿の父である大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷(そがのえみし)ですら、息子の悪逆を知って、
「ああ、入鹿の大馬鹿者め、お前の命も危ないものだ」
と怒り罵ったという。7世紀の後半は、太子信仰が高まりを見せる時期である。心ある信者たちによって、悲劇の犠牲となった人々は篤く葬られたに違いない。だが、聖徳太子や実弟の来目皇子の墓所の話は聞くが、斑鳩襲撃の犠牲者の埋葬地の話は、最近まで筆者の耳に聞こえてこなかった。

ころが、ある事を調べていて、山背大兄王の墓とされている古墳が法隆寺の近くにあるのを最近知った。知った以上は、己の目で是非確かめたくなるのは、筆者の悲しい性(さが)である。本日の奈良盆地の朝は氷点下まで温度が下がって、朝の散歩を中止した。天気予報では、本日は奈良県は一日曇りで、夕方には所によっては雪になるかもしれないという。それでも、その墓を知りたくて出かけることにした。

発掘調査中の中宮寺跡

斑鳩町の法隆寺付近のマップ
斑鳩町の法隆寺付近のマップ
徳太子の皇子・山背大兄王の墓所と伝えらている墓は、地元では「岡の原」と呼ばれている直径200mほどの丘の上に所在するという。直径20mほどの円墳で、宮内庁に管理 されていて、「富郷陵墓地(とみさとりょうぼち)」と呼ばれている。さっそく、 「岡の原」の所在地を調べてみて驚いた。斑鳩散策で法輪寺から法起寺に向かう道の中程で右手に見える小さな丘陵である(所在地;生駒郡斑鳩町三井)。

近は今まで何度も自転車で散策していたが、「岡の原」の上に古墳があるなどとは、ついぞ気がつかなかった。国道25号線の「中宮寺東」交差点から一直線に北に延びる県道9号線(奈良郡山斑鳩線)をたどれば、距離にして1kmほどだ。徒歩でも15分もあれば到着できる。

鉄橿原線の「筒井」駅から奈良交通バスに乗り、「中宮寺前」停留所で降りた。「中宮寺東」交差点まで少し戻り、県道9号線を北に向かって歩いていくと、右手に竹藪に覆われた史跡「中宮寺跡」が見えるはずだった。ところが、その竹藪が消えてしまっていた。代わりに青色のフェンスが張られた小さなな土壇が目にはいった。

「中宮寺東」交差点 史跡「中宮寺跡」
「中宮寺東」交差点 史跡「中宮寺跡」遠望

在の中宮寺は、法隆寺東院の東よりにあり、その本堂には天寿国曼荼羅繍帳如意輪観音の半跏思惟像が置かれていることで知られている。だが、この地に建てられたのは室町時代のことで、創建当初は500mほど東の土壇が残っている場所に位置していた。南に塔、北に金堂を配した寺だったことが、今までの発掘調査で判明している。

宮寺は、もともと聖徳太子が母、穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)のために建てた宮室を寺としたと伝えられている。太子の斑鳩宮・岡本宮・葦垣宮の中間に当たるところから中宮と称したため、中宮寺と呼ばれるようになったという。聖徳太子創建の7寺の一つである「中宮尼寺」に比定されているが、確証はないようだ。

頭皮の竹藪をめくられた史跡< 何か新しい発見があることを期待
頭皮の竹藪をめくられた史跡 何か新しい発見があることを期待

寄ってみると、斑鳩町教育委員会の生涯学習課文化財保存係が発掘を行っていた。昨年の8月から調査を開始し、今年3月までの予定で作業を進めているという。現場はかなり広範囲に表土が剥がれていて、北側に深いトレンチが掘られていた。何か新しい発見があれば、ニュースで報道されるであろう。今から楽しみだ。

「岡の原」丘陵上に有刺鉄線で囲っただけの富郷陵墓(とみさとりょうぼ)参考地

法輪寺の三重塔 「富郷陵墓参考地」へのアクセス
法輪寺の三重塔 「富郷陵墓参考地」へのアクセス

輪寺から法起寺に向かう道の途中に案内板が置かれている。法輪寺からは200m、法起寺からは500mほどの場所だ。案内板には、地元で「岡の原」と呼ばれている正面の丘陵の上に、山背大兄王の墓所と伝えられる墓が築かれていて、宮内庁が富郷陵墓参考地として管理している、と記されている。山背大兄王とは、上記のように皇極2年(643)11月に蘇我入鹿の軍勢に急襲され、子弟や妃らと一緒に自決して果てた聖徳太子の長男である。太子一族が滅亡に追いやられたのは、「大化改新」の端緒となる乙巳の変(いっしのへん)が起きる2年前のことだった。

内板のある場所から「岡の原」に向かって舗装された農道が続き、その先にビニールハウスが見える。だが、古墳が丘陵のどのあたりに築かれているのか分からない。たまたま散歩にきていた老婦人に道を聞いたが、分からないという。しかし、ビニールハウスの近くで作業をしている老人を指さして、あの人なら知っているだろうと教えてくれた。

法輪寺の三重塔 石柱の列を有刺鉄線で円形に囲った円墳
石柱の列を有刺鉄線で円形に囲った円墳 「富郷陵墓参考地」の標識

ニールハウスの近くまで行って声をかけると、老人は鍬を持つ手を休めて、手振りで古墳のある場所を教えてくれた。丘陵の山腹に広がる柿の果樹園をまっすぐに上り、丘陵の尾根にたどり着いたら、左へ10mほど進めば墓地の前に出るという。ちょうど竹藪に囲まれた杉か檜の梢が枝を張っているあたりだと教えてくれた。

人に教えて貰った通りに果樹園の中を尾根まで上って左へ進むと、石柱で円形に囲われた場所に出た。その中心が少し盛り上がっているのが分かる。そこが墳頂のようだ。石柱に巡らされた有刺鉄線に「立入禁止 宮内庁」と書かれた板が貼り付けてあった。有刺鉄線の周りを一回りしたが、「富郷陵墓参考地」であることを示す看板が、落ち葉の降り茂った柵の中に立っているだけだった。

径20mほどの円墳とされているが、どうみても宮内庁が誠意をもって管理しているようには見えない。かってこの墳丘から埴輪片が採集されたことがあった。考古学的には、埴輪片から類推された築造時期は古墳時代中期、すなわち4世紀から5世紀のものだそうだ。643年に亡くなった山背大兄王とは時代が一致しない。そのため宮内庁も本腰を入れて管理していないのかもしれない。

生駒郡平群町にもある山背大兄王の墓と伝えられる古墳

名勝 竜田川<
名勝 竜田川
法輪寺から西宮古墳まで歩いたルート
法輪寺から西宮古墳まで歩いたルート
は、生駒郡平群町の「平群中央公園」の中にある西宮古墳も、山背大兄王の墓の有力な候補だということを、以前に聞いたことがある。事のついでに、平群町まで足をのばしてみることにした。11時20分に法輪寺の前を出発して法隆寺から藤ノ木古墳、竜田神社を経て、竜田川に架かる「竜田大橋」に出た。

田川といえば、昔から紅葉の名所と知られ、平安歌人の在原業平(ありわらのなりひら)や百人一首で知られる能因法師(のういんほうし)の歌をはじめ多くの和歌に登場する。

●ちはやぶる 神世も聞かず 竜田川  からくれなゐに 水くくるとは (古今和歌集 在原業平)
●嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり (後拾遺和歌集 能因法師)

在は、竜田川の川原は県立公園として整備され、川沿いの遊歩道が葉を落とした楓の木の間を続いている。紅葉の頃に訪れたらすばらしい景観だろうな、と思いながら、国道168号線に沿って遊歩道を川上に向かい、やがて平群町へ入った。しかし、手元の地図には平群中央公園の位置は記されていない。たまたま近鉄生駒線の「竜田川駅」方面への標識が目に入ったので、駅に立ち寄って、観光地図でもあれば入手したいと思った。

な観光地を控える近鉄電車の最寄りの駅は、観光用のルートマップを備えているところが多いが、竜田川駅にはそうした類のものは用意されていなかった。しかし、駅員は、線路伝いに北に進み、踏切のところで左に折れれば、道の要所要所に平群中央公園方面への標識が立っていると教えてくれた。

平群中央公園のエントランス広場 平群中央公園の案内図
平群中央公園のエントランス広場 平群中央公園の案内図

後1時半ころ、公園入り口に着いた(アパートに戻って、法輪寺から歩いた距離を地図で測定してみたら6.4キロほどだった)。この公園は運動公園も兼ねているようで、何処に西宮古墳があるのか分からなかった。おおよその見当をつけて歩いていくと、古墳の前に出た。

西宮古墳1号墳の正面 西宮古墳1号墳の側面
西宮古墳の正面 西宮古墳の側面

西宮古墳は県の史跡に指定されている古墳である。奈良県教育委員会が古墳の前に立てた説明板によると、この古墳は三段築成の方墳で、一辺が約36mの正方形をしており、高さは正面に7.2mを測る。本来の高さは約8mだったと推定されている。墳丘の東西と北側を台形状に大きく掘削して周溝が築かれ、墳丘全体と東側の溝の底には貼石が敷き詰められていた。

西宮古墳1号墳の入口
西宮古墳1号墳の入口
石室内に置かれた石棺の身
石室内に置かれた石棺の身
方向に開口している横穴式石室は、近くの平群町越木塚で産出する石を使った岩屋山式と呼ばれる精緻な切石造りである。石室の内部に、兵庫県産の竜山石で作られた刳り抜き式の家型石棺が置かれている。残念ながら蓋の部分は失われている。石室前方の墓道から見つかった須恵器の杯の蓋や高坏のかけらから、この古墳が築造されたのは7世紀の中頃から後半と推定され、平群谷を代表する終末期の古墳であるという。しかし、説明板の何処にも、山背大兄王の墓の可能性を示唆する文言はない。一般には、この地域の盤踞した平群氏の族長の墓ではないかとされている。

の古墳を初めて調査したのは考古学者として著名な梅原末治博士だった。昭和10年(1935)に調査して、直径24mの円墳であると発表した。この梅原説に疑問を抱いたのは、前の橿考研付属博物館長だった河上邦彦氏である。河上氏は昭和50年(1975)に初めてこの古墳を見学し、方墳ではないかとの疑いを抱かれた。そして、その後の測量調査で三段築成の方墳であることを証明されたとのことだ。


西宮古墳が山背大兄王の墓かもしれないと示唆しておられるのは、他ならぬ河上氏である。もうかなり古い話だが、河上氏は産経新聞に「飛鳥発掘物語」を連載されていた。その中で、西宮古墳が山背大兄王の墓である可能性を指摘しておられる。河上氏は、この古墳が聖徳太子の離宮と思われる西宮遺跡の北1kmに東西に延びる丘陵に築かれているのに着目された。

らに、文献上では、平安時代の『延喜式』には、山背大兄王の墓は「平群軍北岡墓 在大和国平群郡。兆域東西三町。南北二町。墓戸」と記されていることや、江戸時代の『大和名所記』には、「北岡は法隆寺より二十町ばかり西、平群川の西なり」と記してあることを根拠としておられる。平群川は現在の竜田川であり、西宮遺跡からみればこの古墳がある丘陵はまさに北岡にあたるとのことだ。

恵器の年代から推定される古墳の築造時期は、確かに山背大兄王が亡くなった643年に近い。しかし、そのときの事件では、山背大兄王だけでなく、23人とも25人とも数えられる子女も同時に亡くなっている。この集団自決にも等しい上宮王家の惨劇に涙した人々は、彼らの遺骸も同じ時期に埋葬したはずである。彼らの墓は何処に築かれたのだろうか?

【追記 2009/01/18】
山背大兄一族を埋葬した可能性のある竜田御坊山古墳群

は、上記の富郷陵墓参考地や西山古墳以外にも、山背大兄王の墓と推定されている古墳がまだ存在する。いや、正確な言い方をすれば、かって存在した。斑鳩町竜田神社の裏山にあたる御坊山と呼ばれた丘陵の稜線から一段さがった南斜面に、3基の古墳が築かれていた。土地の名前を取って「竜田御坊山古墳群」と通称される古墳群だった。残念ながら昭和39年(1964)から翌40年にかけての宅地造成で、この古墳群は破壊されてしまったが、その中の1基が、山背大兄王の墓ではなかったかというのである。

竜田御坊山3号墳から出土した横口式石槨
竜田御坊山3号墳から出土した横口式石槨

橿原考古学研究所の付属博物館の庭には、破壊された古墳出土した石室がいくつか移設して展示してある。その中で、ひときわ人目を引くのが博物館の玄関脇にある横口式石槨(よこぐちしきせっかく)だ。なんと説明板には、この石槨が7世紀中頃に築造されたと推定される竜田御坊山3号墳のものと記してある。

の石槨の内部には棺が安置されていた。黒漆塗りの陶棺だった。その棺の中には青年男子の遺体と一緒に、琥珀の枕、三彩円面硯、ガラス管状の品などが埋納されていた(これらの出土品は博物館内に展示されている)。

正面から見た横口式石槨
正面から見た横口式石槨
左側面から見た横口式石槨
左側面から見た横口式石槨
坊山と呼ばれた丘陵地帯は、藤ノ木古墳から250mほど西側にあった。現在は、すっかり宅地造成されて、町名も龍田北1丁目に変わっている。ところで、御坊山とは御廟山の転化であるとする説がある。そのことから、3基で構成される御坊山古墳群は、皇極2年(643)11月に蘇我入鹿によって滅ぼされた山背大兄王とその一族の奥津城である可能性を指摘する声がある。

在の法隆寺長老職にある高田良信氏は、かってその著書の中で、”御坊山古墳群に山背大兄王は葬られているのではないか”と述べておられるという。残念ながら、筆者はその著書を拝読していないから、詳しい論拠は知らない。奈良芸術短期大学教授の前園実知雄氏も、そうした仮説に与しておられるのを何かで読んだ記憶がある。

のことを上記のレポートをアップしてから知った。ひょっとして山背大兄王を埋葬した墓かもしおれないとなると、俄然、御坊山古墳群に興味が沸いた。附属博物館の情報コーナーの書架には、橿考研が編纂した奈良県史跡名勝天然記念物調査報告という一連のシリーズが置かれている。そのシリーズの第32冊目は「竜田御坊山古墳」の調査報告である。早速それを読んでみようと思った矢先、病気で倒れてしまって、博物館を訪れるのが1週間遅れて本日(1月18日)になってしまった。

記の調査報告によると、御坊山古墳群が見つかったのは、東京オリンピックが開催される直前の昭和39年8月18日の夕方だった。県教委の文化財保存課に、御坊山の宅地造成現場で古墳が発見された、という連絡が入った。翌日、現場にかけつけてみると、古墳発見で造成工事の遅延をおそれた下請け業者が、ブルトーザーで古墳を押しつぶし破壊してしまっていた。付近には花崗岩の自然石が散らばり、凝灰岩の破片が散らばっているだけだったという。

れでも、周辺に散らばる遺物や石棺片の収集につとめた結果、凝灰岩製の家形石棺の蓋や、粘土にへばりついていた環座金1点、鉄釘のかけらなどがいくつか収集できた。また、工事関係者の聞き取り調査から2基の古墳が存在したことも明らかになった。古墳は標高70mほどの丘陵の幅が広い南の傾斜地に築かれていた。1号墳は南に位置し、そこから約15mほど北に2号墳があった。

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聞き書きによる1号墳石室内部の
推定図(*)
号墳の墳丘などは不明だが、埋葬施設は花崗岩の自然石を四方の壁にした高さ1m、長さ2m、幅1.7mぐらいの一種の竪穴式石室に似た造りで、天井を2〜3枚の花崗岩で覆っていたと推測されている。石室の内部には西側に北枕の1体と南枕の1体の遺体が交叉した状態で置かれ、東側にも北枕か南枕が不明だが、さらにもう一体の人骨があった。人骨以外には石室の中央北側に金具が1点、そのやや東に1.5cmほどの大きさの釘が5〜6本散乱していたという。

の古墳の石室は、古墳時代後期の竪穴式石室の系統をひくもののようだが、見つかった環座金は古墳の内部に置かれていた木棺に付いていたもので、専門家の判定では、7世紀初頭以降の新しい要素を含んでいるという。

号墳の北約15mの地点に横穴式石室を持つ2号墳が存在したが、その外形も石室の規模も分からない。ただ、天井石やその一部ではないかとみられる石材に混じって、家形石棺の蓋石の一部が見つかった。蓋石は縄掛け突起を持たない四柱造りの形をしていて、7世紀前葉のやや下る時期のものと推定されている。

和40年(1965)8月になって、あらたに石棺が見つかったという報告があった。場所は1・2号墳の北東30mの同じ尾根の南斜面で、土取場の崖面に花崗岩の横口式石槨が土砂採集によって西側を露出した形で残っていた。それが御坊山3号墳の石槨だった。入口の閉塞蓋石は南斜面に横転し、石槨の中には陶棺が納められていた。

石槨内にあった漆塗り陶棺
御坊山3号墳の石槨内に納められていた漆塗り陶棺

号墳の石槨は、底石、蓋石、閉塞石の3石からなり、いずれも花崗岩を整形して作ったものである。底石は、長さ298cm、中央部の幅144cm、厚み56cmで形が整わない長方形をしているが、陶棺を安置する内部は凸型に造りだされていた。蓋石は長さ275cm、横幅158cm、厚み97cmで凹字形の刳り抜かれていた。閉塞石は石棺南側の開口部を塞いだ板石である。これらで構成される石槨が古墳の中心部に設けられていたとなると、想定される古墳の形状は直径8mを越す円墳だったようだ。

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陶棺内の人骨と
副葬品の配置(*)
槨の内部は奥行き225m、幅71cm、高さ52cmの空間で、その寸法より一回り小さい陶棺が南側の開口部から押し込むように納められていた。陶棺は棺身と棺蓋で一対をなし、いずれも須恵器の大甕などの製作と同様な方法を用いた叩き目が見られた。陶棺の大きさは、全長約158cm、最大幅約48cm、高さ約50cmで、棺の内側と外側には直接横方向に黒漆が塗られていた。

棺は開口部から閉塞石が崩れ落ちたときの振動が原因で、蓋の東半分にひび割れが生じたようだ。その割れ目から内部の人骨の状態を伺うことができたという。また、8月の夏の熱風によって石槨内の温湿度が一変し、棺に塗られた黒漆が剥離する状態になっていた。そこで、石槨を大和歴史館(現・橿考研付属博物館の前身)の正面に移転して展示し、陶棺の内部は大和歴史館で精査と実測が行われた。

三彩有蓋円面硯とガラス管
三彩有蓋円面硯とガラス管
棺の内部には人骨一体が残っていて、身長160cmの被葬者が頭をやや左に向け、脚を左に曲げた状態で、内部の長さが150cmしかない狭い棺の中に納められていた。頭蓋骨の下にあたる部分には、琥珀製の枕と思われる遺物の破片が飛び散っており、さらに頭骨から15cmほど隔てた西側には、蓋付きの円形の硯(すずり)が蓋をしたまま置かれ、これと対象となる西側には円筒状のガラス製品が7片、割れた状態で置かれていた。

棺に埋葬された人物の骨は、奈良医大解剖学研究室や大阪大学解剖学教室で調査したようだ。残念ながら、古墳の調査報告には大学での調査結果が記載されておらず、人物像を推定することができない。

琥珀製の枕
陶棺内に散乱していた琥珀製枕の破片
琥珀製の枕(復元)
琥珀製の枕(復元)
だし、調査報告では、以下の理由でこの3号墳が築造されたのは7世紀中葉以前と推定している。
●陶棺が陶邑(すえむら)V式第1段階の窯跡からの出土品に類似していること
●石槨に高麗尺が用いられていること(ちなみに高麗尺とは、朝鮮半島から伝えられ、大宝令制定以前に用いられたといわれる尺で、曲尺(かねじゃく)の一尺1寸7分にあたる)
●陶棺内の頭部西側から出土した、濃淡のある淡黄緑色釉を施した三彩の円面硯は、隋−初唐様式のものであるが、初唐後期に出現する唐三彩以前のものであること

坊山3号墳が7世紀中葉以前に築造された墓であるなら、643年に山背大兄王が妃や子弟たちと共に自決して果てたあの悲惨な事件と時間的に重なる部分がある。その意味では、この3号墳の被葬者が山背大兄王である可能性は捨てきれない。

題はある。あの事件では、23人とも25人とも数えられる一族が集団自決をしている。これらの遺骸を埋葬するとすれば、もっと多くの墓が必要だったはずであり、築造時期もほぼ同時でなければならない。しかし、御坊山古墳群の中の3基の古墳の築造時期は同じではない。報告書は、1号墳→2号墳→3号墳の順に築造されたと記す。ただ、これらの古墳はさほど時間差がなく、短期間に築かれたと断っている。そうであるならば、その時間差がどれくらいのタイムスパンなのかが気にかかる。

坊山3号墳の出土品を見るために、久しぶりに橿考研附属博物館の常設展示場を訪れた。出土品は最後のブースに陶棺と共に置かれていた。陶棺の前には、棺内で散乱していた琥珀製枕の破片と、それから復元した枕のレプリカも置かれていた。

の豪奢な枕に頭を載せて陶棺に葬られた人物は、山背大兄王だったのだろうか。身長160cmの人物が内法150cmの棺に納められては、さぞかし窮屈な思いをしたことであろう。だが、時空を越えて目の前にある棺も、被葬者と一緒に埋納された副葬品も、黙したままで何も真実を語ってはくれない。

【参考文献】「竜田御坊山古墳」奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第32冊 橿原考古学研究所編 (*)は同報告からの転写


2009/01/18作成 by pancho_de_ohsei
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