川口の鎮守氏神として古くから住民に崇敬されてきた川口神社
川口神社の社伝によると、この神社の創起は平安時代の天慶年間(938-947)に、武蔵国足立郡の郡司武芝が武蔵一ノ宮の氷川(ひかわ)神社を分祀勧請したのが始まりとされている。そのため、もとは氷川大明神と称し、須佐之男命(すさのおのみこと)を主祭神として祀り、近隣住民の産土神として崇敬を集めてきた。
川口神社の約3,000坪の神域には、風格ある社殿が建っているが、地元以外にはそれほど知られた神社ではない。そのため、元旦でも参拝者はそんなに多くはないだろうとタカをくくって出かけた。ところが神社に到着してみると、驚いた。参拝者の列が境内からはみ出して、神社を取り囲むように延々と続いている。結局、拝殿にたどり着くまでに1時間以上並ばされた。寒風の中を何もしないで立ちずくめでいるのは、けっこう体にこたえ腰が痛くなった。
この神社には著名なものが2つある。一つは、地元の杉島貞七郎保英が奉納した和鏡である。保英は川口の生まれで、吉宗の時代に幕府勘定役・伊沢弥惣兵衛為永の配下で見沼の新田開発に従事した人物である。新田開発を行なうにあたって、彼は産土神の氷川大明神に工事の成功を祈願した。そして祈願が成就した享保18年(1733)、直径30cm、厚さ0.5cmの和鏡を奉納した。その鏡は、昭和52年に川口市の有形文化財に指定されている。 今一つこの神社を有名にしているものは、毎年12月15日に行われる市内最大の祭「おかめ市」である。おかめ市は、農作物の収穫と産業の発展を感謝するいわゆる酉の市のことで、商売繁盛の熊手が沢山売られることでも知られている。この日は川口駅から神社まで交通規制が実施され、600店余の露店が軒を並べる。神様の分霊とされる「開運かっこめ」が授与されるほか、縁起物の熊手も販売される。 |
徳川将軍の日光参拝の際、休息所に当てられた錫杖寺
今に残る御成門は、慶安元年(1648)に三代将軍・家光から金子と材木を拝領して建てたもので、将軍お成りの時以外は開扉しない「あかずの門」と呼ばれていた。 錫杖寺は、延命地蔵菩薩を本尊として祀る真言宗智山派の寺である。本尊の地蔵尊は右手に錫杖、左手には宝珠を持っていることから、寺号を「宝珠山地蔵院錫杖寺」と号しているとのことだ。
この寺は、関東八十八ヵ所の第七十六番札所にも数えられている古刹だが、創建の詳しいことは分からない。寺伝では、天平12年(740)の春、聖武天皇の命によって光明皇后の病平癒祈願のために、行基菩薩が当地で草庵が結んだのを濫觴(起源)としている。しかし、弘安年中(1278 - 1287)、鎌倉にあって広く東国の教化にあたっていた願行上人(憲静)が、この地に留錫し開山したという説もある。寛正元年(1460)になると、願行の法脈を継承する宥鎮和尚が七堂伽藍を整備し、中興開山となったと伝えられている。
正月三ケ日間午前9時から午後4時まで、本堂で「四国八十八カ所お砂ふみ」参りができるというので、本堂に上がった。お清めの「塗香」が入り口に置かれていて、この香を手のひらに軽く塗ってお参りするようだ。本堂外陣には、四国八十八カ所霊場の本尊と本堂、御朱印、ご詠歌をそれぞれ記した掛け軸が所狭しと並べられ、その前に砂のはいった袋が置かれていて、右足から砂を三度踏んで、合掌しながら「南無大師遍照金剛」と一度お唱えをするのが、正式なお参りの仕方である。このお砂ふみ参りで、四国霊場を巡礼して回ったのと同じ功徳があるそうだ。 娘とは、4年前の平成17年2月に「発心の道場」阿波の国二十三カ寺を巡ったことがある(四国遍路参照)。平成18年の5月には、ゴールデンウイークを利用して室戸岬から「修行の道場」のうち24番札所から27番札所を巡った(平成18年5月5日付け橿原日記参照)。当時のことを思い出して、娘は懐かしそうにそれぞれの掛け軸の前で神妙に合掌していた。
瀧山は士族・大岡権左衛門の長女だったが、16歳で大奥に上がった。そして、忠実な働きぶりとその才覚で異例の出世を遂げ、将軍付御年寄の座を得ると、徳川家定・家茂・慶喜の三代にわたって、1000人を超える大奥女中を束ねたという。 第十四代将軍継嗣問題の際には紀州の徳川慶福を推し、家定御台所の篤姫やその周辺の紀州一橋慶喜擁立工作を牽制したと言われる。和宮降嫁の際は、大奥のしきたりを毅然として示し、将軍家の権威保持に務めたが、江戸城明け渡しの際には、250人の奥女中にその功労に合わせて拝領物を与え、江戸城大奥の最後の締めくくりを行ったとされている。
インターネット上のフリー百科事典「ウィキペディア」は、「七宝後右筆間御日記」に慶応3年(1967)正月より瀧山の名前が登場しなくなった事や、徳川慶喜正室の美賀子が慶応3年(1967)に「下宿(永の暇)」した瀧山に対して白銀30枚を送ったとされる事を根拠に、江戸城無血開城が行われた慶応4年(1868)4月11日より前に、瀧山が江戸城を去ったとする説があることを紹介している。
向かって左は侍女の中野、右は叔母の染島の墓である。3基の墓は参拝者が耐えないのか、新しい献花が供えられていた。瀧山の墓石の背面に回ると、 |