橿原日記 平成20年12月27日

ゲバラと共に戦い、ボリビアの山中に散った日系革命戦士

ボリビアのゲリラ戦線で死んだ革命家チェ・ゲバラ

が明けると、スティーヴン・ソダーバーグ監督、ベニチオ・デル・トロ主演の映画『CHE』2部作が公開される。パート1「28歳の革命」とパート2「39歳別れの手紙」である。

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『CHE』2部作のスチール写真
画のタイトルになっているChe (チェ)とは、フィデル・カストロ(Fidel Castro)と共に1959年のキューバ革命を成功させ、1967年10月にボリビアのニャンカウアス山中でゲリラ活動の最中に戦死したエルネスト・チェ・ゲバラ(Ernesto Che Guevara)その人を指す。

ペイン語では、Che(チェ)は相手に呼びかける時の間投詞で、日本語の”おい”とか”ねえ”にあたる。ゲバラはこの単語を口癖のように常時連発していたので、いつしか彼のニックネームとして使われるようになった。本人もこのニックネームが気に入ったとみえて、キューバの国立銀行総裁時代にも紙幣に単にCheとだけサインしていたという。彼の本名はエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(Ernesto Rafael Guevara de la Serna)である。

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生存中のゲバラとカストロ
バラは、1928年にアルゼンチンの第二の都市ロサリオで生まれた。1953年にブエノスアイレス大学医学部を卒業するが、当時のペロン政権に軍医として徴用されるのを嫌って南米放浪の旅に出る。2年後の1955年5月、メキシコに亡命中のフィデル・カストロと出会い、キューバのバティスタ独裁政権打倒を目指すカストロに共感して、反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意した。

ストロを司令官とするキューバ遠征軍82人が8人乗りのヨット「グランマ号」でキューバに乗り込んだのは、1956年11月である。時にゲバラは28歳、資格は軍医だった。2年後の1959年1月1日、バチスタ大統領がハバナから国外逃亡し、キューバ革命軍は勝利した。

ゲリラ戦士チェ・ゲバラ
ゲリラ戦士チェ・ゲバラ
ストロ首相を頂点とする革命政府の中にあって、ゲバラはカストロの右腕として国立銀行総裁や工業大臣などを歴任し、革命キューバの発展に寄与した。外交官としても優れた能力を発揮し、革命の年の1959年6月には、アジア・アフリカ諸国への親善使節団長として随員5名を従えて各国を歴訪した。そのとき、7月15日から27日まで日本を訪問し、外務省で貿易交渉をしたり、広島を訪れて原爆慰霊碑に花束を捧げている。

の彼が突然、キューバ国民にあてた「別れの手紙」を残してキューバを去った。1965年4月のことである。カストロと袂(たもと)を分かつようになった理由は、いまだに謎とされている。一般には、革命政権の運営方針やソ連との関係をめぐって、現実的な路線を敷くカストロとの間に次第に距離感が生まれ、ゲバラはゲリラ戦争の経験を活かした革命を他の国でも成し遂げるためキューバを去ったとされている。

ゲバラの死を報じる10月11日付けEl Diario紙
ゲバラの死を報じる67年10月11日付けEl Diario紙
時の彼は、アメリカ帝国主義と戦うために「一つ、二つ、数多くのベトナムを・・・」と盛んに言い続け、翌年にはコンゴで義勇軍を育てていた。1966年4月、ゲバラはいったんハバナに戻るが、ボリビアでゲリラ戦闘を指揮すべく11月にプラハ経由でボリビアに入国している。「ゲバラの日記」は11月7日にニャンカウアスの宿営地に到着した日から書き始め、翌年の10月7日まで書き続けられた。

日の10月8日、イゲラ村で政府軍と遭遇し撃ち合いになってゲバラは重傷を負った。命には別状はなかったが、ゲバラが英雄視されるのを恐れるボリビア大統領バリエントスやCIAの指示で、裁判にもかけられず人知れず銃殺された。

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当時のボリビア大統領
バリエントス(写真中央)
死せる孔明、生ける仲達を走らせる」ではないが、ボリビア政府は、革命家ゲバラ崇拝を抑えるためその埋葬地を秘匿し続けた。死後30年目の1997年になって遺骨がボリビアで発見され、遺族らがいるキューバへ送られた。キューバでは、ゲバラの「帰国」を迎える週間が設けられ、遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が参集したという。

回の映画は、物語としては、ゲバラの青年期を描いた4年前の「モーターサイクル・ダイアリーズ(Diarios de motocicleta)」(ウォルター・サレス監督、ガエル・ガルシア・ベルナル主演)の後日譚となっているようだ。主人公を演じるプエルトリコ出身のベニチオ・デル・トロは、今年2月に退任前のカストロ議長と対面して、生前のゲバラについて入念にインタビューし、完璧なゲバラ像を構築したという。そのため、今年のカンヌ映画祭では主演男優賞に輝くなど、彼の演技が絶賛されている。今から公開が楽しみな映画である。

1969年に封切られた映画「ゲバラ!」
1969年に封切られた映画「ゲバラ!」
足ながら、ゲバラの映画は彼の死から2年後の1969年には、すでに20世紀FOXで映画化されている。監督は「トラ・トラ・トラ!」の演出を手がけたリチャード・フライシャー、主演は異色の国際スター、オマー・シャリフだった。筆者も日本での上映が待ち遠しかったが、実際に映画を見ていささか違和感を感じた。

マー・シャリフが演じるゲバラは役柄にぴったりとの印象を受けた。しかし、所詮はキューバと敵対するアメリカのハリウッド映画である。映画に盛り込まれているゲバラに対する見方は、当時のアメリカ人の平均的なゲバラ観だったのだろう。40年後の現在、カストロ役を演じたジャック・パランスの特異な風貌が何故か鮮明に思い出せる。



ボリビア国籍の日系ゲリラ隊員エルネスト・フレデイ・マイムラ

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昭和44年2月2日号の
サンデー毎日
れの大掃除で本棚を整理していたら、一冊の古い週刊誌が出てきた。昭和44年(1969)に発売された「サンデー毎日2月2日号」である。全学連の学生が東大紛争で安田講堂に立てこもった最後の様子を特集した週刊誌だが、この冊子が40年も手元に残っていたのには理由がある。報道写真家の中川市郎氏の特別レポート「ゲバラとともに散った日系人」が掲載されていたためだ。

系人とは、エルネスト・フレディ・マイムラ(Ernesto Fredy Maimura)という日系二世の医学生である。彼は、昭和14年(1939)10月18日、ボリビアのベニ州トリニダ市で洋服生地店を営む日本人の父、アントニオ・マイムラと妻ローサとの間に二男として生まれた。マイムラ氏の姓が、”前村”だったか”米村”だったかは明らかでない。

川氏の特別レポートによると、フレディ・マイムラは優秀な青年だったようだ。外科医を目指していた彼は、昭和37年(1962)にキューバにわたり、当時は中南米でもっとも設備が整っているとされた国立ハバナ大学の医学部に進んだ。そして2年間の教養課程を1年で終了し、チェコスロバキアとソ連に2年間留学して医学の勉強をした。

中川市郎氏の特別レポート
サンデー毎日に掲載された中川市郎氏の特別レポート
の彼がハバナに戻ってきたときは共産党員になっており、理由は不明だがゲリラ隊員を志望した。そして1966年11月、チェ・ゲバラのもとでゲリラ戦線を戦うためにボリビアに戻ってきた。「ゲバラの日記」には、フレディがゲリラ戦士としてゲバラの前に現れた日のことを、11月27日の日誌に次のように記されている。

ホルヘはまだ姿をあらわさない。私は一晩中、見張りをするように命じた。9時になってラパスから最初のジープがきた。ココといっしょに、ホアキン、ウルバーノ、それにエルネストと呼ぶボリビア人の医学生がやってきた。彼はここにとどまるためにきたのだという。・・・」

騎乗姿のチェ・ゲバラ
騎乗姿のチェ・ゲバラ
967年8月31日、ゲバラの情報連絡員タニアと行動を共にしていた別働隊が、バード・デル・イエーソ川を渡っているとき、ボリビア政府軍と遭遇して銃撃戦になった。ボリビア正規軍は10人いたゲリラ戦士のうち8人を射殺し、2人を逮捕した。その一人がフレディだった。フレディは、尋問に黙秘権を行使して一言もしゃべらず、”Viva!(ビーバ、万歳)革命ゲリラ隊”と叫んで抵抗し、そのため銃殺された。チェ・ゲバラが同じくボリビア政府軍の手で射殺される38日前のことである。

リビアの新聞は、ゲリラ隊に入ったフレディを「国賊」と罵倒し、その死体の写真まで掲載した。 筆者は当時、ボリビア石油公社(YPFB)があるボリビア南部のカミリ(Camiri)という地方都市に滞在していて、現地でこの新聞を読んだ。といっても、州都サンタクルスから週3便しか国内航空が運行していない田舎町である。新聞は2日遅れで届いた。

者がボリビアに赴任したのは、前の年の5月だった。ちょうどゲバラがコンゴからキューバに戻り、南米のど真ん中でゲリラ戦争を開始する戦略をカストロと練っていたころである。その年の11月ゲバラらしい人物が偽名でボリビアに潜入したことも、新聞報道などで知った。

ドブレ裁判が行われたYPFB図書館前
ドブレ裁判が行われたYPFB図書館前
ランス人哲学者/作家のレジス・ドブレ(Regis Debray)が、ゲバラとの会見に訪れ、カミリ近郊のムユバンバで逮捕されたのは、1967年4月20日だった。その年の9月、ドブレに対する軍事法廷がカミリで開始された。裁判が行われたのはボリビア石油公社(YPFB)の図書館だった。裁判のある日は、銃を構えた兵士たちが図書館の前の通行を、写真のように規制していた。筆者らの宿舎のすぐ近くだったので、連日のようにこうした光景を目にした。

ブレは死刑を求刑されたが、フランスからの助命嘆願運動で禁固30年の刑を受けた(その後の釈放運動で1970年4月に釈放され、フランスに戻るとミッテラン政権に参画している)。

レディ・マイムラがボリビア正規軍に逮捕され銃殺されたことを新聞で読んだとき、とっさにチェ・ゲバラが殺されたと勘違いした。と言うのも、彼のファーストネームがエルネストであり、しかも医者だと報じられたためである。彼がボリビア生まれの日系二世であり、しかも年齢的に筆者とほとんど変わらないと知って、正直なところ、彼に畏敬の念を抱いた。

者が大学を受験したのはキューバ革命の翌年であり、専攻科目にスペイン語を選んだのも、誕生したばかりの新生キューバをこの目で見てみたいというのが、主な理由だった。まだゲバラの存在は知らなかったが、当時は60年安保で学生たちが左翼がかった思想にあこがれていた時代である。フレディ・マイムラがゲリラ戦線に身を投じた心情は、十分に理解できた。だが、この年になるまでキューバを訪れたことはない。


ゲバラの日記
ゲバラの日記
真報道家の中川市郎氏が上記の特別レポートをものにされたのは、1969年1月1日に革命10周年を迎えるキューバの表情を取材するため、その前の年の10月末に首都ハバナに飛んだとき、フレディ・マイムラの母のローサ夫人と偶然に出会ったためである。

ーサ夫人にしてみれば、ハバナの大学で医学の勉強しているはずの息子が、母国ボリビアでゲリラ戦士として銃殺された。とても信じられない現実だったはずである。しかも、国賊と罵られ、遺骸すら返してもらえず、息子の霊を弔うこともできない。

いあまった夫人は、キューバに行ってカストロと革命ゲリラ隊本部の口から、自分の息子がどのような最後をとげたか確かめたいと思った。ボリビア政府によってあまりにも一方的に我が子の死に汚名を着せられたことが我慢できなかったからだという。ゲバラの死が世界の人々にたたえられ支持されるのであれば、我が子フレディの死も立派な戦死ではなかったのか、との思いが彼女をハバナに向かわせた。

女は、1968年9月2日にメキシコ経由でハバナに入った。中川氏にローサ夫人が語ったところによれば、ゲリラ隊本部からの連絡で我が子の死は確実になったが、祖国ボリビアでは”国賊の母”が、キューバでは”英雄の母”として遇されたという。そればかりではない。ハバナ滞在中にキューバ政府は彼女に大きなプレゼントをした。ハバナ首都圏のマリアナオ地区の小学校を「フレディ・マイムラ小学校」と改名した。さらにキューバの革命詩人ロサリオ・イサベルは「エルネスト・フレディ・マイムラに捧げる歌」という詩を彼女に送った。

ェ・ゲバラのボリビア山中でのゲリラ活動は、その出だしの段階で挫折した。多くのゲリラ戦士が非業の死をとげたが、その中にチェ・ゲバラと同じファーストネームを持つ日系二世の青年がいたことを、筆者は忘れない。




2008/12/27 作成 by pancho_de_ohsei return