ボリビア国籍の日系ゲリラ隊員エルネスト・フレデイ・マイムラ
日系人とは、エルネスト・フレディ・マイムラ(Ernesto Fredy Maimura)という日系二世の医学生である。彼は、昭和14年(1939)10月18日、ボリビアのベニ州トリニダ市で洋服生地店を営む日本人の父、アントニオ・マイムラと妻ローサとの間に二男として生まれた。マイムラ氏の姓が、”前村”だったか”米村”だったかは明らかでない。 中川氏の特別レポートによると、フレディ・マイムラは優秀な青年だったようだ。外科医を目指していた彼は、昭和37年(1962)にキューバにわたり、当時は中南米でもっとも設備が整っているとされた国立ハバナ大学の医学部に進んだ。そして2年間の教養課程を1年で終了し、チェコスロバキアとソ連に2年間留学して医学の勉強をした。
「ホルヘはまだ姿をあらわさない。私は一晩中、見張りをするように命じた。9時になってラパスから最初のジープがきた。ココといっしょに、ホアキン、ウルバーノ、それにエルネストと呼ぶボリビア人の医学生がやってきた。彼はここにとどまるためにきたのだという。・・・」
ボリビアの新聞は、ゲリラ隊に入ったフレディを「国賊」と罵倒し、その死体の写真まで掲載した。 筆者は当時、ボリビア石油公社(YPFB)があるボリビア南部のカミリ(Camiri)という地方都市に滞在していて、現地でこの新聞を読んだ。といっても、州都サンタクルスから週3便しか国内航空が運行していない田舎町である。新聞は2日遅れで届いた。 筆者がボリビアに赴任したのは、前の年の5月だった。ちょうどゲバラがコンゴからキューバに戻り、南米のど真ん中でゲリラ戦争を開始する戦略をカストロと練っていたころである。その年の11月ゲバラらしい人物が偽名でボリビアに潜入したことも、新聞報道などで知った。
ドブレは死刑を求刑されたが、フランスからの助命嘆願運動で禁固30年の刑を受けた(その後の釈放運動で1970年4月に釈放され、フランスに戻るとミッテラン政権に参画している)。 フレディ・マイムラがボリビア正規軍に逮捕され銃殺されたことを新聞で読んだとき、とっさにチェ・ゲバラが殺されたと勘違いした。と言うのも、彼のファーストネームがエルネストであり、しかも医者だと報じられたためである。彼がボリビア生まれの日系二世であり、しかも年齢的に筆者とほとんど変わらないと知って、正直なところ、彼に畏敬の念を抱いた。 筆者が大学を受験したのはキューバ革命の翌年であり、専攻科目にスペイン語を選んだのも、誕生したばかりの新生キューバをこの目で見てみたいというのが、主な理由だった。まだゲバラの存在は知らなかったが、当時は60年安保で学生たちが左翼がかった思想にあこがれていた時代である。フレディ・マイムラがゲリラ戦線に身を投じた心情は、十分に理解できた。だが、この年になるまでキューバを訪れたことはない。
ローサ夫人にしてみれば、ハバナの大学で医学の勉強しているはずの息子が、母国ボリビアでゲリラ戦士として銃殺された。とても信じられない現実だったはずである。しかも、国賊と罵られ、遺骸すら返してもらえず、息子の霊を弔うこともできない。 思いあまった夫人は、キューバに行ってカストロと革命ゲリラ隊本部の口から、自分の息子がどのような最後をとげたか確かめたいと思った。ボリビア政府によってあまりにも一方的に我が子の死に汚名を着せられたことが我慢できなかったからだという。ゲバラの死が世界の人々にたたえられ支持されるのであれば、我が子フレディの死も立派な戦死ではなかったのか、との思いが彼女をハバナに向かわせた。 彼女は、1968年9月2日にメキシコ経由でハバナに入った。中川氏にローサ夫人が語ったところによれば、ゲリラ隊本部からの連絡で我が子の死は確実になったが、祖国ボリビアでは”国賊の母”が、キューバでは”英雄の母”として遇されたという。そればかりではない。ハバナ滞在中にキューバ政府は彼女に大きなプレゼントをした。ハバナ首都圏のマリアナオ地区の小学校を「フレディ・マイムラ小学校」と改名した。さらにキューバの革命詩人ロサリオ・イサベルは「エルネスト・フレディ・マイムラに捧げる歌」という詩を彼女に送った。 チェ・ゲバラのボリビア山中でのゲリラ活動は、その出だしの段階で挫折した。多くのゲリラ戦士が非業の死をとげたが、その中にチェ・ゲバラと同じファーストネームを持つ日系二世の青年がいたことを、筆者は忘れない。 |