橿原日記 平成20年12月13日

シンポジウム「古代アンデス文明―過去との対話―」を聴講

シンポジウムの座談会風景 (2008/12/13 撮影)
シンポジウムの座談会風景 (2008/12/13 撮影)

よみうりホールで開催された一般公開シンポジウム

シンポジウムのプログラム表紙
シンポジウムのプログラム表紙
京大学が1958年にアンデス考古学調査を始めてから、今年は50周年の節目の年だそうだ。それを記念して、ペルーと日本の両国でさまざまな学術イベントが実施されてきた。その最後を飾って、「古代アンデス文明―過去との対話―」という一般公開シンポジウムが、本日JR有楽町駅前のよみうりホールで開かれる、と知人から教えられた。

ンポジウムでは、これまで発掘してきたプレインカのコトシュ(Kotosh)遺跡ワカロマ(Huacaloma)遺跡クントゥル・ワシ(Kuntur Wasi)遺跡などの調査の歩みを振り返り、現在の研究状況を報告するとともに、発掘成果を現地社会に還元するあり方を問うという。

ンカ文明が栄えた現在のペルーは、筆者にとって無縁の土地ではない。もう40年近く昔の話だが、半年ほど首都リマに駐在したことがあり、インカ帝国の首都だったクスコ(Cusco)や空中都市マチュピチュ(Machu Picchu)、地上絵のナスカ(Nasca)、あるいはリマ市内からパンアメリカン・ハイウェイを南へ30kmほど行ったところにあるパチャカマック(Pachacamac)遺跡などを訪れた。

ンポジウムは申し込み不要、参加無料、先着1000名まで受け付けるというので、やはり現役時代南米に駐在したことがある先輩を誘って、参加することにした。午後2時に開始された第一部では、「アンデスを掘る」と題して、次のお三方の基調講演が行われた。
●「アンデス調査50年」(大貫良夫(おおぬきよしお)東京大学名誉教授)
●「クントゥル・ワシでの発見」(加藤泰建(かとうやすたけ)埼玉大学副学長)
●「神殿からのメッセージ」(関 雄二(せきゆうじ)国立民族学博物館教授)

憩を挟んで第二部は「文明との対話」と題する座談会が約1時間半にわたって行われた。司会者は加藤泰建氏、パネリストは上記の大貫・関両氏に加えて、国立美術館理事長で国立西洋美術館長の青柳正規(あおやぎまさのり)氏とエッセイストの楠田枝里子(くすたえりこ)氏が参加された。



ペルーの考古学に大きな貢献をしてきた東京大学アンデス調査団

空中都市マチュピチュ
1911年、ハイラム・ベンガムによって発見された空中都市マチュピチュ(Machu Picchu)


代アンデスに関心を抱いた最初の日本人は鳥居龍蔵博士である。1937年にペルーを訪れた際に各地の遺跡を巡りペルーの考古学の父とされるフリオ・C・テーヨ(Julio C Tello)とも知り合いペルー考古学に親しく接する機会を得た。帰国後、鳥居はペルーについて講演を行い論文を発表して日本の学会の関心を呼び起こしたが、第二次世界大戦で最初の絆は断たれた。

後、東京大学の泉靖一教授(1915-1970)は1952年にペルーを訪れ、ペルーの考古遺物の収集と研究を行っていた天野芳太郎氏と知り合い、ペルーの多様な古代文化を研究するように強く勧められた。そこで、泉教授はアンデス研究に向かうことを決めて、1957年には再びペルーを訪れて、リマ近郊のチャンカイ谷で小規模な発掘を試みている。

の当時、東京大学では、騎馬民族説で有名な江上波夫教授らがイラン・イラク調査団を組織して現地調査を開始していた。そこで泉教授は、新旧両大陸文明起源の比較研究という目標を設定し、その一環として、1958年に「東京大学古代アンデス文明調査団」を組織した。そして、その年の7月、アンデス地帯での一連の調査を開始した。調査団はペルーの山岳地帯や海岸地帯を広く踏査して、240カ所におよぶ遺跡の表面調査を行なった。この第一次調査が、その後半世紀におよぶ日本人による古代アンデス文明の学術調査の端緒となった。

調講演で演壇に立たれたお三方の先生はいずれも、東京大学古代アンデス文明調査団の主力メンバーとして長年現地で発掘に関わってこられた考古学者である。特に、大貫良夫教授は1960年の第二次調査団のメンバーとしてコトシュ(Kotosh)遺跡の調査に参加されて以来、ラ・バンバ(La Bamba)、ワカロマ(Huacaloma)、セロ・ブランコ(Cero Blanco)、クントゥル・ワシ(Kuntur Wasi)の各遺跡の発掘を通して、アンデス文明の母体が形成された形成期(Periodo Formativo、 紀元前2500〜紀元前後)の研究に大きな功績を残された。

講演される大貫氏
講演される大貫氏
演では、これまでの調査の歩みを振り返り、研究の発展状況と発掘成果の現地社会への還元のあり方について、ときおり冗談を交えながら概括された。教授は何冊かの著作を上梓しておられる。その中に中公新書の『アンデスの黄金』がある。サブタイトルに”クントゥル・ワシの神殿発掘記”とあるように、調査団長としてクントゥル・ワシ遺跡の調査を指揮された本人のユニークな調査報告である。シンポジウム前にこの著書の存在を知り、図書館から借りて通読したが、単なる調査報告ではなく、発掘調査期間中の現地人や現地社会との関わり、発掘成果の現地還元の試みとして博物館建設に至ったいきさつなどが、素人向きの楽しい読み物となっていて教授の人柄が伺えた。


クントゥル・ワシ遺跡のイメージ
クントゥル・ワシ遺跡の3次元イメージ(*)
玉大学の教養学部教授で副学長の加藤泰建氏も、1975年から東京大学古代アンデス文明調査団のメンバーとして各地の発掘調査に関わってこられた。特に、1998年からは埼玉大学のクントゥル・ワシ調査プロジェクトのリーダとして遺跡の保存修復に従事してこられた。加藤氏はデータベース化された遺跡イメージを駆使して遺跡発掘の経過を説明された。その中でも、中央基壇の最下層にあたるイドロ期の基壇下から見つかった第1号墓から、1989年9月14日に金の冠を掘り出す様子をスライドで克明に説明されたのは圧巻だった。

貫氏と加藤氏の講演の中で「神殿更新」とか「神殿埋葬」いう聞き慣れない言葉が出てきた。調査団がこれまでに発掘した遺跡では、同じ場所で古い神殿を壊してその上に新しい神殿を建設したり、あるいは古い神殿より一回り大きい神殿を作っている実態が明らかになった。それを受けて、アンデス古代文明の発達の核となったのは、古くなった神殿を埋めてその上に新しい神殿を築く習慣だったという仮説に対する造語のようだ。

クントゥル・ワシ遺跡の<br>第1号墓出土品
クントゥル・ワシ遺跡の
第1号墓出土品
(シンポジウムのレジメより)
の仮説では、神殿を一定期間をおいて作り変えるのには、大がかりな土木工事が伴うため、自ずから技術の進歩を促し、また工事を指導する指導者とか権力者を生んだという。それだけではない。大神殿の建設には多くの労働力が必要なため、人口の増加とそれを養う食料の増産が不可欠である。このように神殿更新は、アンデス文化形成期の技術・政治・経済・文化の発展の原動力になったというのだ。こうした考え方は、農業生産の余剰で階級社会が生まれ、支配階級の指導のもとに経済や文化が発達したとする従来の古代文明起源説とは対局に位置する。

藤氏は、クントゥル・ワシ遺跡の発掘を、古代における神殿更新に喩えられた。発掘調査には地域住民の協力が必要であり、彼らの協力で遺跡を発掘・復元するのは神殿を新たに作り変える作業と似ている。また、発掘の成果を地元に還元する目的で博物館の建設し、その管理を地元に一任したが、こうした活動を通してアンデス高原の寒村が活性化し、祖先の文化・文明に対する考えも変わったとのことだ。


パコバンバ遺跡の発掘
パコバンバ遺跡の発掘
(シンポジウムのレジメより)
立民族学博物館の先端人類科学研究部の関雄二教授は、1979年以来、東京大学古代アンデス文明調査団のメンバーとして、ペルー北高地の祭祀遺跡を中心に発掘調査を行い、アンデス文明の基礎が成立した形成期(紀元前2500〜紀元前後)の社会の成立と変容の解明に取り組んでおられる。

在は、現地のサン・マルコス大学と国立民族学博物館との共同プロジェクトで、ペルー北高地のパコパンパ(Pacopampa)遺跡を手がけておられる。パコパンパ遺跡は、3段の基壇で構成された4ヘクタールほどのアンデス文明形成期の遺跡である。

の遺跡の神殿も「神殿埋葬」が繰り返されたが、その時期は大きく2期に分けられるという。パコパンパT期(BC1200 - BC900)とパコパンパU期(BC900 - BC200)である。いずれの時期も基壇上に窪んだ正方形の広場を作り、その三方にU字型に建物を配したと思われる建物の基壇が見つかっている。

ンデス考古学上、形成期(BC2500 - 紀元前後)と呼ばれる時期は、一般に前国家段階の社会だったと考えられている。関教授の最近のテーマは、最終的にはインカ帝国に収束されるような各地域の社会組織や権力の成立過程を探ることにあり、遺跡の遺構や出土品がどのようなメッセージを発しているかに真摯に耳を傾けているという。

教授によれば、形成期における権力は地域社会で差があるが、考古学的には権力の資源として経済と軍備と宗教が考えられ、当時の社会のリーダーがこれらの資源をどのように使い、または組み合わせることで権力を掌握していったかが想定できるという。


本人とルーツを同じくするモンゴロイドがベーリング海峡を渡って南米のアンデス地帯にやってきたのは、今から1万年ほど前のことだったとされている。彼らの末裔たちは、海抜4000mを超えるアンデス高原や太平洋の海岸地帯の厳しい環境の中で狩猟や漁労、採集生活を営んだ。そうした時代が5500年も続いた後に、紀元前2500年ころから農業を始めた。

日本調査団関連遺跡
日本調査団関連遺跡(シンポジウムのレジメより)
して、紀元前1200年頃になると、アンデスに住む住民たちはトウモロコシを作りそれを保存する土器を作り始めた。それから400年ほどした紀元前800年頃、突然アマゾン川の上流に巨大な神殿を作り石の彫刻を並べ、黄金細工をともなった文化が現れた。チャビン文化である。

者の世代が受けた歴史教育では、古代アンデス文明は、常にインカ帝国と結びついて語られた。だが、インカは15世紀後半から16世紀前半にかけて栄えた100年にも満たない短命な文化である。インカ以前に、ペルー各地でさまざまな古代文化が花開き滅びていった。そんな古代文化の中でアンデス文明の起源とされたのは、紀元前800年頃に成立したチャビン文化だと教えられてきた。

が、日本の考古学者たちのコトシュ遺跡の発掘調査で、チャビン文化より1000年以上もさかのぼる古い文化がアンデスに存在したことが証明し、従来の定説をくつがえした。しかも、大規模な神殿は、大きな力を持った権力者が造営したという定説にも疑義を投げかけた。墓の副葬品に大きな差がなく、軍事力も階級もなかったと思われる時代にも、大型の神殿が作られていることから、権力者の出現よりも前に、住民たちの自発的な参加によって神殿が築かれたと解釈できるという。3人の講師の話を聞きながら、正直なところ、かなりカルチャーショックを受けていた。

ンポジウムの受付で渡されたレジメには、日本の調査団が関連した遺跡が最後のページの地図にプロットしてある。それを見ただけでも、日本の調査団がいかにペルー考古学に寄与してきたかが分かろうというものだ。



古代文明との対話を語る座談会

パネルディスカッション風景
パネルディスカッション風景
ンポジウムの第二部・座談「文明との対話」は、国立美術館理事長・国立西洋美術館長の青柳正規氏とエッセイストの楠田枝里子女史を加えたパネルディスカッションだった。青柳氏はギリシャ・ローマ時代を専門とする考古学者で、日本におけるポンペイ研究の第一人者でもある。テレビの司会者としてお馴染みの楠田さんが、何故そうそうたる考古学者の中に加わっておられるのか最初は分からなかったが、意外にも彼女もアンデス考古学に深い関わりを持っておられることを座談会の話の中で知った。

もそも「東京大学アンデス古代文明調査団」が組織された目的は、新旧両大陸の文明の起源の比較研究にあった。したがって旧大陸の古代文明の研究者とアンデス古代文明の発掘当事者が、こうした場で両文明の異同を議論することは、当初の目的に沿うものと言えよう。

々の一般常識では、旧大陸の4大文明(エジプト、メソポタミア、インダス、黄河)はいずれも大河のそばで興った。だが、新大陸のアステカ、マヤ、インカ文明はいずれも大河とは縁がない。そうした文明の起源の相違が何に由来するのかが話題の中心となることを期待したが、文明との対話という内容に議論が集中した。

談会の中で、楠田さんが「神殿更新」、「神殿埋葬」の仮説に対して、率直な質問をされた。新しく神殿を造り替えるのなら、今までの場所を捨てて新しい場所に建てる方が効率が良いのに、なぜ古い神殿を壊したり、埋め立てたりして同じ場所に別の神殿を作るのか、という問いである。同じ疑問を筆者も抱いたので、パネリストの回答を注目した。

れに対して、青柳氏はこのように答えられた。洋の東西を問わず古代の人々は、自分たちの生活圏の中や近くに神が存在する聖なる場所を特定し、そこに神殿を作り続けたのではないか。例えば、ギリシャの例で言えば、アクロポリスの丘はそうした場所だった。アテナ神を祀るパルテノン神殿は、あの丘の上で何回も建て替えられているとのことだ。そうであれば、古代アンデス文明の形成期に各地域で特定の場所に自分たちの神殿を建て替え続けたのは、それほど不思議な風習ではないこことになる。

ナスカの地上絵
ナスカの地上絵
田さんは自己紹介の中で古代アンデス文明と関わりを、次のように話された。きっかけは、1985年に南米ペルーの遺跡「ナスカの地上絵」研究の第一人者マリア・ライヘ(Maria Reiche、1903 - 1998)を訪問したことにあるという。マリア・ライヘに会って、地上絵の保護運動に対する彼女の熱心さに感動し、また彼女の人柄に惚れ込んだ。そして病の床にあった彼女の窮状を救うべく日本でマイア・ライヘ基金を創設してその代表として地上絵の保存活動を支援してきた。2004年9月にパルパに創設されたパルパ博物館は、楠田さんが主催する基金の援助を得て完成した。この博物館は1997年に始まったナスカ-パルパ考古学調査プロジェクトで発見された学術成果を一般に公開展示する目的で設立された。

京大学のアンデス古代文明調査団とは別に、南米古代文明の謎解明に情熱を注ぎ続けている日本人考古学者がいる。南イリノイ大学の島田泉(しまだいずみ)教授だ。京都で生まれアメリカ育ちの島田氏は、バタン・グランデ周辺にあった古代遺跡を建造したプレ・インカ文化を「シカン(Sicán)文化」と命名した名付け親であり、ロロ神殿北西角の発掘で黄金の冠を発見したことでも知られる。島田教授によれば、考古学者の仕事は、「空間の地図」と「時間のものさし」を作ることだそうだ。

古学者は、別の意味では古代文明との「最初の対話者」でもある。発掘で遺物に出くわしたときの感動と興奮が忘れられなくて、遺跡発掘という地味な仕事を続けているのだとパネリストたちは一様に語る。一方、出土品が展示された博物館は、一般の見学者が古代と対話する場所である。その点に関して、楠田さんは貴重な体験を話された。

マ市内には、実業家の天野芳太郎(1898 - 1982)氏が、私財を投じて1964年に設立した本格的なアンデス文化に関する考古学博物館がある。「天野博物館」(Museo Amano)という。楠田さんがここを訪れたとき、陳列ケースの中から壺を取り出して手に持たせてくれた。そのときの壺の手触りや重さから受けた感動が忘れられないという。おそらく彼女は、古代人がその壺を抱いたとき味わった感触を時空を超えて共有できたはずである。ガラスケースを通して眺めることしかできないような展示の仕方では、博物館は本来の役割を果たしていないのかもしれない。


【参考】ペルーにおける日本人の考古学的貢献について、在日ペルー大使館のHP(http://www.embajadadelperuenjapon.org/jap/indexjap.php)の中の「文化とイベント」に詳しい記述がある。

(*) [SUCRA]クントゥル・ワシ遺跡データベース(KWDB)より転記
参考文献: 関 雄二著「アンデスの考古学」(同成社刊)


2008/12/19作成 by pancho_de_ohsei
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