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| 上空から見た甘樫丘東麓遺跡の所在地(*) |
甘樫丘東麓遺跡=蘇我入鹿の邸宅説に対する疑問
本日は、祝戸荘で第174回あすか塾セミナーの開催日だった。奈良文化財研究所(=奈文研)の都城発掘調査部研究員・豊島直博(とよしまなおひろ)氏を講師に招き、『甘樫丘東麓遺跡は蘇我氏の邸宅か』というタイトルで講演いただくことになっていた。迂闊にもこの催しがあるのを今週まで気が付かなかった。ネット上で知って慌てて参加を申し込んだ。申し込んだ理由は単純である。演題が疑問形になっている。それに惹かれた。
蘇我本宗家の蝦夷(えみし)・入鹿父子が甘樫丘に邸宅を並べて建てたのは皇極天皇3年(644)の旧暦11月であると、『日本書紀』は伝えている。時の人は、蝦夷の家を上の宮門(うえのみかど)、入鹿の家を谷の宮門(はざまのみかど)と呼んだという。家の外に木の柵を作り、門のそばに兵庫を作り、門ごとに用水桶を置き、武器を持った兵で守らせたとまで記している。 時期的には、強大な権力を背景に当時の政界を牛耳ってきた蘇我本宗家に対して、反蘇我勢力が台頭してくる頃である。そうした気配をいち早く察知して、蘇我父子は甘樫丘に邸宅を築いた。その目的は二つあったはずだ。一つ目の目的は、目に見えない勢力に対する防御である。家の周りに柵を巡らし、武器庫を作り、強者に武器を持たせて警護させ、放火まで予測して用水桶を置いたというのが、その証(あかし)である。
しかし、甘樫丘東麓遺跡は、蘇我氏の威信を示すには不適切な場所であるように思われる。筆者は個人的にはこの遺跡が入鹿の邸宅だった「谷の宮門」ではなかったのでは?、と勝手に思いこんでいる。筆者が入鹿だったら、甘樫丘東麓遺跡から尾根を一つ超えた北隣の通称エベス谷と呼ばれている谷に邸宅を構えたにちがいない。そちらの方が、谷が広い上に深く、大邸宅を築くのに適している。さらに飛鳥板蓋宮も蘇我氏の氏寺である飛鳥寺も睥睨することができる。だが、これは個人的な思いつきにすぎない。でも、それが学術的に証明できたら・・・、と思っているところに、今回のセミナーの案内である。 甘樫丘東麓遺跡の発掘調査は奈良文化財研究所が担当している。講座のタイトルに疑問文が附されているところを見ると、ヒョッとしたら専門的な立場からの入鹿の邸宅を否定する説が聞けるのでは、と期待しながら祝戸荘に足を運んだ。 |
甘樫丘東麓遺跡の発掘調査の経緯を振り返る定刻の午前11時半、講師の豊島直博氏が演壇に立たれた。奈文研で10年間発掘に従事してきたとあって、日焼けした精悍な感じのスリムな青年だった。彼の姿を一目見て、アレッと思った。何処かで会ったことがあるような考古学者だった。冒頭の自己紹介の歯切れがよい話しぶりを聞いて、やっと思い出した。去る11月18日、多武峰から下山してきた時、飛鳥寺近くで発掘現場を見かけたので近寄って、「何が出ましたか?」と調査員に声をかけたが、その調査員が彼だった。
そのときの豊島氏は、石組みの溝が見つかり、飛鳥寺の前に造られた石敷きの東南の隅ではないかと話してくれた。現地説明会は開かれるのか、と重ねて聞くと、今回は発掘規模が小さく、そうはならないだろうと答えてくれた。その歯切れのよい話しぶりが印象に残っていた。ただその時は作業帽をかぶっていたので、顔の印象はすぐには浮かばなかった。 一週間後、新聞各紙はこの発掘現場を写真入りで報道していた。出土したのは7世紀の石敷きの道路跡で、飛鳥寺の前を東西に走る大通りと飛鳥京を南北に築かれたT字路の交差点と想定されているようだった。 豊島氏はマイクがいらないほど良く通る声の持ち主だった。ゆっくりと咬んで含めるような口調で講演されたが、その話しぶりは簡潔で実に要領がよく、聞いていても気持ちが良かった。用意されたレジメも簡潔にまとめられていた。おそらく、氏の性格なのだろう。レジメを参考にしながら、豊島氏の講演の内容を整理すると、次のようになる。
1994年度に実施された駐車場建設に伴う事前調査甘樫丘東麓遺跡は、国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区に位置し、国交省の管理下にある。これまでに小規模なものを含めて7回の発掘調査が行われてきたようだが、何と言ってもこの遺跡が注目されるようになったのは、1994年に実施された駐車場建設に伴う事前調査だった。この時の調査地は、約6,000平米ある谷の入口付近のわずか360平米にすぎなかった。 当時は、豊島氏はまだ奈文研に入社しておらず、発掘現場を見ていなかったと前置きしながらも、当時の様子を詳しく解説された。
この焼土層は、7世紀中頃のものとされている。その推定の背景を、豊島氏は次のように話してくれた。土器というものは、壊れたら新しいものを作ることが繰り返され、その移り変わりが早い。だが、今の考古学の世界では、土器の年代は20年くらいの単位で形が変わっていくことがすでに判っている。そのため、ちょうど我々が車に興味があれば、古い車を見て、いつ頃の車で何という型式か言い当てることができるのと同じように、土器の制作年代や形もほぼ確実に特定できるそうだ。 土器を研究所に持ち帰って調べたところ、640年から660年頃のものと判明された。そのため、これらの土器が埋まっていた焼土層が7世紀中頃のものとされた。では、土器と一緒に出土した焼けた壁土や木材は何を意味するのか。調査地では建物跡は発見できなかったが、これらの遺物は明かに近くにあった建物が火災にあったことを物語っている。
蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅がそのとき延焼して焼け落ちた可能性を指摘する意見がある。焼けた壁土や木材はその残骸ではないのかというのである。そのため、甘樫丘東麓遺跡と命名されたこの調査地が、蘇我入鹿の邸宅跡であるとする説が出された。しかし、当時の調査では建物跡は見つかっておらず、その可能性はあくまで想定に留まった。 筆者はこの説に組みしない。理由は簡単だ。『日本書紀』は蝦夷が史書や珍宝を焼いたと記すが、その邸宅に火を放って自殺したとは書いてない。百歩譲って、蝦夷が自邸に火を放ったとしても、燃えたのは「上の宮門」とされた邸宅であろう。入鹿の「谷の宮門」まで延焼したと考えるのは、いささか想像に過ぎるのではないだろうか。
2005年度に行われた公園整備の事前調査
奈文研では5人でチームを組んで遺跡の発掘調査を行なう体制をとっている。しかし、方々で調査を行っているため、一つの調査にかけられる時間は3ヶ月から4ヶ月、調査区の範囲も1000平米が限度とのことだ。豊島氏によれば、彼の飛鳥での初めての発掘調査は、公園予定地なので木を切らずに調査しろとの条件付きだった。加えて、予算の都合もあり、大がかりな掘削ができない。それで、木を外して取りあえず幅5mの調査区をキの字状に二カ所に設定し、もう一カ所その北側を掘削することにしたという。 調査したのは6000平米の広さの中のわずか725平米にすぎなかった。それでも、谷の奥で掘立柱跡が6棟、塀跡が2条確認され、改めて蘇我氏邸宅との関連が問題になった。記者発表では、出土した土器から建物の年代は7世紀と幅を持たせ、特に蘇我氏の邸宅との関連は触れなかった。しかし、以前に蘇我入鹿の邸宅跡ではないかと騒がれた場所から、ついに建物跡が見つかったのである。マスコミは奈文研の発表を大きく取り上げ、まるで蘇我入鹿の邸宅跡が発見されたような見出し付で報道した。 そのため、11月16日に行われた現地説明会では、平日にもかかわらず6000人を超す古代史や考古学ファンが押し寄せることになった。筆者もその中に一人だった(平成17年11月16日付け橿原日記参照)。
2006年度に始めて開始された学術調査
この2006年度の調査では、石垣や掘立柱建物、塀、石敷、炉、溝を確認することができた。その中でも特に重要な発見は石垣だった。この石垣は谷の東半分を整地したとき作られたもので、7世紀の中でも古い時期のものと推測された。石垣の内側で発見された掘立柱建物跡1は、石垣と同じ時期に作られたようだ。 その後、石垣を一度埋め立ててしまって整地し、別の建物を建てている時期がある。さらに、この建物も壊して、また別の建物を建てている。石垣は埋めたてられた時期は、その埋め土から見つかった土器片から、7世紀中頃すなわち645年の乙巳の変の直後に埋め立てられたことが判明した。 この石垣に注目した場合、事前調査では7世紀代のものとしていた出土遺構が3段階に分けられることが判明した。すなわち、建物跡に着目すれば、石垣が築かれた7世紀前半(T期)に作られた遺構、石垣を埋め立てて整地した後に建てられた7世紀中頃〜後半(U期)の遺構、そして7世紀末(V期)の遺構の3段階である。そのうち、U期の建物は数度の建て替えがあり、その時期はさらに細分されるという。
豊島氏作成のセミナーのレジメには、この年度の出土遺構は次のように分類されている。 甘樫丘東麓遺跡が蘇我入鹿の邸宅跡だったと仮定した場合、邸宅を築くため谷の東半分を整地して石垣を築き、邸宅やそれに付随する建物が建てられたことになる。その石垣の内側に建てられた建物1棟とは遺構平面図に記された建物1のことである。そして、645年に蘇我本宗家が滅亡した跡、石垣を埋め立てて邸宅跡が整地され、別の建物群が造営されたことになる。
豊島氏の話で興味深かったのは、調査地の端で検出された建物2だ。この建物跡に立っていたのは建築用語でいう総柱建物で、倉庫や高い建物などのように重い荷重を支えるため建物の内部にも柱列を配置している。上の分類ではU期の遺構になっているが、発掘当時はT期のものかU期のものか判断がつかなかった。この建物は、以下で述べるように翌年発掘した土坑によって。T期の建物跡であることが判明した。そのため、この場所に蘇我入鹿の邸宅が建てられたのであれば、『日本書紀』に記された武器庫だった可能性が高い。 発掘調査は2006年10月から開始され、翌年の2月11日に現地説明会が行われた。残念ながら筆者は埼玉の自宅に戻っていて、新聞やテレビのなどの報道で今回の説明会の様子を知った。しかし、持つべきものやはり気心の知れた友である。橿原在住のT.Y君がデジカメで撮影した現場の写真をメールに添付して送ってくれた。上記の写真はその一部である。せめて見学会の雰囲気くらいは伝えてやりたいとの心づくしだった(平成19年2月11日付け橿原日記参照)。
2007年度に実施された学術調査
発掘を直接担当した豊島氏によれば、今回の発掘で重要な発見は土坑1だったとのことだ。この土坑は前回見つかった倉庫跡と思われる総柱建物の柱穴を壊す形で掘られていて、そこから整理箱4箱程度の土器片が出土した。 7世紀中頃の土器と判明しているものとしては、飛鳥資料館に近くにある山田寺跡の下層の溝や整地土から出土した土器や、中大兄皇子が築いた漏刻(ろうこく)跡とされる水落遺跡の石組堆積層から出土した土器がある。文献資料から山田寺は641年に造営が開始され、漏刻は660年に造られたことが判明している。
これまでの発掘調査で、7世紀前半のT期に属する遺構としては、建物4棟、塀2条、石垣が出土したことになる。建物4棟のうち2棟は総柱建物で、目隠し塀を伴う5x2間の建物と、周囲い溝を巡らした5x3間の建物であることが判明した。目隠し塀で外部から遮蔽されていたり、溝を巡らして簡単には外部からアクセスできないような建物として、誰の目にもすぐ浮かぶのは武器保管庫のような倉庫である。
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(*) 豊島氏が作成された発掘調査の説明写真よりコピー