橿原日記 平成20年11月29日

初めて一般公開された陵墓参考地の百舌鳥御廟山(もずごびょうやま)古墳

上空から見た御廟山古墳
上空から見た御廟山古墳 (現地見学会資料より)

応神天皇陵の第2候補として陵墓参考地に指定されている古墳

市北区百舌鳥本町には、百舌鳥御廟山古墳と呼ばれている巨大な前方後円墳がある。大正15年の測量された地形図から計算すると、全長は186m、後円部は径約96m、高さ約18.3m、前方部は幅約119m、高さ約17.8mの規模を誇り、百舌鳥古墳群の中では大山(だいせん)古墳(仁徳陵古墳)、ミサンザイ古墳(履中陵古墳)、ニサンザイ古墳に次いで4番目に大きい。御廟山という名称は、応神天皇を祭神として祀る百舌鳥八幡宮が古墳の東に鎮座しており、古墳はその奥の院と伝承されてきたためだ。

御廟山古墳
御廟山古墳 (平成18年3月20日撮影)
ころが、この御廟山古墳は陵墓参考地に指定され、宮内庁の管理下にある。宮内庁は天皇、皇后、太皇、太后及び皇太后を葬る所を陵(みささぎ)、その他の皇族を葬る所を墓と規定して、これらの陵墓を管理している。その他に、被葬者が具体的に特定できていないが、文献や伝承あるいは墓の規模や出土品の内容から考えて皇室関係者の墓の可能性があるという理由で、陵墓参考地として管理している。そうした墓が全国で28基もある。御廟山古墳はその一つである。

神天皇を埋葬したとされる陵は、百舌鳥古墳群ではなく古市古墳群の中にある。百舌鳥古墳群の大山古墳と並んで、我が国の最大規模の墓とされている誉田山(こんだやま)古墳である。しかし、宮内庁は上記の伝承を理由に御廟山古墳を「応神天皇の初葬地の可能性がある」として明治34年に陵墓参考地に指定し、それ以来学術調査すら一切拒否してきた。

内庁のこの理由付けは苦しい。応神天皇がどれだけ偉大な天皇だったか知らないが、その遺骸をこの巨大古墳にいったん埋葬した後、古市に墳丘長が2倍以上もある誉田山古墳を築造して改葬したなどとは、常識ではとても考えられない。『古事記』や『日本書紀』にも改葬を匂わせる記述はない。そこで、最近では「仁徳天皇の后妃(こうひ)を葬った可能性」を陵墓参考地指定の理由にしているようだ。物は言いようである。

白いことに、陵墓参考地として宮内庁が管理しているのは墳丘部分だけで、墳丘の周りの周濠(しゅうごう)は堺市が管理している。現在の古墳の裾周りは、周濠の水の浸食で崩落が進行しているため、宮内庁は護岸整備工事を実施するため事前調査の実施を計画していた。一方、堺市も宮内庁管轄外の墳丘裾や濠内の遺構・遺物を確認するため発掘調査を計画していた。そこで、両者は今年の10月から同時調査を実行して、調査結果を共有することにした。

掘調査は現在も進行中だが、同時調査でさまざまな新しい知見が得られたので、本日と明日の二日間、全国で初めて発掘調査地が一般公開されることになった。これまでに陵墓や陵墓参考地の一部が研究者に限って公開された例はあるが、一般に公開されるのは今回が初めてである。 昨日の新聞各紙の報道で発掘調査の概要は理解したが、その現場を見ておきたく本日現地見学会に出かけてきた。



仮設通路を巡りながら発掘現場を見て回る

掘調査地の一般公開は今日と明日の2日間で、午前9時から午後4時まで。宮内庁が管理する墳丘内に立ち入ることはできないが、周囲の設けた仮設通路を巡りながら見学できるとのことだ。集合場所に指定されたのは、御廟山古墳からは少し離れた大仙公園の催し広場で、堺市文化財課の職員が随時現地に案内するという。

日とも先着5千人に整理券を配布し、5千人を超えた場合は、申し訳ないがその分は打ち切りとさせていただくとのことだ。市文化財課もずいぶんと剛毅である。1万人を超える見学希望者の参集を予定しているようだ。

朝の大仙公園前通り 列をなす100名近い見学希望者
朝の大仙公園前通り 30分前には列をなす100名近い見学希望者

朝は久しぶりに暖かい朝を迎えた。少し早めにアパートに出たので、集合場所には8時30分に着いた。大仙公園の催し広場の木々が紅葉していて朝日にまぶしかった。受付開始までにはまだ30分もあるというのに、すでに100名近い見学希望者が列をなしていた。その後も次々の見学者が集まってきて、長蛇の列を作り始めたので、受付は15分早められた。

市文化財課の職員
見学前に現場を説明する市文化財課の職員
00人ほどを単位として現場に案内するようで、最初の組は9時15分から催し広場の隅で発掘状況の説明を受け、9時半に広場を後にした。御廟山古墳はJR阪和線の線路を挟んで、大仙公園の反対側にある。「百舌鳥」駅のそばの踏み切りをわたって、大勢の人間が狭い歩道を進むのは大変である。車の往来や踏切の横断に主催者側も相当気を使っているようだ。過剰と思われるほど多くのボランティアをやとって、通行の整理を行っている。

舌鳥の御廟山古墳を訪れるのは、今回が初めてではない。平成18年の3月に、地元の歴史愛好家に案内されて見学に訪れたことがある。鬱蒼と生い茂ったクスの大木が何本も墳丘を覆い、ゆったりと水をたたえる広い周濠にその影を落とす姿は、まるで一幅の絵のようだった。盾形の濠の周りに築かれた遊歩道を巡りながら、その景観を楽しんだものだ。その墳丘の裾まで行って発掘状態が見学できるようになろうとは、当時は夢想だにしなかっった。


周濠に仮設された通路<
周濠に仮設された通路

発掘調査現場見学箇所
発掘調査現場見学箇所@〜D(*)
地見学会資料に示されたイラストによれば、古墳の北側に見学通路の入口として仮設の橋が築かれている。通路は古墳の裾に沿って約300mにわたって築かれていて、古墳を半周して東側の別の仮設橋に達する。宮内庁が管理する墳丘には一歩も足を踏み入れないが、五カ所で検出された遺構を見学できる。

内庁は墳丘の斜面で15カ所もトレンチを入れて、この古墳が築かれた当時の築造状態を調査している。一般に公開されているのは、前方部前面の中央付近が一カ所、南側の造り出し付近が2カ所、そして後円部の南側と東側がそれぞれ一カ所の合計5カ所の調査区だけである。その他の調査区でも発掘が行われているが、ブルーシートが掛けてあって公開はされていない。

墳丘の断面イメージ
墳丘の断面イメージ(**)
戸時代、実はこの古墳の周濠は田に水を供給する溜め池として使われていた。しかも、江戸時代の前期には、浚渫(しゅんせつ)工事を行なって周濠の貯水量を増やしている。そのため、堺市が担当した調査区では、築造時の状態を残す葺石(ふきいし)が検出できず、ただ拡幅工事の後に墳丘から転落してきた葺石が見つかっただけである。

ころが、宮内庁の調査区では、1段目のテラスにあたる場所で盛土された層が各所で見つかっている。これらの盛土には裾部分と同じ土質や濠の底の泥も含まれていた。そのことから、濠の拡幅工事の際には墳丘の1段目の斜面や濠の底の土を削り取って、一段目のテラスに積み上げていたことが分かった。積み上げられた土の高さは最大で1.5mにも達し、1段目テラスのほぼ全域に及んでいるという。

の結果、この古墳の築造当時の規模は、大正15年に作成された地形図から想定した規模よりも大きかったことが明らかになった。実際の規模の確定は調査後の検討にゆだねられるが、現時点では墳丘の長さは200m、後円部の径は110mに迫るものと推定されている。つまり、従来から公表されてきた数値より、それぞれ14m長くなる。

調査区@では埴輪列と葺石を検出
調査区@では埴輪列と葺石が見つかった
調査区Aでも埴輪列と葺石およびこれらが転落した状況が見つかった
調査区Aでは埴輪列と葺石およびこれらが転落箇所が見つかった
調査区Bでは造り出しの様子が判明
調査区Bでは造り出しの様子が判明
調査区Cで検出された2段目斜面の葺石の様子
調査区Cで検出された2段目斜面の葺石の様子
調査区Dでも2段目斜面の葺石が検出された
調査区Dでも2段目斜面の葺石が検出された
方、宮内庁の調査区では、円筒埴輪や朝顔形埴輪、形象埴輪が見つかっている。そのほとんどは円筒埴輪で占められていて、いずれも同じ窯を使って焼き上げらたようだ。円筒埴輪は、1段目のテラスの縁に列をなして並べられており、その基底部の多くは落下せずに残っていた。

た、「造り出し」の周辺からは、赤い顔料が塗られた冑(かぶと)形埴輪や家の形をした埴輪の一部が見つかっている。そのため、「造り出し」は祭祀などの儀式が行われた跡であることを伺わせている。

土した埴輪の破片の量は多く、コンテナ約20箱分にも達した。それらの破片から復元できる円筒埴輪は直径40cm程度の大型で、製法の技法から5世紀中頃に作られたと推定できるという。つまり、大山古墳(仁徳陵古墳)の円筒埴輪よりやや時代が遡る時期に位置づけられる。このため、5世紀後葉とされてきた御廟山古墳の築造時期も、前倒しして5世紀中頃に訂正する必要があるようだ。

廟山古墳は、前方部も後円部も3段築成の墓である。今回の発掘調査は裾部分に限定されているため、宮内庁の発掘現場は、調査区Bの造り出し部分を除くと、他の古墳発掘現場で見かけるトレンチの幅か、それより少し広い程度だ。しかも一様に、一段目テラスの端に並べられた埴輪跡や斜面に葺かれた葺石、あるいは転落した葺石の状況が分かるだけである。

れらの発掘状況から、一段目テラスや二段目テラス、さらには墳頂部の周辺に円筒埴輪が列をなして並べられ、墳丘全体が葺石で覆われた築造当時の様子を思い描くには、いささか想像力を駆使しなければならない。

じような発掘状況を見せつけられた見学者の様子を観察していると、彼らの関心は最後には墳丘上に生育している樹齢数百年のクスの巨木だったようだ。さかんにカメラのレンズを向けていた。巨大がクスが群生している場所は堺市内でも他にない。百舌鳥八幡宮の奥の院として長年崇敬されてきたお陰である。

仮設通路の出口付近から振り返ってみた御廟山古墳
仮設通路の出口付近から振り返ってみた御廟山古墳


陵墓および陵墓参考地に指定されている古墳は誰のものか?

円筒埴輪の破片(*) 蓋形埴輪の破片(*)
円筒埴輪の破片(*) 蓋形埴輪の破片(*)

土した埴輪破片の一部が堺市博物館の一画に展示してあるというので、最後に博物館を訪れることにした。エントランスホール近くに設けられた硝子ケースの中には、円筒埴輪や朝顔形埴輪、あるいは冑形埴輪、家形埴輪、蓋形(きぬがさがた)埴輪などの形象埴輪の破片が展示されていた。

ころが、いずれの硝子ケースも撮影禁止の張り紙がしてある。他の発掘現場の現地説明会や現地見学会などでは、受付横のテントの中で撮影自由で公開している埴輪のかけらにすぎない。そばに館員がいたので、展示の様子をデジカメで撮影させて欲しいと頼んだが断られた。展示品そのものではなく、展示の様子でも駄目だという。理由をただすと、館内は撮影禁止になっています、と繰り返すだけだった。

御廟山古墳遺物展示会場
御廟山古墳遺物展示会場
直言って、なんと時代遅れの博物館かと呆れかえった。東京国立博物館に常設展示されている国宝級の品だって、特に寄託者の許可を必要とする品以外は、フラッシュを使わないことを前提にカメラ撮影を許している。何回か参加してきた韓国歴史探訪のツアーで訪れた国立や大学の博物館だって、カメラ撮影は基本的にOKである。

こで、何故かたくなにカメラ撮影を拒否するのか、その理由を考えてみて、思い当たったことがある。たかが埴輪の破片にすぎなくても、これらの出土品はすべて宮内庁に帰属する。おそらく、宮内庁の正式許可を得ないかぎり、むやみに一般見学者に撮影させることははばかられるのだろう。館員は、展示品の一部が現地見学会資料の最後に示してありますから、それで我慢してくださいと言った。

路、堺市がなぜこれほど宮内庁に卑屈な態度をとるのかその理由を考えてみた。その理由の一つは、「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産登録運動に関係しているのだろう。堺市は大阪府・羽曳野市・藤井寺市と共同で平成19年9月26日、世界遺産登録のための「百舌鳥・古市古墳群−仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳群−」という提案書を文化庁へ提出している。 だが、多数の陵墓を含む両古墳群がユネスコの文化遺産に登録できるかどうかは、宮内庁の胸三寸にかかっている。

とえ宮内庁の了解が得られたとしも、被葬者も特定されていないような王陵をユネスコが文化遺産と認めるとは、筆者にはとても思えない。たとえば、ユネスコが仁徳陵古墳を世界遺産として認定するためには、それが本当に仁徳の陵なのかを学問的に証明あるいは説明されなければならない。そのためには、学術的な発掘調査が絶対条件だが、宮内庁が陵墓や陵墓参考地の発掘調査を認めるはずがない。

者は、古墳とは文化遺産であり、国民の財産であると考えている。なかんずく前方後円墳は、我が国独自の極めて歴史的に価値がある古墳であり、世界的レベルの文化遺産として認められてよいはずだ。だが、そのためには学術的調査がしっかりなされて、その価値を認知させる資料の存在が前提となる。

が、現在我々が見る前方後円墳は、江戸時代の末期、徳川幕府が天皇家に誠意を示すため、『文久の修陵』という陵墓修復作業で整備されたものである。その修復作業で天皇陵比定のベースになったのは、『古事記』や『日本書紀』、『延喜式』などに記された古墳の曖昧な記憶であり、考古学的に裏づける資料は全くなかった。明治政府はその比定を踏襲しただけであって、なんら学問的調査を実施したわけではない。

神武天皇陵
神武天皇陵
れどころか、あきらかにでっち上げられた天皇陵がある。その典型的な例が、筆者のアパートの近くにある、実在が否定されている神武天皇陵である。実在しない天皇であるからには、その墓が存在するはずがないのだが、神武天皇陵は以下のように”新たに造営・整備された”。

文久の修陵』が行われた当時、神武天皇陵の存在は判らず、それらしき場所には、東西7m、南北7.6m、高さ1.1mの建物跡を思わせる小丘と、その傍らに直径5.3m、高さ60cmの土饅頭のような墓が存在するだけだった。この古墳とも言い難い墓を、文久の修復では1万5000両を投入し一町×二町の墳墓に作り替えた。『延喜式』に示された大きさに合わせたわけである。それだけではない。明治政府は、修復された神武陵があまりに貧弱であるとして、明治20年頃に墓を六角形の石垣で囲い、その周りに何重もの垣を巡らして、立派なものに作り直した。大正時代にはさらに改良を加えて直径30メートル、高さ2.5メートルの円墳に作り替えた。それが、現在の神武天皇陵である。

太田茶臼山古墳 今城塚古墳
太田茶臼山古墳今城塚古墳

木市の太田には、全長286mの太田茶臼山古墳がある。継体(けいたい)天皇陵として宮内庁書陵部が管理する陵墓で、正式な名称は三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)という。ところがその天皇陵から直線距離で1.5kmも離れていない高槻市の郡家新町には、墳丘長190m、内濠・外濠を含めると全長350mの今城塚古墳(いましろづかこふん)があり、学術調査によって、99.9%こちらが真の継体天皇陵であると判明している。しかし、宮内庁は太田茶臼山古墳が「継体天皇の墓ではないという決定的な証拠はない」として、従来の見解を変えていない。 それどころか、天皇陵が間違えていたとしても、継体天皇の魂は祭ってあるところに引っ越しされていると説明している。強弁もいいところだ。

内庁は1970年前後から明治期につぐ大規模な天皇陵整備事業に着手した。天皇陵正面に拝所の施設を整え、周囲の堀の浚渫や護岸工事などが実施されている。だが、墳丘上に繁茂する樹木を伐採して芝を植えるというような作業は行っていない。中国でも韓国でも、古代の王陵は墳丘の手入れが実に行き届いていて、樹木が生い茂っている墓など見たこともない。外国人の目から見れば、こんな状態では天皇家の先祖が眠る陵墓が大切に扱われているとはとても思われないであろう。いわんや世界遺産などとは。


(*) 現地見学会資料よりコピー (**) 朝日新聞より転記


2008/12/01 作成 by pancho_de_ohsei return