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| 上空から見た御廟山古墳 (現地見学会資料より) |
仮設通路を巡りながら発掘現場を見て回る発掘調査地の一般公開は今日と明日の2日間で、午前9時から午後4時まで。宮内庁が管理する墳丘内に立ち入ることはできないが、周囲の設けた仮設通路を巡りながら見学できるとのことだ。集合場所に指定されたのは、御廟山古墳からは少し離れた大仙公園の催し広場で、堺市文化財課の職員が随時現地に案内するという。 両日とも先着5千人に整理券を配布し、5千人を超えた場合は、申し訳ないがその分は打ち切りとさせていただくとのことだ。市文化財課もずいぶんと剛毅である。1万人を超える見学希望者の参集を予定しているようだ。
今朝は久しぶりに暖かい朝を迎えた。少し早めにアパートに出たので、集合場所には8時30分に着いた。大仙公園の催し広場の木々が紅葉していて朝日にまぶしかった。受付開始までにはまだ30分もあるというのに、すでに100名近い見学希望者が列をなしていた。その後も次々の見学者が集まってきて、長蛇の列を作り始めたので、受付は15分早められた。
百舌鳥の御廟山古墳を訪れるのは、今回が初めてではない。平成18年の3月に、地元の歴史愛好家に案内されて見学に訪れたことがある。鬱蒼と生い茂ったクスの大木が何本も墳丘を覆い、ゆったりと水をたたえる広い周濠にその影を落とす姿は、まるで一幅の絵のようだった。盾形の濠の周りに築かれた遊歩道を巡りながら、その景観を楽しんだものだ。その墳丘の裾まで行って発掘状態が見学できるようになろうとは、当時は夢想だにしなかっった。
宮内庁は墳丘の斜面で15カ所もトレンチを入れて、この古墳が築かれた当時の築造状態を調査している。一般に公開されているのは、前方部前面の中央付近が一カ所、南側の造り出し付近が2カ所、そして後円部の南側と東側がそれぞれ一カ所の合計5カ所の調査区だけである。その他の調査区でも発掘が行われているが、ブルーシートが掛けてあって公開はされていない。
ところが、宮内庁の調査区では、1段目のテラスにあたる場所で盛土された層が各所で見つかっている。これらの盛土には裾部分と同じ土質や濠の底の泥も含まれていた。そのことから、濠の拡幅工事の際には墳丘の1段目の斜面や濠の底の土を削り取って、一段目のテラスに積み上げていたことが分かった。積み上げられた土の高さは最大で1.5mにも達し、1段目テラスのほぼ全域に及んでいるという。 その結果、この古墳の築造当時の規模は、大正15年に作成された地形図から想定した規模よりも大きかったことが明らかになった。実際の規模の確定は調査後の検討にゆだねられるが、現時点では墳丘の長さは200m、後円部の径は110mに迫るものと推定されている。つまり、従来から公表されてきた数値より、それぞれ14m長くなる。
また、「造り出し」の周辺からは、赤い顔料が塗られた冑(かぶと)形埴輪や家の形をした埴輪の一部が見つかっている。そのため、「造り出し」は祭祀などの儀式が行われた跡であることを伺わせている。 出土した埴輪の破片の量は多く、コンテナ約20箱分にも達した。それらの破片から復元できる円筒埴輪は直径40cm程度の大型で、製法の技法から5世紀中頃に作られたと推定できるという。つまり、大山古墳(仁徳陵古墳)の円筒埴輪よりやや時代が遡る時期に位置づけられる。このため、5世紀後葉とされてきた御廟山古墳の築造時期も、前倒しして5世紀中頃に訂正する必要があるようだ。 御廟山古墳は、前方部も後円部も3段築成の墓である。今回の発掘調査は裾部分に限定されているため、宮内庁の発掘現場は、調査区Bの造り出し部分を除くと、他の古墳発掘現場で見かけるトレンチの幅か、それより少し広い程度だ。しかも一様に、一段目テラスの端に並べられた埴輪跡や斜面に葺かれた葺石、あるいは転落した葺石の状況が分かるだけである。 これらの発掘状況から、一段目テラスや二段目テラス、さらには墳頂部の周辺に円筒埴輪が列をなして並べられ、墳丘全体が葺石で覆われた築造当時の様子を思い描くには、いささか想像力を駆使しなければならない。
同じような発掘状況を見せつけられた見学者の様子を観察していると、彼らの関心は最後には墳丘上に生育している樹齢数百年のクスの巨木だったようだ。さかんにカメラのレンズを向けていた。巨大がクスが群生している場所は堺市内でも他にない。百舌鳥八幡宮の奥の院として長年崇敬されてきたお陰である。
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陵墓および陵墓参考地に指定されている古墳は誰のものか?
出土した埴輪破片の一部が堺市博物館の一画に展示してあるというので、最後に博物館を訪れることにした。エントランスホール近くに設けられた硝子ケースの中には、円筒埴輪や朝顔形埴輪、あるいは冑形埴輪、家形埴輪、蓋形(きぬがさがた)埴輪などの形象埴輪の破片が展示されていた。 ところが、いずれの硝子ケースも撮影禁止の張り紙がしてある。他の発掘現場の現地説明会や現地見学会などでは、受付横のテントの中で撮影自由で公開している埴輪のかけらにすぎない。そばに館員がいたので、展示の様子をデジカメで撮影させて欲しいと頼んだが断られた。展示品そのものではなく、展示の様子でも駄目だという。理由をただすと、館内は撮影禁止になっています、と繰り返すだけだった。
そこで、何故かたくなにカメラ撮影を拒否するのか、その理由を考えてみて、思い当たったことがある。たかが埴輪の破片にすぎなくても、これらの出土品はすべて宮内庁に帰属する。おそらく、宮内庁の正式許可を得ないかぎり、むやみに一般見学者に撮影させることははばかられるのだろう。館員は、展示品の一部が現地見学会資料の最後に示してありますから、それで我慢してくださいと言った。 帰路、堺市がなぜこれほど宮内庁に卑屈な態度をとるのかその理由を考えてみた。その理由の一つは、「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産登録運動に関係しているのだろう。堺市は大阪府・羽曳野市・藤井寺市と共同で平成19年9月26日、世界遺産登録のための「百舌鳥・古市古墳群−仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳群−」という提案書を文化庁へ提出している。 だが、多数の陵墓を含む両古墳群がユネスコの文化遺産に登録できるかどうかは、宮内庁の胸三寸にかかっている。 たとえ宮内庁の了解が得られたとしも、被葬者も特定されていないような王陵をユネスコが文化遺産と認めるとは、筆者にはとても思えない。たとえば、ユネスコが仁徳陵古墳を世界遺産として認定するためには、それが本当に仁徳の陵なのかを学問的に証明あるいは説明されなければならない。そのためには、学術的な発掘調査が絶対条件だが、宮内庁が陵墓や陵墓参考地の発掘調査を認めるはずがない。 筆者は、古墳とは文化遺産であり、国民の財産であると考えている。なかんずく前方後円墳は、我が国独自の極めて歴史的に価値がある古墳であり、世界的レベルの文化遺産として認められてよいはずだ。だが、そのためには学術的調査がしっかりなされて、その価値を認知させる資料の存在が前提となる。 だが、現在我々が見る前方後円墳は、江戸時代の末期、徳川幕府が天皇家に誠意を示すため、『文久の修陵』という陵墓修復作業で整備されたものである。その修復作業で天皇陵比定のベースになったのは、『古事記』や『日本書紀』、『延喜式』などに記された古墳の曖昧な記憶であり、考古学的に裏づける資料は全くなかった。明治政府はその比定を踏襲しただけであって、なんら学問的調査を実施したわけではない。
『文久の修陵』が行われた当時、神武天皇陵の存在は判らず、それらしき場所には、東西7m、南北7.6m、高さ1.1mの建物跡を思わせる小丘と、その傍らに直径5.3m、高さ60cmの土饅頭のような墓が存在するだけだった。この古墳とも言い難い墓を、文久の修復では1万5000両を投入し一町×二町の墳墓に作り替えた。『延喜式』に示された大きさに合わせたわけである。それだけではない。明治政府は、修復された神武陵があまりに貧弱であるとして、明治20年頃に墓を六角形の石垣で囲い、その周りに何重もの垣を巡らして、立派なものに作り直した。大正時代にはさらに改良を加えて直径30メートル、高さ2.5メートルの円墳に作り替えた。それが、現在の神武天皇陵である。
茨木市の太田には、全長286mの太田茶臼山古墳がある。継体(けいたい)天皇陵として宮内庁書陵部が管理する陵墓で、正式な名称は三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)という。ところがその天皇陵から直線距離で1.5kmも離れていない高槻市の郡家新町には、墳丘長190m、内濠・外濠を含めると全長350mの今城塚古墳(いましろづかこふん)があり、学術調査によって、99.9%こちらが真の継体天皇陵であると判明している。しかし、宮内庁は太田茶臼山古墳が「継体天皇の墓ではないという決定的な証拠はない」として、従来の見解を変えていない。 それどころか、天皇陵が間違えていたとしても、継体天皇の魂は祭ってあるところに引っ越しされていると説明している。強弁もいいところだ。 宮内庁は1970年前後から明治期につぐ大規模な天皇陵整備事業に着手した。天皇陵正面に拝所の施設を整え、周囲の堀の浚渫や護岸工事などが実施されている。だが、墳丘上に繁茂する樹木を伐採して芝を植えるというような作業は行っていない。中国でも韓国でも、古代の王陵は墳丘の手入れが実に行き届いていて、樹木が生い茂っている墓など見たこともない。外国人の目から見れば、こんな状態では天皇家の先祖が眠る陵墓が大切に扱われているとはとても思われないであろう。いわんや世界遺産などとは。
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(*) 現地見学会資料よりコピー (**) 朝日新聞より転記