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| 高取城の二の門を移設した子嶋寺の山門 (2008/11/26 撮影) |
大化改新前に蘇我蝦夷
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| 子嶋寺付近のマップ |
『日本書紀』の中に気になる記述がある。皇極3年(644)11月の条に、「大臣(おおおみ)は東漢長直阿利麻(やまとのあやのながのあたい・ありま)に命じて大丹穂山(おほにほのやま)に桙削寺(ほこぬきのてら)を建てさせた」と記されている。大臣とは蘇我本宗家の蘇我蝦夷(そがのえみし)、翌年6月の乙巳の変(いっしのへん)で邸宅を放って自殺した大和政権の権力者だ。
何故か彼が建てさせた桙削寺の後身が子嶋寺であるとする説があるようだ。その根拠は知らない。だが、蘇我蝦夷が建立に関係していたとの説がある以上、一度は訪れなければならないと思っていた。昨日、高取城址からの帰路土佐街道を歩いたが、その時入手したチラシに、久しく忘れていた子嶋寺の名があった。
本日は朝から風もなく暖かい陽射しが降り注いでいる。思い切って、自転車で出かけてみることにした。場所はほぼ分かっている。明日香村のキトラ古墳に近い。3年前の9月に近くで見つかった「観覚寺遺跡」を見学したこともある(平成14年4月29日付け橿原日記参照)。
空海が唐から招来した両界曼荼羅図の銅版画に復刻版を見る
ただし、国の宝物を完全な消火設備もないような寺に置いておくわけにも行かない。そこで、前者は奈良国立博物館に、後者は東京国立博物館にそれぞれ委託保管されているという。 青年が最初に案内してくれたのは、本堂の左右の壁に掲げてある両界曼荼羅図の前である。向かって左側の壁には金剛界曼荼羅図が、右側の壁には胎蔵界曼荼羅図が掲げられている。もちろん本物ではなくレプリカである。本物の曼荼羅図は、濃い紺色の綾地に金と銀を混ぜた泥状の絵具で描いた、幅約3m、高さ約3.5m前後の巨大な掛け軸である。しかし、レプリカといっても織物ではない。銅版画として、実物を四分の一に縮小して復刻したものだ。それでも巨大である。
銅版両界曼荼羅を制作したのは、東京葛飾区在住の伝統工芸師の柳富治 (柳澄観)氏である。柳氏は昭和62年(1987)には国宝「子嶋曼荼羅 金剛界」を、平成6年(1994)には、国宝「子嶋曼荼羅 胎蔵界」をそれぞれ復刻され、この寺に寄贈された。 曼荼羅とは、密教において聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字などを用いて視覚的・象徴的に表わしたものである。真言密教では、世界は大日如来の慈悲を表す胎蔵界と、大日如来の智慧を表す金剛界とによって成り立っていると考え、前者を「胎蔵界」、後者を「金剛界」と呼んでいる。そして、これらの2つの世界を曼荼羅で表したものをそれぞれ金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅と呼び、両者をあわせて両界曼荼羅とも呼んでる。 空海が2年間の在唐留学を終えて帰国したのは大同元年(806)10月、33歳の時である。空海は唐から持ち帰った両界曼荼羅図を嵯峨天皇に献上した。天皇はいたく喜び、両曼荼羅を宮中の本尊として祀ったという。その曼荼羅図が子嶋寺に伝わってきた経緯を、青年は次のように話してくれた。 子嶋寺の中興の祖とされる人物に真興(しんぎょう)僧都がいる。もともとは興福寺の法相宗の僧だが、天元6年(983)にこの寺に来住し、子嶋寺が所在する近くに子院の観覚寺(かんがくじ)を建てて、真言宗子嶋流を興した。真興の努力によって、子嶋寺は南都七大寺にも劣らない隆盛を極め、真言宗子嶋流の拠点として広大な地域に本堂や御影堂、三重塔など23棟の建物が並び立っていたという。高野山が10世紀末に落雷による火災で諸堂が焼失したとき、高野山の僧侶たちは子嶋寺を真言宗の観学の寺とした。そのため、付近一帯が観覚寺と呼ばれるようになったという。 長保年間(999 - 1003)、一条天皇が病気で倒れ医薬の効果もなかったとき、真興は天皇の病気平癒の祈祷を行い、その病気を完治させた。一条天皇は大いに感謝し、宮中で本尊として祀ってきた両部曼荼羅を、紺紙金泥大般若経600巻、十三重塔とともに、褒賞として真興に下賜された。そのため、これらの宝物が子嶋寺に伝承されてきたという。
国宝指定の両界曼荼羅図は平安時代中期の作とされている。だが、空海が大同元年(806)に招来したのであれば、制作地は唐であり、制作時期はそれ以前でなければならない。ところが。子嶋寺略記には奇妙なことが書かれている。「その由来を尋ねると、今より2800年前インド国において文殊菩薩が仏の勅に奉じて描いたもので、代々相伝えて中国に来たり、蜀江の錦を以て表装を施し、大同元年弘法大師御招来」とある。今より2800年も前? まだお釈迦様が誕生するはるか以前ではないか、その頃にインドに仏教など存在しなかったのでは、と青年に疑問をぶつけると、言い伝えですから、と軽くいなされた。
それでは、何時国宝の指定を受けたのかと重ねて聞くと、正確には分かりませんが、明治35年ごろだったと思われますと、一幅の屏風に書かれた歌を紹介してくれた。そこには、次のような歌が書かれていた。 南北朝時代、子嶋寺も戦火を受けて寺院坊舎を失い、衰退していった。その後、興福寺一条院の支配下に入り本堂や諸堂が再建された。江戸時代に植村家政が高取藩主になると、高取城主植村家の祈願所として庇護を受け、子島山千寿院と寺号を改めた。高取城主の念持仏だった十一面観音像が本堂右の離れに安置されている。高取城主は毎日この寺に足を運んで礼拝したという。その像の前に、袋を被せた小さな仏像が置かれていた。秘仏の嶋投聖天(しまなげしょうてん)だそうだ。どのような仏像か聞いたが、青年も見たことがないとのことだ。 明治維新後一条院の所轄が解かれ、植村氏の版籍奉還により黒印地(こくいんち、江戸時代に幕府・大名の黒印状によって寺院の領地として安堵された土地)もなくなって、無檀・無住の寺になってしまった。明治36年(1903)、有志の尽力により田畑・山林を買い戻し、庫裏を再建し、高取城の二の門を移し表門として再建された。以後、千寿院を子嶋寺と改称され、今日に至っているという。 |
(*) 絵葉書より複写