橿原日記 平成20年11月26日

子嶋山子嶋寺(こじまさん・こじまでら)で銅版仏画の両界曼荼羅を拝す

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高取城の二の門を移設した子嶋寺の山門 (2008/11/26 撮影)

大化改新前に蘇我蝦夷(そがのえみし)が建立させた寺の後身とする説もある古刹

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子嶋寺付近のマップ
前から気になっていた仏教寺院がある。奈良県高取町の大字観覚寺(かんがくじ)で、小さな小山を背景に建つ古刹だ。山号を児島山、寺号を子嶋寺(こじまでら)という高野山真言密教の寺である。近鉄吉野線の「壺阪山駅」から500mと近い。駅前の古い町並みの面影を残す土佐街道を郵便局前から北に向かって進み、途中の標識に従って狭い生活道路に入れば、その先に寺の山門がそびえている。

日本書紀』の中に気になる記述がある。皇極3年(644)11月の条に、「大臣(おおおみ)は東漢長直阿利麻(やまとのあやのながのあたい・ありま)に命じて大丹穂山(おほにほのやま)に桙削寺(ほこぬきのてら)を建てさせた」と記されている。大臣とは蘇我本宗家の蘇我蝦夷(そがのえみし)、翌年6月の乙巳の変(いっしのへん)で邸宅を放って自殺した大和政権の権力者だ。

故か彼が建てさせた桙削寺の後身が子嶋寺であるとする説があるようだ。その根拠は知らない。だが、蘇我蝦夷が建立に関係していたとの説がある以上、一度は訪れなければならないと思っていた。昨日、高取城址からの帰路土佐街道を歩いたが、その時入手したチラシに、久しく忘れていた子嶋寺の名があった。

日は朝から風もなく暖かい陽射しが降り注いでいる。思い切って、自転車で出かけてみることにした。場所はほぼ分かっている。明日香村のキトラ古墳に近い。3年前の9月に近くで見つかった「観覚寺遺跡」を見学したこともある(平成14年4月29日付け橿原日記参照)。


寺伝では、孝謙天皇の勅願によって報恩法師が創建した寺

子嶋寺の山門
子嶋寺の山門
後1時半、子嶋寺の山門の前に立った。意外と立派な構えの門である。そのはずである。この山門は、高取城の二の門を移築したもので、高取城の現存する唯一の遺構だそうだ。

門をくぐると、植え込みに囲まれた十三重の石塔が、暖かい午後の陽射しを受けて境内の中央で白く輝いていた。それほど広くない境内を、手入れの行き届いた植え込みが一層狭くしているようだ。

くの住人らしい年寄りが二人、境内の掃除をしていた。その一人が、境内の隅に並べて植えられていた葉鶏頭の一本を、無造作に根元から鎌で切り取った。まだ枯れてもいないのに、惜しいですね、と声をかけたが、余計なお世話だとばかりに無言で睨み付けられた。

子嶋寺の境内
暖かい午後の陽射しが降り注ぐ子嶋寺の境内

屋根が重そうな本堂の階段を昇ると、右手に受付があり、いささか小太りの青年が作務衣のような服装を身につけて座っている。拝観料300円を支払って堂内の見学を希望すると、その青年は「子嶋流本山子嶋寺略記」を手渡してくれた。そして、立ち上がると、少しお待ちくださいと堂内に消えた。

本尊の大日如来像
本尊の大日如来像(*)
もなく正面の格子戸が内部から引き開けられ、青年は堂内に招きいれてくれた。子嶋寺は真言密教の寺である。内陣中央に本尊の大日如来像が安置され、周囲を天井から吊り下げられた金色の幡などで荘厳されている。見上げると、格子天井の一つ一つに梵字が描かれている。堂内を撮影してもよいかと尋ねると、写真はお断りしていますとの返事が返ってきた。

年は案内役もかってくれているようだ。彼の説明の間に交わした雑談から、子嶋寺には住職がおらず、橿原の久米寺の住職が兼務しており、青年は週に何日か久米寺から派遣されてきているとのことだ。

この寺の創建について、「大化改新」の頃に蘇我氏が建てたという説があるようだが・・・」と青年に聞いてみた。それに対して、彼は創建の時期や経緯については色々な説があるようで、詳しいことは知らないとのことだ。ただ、一般に流布されているのは、天平宝字4年(760)、孝謙天皇の勅願によって報恩法師が創建したとする説である。

の説は、『元亨釈書』の吉野山報恩伝や『本朝高僧伝』の報恩伝などに見える説である。それによれば、報恩法師は孝謙天皇の勅に奉じて大和国高市郡の「子嶋神祠のほとり」に子嶋山寺を建てたことになっている。その「子嶋神祠」は現在、高取町下子島(子嶋寺の南方)にある小島神社を指すとされている。だが、寺伝では、創起は天平宝字4年(760)ではなく、何故かそれよりも8年早い天平勝宝4年(752)としている。

延鎮僧都の像 田村麻呂の自作像
延鎮僧都の像(*) 田村麻呂の自作像(*)
年は、第2代の延鎮(えんちん)僧都と平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂(752 - 811)に関する興味深い話をしてくれた。

恩の後を継いだ二代目延鎮(えんちん)は、夢に見た観音のお告げにより、京都東山の麓の霊地で音羽の滝を探し当て、そこで修行していた。そのとき、坂上田村麻呂が、妻の安産を願い鹿を求めて音羽山へ来たが、延鎮から殺生を戒められた。それが機縁で田村麻呂は延鎮の教えに帰依し、また延鎮が同じ出身地である高取町の子嶋山寺の住職であることを知り、この霊地の東山に二人は力を合わせて十一面千手観音を安置し、清水寺を建立したという。これが京都清水寺の始まりとされている。

方、征夷大将軍に任命された田村麻呂は、蝦夷征討の成功と、出陣する全軍の将士が仏の加護によって無事帰還できることを清水寺に祈願した。また田村麻呂は大和国高市郡檜隅の領地を子嶋寺に寄贈した。報恩法師が死去すると、延鎮は子嶋寺に戻り報恩の後を継ぎ、師ゆかりの子嶋寺を本寺、京都清水寺を末寺とした。

のため、平安時代はこの子嶋寺が清水寺より格が上だったと、青年は得意そうに話した。現在、内陣の右奥には延鎮僧都の像と、田村麻呂が自分で彫ったと伝えられる自作像が並んで置かれている。ついでながら、世阿弥の作とされる謡曲「田村」は、京都の清水寺の縁起をモチーフにした作品で、高取町出身の坂上田村麻呂が鈴鹿山の兇賊を退治したという伝説をまとめたものである。

七福神の中の大黒天像
七福神の中の大黒天像(*)
らに、平安初期には、子嶋寺は長谷寺と壷坂寺に次ぐ大和国の観音霊場として信仰を集めていたという。現在も、子嶋寺は大和七福神霊場の一つとして、室町時代作の大黒天を祀っている。大黒天の像は延鎮僧都の像などと同じ棚に置かれていた。その前に立つと、全身が硝子ケースで覆われ、足元の2つの米俵だけはむき出しで黒光りしている。巡礼者は御利益があるようにとこの木造に触れて帰るが、以前には像の一部を削り取って持ち帰る者もいたという。それを防ぐために、今はガラスケースをかぶせてあるとのことだ。



空海が唐から招来した両界曼荼羅図の銅版画に復刻版を見る

重文の木造十一面観音像
重文の木造十一面観音像
嶋寺は奈良時代中頃の創建と伝えられるだけあって宝物も多い。その中には国宝に指定されている紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図(2幅)と、昭和14年(1939)に国の重要文化財の指定をうけた木造十一面観音像がある。前者は空海が唐から招来し、時の天皇である嵯峨天皇に献上したとされる品であり、京都の東寺と神護寺の曼荼羅図とともに日本三大曼荼羅図に数えられている。後者は開基の報恩法師が桓武天皇の念持仏として彫りだしたもので、2mを超える檜の一本造りの堂々とした立像である。

だし、国の宝物を完全な消火設備もないような寺に置いておくわけにも行かない。そこで、前者は奈良国立博物館に、後者は東京国立博物館にそれぞれ委託保管されているという。

年が最初に案内してくれたのは、本堂の左右の壁に掲げてある両界曼荼羅図の前である。向かって左側の壁には金剛界曼荼羅図が、右側の壁には胎蔵界曼荼羅図が掲げられている。もちろん本物ではなくレプリカである。本物の曼荼羅図は、濃い紺色の綾地に金と銀を混ぜた泥状の絵具で描いた、幅約3m、高さ約3.5m前後の巨大な掛け軸である。しかし、レプリカといっても織物ではない。銅版画として、実物を四分の一に縮小して復刻したものだ。それでも巨大である。

銅版「子嶋曼荼羅 金剛界」
銅版「子嶋曼荼羅 金剛界」(*)
銅版「子嶋曼荼羅 胎蔵界」
銅版「子嶋曼荼羅 胎蔵界」(*)

版両界曼荼羅を制作したのは、東京葛飾区在住の伝統工芸師の柳富治 (柳澄観)氏である。柳氏は昭和62年(1987)には国宝「子嶋曼荼羅 金剛界」を、平成6年(1994)には、国宝「子嶋曼荼羅 胎蔵界」をそれぞれ復刻され、この寺に寄贈された。

荼羅とは、密教において聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字などを用いて視覚的・象徴的に表わしたものである。真言密教では、世界は大日如来の慈悲を表す胎蔵界と、大日如来の智慧を表す金剛界とによって成り立っていると考え、前者を「胎蔵界」、後者を「金剛界」と呼んでいる。そして、これらの2つの世界を曼荼羅で表したものをそれぞれ金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅と呼び、両者をあわせて両界曼荼羅とも呼んでる。

海が2年間の在唐留学を終えて帰国したのは大同元年(806)10月、33歳の時である。空海は唐から持ち帰った両界曼荼羅図を嵯峨天皇に献上した。天皇はいたく喜び、両曼荼羅を宮中の本尊として祀ったという。その曼荼羅図が子嶋寺に伝わってきた経緯を、青年は次のように話してくれた。

嶋寺の中興の祖とされる人物に真興(しんぎょう)僧都がいる。もともとは興福寺の法相宗の僧だが、天元6年(983)にこの寺に来住し、子嶋寺が所在する近くに子院の観覚寺(かんがくじ)を建てて、真言宗子嶋流を興した。真興の努力によって、子嶋寺は南都七大寺にも劣らない隆盛を極め、真言宗子嶋流の拠点として広大な地域に本堂や御影堂、三重塔など23棟の建物が並び立っていたという。高野山が10世紀末に落雷による火災で諸堂が焼失したとき、高野山の僧侶たちは子嶋寺を真言宗の観学の寺とした。そのため、付近一帯が観覚寺と呼ばれるようになったという。

保年間(999 - 1003)、一条天皇が病気で倒れ医薬の効果もなかったとき、真興は天皇の病気平癒の祈祷を行い、その病気を完治させた。一条天皇は大いに感謝し、宮中で本尊として祀ってきた両部曼荼羅を、紺紙金泥大般若経600巻十三重塔とともに、褒賞として真興に下賜された。そのため、これらの宝物が子嶋寺に伝承されてきたという。

真興(しんぎょう)僧都の像(*)
真興(しんぎょう)僧都の像(*)
なみに、その曼荼羅図は「飛行曼荼羅」とも呼ばれている。その理由を尋ねると、真興が宮廷から曼荼羅図を持ち帰る際に、魔法の絨毯のようにそれに乗って空中を飛んで運んだという伝説に依るという。伝説の真義はともかくとして、銅版の曼荼羅図は今まで美術館や博物館での展示で見てきた曼荼羅図とはまったく異なった趣を呈している。薄暗い堂内の明かりの中で、諸仏がぼんやりと浮かび上がって見えるのだ。極彩色の華やかさがないだけ、一層神秘的に見えた。

宝指定の両界曼荼羅図は平安時代中期の作とされている。だが、空海が大同元年(806)に招来したのであれば、制作地は唐であり、制作時期はそれ以前でなければならない。ところが。子嶋寺略記には奇妙なことが書かれている。「その由来を尋ねると、今より2800年前インド国において文殊菩薩が仏の勅に奉じて描いたもので、代々相伝えて中国に来たり、蜀江の錦を以て表装を施し、大同元年弘法大師御招来」とある。今より2800年も前? まだお釈迦様が誕生するはるか以前ではないか、その頃にインドに仏教など存在しなかったのでは、と青年に疑問をぶつけると、言い伝えですから、と軽くいなされた。

れでは、何時国宝の指定を受けたのかと重ねて聞くと、正確には分かりませんが、明治35年ごろだったと思われますと、一幅の屏風に書かれた歌を紹介してくれた。そこには、次のような歌が書かれていた。
● こしまてら ちりにうつみし まむたらも いまはみくにの たからとはなる 明治35年
堂内の片隅に、国宝の両界曼荼羅が保管されていた木箱が立てかけてあった。それには「観覚寺什物 金泥両界曼荼羅二巾 元禄十年 南都一条院御門主」と墨書されていた。

北朝時代、子嶋寺も戦火を受けて寺院坊舎を失い、衰退していった。その後、興福寺一条院の支配下に入り本堂や諸堂が再建された。江戸時代に植村家政が高取藩主になると、高取城主植村家の祈願所として庇護を受け、子島山千寿院と寺号を改めた。高取城主の念持仏だった十一面観音像が本堂右の離れに安置されている。高取城主は毎日この寺に足を運んで礼拝したという。その像の前に、袋を被せた小さな仏像が置かれていた。秘仏の嶋投聖天(しまなげしょうてん)だそうだ。どのような仏像か聞いたが、青年も見たことがないとのことだ。

治維新後一条院の所轄が解かれ、植村氏の版籍奉還により黒印地(こくいんち、江戸時代に幕府・大名の黒印状によって寺院の領地として安堵された土地)もなくなって、無檀・無住の寺になってしまった。明治36年(1903)、有志の尽力により田畑・山林を買い戻し、庫裏を再建し、高取城の二の門を移し表門として再建された。以後、千寿院を子嶋寺と改称され、今日に至っているという。



(*) 絵葉書より複写


2008/11/26 作成 by pancho_de_ohsei return