2008/11/22
新薬師寺金堂跡:東西に長大だった異例の建物構造


現地見学会に訪れた人たち
現地見学会に訪れた人たち (2008/11/22 撮影)

 金堂正面に前例のない幅52mの総階段が築かれていた!!

発掘調査地と周辺を示す上空写真
発掘調査地と周辺を示す上空写真
良市高畑町にある奈良教育大学は、キャンパスの北東の隅で今年の8月末から2ヶ月にわたり発掘調査を実施してきた。特別支援学級校舎の改築に伴う埋蔵文化財調査である。場所は道路を挟んでちょうど奈良市写真美術館の西側にあたる。そこは、明治時代後半に旧陸軍連隊のレンガ造りの建物が建てられたり日本庭園があった場所だ。

の調査地で、奈良時代の巨大な建物の跡が検出したことを、一ヶ月前の10月23日に大学側が記者発表した。見つかったのは、建物の基壇の底を支える延石(のべいし)と、4カ所の建物の柱穴だった。

出土した基壇前面(左)と東南隅(右)の延石
基壇前面(左)と東南隅(右)の延石(*)
石は、凝灰岩の切り石を丁寧に積んだ当時としては最高級の壇上積基壇(だんじょうづみきだん)の一部である。基壇の前面から東西約10mの延石と、南東隅の部分から約3.7mの延石が発見された。一方、柱穴は、柱の礎石を支えるために、一辺2.7から2.9mの四角い穴に大きな地固め石を十数個埋めた堅固な造りだった。

れらの遺構から、奈良教育大学は裳階(もこし)(飾り屋根)を含めた柱間(はしらま)が東西11間(54メートル)、南北6間(27メートル)の建物が遺構の上にそびえていたと推定し、奈良時代の新薬師寺の中心伽藍だった金堂跡と判断した。

金堂の柱穴
見つかった金堂の柱穴
の金堂の規模は、現在復元工事が進められている東西44m、南北19.5mの平城宮大極殿より大きい。江戸時代の1709年に再建された現在の東大寺大仏殿(東西57m、南北50.5m)と比較しても、東西幅だけなら大仏殿に匹敵する大きさである。そのため、考古学の発掘に過剰に反応しがしなマスコミ各紙はこの記者発表にとびつき、奈良時代で最大級の建物跡が発見されたと大々的に報じた。

日後の10月25日、午前と午後の2回にわけて現地説明会が行われた。筆者は自宅に戻っていて参加できなかったが、1200年以上前の「天平ロマン」に思いを馳せて、2300人もの考古学や美術ファンが参集したという。


新薬師寺金堂の基壇跡
新薬師寺金堂の基壇跡(**)
ころが、この発掘報道がその後意外な展開を見せることになる。発掘調査を継続していた奈良教育大学は、今月の13日になって、金堂跡の建物遺構から新たに石組みと柱跡を確認したと発表した。基壇の東南隅と推定していた部分から、新たに東へ凝灰岩の石組みが約4m見つかり、西端とみていた柱跡の西側でも、新たに2カ所の柱跡が確認されたというのだ。

の結果、大学側は前回の記者発表の内容を以下のように訂正した。
・基壇の規模は東西約68m、南北約28m、高さ約2mだったと推定される。
・基壇の上に築かれた建物本体の幅は13間(柱間が13カ所、約59m)と思われ、現存する東大寺大仏殿(約57m)をしのぐ巨大建造物だった。
・先月確認した凝灰岩の列は、基壇前面に張り出した階段部分で、その幅は約52mと推定される。

っとも、今回推定された建物の規模はある程度割り引いて理解しなければならない。スコミ各紙は一様に「大極殿しのぐ建物規模」とセンセーショナルにこの記者発表の内容を伝えている。だが、東大寺大仏殿をしのぐ大きさと言っても東西幅がせいぜい数メートル長いだけに過ぎない。大仏殿が日本最大とか世界最大の木造建造物と形容されるのは、東西幅もさることながら、南北50.5m、高さ46.4mという圧倒的な規模にある。

新たに出土した基壇跡
新たに出土した基壇跡
れにしても、金堂(と推定される)基壇の正面に、内陣の十一間(約52m)に匹敵する総階段が築かれていたとなると、驚きだ。奈良時代の金堂は、本尊を安置した正面中央か、もしくはその両側の三カ所に階段を設けるのが一般的とされ、総階段の発掘例はない。

薬師寺は、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して天平19年(747)に建立した寺とされている(逆に、聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して2年前の天平17年(745)に建立したとする別の伝承もある)。その金堂には7体の薬師仏像を安置したため「七仏薬師堂」と呼ばれていたそうだ。

倉院の中倉には、新薬師寺創建後まもない756年に作成された「東大寺山堺四至図」が残っている、そこには、東大寺法華堂の南に、東西に横長の新薬師寺堂が描かれているという。この七仏薬師堂は仏像を同格に扱っていたため、どこからでもアクセスできるように、長大な階段が設けられていたのだと推測する専門家がいる。

延石前の雨落ち溝に散乱していた瓦
延石前の雨落ち溝に散乱していた瓦@
延石前の雨落ち溝に散乱していた瓦
延石前の雨落ち溝に散乱していた瓦A
壇の上に建っていたの金堂だったかどうかに疑問をはさむ専門家がいる。東大寺要録に記された新薬師寺は「九間仏殿」であり十一間ではない。上記の「東大寺山堺四至図」でも描かれている建物の柱間は7つだそうだ。そこで、この細長い建物が講堂だった可能性も指摘されている。だが、講堂であれば、その前に金堂がなければならない。発掘現場では検出した基壇跡の南にそれらしい遺構は見つかっていない。

平19年または天平17年に建立された新薬師寺は、宝亀11年(780)に落雷で西塔が焼失し、いくつかの堂宇が延焼するという被害にあっている。さらに、応和2年(962)には、台風で金堂以下の主要堂宇が倒壊してしまった。一応の復興は行われたが、往時の規模に戻ることはなかったという。そのため、新薬師寺は平城京に建てられた主要寺院の中で、唯一全体像が不明な寺院とされてきた。


掘現場から東約150mに、東大寺の末寺である新薬師寺がある。国宝の本堂には、中央の巨大な円形須弥壇に本尊の薬師如来座像(国宝、8世紀末頃の作品)が安置され、その周りを塑像の十二神将が取り囲んでいる。だが、この本堂は他の用途だった仏堂が転用されたものと考えられている。寺ではこの建物は食堂だったと考えているようだが、その特異な円形須弥壇に着目して壇院だったとする説もある。

新薬師寺の本堂(国宝) 本尊の薬師如来座像と眷属の十二神将
新薬師寺の本堂(国宝) 本尊の薬師如来座像と眷属の十二神将

本日の現地見学会に参加し発掘現場を見学する

日は数日来の寒気が緩み、久しぶりに朝から青空が広がった。絶好の行楽日和だが、奈良教育大学で午前10時から発掘現場が一般公開されるというので、友人のT.Y君を誘って出かけてきた。本日は大学で創立120周年記念式典が予定されており、その一環として遺跡が特別に一般公開されるようだ。ちなみに、大学では発掘調査で検出した遺構を「新薬師寺旧境内遺跡」と呼んでいる。

奈良教育大学の正門キャンパス内の色づいたプラタナス
奈良教育大学の正門 キャンパス内の色づいたプラタナス並木

鉄奈良駅から市内循環バスに乗り、「高畠」バス停で下りた。大学の正門を入ると、発掘現場までの案内図を渡された。キャンパスの一番奥まで直線で進み左に曲がれば、突き当たりが発掘現場である。大学のキャンパスでも秋を満喫できる。構内のプラタナスの並木が見事に色づいていた。

回の発掘調査を担当したのは、この大学の金原正明准教授である。聞いたことがある名だな、と思って記憶をまさぐると、藤ノ木古墳の石棺から多量に見つかったベニバナの花粉から、ベニバナ供花説と提唱された環境考古学の先生だった。先月25日の現地説明会の後また新しい発見があったのだから、本日の見学会が説明会に変更され、金原准教授から何か話が聞けることを期待した。しかし、本日は巡回見学形式をとらせていただきます、現地説明などは行いません、と案内図に書かれてた。

見学会の資料を配付する受付の学生たち見学会の資料を配付する受付の学生たち
見学会の資料を配付する受付の学生たち 基壇の東南部の基壇化粧石組みの延石と地覆石

時半に現地に到着した。一般公開は午前10時から正午までの2時間となっていたが、すでに大勢の見学者が列を作っていた。そこで、予定を早めてゲートを開き、見学者を招き入れ、受付で見学の資料を配付してくれた。

基壇下部の延石と地覆石
新たに見つかった延石と地覆石
延石に平行に築かれた雨落ち溝
延石に平行に築かれた雨落ち溝
回の発掘で調査した面積は約1300平方メートルと聞いている。現場に立つと、かなり大がかりな調査だったことが分かる。しかし、調査で検出された遺構は、基壇前面に並べられていた化粧石組みの延石と地覆石、それに6個の建物の柱穴程度で、出土した遺物も雨落ち溝から見つかった創建時のものと思われる丸瓦と平瓦、奈良三彩片、乾漆像片ぐらいである。

薬師寺の金堂基壇跡と考えられているこの遺跡だが、実際は基壇が残っていたわけではない。寺院が衰退した後、中世には耕作地として平削され、明治時代には陸軍連隊の建物を建てるために大々的に整地された。その結果、基壇は破壊され、わずかに平削作業や整地作業が及ばなかったため地中深くに埋没していた化粧石組みと、建物の礎石の下に置かれた地固め石とその周囲に施された版築しか残っていなかった。

遺跡の西側で検出された礎石柱列@
遺跡の西側で検出された礎石柱列@
遺跡の西側で検出された礎石柱列A
遺跡の西側で検出された礎石柱列A
壇の中央から東側は地山の削りだしで造られたが、西側は基盤礫層が落ち込み軟弱な土地だったようだ。そのため、礎石を据え付けるために、方形に周囲を堀り版築を施して地固め入れて礎石を据え付ける基礎を造ったようだ。

天に恵まれたせいか、見学者が続々と押しかけてきて現場周辺は人垣ができた。ほぼ1時間ほど見学して現場を後にし、教育資料館に向かった。資料館では大学創立120周年を記念して写真展が開催されているが、今回の調査で出土した遺物も展示してあった。遺物は雨落ち溝から見つかった瓦の破片がほとんどだった。

は創建時の8世紀中頃のものとみられる複弁八葉蓮華紋軒丸瓦や唐招提寺の瓦と同笵の複弁八葉蓮華紋軒丸瓦、東大寺の瓦と同笵の均整唐草紋軒平瓦などである。その他に、奈良三彩の破片や乾漆像の破片とみられる木屎漆(こくそうるし)片も展示されていた。

ああああ ああああ
教育資料館の玄関 教育資料館に転じされていた瓦片の一部

薬師寺金堂跡の想像を超えた巨大さは、多くの謎を秘めている。金堂ではなく講堂だったのではとの指摘は上に述べたが、その他にも、柱の数は文献が伝える数と一致してしない。出土した石列は、基壇ではなくて回廊の下層部とみる研究者もいる。また階段と推定される張り出し部の前面に幅約60cmの溝が巡らしてあるが、橋を設けた痕跡がない。そのため、あり得ない設計であると指摘する学者もいる。

ずれにしても、この巨大な遺構は、聖武天皇の后だった光明皇后の強大な権力をまざまざと示す結果となった。大学側は、特別支援学級校舎をこの場所で改築する予定だったが、遺跡を保存する方針を決めたようだ。今後、研究者によってどのような話題が提供されるか、今から楽しみである。


(*) asahi.com(朝日新聞社)より転記、(**) 読売新聞より転記


2008/11/22作成 by pancho_de_ohsei
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