2008/11/18
木枯らし1号が吹く日、談山神社から多武峰を下る


談山神社拝殿の軒先に並ぶ吊り燈籠 (2008/11/18 撮影)

 ようやく紅葉の見頃を迎えた談山神社

■ 気象庁の予報によれば、本日から大陸の強力な寒気団が張り出してきて、季節は一気に真冬に進むとのことだ。近畿地方の天気は、日中は曇り空で、所によっては雨がぱらつくという。さらに、夕方からは一気に冷え込んでくるらしい。奈良県の紅葉の名所ではようやく見頃を迎えたのに、なんということだと思ったが、橿原の朝は予報とは裏腹に晴れ渡っている。これなら紅葉狩りも満喫できるのでは、と早速出かけることにした。

■ 向かった先は、談山神社(たんざんじんじゃ)である。奈良県でも有数の紅葉の名所だ。電車とバスを乗り継げば、アパートから1時間で行ける。朝の9時にアパートを出て、10時少し前には談山神社のバス停に着いた。平日なので道路は空いていたが、驚いたことに、駐車場には大型の観光バスがすでに何台も駐車していた。

■ バス停からの道は、観光客が普通たどるルートとは少しちがう。何年か前に友人と紅葉狩りに来て、写真愛好家が集う格好のスポットを知った。小さな祠のある丘だが、まずそこへ向かった。すでに多くのアマチュアカメラマンが三脚を置いていた。被写体の真っ赤な紅葉が、目にも鮮やかだった。それでもインターネット上の談山神社のHPによると、まだ6〜7割程度の色付きだという。

荒神社境内の紅葉@ 荒神社境内の紅葉A

荒神社境内の紅葉B 荒神社境内の紅葉C

■ 談山神社の創建は古い。「大化改新」の功労者であり、藤原氏の祖の藤原鎌足が没したのは、天智8年(669)で、摂津の国安威(あい)の地に埋葬された。その場所は現在阿武山古墳と呼ばれている。当時、長男の定恵(じょうえ)は僧籍に入り、唐の長安に留学中だった。天武7年(678)、留学先から帰国した長男の定恵は、父の墓をこの地に移し、十三重塔を造立した。それが談山神社の始まりとされている。

■ 天武9年(680)に講堂(現在の拝殿)が創建された。大宝元年(701)には、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立されて、堂宇が整った。談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645)5月に蘇我氏打倒の密議をこの多武峰で行い、その場所が後に「談山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによる、とされている。

談山神社に向かう途中のモミジの林@ 談山神社に向かう途中のモミジの林A

■ 談山神社に向かう途中に、食堂の建物がある。その前の広場がモミジの林になっている。林の端から谷向こうの十三重塔を狙うのが、カメラショットとしては最適の場所だ。いつも大勢のアマチュアカメラマンでごった返している場所が、なぜか今年は人影がない。現在の十三重塔は、享禄5年(1532)再建されたものだが、痛みがひどくなって修理中だった。修理は昨年11月に完了し、今年は周囲を赤や黄のモミジに囲まれて、美しい姿を見せている。惜しいことに、横に並ぶ権殿が現在修理中で、カメラを向けるにはアングルが難しい。

昨年11月に修理が完成した十三重塔 左側の覆屋の中では権殿が現在修理中

モミジの枝葉の間から仰ぎ見た拝殿 階段上の建物は西宝庫

 談山(かたらいやま)と藤原鎌足の墓所へ向かう

■ 太陽の光のもとでモミジの色づいた葉を観賞できたのは、談山神社に到着してせいぜい30分程度だった。見上げると、いつの間にか厚い雨雲が張り出してきていた。天気予報は残念ながら的中したようだ。曇り空の下で境内を一回りした上で、このままバスで戻るべきかどうか迷った。

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多武峯縁起絵巻に描かれた談合の場面
■ というのは、談山神社に来たときは、裏山の談山(かたらいやま、海抜566m)と藤原鎌足の墓所(海抜607m)まで登るのを恒例としていた。だが、今年は膝や足首を痛めていて、急な坂道が続く山登りはいささかきつい。加えて、空模様も怪しくなってきて、霧雨が降り出してきた。

■ 談山神社の境内から裏山に向かう坂道の傍らに標識に立っている。それによれば、談山までは290m、徒歩約10分のところにあり、鎌足の墓所がある御破裂(ごはれつ)山までは510m、徒歩20分のところにある。

■ その標識の前でしばらく迷ったが、やはり登ってみることにした。時計で時間を確認すると、登山を開始した。午前10時45分だった。落ち葉に埋まった山道が、先日の雨で濡れていて滑りやすい。談山神社までは急な坂道が続く。途中で出逢ったのは2組の男女だけである。後続の人影もない。静かに霧雨が降り注ぐ坂道をあえぎながら登りきると、道は二股に分かれ標識が立っていた。右手に、中大兄皇子と中臣鎌足が密談を交わしたと伝えられる御相談所への階段が見えた。

中大兄皇子と中臣鎌足が密談を交わした談山 標高566mのところにある御相談所

■ 談山から鎌足の墓がある御破裂山の山頂まで、ヒノキの植林の中を行く比較的平坦な山道だ。談山神社の受付で配布している境内周辺の案内には、藤原鎌足の墓所がある御破裂山の標高は607となっている。だが、墓所の前に掲げられた案内には、618mとなっている。その差の11mは、山頂に築かれた円墳の高さということか。御破裂山とは変わった名前だが、世になんらかの異変が起きる前に山が鳴動することで命名さたという。鳴動する場所によって、異変が起きる場所が特定されるとのことだ。

御破裂山の山頂(607m) 山頂に築かれた藤原鎌足の墓所

■ 墓所の横に展望台があった。晴れていれば大和三山や桜井の市街地が眼下に一望できる場所だが、本日は雨模様の空の下で眼下は霞んでいた。

■ 多武峰は談山神社が築かれる前に、「両槻宮」(ふたつきのみや)が築かれていたことで知られている。第37代斉明天皇は興事(=工事)を好んだ女帝として知られている。彼女はまた道教を好んだ。斉明天皇として重祚(ちょうそ)した翌年(656年)、彼女は多武峰のケヤキの大木がある辺りに道教の「道観」(どうかん)を建立させ、「両槻宮」(ふたつきのみや)と名付けた。この宮を天帝の宮殿である「天宮」(あまつみや)とも呼んだとのことだ。

■ 両槻宮がどの辺りに建っていたのかは知らない。だが、斉明天皇は何度もその天宮まで足を運んだはずだ。彼女も展望台から見下ろす奈良盆地の景観が気に入ったに違いない。ひょっとしたら、己の宮居がある飛鳥の地を石で荘厳化した光景が彼女の脳裡に浮かんだかもしれない。

墓所の横にある展望台からの眺望 墓所の前から西大門方面へ下る道

 約2時間を費やして山道を明日香村まで下山する

■ 藤原鎌足の墓所の前で道が二股に分かれている。左の道をたどれば談山神社に戻る。右の道をとれば談山神社の西大門へ出る。途中からを細川谷沿いの山道を下れば明日香の石舞台に出ることできる。一度この道で明日香方面に下山したが、途中に転げ落ちそうな急斜面が幾つもあったことを記憶している(平成14年4月29日付け橿原日記参照)。

■ どちらの道を選ぶか、また迷った。時計を見ると11時10分を指している。厚い雨雲が上空を覆い、傘をさすほどではないが、小雨がちらついている。本格的な雨になれば、濡れ落ち葉が散乱する地道は素人の山歩きには危険だ。しかし、迷った末に、また明日香方面へ徒歩で下山することに決めた。

■ そう決心したのには理由がある。以前に細川谷沿いの山道を下ったとき、中大兄皇子と藤原鎌足が密談するのに、こんな急な坂道を談山まで登ってきたなんて嘘だろうと思った。ところが、その後インターネットで別の登山ルートがあるのを知った。明日香村の小原の集落を通って東山へ入って行く道が、かっては談山神社の正参道だったという。小原には鎌足生誕地の旧蹟がある。あるいはこちらのルートだったら登山は楽なのではと思い、いつか探索してみたいと思っていた。

民家の前の標識
民家の前の標識
■ 西大門方面に向かう道は、コンクリート舗装されていて、自動車でも鎌足の墓所まで登ってこれそうだ。長々と続く下り坂をつま先を踏ん張るようにして下ること約20分、道が突然車道にぶつかった。その交差点の近くに民家が2軒建っている。車道の脇に標識が立っている。以前、この車道を左に下って途中から山道に入った。

■ たまたま、民家の一つにバイクで郵便配達に来た郵便局の職員に出逢ったので、右方面への車道が何処へ続いているのか聞いた。タクシーが一台、その方面から下りてくるのが見えたからである。彼の話では、桜井市の北山を経て崇峻天皇陵がある倉梯に続いているとのことだ。この道を北山林道という。バスが運行している道が混雑する場合、この林道を利用して客を運ぶタクシーがあるという。

■ 途中から明日香方面へ下りる道があるかと聞くと、あるという。ただし、アップダウンがあるので、細川谷沿いの山道を利用するハイカーが圧倒的に多い、とアドバイスしてくれて立ち去った。彼のバイクの後を追いかける形で、木の葉が散乱するコンクリート舗装の狭い林道を歩き出した。

■ 郵便局の職員に道を聞いたのは11時30分だった。それから10分ほどで、「念誦崛(ネヅキ)不動尊コノ下」と彫られた石標が道路脇に立っているのが目に入った。この下と言われても、アクセスするような道は見あたらない。わずかに人が踏みならしたような小径が雨に濡れている。どうしようか迷ったが、探訪してみることにした。

念誦崛(ネヅキ)不動尊方面への標識 念誦崛(ネヅキ)不動尊

■ 山の斜面を下り、細い谷川沿いに進むと、石標から200mほどのところに、その不動尊はあった。2mほどの岩に陽刻された磨崖仏である。後で調べてみると、念誦崛というのは地名で、この磨崖仏の左に、「延文三年戊戌正月 宣快」と陰刻されているそうだ。延文三年は西暦の1358年にあたり、紀年銘のある石仏としては、大和では古いもののようだ。霊験あらたかということ参拝者が多いらしい。不動尊の前には、ガラス瓶に新しい切り花が供えられていた。

北山林道との分かれ道 尾根伝いに続く明日香方面への山道

■ 不動尊までの行き帰りで10分ほど時間を要したが、また北山林道に戻って先へ進むと、10分ほどで、林道から飛鳥坐神社方面への分岐点に来た。時計の針はちょうど正午を指していた。標識には飛鳥坐神社まで3.4km、飛鳥寺まで3.6kmと書かれている。路面は地道に変わるが、道幅は小型車なら通れそうなほど広い。

■ 途中から大粒の雨が落ちてきたので、傘を広げた。道は尾根伝いに築かれているようで、斜面を下りるような急坂ではない。所々に轍(わだち)の後を掘り起こしたような箇所があった。おそらく猪かなにかの獣が掘り起こしたのだろう。このような場所で獣に襲われたら、助けも呼べないな、と幾分恐怖心を感じた。鎌足の墓から下山し始めて、郵便配達に逢ったきりで、彼以外には誰とも遭遇していない。平日の昼下がり、しかも雨模様の空の下のぬかるんだ山道を登ってくる物好きなハイカーなど一人もいない。

「万葉展望台」前の分岐点 万葉展望台から見下ろした明日香

■ 12時23分、突然「万葉展望台」の前に出た。展望台からは西の葛城・金剛連山に向かってひろがる一帯が一望できる。甘樫丘や畝傍山などまだはるか眼下の位置にある。晴天の日にこの場所に立ったなら、飛鳥古京や大和三山の見事なパノラマを望むことができたであろう。残念ながら、今日は上空を雨雲が流れ、地上は薄くモヤっている。

■ 「万葉展望台」から、道がまた二股に分かれる、右へ下れば、1.2kmで明日香村の東山地区に出る。左に下れば0.8kmで上居地区に出る。下る山道の距離に気が奪われて、ここでとんでもないミスを犯すことになった。当初の目的のためならば、東山方面への道を選ぶべきだったが、足の疲労も極限に達していたので、距離の短い上居方面への道を選んでしまった。

万葉展望台から上居方面へ下る山道 やっと人間の営みが感じられる上居地区に出る

■ 今までの道とは一変して、万葉展望台からの下りは狭くて急な階段が長々と続く。尾根伝いの道から、山の斜面を駆け下りる道に変わったせいだ。笹の葉や落葉樹の枯れ葉で埋まった道は、雨に濡れて滑りやすい。リュックから杖を出して、杖を頼りに痛む足を引きずりながらの下山となった。

■ 万葉展望台か山道を下ること20分、やっと舗装された道に出て、前方に棚田や土砂置き場のショベルカーが見えてきた。人間の営みが感じられる世界に戻ってきた思いである。だが、下り坂はまだ続く。その場所から岡寺の参道との合流地点まで20分、さらに「岡寺前」のバス停まで8分の坂道を歩かなければならなかった。なんとかバス停にたどり着いたのは午後1時15分。鎌足の墓所を出発したのが11時10分だったから、筆者の足で約2時間を要したことになる。しかも、バスの時間に6分遅れたため、次の便まで1時間も待つことになった。

 飛鳥寺遺構の南門前石敷きの東南隅が見つかる

伝飛鳥板蓋宮跡から下山してきた岡寺山を見上げる
伝飛鳥板蓋宮跡から下山してきた岡寺山を見上げる

■ 次のバスの時間までの1時間をどのように過ごそうかと思案したとき、飛鳥京の発掘跡をまた見てみたいと思った。橿原考古学研究所が長年続けてきた発掘調査地は毎年埋め戻されて水田に変わっている。だが、その一部が「伝飛鳥板蓋宮跡」として石敷きで復元されている。皇極天皇の飛鳥板蓋宮は飛鳥京跡の中層に位置して、復元整備されているのは斉明天皇の後飛鳥岡本宮跡の一部のはずであるが、旧来の名称がそのまま使われいる。

■ 伝飛鳥板蓋宮跡から東を見ると、真言宗豊山派の岡寺(=龍蓋寺)が築かれている岡寺山が優雅な姿を見せている。御破裂山から西にせり出した支脈である。痛む足を引きずりながら、その山腹を下ってきたことになる。

■ 宮跡の池の遺構を眺めていると、突然一陣の風が首に巻いたタオルを吹き飛ばした。山中にいたときは気づかなかったが、盆地に下りてきてからは、刈り取りの終わった水田の上をかなり強い北風が吹いている。後で知ったのだが、本日は木枯らし一番が吹いた日だそうだ。

奈文研の発掘調査現場 出土した石敷き遺構

■ 飛鳥寺の近くで奈良文化財研究所が発掘調査をしていた。近寄って聞いてみると、蘇我馬子が建立した飛鳥寺の南門前に敷き詰められていた石敷き遺構の東南の隅が見つかったそうだ。現地説明会が開かれるのかと調査員の一人に重ねて聞くと、発掘の規模も小さく、そうはならないだろうとの返事が返ってきた。


2008/11/18作成 by pancho_de_ohsei
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