2007/11/13
橿考研創立70周年記念 秋季特別展「宮都 飛鳥」


創立70周年記念秋季特別展の案内
博物館前に掲げられた創立70周年記念秋季特別展の案内 (2008/11/13 撮影)

 実際は飛鳥に「宮」はあっても、「京」と呼ぶための京域はなかった

橿考研の秋季特別展「宮都・飛鳥
橿考研の秋季特別展「宮都・飛鳥」
■ 現在、橿原考古学研究所(=橿考研)の付属博物館では、「宮都 飛鳥」という秋季特別展が今月末までの会期で開かれている。研究所創立70周年の記念行事だ。橿考研は1959年(昭和34年)以来、継続して飛鳥京跡の発掘調査を行っており、平成19年度には第158次調査を実施している。特別展は、いわばその長い発掘調査の歴史の概括である。

■ ところで、この特別展のタイトルに使われている「宮都」という表現は、歴史的な用語ではない。図録の解説によると、橿考研の3代目所長だった岸俊男氏の造語だそうだ。岸氏は、『日本書紀』天武紀にみえる「宮室」と「都城」を組み合わせて、この用語を考案された。

■ 同様に、「飛鳥京」という名称も歴史的な用語ではない。最初にこの名称を用いたのは、喜田貞吉氏である。藤原宮における藤原京や、平城宮における平城京のように、飛鳥の宮の周辺にも京域が存在すると想定した上での命名だった。しかし、今までの発掘調査では、飛鳥盆地で京域と認識しうるような遺跡の存在は確認されていない。

畝傍の秋:橿考研前のケヤキ並木通り
畝傍の秋:橿考研前のケヤキ並木通り
■ 「宮」と「京」では概念が異なる。「宮」は建物を意味する「屋」(ヤ)に、尊敬を表す接頭辞の「ミ」がついて、高貴な人物の住まいを意味し、そこから転じて天皇などの居住空間を指すようになった。「宮」に、周辺とか、”そこらあたり”を意味する「コ」が付いて”ミヤコ”という言葉が作られ、「都」または「京」という漢字が当てられた。

■ つまり、天皇の居住空間である王宮の周辺に、国家を統治する役所などの施設や、そこに勤める役人たちおよび役人に仕える住民たちの居住空間が存在してこそ、初めて「京」といえる。だが、飛鳥盆地には歴代天皇の王宮は築かれたが、その周囲に京域が存在した形跡はない。せいぜい周辺に皇子たちが宮を構えた遺構が見つかっている程度だ。それにも関わらず、橿考研は現在も「飛鳥京」あるいは「飛鳥京跡」という名称を使用し続けている。

畝傍の秋:橿原運動公園から見た畝傍山
畝傍の秋:橿原運動公園から見た畝傍山
■ その理由は、天皇の正宮が飛鳥では何代にもわたって同じ場所に築かれてきたことによるのだろう。橿考研の長年にわたる発掘調査の結果、藤原京遷都が行われる694年以前には、舒明天皇の飛鳥岡本宮(630〜636年)や皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643〜645年)、斉明天皇・天智天皇の後飛鳥岡本宮(661〜667)、天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮(686〜694年)は、現在「飛鳥京跡」と呼んでいる場所に造営されていたことが判明している。

■ もっともその間に飛鳥を出て他の場所に王宮を遷したことがある。乙巳の変後に登極した孝徳天皇は 難波長柄豊碕宮(645〜654年)を宮とし、天智天皇は近江大津京(667→672年)に遷都している。しかし、いずれの場合も次期天皇は王宮を飛鳥に戻している。そこで、飛鳥が当時の日本の「都」の地として認識されていたとして、橿考研は現在も調査名に「飛鳥京」を使用しているようだ。

 飛鳥に歴代天皇の宮が営まれ続けた本当の理由は・・・・・

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林部均著「飛鳥の宮と藤原京」
■ 橿考研総括研究員の林部均(はやしべきん)氏は今年の2月、「飛鳥の宮と藤原京」という著作を上梓された。その前半で飛鳥の宮の発掘の成果を分かりやすく概説しておられる。氏の著述を参考に飛鳥に営まれた諸宮を様相を示すと、次のようになる。

■ 古代に「飛鳥」と呼ばれた地域は、我々が現在理解している地域よりも狭かった。現在の行政区分で言えば、明日香村飛鳥・岡と川原の一部を含む地域にすぎず、東を岡寺山、西を甘樫丘に挟まれた東西約600m、南北約1000mの狭い範囲である。

■ この地域に築かれた正式な王宮は、上に述べた飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮と、いずれも「飛鳥」を冠して呼ばれている。しかも飛鳥宮の発掘調査によって、大まかに見てこれらの宮殿遺構は同じ場所で3時期の重層構造で埋没しているという。

飛鳥宮付近図
飛鳥宮付近図
■ 橿考研では、これらの遺構を下層からT・U・V期以降と呼んでいる。T期遺構は舒明天皇の飛鳥岡本宮で、『日本書紀』によれば、舒明2年(630)年に造営され火事で焼失する舒明8年(636)まで存続した。この宮の掘立柱建物や塀、石敷き、石組み溝などが見つかっている。これらの遺構は南東から北西に緩やかに傾斜する地形に沿うように築かれているという。つまり、出土遺構は北から西に約20度振れる特徴をもっている。

■ U期遺構に該当する皇極天皇の飛鳥板蓋宮は、皇極2年(643)4月に完成し、孝徳天皇が難波遷都を行なった後も存続し、斉明元年(655)の末に焼失している。この板蓋宮は岡本宮の跡地を大々的に土地造成した上で、建物は地形条件とは関わりなく、南北軸を重視した正方位に建てられていたと推測されている。

林部氏作成の飛鳥宮V−B期遺構図
林部氏作成の飛鳥宮V−B期遺構図
■ 乙巳の変の後、皇極天皇から生前譲位を受けた同母弟の孝徳天皇は難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に宮を置いた。だが、白雉5年(654)10月に孝徳天皇が崩御すると、翌年(655)の1月、皇極天皇が飛鳥板蓋宮で斉明天皇として重祚した。その年の冬、板蓋宮が火災にあったため、天皇は近くの飛鳥川原宮に遷るとともに、板蓋宮の後に新たに宮の造営を命じた。斉明2年(656)に完成した宮は後飛鳥岡本宮と名付けられた。その遺構が、飛鳥宮の発掘調査でもっとも上層から見つかるV期遺構である。

■ 天武元年(672)9月、壬申の乱で近江朝廷方に勝利した大海人皇子(おおあまのみこ)は飛鳥に凱旋すると、母・斉明天皇の後飛鳥岡本宮に入った。そして、その年の冬、岡本宮の南に宮室を作り、天武天皇として即位した。天武天皇の宮は一般に飛鳥浄御原宮と呼ばれているが、この呼称は天武天皇の死の直前(天武15年、朱鳥元年、686)に命名された宮号であり、それ以前は何と呼ばれていたか不明である。天武の死後、皇后の持統天皇は694年に藤原宮に遷るまで、飛鳥浄御原宮を王宮とした。

1977年の第61次調査で発見されたエビノコ大殿
1977年の第61次調査で出土したエビノコ大殿
■ したがって、飛鳥浄御原宮の実態は、後飛鳥岡本宮とその南に新たに築かれた宮室からなる。そのため、橿考研ではV期遺構を2期に分け、後飛鳥岡本宮の遺構を内郭と呼んでV−A期としている。そして、天武天皇の時期に南に築かれた建物を地名をとってエビノコ郭と呼び、内郭、エビノコ郭、およびこれらの周囲にある外郭を含めて、これらの遺構をV−B期遺構と呼んでいる。


■ 592年に第32代・崇峻天皇が倉梯柴垣宮で暗殺されると、その年の暮れに第30代・敏達天皇の皇后だった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)が豊浦宮(とゆらのみや)で即位した。我が国最初の女帝とされている第33代・推古天皇である。彼女は、それまで天皇の代ごとに歴代遷宮が繰り返されてきた纒向や磐余の地を離れて、蘇我氏の本拠地の一つだった豊浦で宮を営んだ。

伝飛鳥板蓋宮跡の復元井戸
伝飛鳥板蓋宮跡の復元井戸

■ それから11年後の603年に、推古天皇は近くに小墾田宮(おはりだのみや)を造営して遷る。現在の行政区域では豊浦も小墾田も明日香村に含まれるため、我々は飛鳥に築かれた宮と理解しがちだ。しかし、当時は豊浦宮も小墾田宮も飛鳥盆地の外縁部に築かれた宮であって、飛鳥には位置していない。

■ 西暦628年、在位36年で推古天皇が崩御した後を受けて、田村皇子が第34代・舒明天皇として即位した。舒明天皇は飛鳥岡本宮を造営すると、翌年新しい宮に遷った。これが飛鳥に築かれた最初の天皇の正宮である。

■ 舒明天皇の後、上記のように様々な天皇が飛鳥に正宮を営んだが、天皇の名前に着目すると、我々はある共通点があるのに気付く。

■ 舒明天皇の後にこの地に飛鳥板蓋宮を営んだ皇極天皇と、重祚して後飛鳥岡本宮を営んだ第37代・斉明天皇は同一の女帝であり舒明天皇の皇后だった。斉明天皇崩御の後、称制として663年の白村江の敗戦まで後飛鳥岡本宮に住んだ天智天皇も、壬申の乱に勝利して飛鳥に戻り、後飛鳥岡本宮を拡張して飛鳥浄御原宮とした天武天皇も、ともに舒明と皇極の実子である。つまり、飛鳥に営まれた諸宮は舒明ファミリーの住居だった。

■ こうした事実から見えてくるものは何か。舒明ファミリーにとって、王宮の地として飛鳥にこだわり続けた理由は何か。それを究明することで、飛鳥が王宮の地であって宮都ではなかった背景が見えてくる。


■ 第33代推古天皇が没した後、皇嗣問題が難航したことを『日本書紀』は詳しく説明している。候補者は二人いた。敏達天皇の孫にあたる田村皇子と、聖徳太子の嫡男山背大兄皇子である。時の実力者・蘇我蝦夷は、なぜか同族の山背大兄皇子ではなく、蘇我との血縁がない田村皇子を次期天皇に推した。田村皇子の夫人となっていた蝦夷の妹の法堤郎女(ほてのいらつめ)が古人皇子を生んでおり、おそらくこの皇子を次の次の天皇候補と考えていたのであろう。

■ 蘇我本宗家の強力なスポンサーを得て、田村皇子は第34代舒明天皇として登極し、蘇我氏の領地である飛鳥に岡本宮を営んだ。岡本宮は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺の南に築かれた。この宮は6年後に焼失したため、舒明天皇は、飛鳥を離れて田中宮、厩坂宮、百済宮と点々と宮を変えた。だが、舒明天皇を嗣いだ皇極天皇は小墾田宮で即位すると、かって夫の宮があった場所に新しい宮の造営を命じた。

■ その宮の造営にあたって、この女性は二つの新しい試みをしている。一つは、従来のような掘立柱に檜皮を葺く建物ではなく、板葺きの屋根にすることを命じた。彼女は近くにそびえる飛鳥寺のように礎石の上に柱を建て瓦葺きの宮殿を考えたかもしれない。しかし、それでは時間がかかりすぎる。板葺きの屋根にしたって、当時は後世のカンナのような便利な工具はなかった時代である。ヤリガンナでいちいち板材の表面を滑らかにしていくのは、かなりの労力と時間を要したにちがいない。

■ もう一つの試みは、それまでの地形の傾斜に沿うような建物ではなく、大々的に造成を行い、建物も塀も石組み溝もすべて南北線を意識して正方位を向くように造らせた。おそらく、長年の留学を終えて帰国してきた遣隋留学生たちから、隋唐の都城に関する情報が彼女の耳にも入っていたのだろう。

飛鳥寺伽藍復元図
飛鳥寺伽藍復元図
■ だが、従来の慣習を無視して夫が築いた宮跡に新しい王宮を造営しようとしたのには、皇極女帝にとって、この場所が二つの点で理想の土地に思えたからにちがいない。かって蘇我馬子は、飛鳥寺を造営するために、渡来人の飛鳥衣縫造樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ・このは)の家を立ち退かせている。当時は付近一帯が真神原(まがみはら)と呼ばれ、槻(つき、ケヤキ)の木の林があって聖なる場所と一般に認識されていたためである。当時すでに道教や神仙思想を信奉していた女帝にとって、自分の住む王宮は聖なる土地の中心でなければならなかったはずだ。

■ 彼女が飛鳥を理想の土地と考えたもう一つの理由は、その地形である。飛鳥を知る者にとっては自明のことだが、飛鳥盆地は東に岡寺山、西の甘樫丘、南には橘寺の背後に飛鳥の甘南備といわれたミハ山がそびえ、わずかに北側が開けているにすぎない。しかも、皇極天皇が即位したころには、蘇我氏の巨大な飛鳥寺が、その寺域を強固な土塀で囲っていた。たとえ敵に攻められたとしても、飛鳥盆地は難攻不落の山城に彼女には見えたにちがいない。

■ したがって、彼女はこの場所を神仙思想の理想郷を築こうとしたとしても不思議ではない。だが、645年に中大兄皇子たちが起こしたクーデターによって、彼女は弟へ譲位を余儀なくされ、理想は実現できなかった。しかし、天命とは不思議なものである。天は再び彼女にそのチャンスを与えた。斉明天皇として再び皇位についた彼女は、以前に住んでいた板蓋宮をそのまま正宮としたが、その年の冬に火災にあったため、656年に新たに後飛鳥岡本宮を築かせている。

伝飛鳥板蓋宮跡から多武峰方面を見る
伝飛鳥板蓋宮跡から多武峰方面を見る

■ 後飛鳥岡本宮の造営と平行して、飛鳥を神仙の理想郷とする斉明天皇の夢は実現に向かって大きく動き出した。その手始めに行なったのは、道教の寺院である「道観」(どうかん)の建設である。彼女は、多武峰(とうのみね)を蓬莱山になぞらえ、頂上の二本のケヤキの木のほとりに高殿を築いてその周囲に垣を巡らせた。これを両槻宮(ふたつきのみや)という。彼女はこれを天帝の宮殿である「天宮(あまつみや)」と呼び、なんども行幸した。その高殿から大和平野を見下ろしながら、彼女はさながら仙人なった気分を味わったにちがいない。

■ 彼女が理想とする王城の地は石敷きで荘厳された神仙郷だった。王宮の主要な建物の周囲は川原石で敷き詰められ、宮の周辺には亀石など様々な石像物が置かれた。飛鳥川のほとりにも石を使った広大な庭園を築かせ、池のほとりに須弥山や奇妙な石人の噴水施設を置いた。当時は吉野もすでに聖なる地−神仙郷とされ,斉明天皇はここに離宮を建てさせている。

「狂心の渠」跡
「狂心の渠」跡
酒舟石がある岡の中腹の石垣遺構
酒舟石がある岡の中腹の石垣遺構
■ さらに、女帝は宮の東に位置する小山も二重の石垣で荘厳化を図ることを考えた。水工(みずのたくみ)を使って香具山の西から石上山(いそのかみやま)まで溝を掘らせると、舟二百隻に石上山の石を積んで運ばせた。当時の人々は、斉明天皇を「興事(おこしつくること)を好む女帝」と揶揄し、石材を運ぶために築かせた溝を「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)と呼んだ。溝の掘削に動員した人夫の数は三万余り、二重の石垣作りには延べ七万余りが動員されたと『日本書紀』は伝えている。明日香村の「酒船石遺跡」は“宮の東の山の石垣”の跡ではないかといわれている。

■ 斉明天皇の時代、政治の実権は息子の中大兄皇子が執った。飛鳥を神仙郷に変えようと女帝を狂奔させた動機は、老いに対する恐怖ではなかったかと、筆者は密かに想像している。人間誰しも不老長寿でありたいと願う。斉明天皇が生まれたのは594年頃と推定されているが、そうであれば、重祚した655年には、すでに60歳を超えていた。不老長寿を説く道教に心酔していったとしてもなんの不思議はない。

■ 最近の考古学や歴史学では、藤原京以降の王都の造営が中国古代の都城制の模倣ととらえている。それはそれで正しい方向だろうが、それ以前に飛鳥に営まれた天皇の諸宮まで「京」と呼ぶのはいかがなものであろうか。上記のように「京」と「宮」とは、明らかに概念が異なる。

■ まして、斉明天皇のように特異な女帝が飛鳥に築こうとした宮には、官人たちが勤務する後の官庁街に相当する施設がその範疇に含まれていたかどうかは疑問である。今までの「飛鳥京」の発掘では、それらしい建物の存在を思わせる遺構は見つかっているが、確定までには至っていない。今後の発掘の成果が待たれる。


【参考文献】 林部均著「飛鳥の宮と藤原京−よみがえる古代王宮」(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー249)


2008/11/20作成 by pancho_de_ohsei
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