![]() |
| 人工衛星から瀬戸内海地方を撮影した地図(Google Earthより転写) |
まだ良く解明されていない古代の瀬戸内海航路八木荘司(やぎそうじ)氏は小生の好きな作家の一人である。以前に「古代からの伝言」というタイトルでシリーズものの歴史小説を産経新聞に連載されていた。『古事記』や『日本書紀』に登場する人物が、ノンフィクション的手法で生き生きと描かれていた。もちろん謎の多い古代を扱うからには、八木の独断と偏見が随所に顔を出すのは致し方ない。そうした点を割り引いても、日本の古代をリアルに再現している点では、秀いでた作品だと思う。
たとえば、西暦602年(推古10年)新羅征討軍の最高指揮官として派遣された聖徳太子の実弟・来目皇子が九州で病に倒れたとき、著者は、 だが、7世紀初頭において畿内大和と九州を結ぶ陸上の幹線道路がすでに整備されていたという確証はない。まして、官道の駅馬を使って辺境からの情報を中央に伝える制度が存在したとは思えない。山陽道は律令制度によって整備された七道の一つである。律令制の中央・地方間の情報伝達システムとして一定間隔に駅を設ける伝馬・駅馬の制度の設置が宣言されたのは、大化改新の詔においてである。八木氏は7世紀後半以降の交通路の知識で、7世紀初頭の伝達ネットワークを想定しておられる。
当時は、陸地を離れずに見える範囲の地形や山を目視しながら航海した。これを「地乗り航法」という。また、通常は夜間航海は行わなかった。さらに、瀬戸内海では潮汐の干満差が大きく、狭い水道や瀬戸等が多く地形が複雑であるため、 全国でも潮流が最も早い海域として知られている。そのため、瀬戸内海を航行する船は、途中で何度も潮待ちや風待ちを余儀なくされて、多くの日数を要した。
607年の旧暦7月3日、小野妹子(おののいもこ)を大使とする遣隋使の一行が、隋の都・大興城を目指して難波津を船出していった。彼らはほぼ一ヶ月をかけて北九州の那の津に到着した。その途次、彼らが目にしたのは、多くの島々が浮かぶ瀬戸内の景観である。
それでも一度瀬戸内海航路の船旅を経験してみたいという誘惑に勝てず、大阪港と韓国の釜山を毎日定期便で結ぶパンスターフェリーの格安ツアーを申し込んだ。昨年の11月のことである。(平成19年11月4日付け橿原日記参照)。11月ともなれば真夏に比べて日暮れは早く、夜明けは遅い。そのため、往路は夕方の1時間、帰路は夜明け前から4時間ほどしか瀬戸内海を眺められなかった。甲板に出て潮風を受けながら、現れては遠ざかる島影を眺めているだけだったが、それでも楽しい船旅だった。 |
斉明天皇が百済救援のために西下した瀬戸内海ルート
『日本書紀』の斉明天皇7年の条に、次のような記述がある。
難波津を出航して2日目には大伯(おおく)の海に到着している。前日には明石浦か飾磨津あたりで一泊したはずである。大伯海は小豆島の北方で、現在の牛窓付近と思われる。ここで、後の大津皇子の姉にあたる大伯皇女(おおくのひめみこ)が生まれている。
一行が熱田津を発って本来の航路に戻った日は不明である。だが、一行に同行した額田王(ぬかたのおおきみ)は船出にあたって、後の世に人口を膾炙することになる次の歌を詠んでいる。もっともこの歌の作者は斉明天皇自身であるとする山上憶良(やまのうえのおくら)の説もある。この歌から3月中旬に出航したのではと推定が可能である。 その後のルートも寄港地も不明だが、3月25日に那大津(なのおおつ)に到着している。月半ばに熱田津を出航したのならば、10日を要したことになる。一般には、熱田津から四国の沿岸沿いに西に進み、佐田岬半島の先端から国東半島を目指し、その後は地乗り航法で九州沿岸を北上したと想定されている。しかし、『日本書紀』にも”本来の航路に戻って”と記しているところを見ると、対岸の長門浦あたりに向かい、後は山陽道沿いに西下した可能性も否定できない。 |
天平8年(736)の遣新羅使がたどった瀬戸内海航路畿内と北九州を結ぶ瀬戸内海航路として当時最も一般的だったのは、いうまでもなく山陽沿岸コースだった。しかし、奈良時代の遣唐使や遣新羅使の航路については、残念ながら正史にはほとんど記載がない。その一方で、『万葉集』巻15には、天平8年(736)6月に新羅に派遣された阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使の一行が、船旅の途中で詠んだ歌が145首も収録されている。 これらの歌や詞書きの中に見える地名から、一行が進んだ瀬戸内海航路のルートを知ることができる。ただし、熊毛の浦を出た遣新羅船は娑婆(さば、山口県防府の沖合い)で逆風に会い遭難して、豊前国下毛郡の分間(わくま)の浦(大分県中津周辺)に漂着しているため、山陽沿岸コースの全てが類推できるわけではない。 参考までに、天平8年(736)の遣新羅使節の一行が詠んだ歌の中で、地名が読み込まれている主なものを拾ってみよう。下図と対照しながらその位置を確認されたい。
■大伴の御津 (=現・大阪湾)
■武庫(むこ)の浦 (=現・兵庫県武庫川河口)
■野島(ぬしま)が崎 (=現・淡路島北端)
■明石の門(と) (=現・明石海峡)
■藤江の浦 (=現・明石市藤江付近)
■印南都麻(いなみづま) (=現・加古川河口付近)
■飾磨川(しかまがわ) (=現・姫路市飾磨港付近)
■玉の浦 (=現・倉敷市玉島?)
■神島 (=現・福山市神島町)
■風速の浦 (=現・広島県豊田郡安芸津町)
■長門の島 (=現・安芸郡倉橋島)
■麻里布の浦 (=現・岩国市麻里布町、JR岩国駅の西側一帯の地名)
■可太(かだ)の大島 (=現・山口県大島郡大島町(屋代島))
■大嶋鳴門 (=現・山口県屋代島の大畠瀬戸)
■熊毛の浦 (=(現・山口県熊毛半島付近)
■伊波比島(いはひしま) (=現・山口県熊毛郡上関町の島)
■分間(わくま)の浦 (=現・大分県中津市田尻付近)
|
古代の瀬戸内海航海の困難さ瀬戸内海は、一般には波静かな多島海といった印象を与えるが、実は灘(なだ)と呼ばれる海域が多い(東から播磨灘、燧灘(ひうちなだ)、斎灘(いつきなだ)、安芸灘、伊予灘、周防灘)。灘とはその字のごとく、玄界灘や熊野灘のように風や波が荒く航海が難しい海域を言うが、瀬戸内海のような内海には当てはまらない。にも関わらず、古代から瀬戸内海の各所が灘と呼ばれたのは、その海域を航海するのに注意を要したからだろう。 瀬戸内海は内海であり、黒潮などの海流の影響はない。しかし、潮流すなわち潮の満ち引きの影響を強く受ける。潮流は月と太陽の引力により、流れる方向と速度が時々刻々変化し、海峡(瀬戸)・島・岬の先端・内湾などでその流れが速くなる。この潮流の速さが、航海が困難な「灘」と呼ばれる海域をつくっているのだ。
西の豊後水道から瀬戸内海に流れ込んだ満ち潮も、鞆の浦沖あたりで明石海峡から流れ込んできた潮をぶつかる。瀬戸内海全体は潮が流れる巨大な大河のようなもので、しかも東と西ではその流れが逆になっている。したがって潮の流れに乗って東から西に進んできた古代の船は鞆の浦の入り江で潮目が変わるのを待たなければならない。これを潮待ちという。
昨年乗ったパンスター・ドリーム号はすべてコンピュータ制御の自動運転で運行している。刻々変わる潮流の速度や島の位置など必要なデータは全てインプットされていて、古代のようにいちいち船頭の判断に任せる必要はない。外部甲板のベンチに腰掛けて、次々の現れては消えていく島影を眺めているだけでは、古代人の苦労は味わえないようだ。 |
出典:(*)『地図でたどる日本史』所収「瀬戸内海の海上交通」(松原弘道著)