橿原日記 平成20年11月10日

古代の瀬戸内海交通路をトレースする

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人工衛星から瀬戸内海地方を撮影した地図(Google Earthより転写)

まだ良く解明されていない古代の瀬戸内海航路

木荘司(やぎそうじ)氏は小生の好きな作家の一人である。以前に「古代からの伝言」というタイトルでシリーズものの歴史小説を産経新聞に連載されていた。『古事記』や『日本書紀』に登場する人物が、ノンフィクション的手法で生き生きと描かれていた。もちろん謎の多い古代を扱うからには、八木の独断と偏見が随所に顔を出すのは致し方ない。そうした点を割り引いても、日本の古代をリアルに再現している点では、秀いでた作品だと思う。

古代からの伝言 日出づる国
角川文庫版「古代からの伝言
 日出づる国」
在、角川文庫として出版されている「古代からの伝言 日出づる国」を再読している。『日本書紀』の推古紀に題材を得て、当時の主要な人物の言動を見事に活写していて、読んでいて楽しい。だが、ところどころで時代考証の甘さが顔を出すのもこの著者の特徴である。

とえば、西暦602年(推古10年)新羅征討軍の最高指揮官として派遣された聖徳太子の実弟・来目皇子が九州で病に倒れたとき、著者は、
”筑紫から、「来目皇子、倒る」の早馬が都に駆け上ってきた”、と記述 (p.107)、翌年の2月、来目皇子が九州で薨去すると、
”筑紫から山陽道を再び駆けつけて、早馬が来たのは春の風が吹きすさぶ日だった”、と書いておられる(p.109)。

が、7世紀初頭において畿内大和と九州を結ぶ陸上の幹線道路がすでに整備されていたという確証はない。まして、官道の駅馬を使って辺境からの情報を中央に伝える制度が存在したとは思えない。山陽道は律令制度によって整備された七道の一つである。律令制の中央・地方間の情報伝達システムとして一定間隔に駅を設ける伝馬・駅馬の制度の設置が宣言されたのは、大化改新の詔においてである。八木氏は7世紀後半以降の交通路の知識で、7世紀初頭の伝達ネットワークを想定しておられる。

明石海峡に架けられた世界最長の吊り橋・明石海峡大橋
世紀前半までは、我が国の交通体系は瀬戸内海の航路を中心に組み立てられていたとされている。古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内(難波津)の2つの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たした。それに加えて、大陸文化の流入においても、朝鮮や中国への使節(遣隋使・遣唐使・遣新羅使)が畿内(難波津)から目的地に向かう際に利用する重要な交通路だった。

時は、陸地を離れずに見える範囲の地形や山を目視しながら航海した。これを「地乗り航法」という。また、通常は夜間航海は行わなかった。さらに、瀬戸内海では潮汐の干満差が大きく、狭い水道や瀬戸等が多く地形が複雑であるため、 全国でも潮流が最も早い海域として知られている。そのため、瀬戸内海を航行する船は、途中で何度も潮待ち風待ちを余儀なくされて、多くの日数を要した。

昭和63年4月に開通した全長9368mの瀬戸大橋
者は以前から、遣隋使がどのようなルートで瀬戸内海を往来したのか関心があった。使節たちがどのようなルートで瀬戸内海を航海し、どこの港に寄港し、当時の難波津から博多湾にあった那の津まで何日を要したか。しかし、山陽沿岸コースがもっとも一般的な瀬戸内航海路だったことは想像がつくが、それ以上の具体的なことはあまり分からなかった。史書には具体的な航海の記録が残されていないためである。

07年の旧暦7月3日、小野妹子(おののいもこ)を大使とする遣隋使の一行が、隋の都・大興城を目指して難波津を船出していった。彼らはほぼ一ヶ月をかけて北九州の那の津に到着した。その途次、彼らが目にしたのは、多くの島々が浮かぶ瀬戸内の景観である。

PanStar運航図
PanStarフェリーの運航図
らが味わった多島海の船旅を追体験してみたいと、大阪と九州を結ぶ定期航路を調べたことがある。関西汽船や名門大洋フェリー、阪九フェリーなどが定期便を運行しているが、いずれも夜間航路である。夕方関西の港を出港して翌日の早朝九州に到着するダイヤしか組まれていない。これでは多島海の景観を満喫することはできない。

れでも一度瀬戸内海航路の船旅を経験してみたいという誘惑に勝てず、大阪港と韓国の釜山を毎日定期便で結ぶパンスターフェリーの格安ツアーを申し込んだ。昨年の11月のことである。(平成19年11月4日付け橿原日記参照)。11月ともなれば真夏に比べて日暮れは早く、夜明けは遅い。そのため、往路は夕方の1時間、帰路は夜明け前から4時間ほどしか瀬戸内海を眺められなかった。甲板に出て潮風を受けながら、現れては遠ざかる島影を眺めているだけだったが、それでも楽しい船旅だった。



祝戸荘の「あすか塾」に参加して聴講した古代の瀬戸内交通路

祝戸荘
あすか塾が開かれる祝戸荘
営飛鳥歴史公園内にある唯一の宿泊施設『祝戸荘』では、飛鳥保存財団が毎月あすか塾を開催している。先月4日に開かれた第172回あすか塾は、奈良文化財研究所(奈文研)の次山淳氏を招いて「遺跡から見た古代の瀬戸内海交通」について講演していただくとのことだった。関心を抱いている古代の瀬戸内交通路の話が聞けるかもしれないと思って、聴講を申し込んだ。

山氏は、奈文研の平城宮発掘調査部の主任研究官で古墳時代の土器様式の研究がご専門だ、講演会場に入ると、前面に並べられた白板2面を瀬戸内地方の五万分の一の地図が何枚も張り出されてある。何事かと思って近寄ってみると、吉備形甕の出土地が地図上にプロットしてある。

演の最初で、次山氏は吉備形壺の分布を追うことで、吉備地方で作られた壺が瀬戸内海を利用して東西に運ばれた古墳時代初頭のルートを想定できる、と説明された。古墳時代から西日本の交易の中心は瀬戸内海ルートだった。吉備形壺は東は纒向遺跡に達し、西は北九州の西新町まで伝搬していた。

代の瀬戸内海交通路を解明できる資料は意外と少ないようだ。次山氏は『日本書紀』斉明紀に記された斉明7年(661)の百済の役の際に斉明天皇の一行が西下したときの記録と、『万葉集』巻15に収録されている天平8年(736)の遣新羅使の一行が、船旅の途中で読んだ歌から、古代の瀬戸内海航路を説明された。その他にも瀬戸内海沿岸各地の津・船瀬・泊の分布状況から当時のルートを解明する方法もあるようだ。しかし、講義時間の関係で講座では触れられなかった。

後の朝鮮通信使の寄港地
後の朝鮮通信使の寄港地
代は下るが、江戸時代には徳川将軍襲封の祝賀などを名目に朝鮮使節使が12回来朝している。朝鮮を出発して大阪に到着するまでの間、使節は次の場所に寄港して接待を受けるのが慣行となっていた。
対馬府中−壱岐勝本浦−筑前藍島−長門赤間関−周防上関−安芸浦刈−備後鞆浦−備前牛窓ー播磨室津−摂津兵庫ー摂津大阪ー(以下、略)
これらの寄港地のほとんどは、古代の瀬戸内海航路の要衝の港があった地域と重なると見なしてよいようだ。



斉明天皇が百済救援のために西下した瀬戸内海ルート

日本書紀』の斉明天皇7年の条に、次のような記述がある。
・7年春1月6日、天皇の船は西に向かって航路についた。
・1月8日、船は大伯(おおく)の海(岡山県邑久(おおく)の海)に着いたとき、太田姫皇女が女子を生んだ。それでこの子を大伯皇女(おおくのひめみこ)と名付けた。
・1月14日、船は伊予の熱田津(にきたつ、愛媛県松山市付近)の岩湯行宮(いわゆのかりみや、道後温泉)に泊まった。
・3月25日、船は本来の航路に戻って、那大津(なのおおつ、博多港)に着いた。

牛窓のヨットハーバー
牛窓のヨットハーバー
明天皇の一行が船出していったのは、難波津(なにわづ)だったはずだ。4世紀代の大和王権の瀬戸内海航路は、木津川・淀川を下り、摂津西部−播磨−吉備(旭川河口)にいたるルートが基本だった。5世紀後半の瀬戸内海交通の基点は住吉津だったが、5世紀後半には難波堀江(なにわのほりえ)が開削され、難波津が開発された。難波津は6世紀から8世紀にかけての大阪湾の中心であり、律令国家の外港の役割を果たした。

波津を出航して2日目には大伯(おおく)の海に到着している。前日には明石浦飾磨津あたりで一泊したはずである。大伯海は小豆島の北方で、現在の牛窓付近と思われる。ここで、後の大津皇子の姉にあたる大伯皇女(おおくのひめみこ)が生まれている。

道後温泉本館
坊っちゃん湯で知られる道後温泉本館
在の牛窓付近から現在の松山市付近にあった熱田津(にきたつ)までの船旅には6日を要している。寄港地は不明だが、風待ち、潮待ちなどで、途中の津に停泊を余儀なくされたのだろう。熱田津に寄港したのは、現在の道後温泉での湯治が目的だったと思われる。この地に2ヶ月近く滞在している。

行が熱田津を発って本来の航路に戻った日は不明である。だが、一行に同行した額田王(ぬかたのおおきみ)は船出にあたって、後の世に人口を膾炙することになる次の歌を詠んでいる。もっともこの歌の作者は斉明天皇自身であるとする山上憶良(やまのうえのおくら)の説もある。この歌から3月中旬に出航したのではと推定が可能である。
●熱田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

の後のルートも寄港地も不明だが、3月25日に那大津(なのおおつ)に到着している。月半ばに熱田津を出航したのならば、10日を要したことになる。一般には、熱田津から四国の沿岸沿いに西に進み、佐田岬半島の先端から国東半島を目指し、その後は地乗り航法で九州沿岸を北上したと想定されている。しかし、『日本書紀』にも”本来の航路に戻って”と記しているところを見ると、対岸の長門浦あたりに向かい、後は山陽道沿いに西下した可能性も否定できない。



天平8年(736)の遣新羅使がたどった瀬戸内海航路

内と北九州を結ぶ瀬戸内海航路として当時最も一般的だったのは、いうまでもなく山陽沿岸コースだった。しかし、奈良時代の遣唐使や遣新羅使の航路については、残念ながら正史にはほとんど記載がない。その一方で、『万葉集』巻15には、天平8年(736)6月に新羅に派遣された阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使の一行が、船旅の途中で詠んだ歌が145首も収録されている。

れらの歌や詞書きの中に見える地名から、一行が進んだ瀬戸内海航路のルートを知ることができる。ただし、熊毛の浦を出た遣新羅船は娑婆(さば、山口県防府の沖合い)で逆風に会い遭難して、豊前国下毛郡の分間(わくま)の浦(大分県中津周辺)に漂着しているため、山陽沿岸コースの全てが類推できるわけではない。


考までに、天平8年(736)の遣新羅使節の一行が詠んだ歌の中で、地名が読み込まれている主なものを拾ってみよう。下図と対照しながらその位置を確認されたい。

瀬戸内海の海上交通
瀬戸内海の海上交通(*)

大伴の御津 (=現・大阪湾)
3593 大伴の 御津に船(ふな)乗り 榜ぎ出ては いづれの島に 廬りせむ我

武庫(むこ)の浦 (=現・兵庫県武庫川河口)
3578 武庫の浦の 入江の洲鳥 羽ぐくもる 君を離れて 恋に死ぬべし
3595 朝開き 榜ぎ出て来れば 武庫の浦の 潮干の潟に 鶴(たづ)が声すも 

野島(ぬしま)が崎 (=現・淡路島北端)
3606 玉藻刈る 処女(をとめ)を過ぎて 夏草の 野島が崎に 廬りす我は

明石の門(と) (=現・明石海峡)
3608 天離(あまざか)る 夷(ひな)の長道を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 家のあたり見ゆ 

藤江の浦 (=現・明石市藤江付近)
3607 白妙の 藤江の浦に 漁(いざ)りする 海人とや見らむ 旅ゆく我を (藤江の浦)

印南都麻(いなみづま) (=現・加古川河口付近)
3596 我妹子が 形見に見むを 印南都麻(いなみづま) 白波高み よそにかも見む 

飾磨川(しかまがわ) (=現・姫路市飾磨港付近)
3605 わたつみの 海に出でたる 飾磨川 絶えむ日にこそ 吾(あ)が恋やまめ 

玉の浦 (=現・倉敷市玉島?)
3628 玉の浦の 沖つ白玉 ひりへれど またそ置きつる 見る人を無み 

神島 (=現・福山市神島町)
3599 月読(つくよみ)の 光を清み 神島の 磯廻(いそま)の浦ゆ 船出す我は 

風速の浦 (=現・広島県豊田郡安芸津町)
3615 我がゆゑに 妹歎くらし 風速の 浦の沖辺に 霧たなびけり 

長門の島 (=現・安芸郡倉橋島)
3621 我が命を 長門の島の 小松原 幾代を経てか 神(かむ)さびわたる

麻里布の浦 (=現・岩国市麻里布町、JR岩国駅の西側一帯の地名)
3630 真楫貫(まかじぬ)き 船し行かずば 見れど飽かぬ 麻里布の浦に 宿りせましを 

可太(かだ)の大島 (=現・山口県大島郡大島町(屋代島))
3634 筑紫道の 可太(かだ)の大島 しましくも 見ねば恋しき 妹を置きて来ぬ 

大嶋鳴門 (=現・山口県屋代島の大畠瀬戸)
3638 これやこの 名に負ふ鳴門の 渦潮に 玉藻刈るとふ 海人処女(あまをとめ)ども 

熊毛の浦 (=(現・山口県熊毛半島付近)
詞書き 熊毛の浦に船泊てし夜、よめる歌
3640 都辺に 行かむ船もが 刈薦の 乱れて思ふこと 告げやらむ 

伊波比島(いはひしま) (=現・山口県熊毛郡上関町の島)
3636 家人は 帰り早来(こ)と 伊波比島(いはひしま) 斎ひ待つらむ 旅ゆく我を

分間(わくま)の浦 (=現・大分県中津市田尻付近)
佐婆(さば)の海にて、忽ち逆風(あらきかぜ)漲浪(たかきなみ)に遭ひて、漂流(ただよひ)宿(ひとよ)経て、のち順風(おひて)を<得、豊前国(とよくにのみちのくち)下毛郡(しもつみけのこほり)分間(わくま)の浦に到着(つ)きぬ。ここに艱難(いたづき)を追ひ怛(いた)みて、よめる歌八首・・・(以下、略) 



古代の瀬戸内海航海の困難さ

戸内海は、一般には波静かな多島海といった印象を与えるが、実は(なだ)と呼ばれる海域が多い(東から播磨灘、燧灘(ひうちなだ)、斎灘(いつきなだ)、安芸灘、伊予灘、周防灘)。灘とはその字のごとく、玄界灘や熊野灘のように風や波が荒く航海が難しい海域を言うが、瀬戸内海のような内海には当てはまらない。にも関わらず、古代から瀬戸内海の各所が灘と呼ばれたのは、その海域を航海するのに注意を要したからだろう。

戸内海は内海であり、黒潮などの海流の影響はない。しかし、潮流すなわち潮の満ち引きの影響を強く受ける。潮流は月と太陽の引力により、流れる方向と速度が時々刻々変化し、海峡(瀬戸)・島・岬の先端・内湾などでその流れが速くなる。この潮流の速さが、航海が困難な「灘」と呼ばれる海域をつくっているのだ。

現在の鞆の浦
大伴旅人も立ち寄った鞆の浦
とえば明石海峡は、瀬戸内海東部、大阪湾と播磨灘の間に位置している。 船で西から古代の中心地、大和を目指してくると入り口に当たるため、古くは明石大門と呼ばれていた。この海峡での潮の流れは、大洋の干満によって起こる。 満ち潮は大阪湾に押し寄せ、明石海峡では播磨灘への西への流れになり、引き潮は大阪湾への東への流れとなる。その速さは半端ではない。最速では7ノットに達するというから、時速約13km/h(=1海里(1852m) x 7ノット)の凄まじい流れである。

西の豊後水道から瀬戸内海に流れ込んだ満ち潮も、鞆の浦沖あたりで明石海峡から流れ込んできた潮をぶつかる。瀬戸内海全体は潮が流れる巨大な大河のようなもので、しかも東と西ではその流れが逆になっている。したがって潮の流れに乗って東から西に進んできた古代の船は鞆の浦の入り江で潮目が変わるのを待たなければならない。これを潮待ちという。

パンスター・ドリーム号
パンスター・ドリーム号
えて、灘以外の海域では大小さまざまな島がまるで小石をばらまいたように散らばる。したがって、効率よく島の間を縫って航海するには、潮流や海域の島々を知り尽くした船頭の存在が不可欠となる。想像するに、古代の遣隋使船や遣唐使船、遣新羅使船は風待ち、潮待ち、天候不順などでそれぞれの津で船泊するたびに、次の停泊地までの海域を熟知した船頭を雇いいれたに違いない。

年乗ったパンスター・ドリーム号はすべてコンピュータ制御の自動運転で運行している。刻々変わる潮流の速度や島の位置など必要なデータは全てインプットされていて、古代のようにいちいち船頭の判断に任せる必要はない。外部甲板のベンチに腰掛けて、次々の現れては消えていく島影を眺めているだけでは、古代人の苦労は味わえないようだ。



出典:(*)『地図でたどる日本史』所収「瀬戸内海の海上交通」(松原弘道著)


2008/11/11作成 by pancho_de_ohsei return