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| 復元整備された藤ノ木古墳 (撮影 2008/05/06) |
ベニバナの花粉が被葬者=穴穂部皇子・宅部皇子説を否定する?
すると、ベニバナの花粉の存在が、逆に被葬者=穴穂部皇子・宅部皇子説を否定しているのではないかという疑念が生じた。その理由を以下に示そう。 先ず、穴穂部皇子と宅部皇子の死亡時期である。『日本書紀』の記述をそのまま信用すると、穴穂部皇子が殺害されたのは587年6月7日、宅部皇子が殺されたのは翌日の6月8日ということになる。言うまでもなく、『日本書紀』に記された日付は旧暦であり、現在の暦に直せば7月の暑い盛りということになる。
その時、基本的にはノミによる手作業を中心に家形石棺を復元したのだが、蓋を作るのに4人で約1カ月、身を作るのに2〜4人で20日前後を要したそうだ。この石棺造りを請け負った石工の話では、古代技法でやろうとすれば、さらに1カ月半の期間が必要だったと思われる。つまり、急いで石棺を用意したとしても、現在の暦で9月半ばになってしまう。そのころ、ベニバナはもう咲いていない。
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藤ノ木古墳はなぜ厩戸皇子のコロニーに築かれたのか?
厩戸皇子は斑鳩宮の西方に一族の氏寺として斑鳩寺を建立した。後の法隆寺である。そればかりではない。皇子には複数の妃がいたが、いずれの妃も実家を離れて斑鳩宮の近辺に住むようにした。現在の法起寺は、正妻の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を住まわせた岡本宮の跡とされている。最愛の膳大郎女(かしわどのおおいらつめ)は、飽波葦垣宮(あくなみのあしがきのみや)に住まわせ、位奈部橘王(いなべのたちばなのおおきみ)は母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女と一緒に中宮寺の前身の建物に住まわせたとされている。
当然のことながら、この古墳の造営には厩戸皇子の関与が十分予想される。藤ノ木古墳の被葬者は皇子との関わりの中で考えなければならない。その点に関して、斑鳩寺の後身である法隆寺には興味深い古記録がいくつか残されている。法隆寺の高田良信師の研究によれば、藤ノ木古墳は「陵山」の名称で、法隆寺文書の中に登場し、付近は早くから「ミササキ」の地名がついていたという。さらに、墓の傍らに墓辺寺のような寺または草堂が、名前を変えながら絶えることなく存在していたという。
天皇暗殺という前代未聞の事件を引き起こした張本人でありながら、蘇我馬子はさすがに希代の大政治家だった。人心を収攬するために、彼がとった秘策は、我が国最初の女帝・推古天皇の登極である。しかし、女帝も馬子の暴走に歯止めをかける策として、登極と同時に厩戸皇子を摂政に任命した。その年の暮れも押し迫った12月8日のことである。 587年に誅殺された穴穂部皇子も592年に暗殺された崇峻天皇も、用明天皇の皇后だった厩戸皇子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女の実弟である。厩戸皇子から見れば、いずれも伯父にあたる人物だ。女帝の摂政としてこの国の舵取りを任された厩戸皇子であれば、皇位継承の最も近い位置にいた穴穂部皇子や実際に皇位を継承した崇峻天皇を、それなりの礼をもって改葬することを当然考えたであろう。崇峻天皇を改葬した墓ならば、法隆寺が「陵山」と呼んできた理由も納得できる。
藤ノ木古墳は厩戸皇子の伯父にあたる穴穂部皇子と崇峻天皇を改葬した墓であると理解することで、なぜ法隆寺が崇峻天皇の廟としてこの墓を守り、手厚い供養を行ってきたかも理解できる。藤ノ木古墳は未盗掘の墓ではない。石棺こそ開けられた形跡はなかったが、石室には江戸時代の終わりころまでは被葬者を供養するために、石室内にしばしば人が出入りしていたようだ。その証拠に、石棺の正面に置かれた須恵器の器台の端に灯明芯が燃えた痕跡が残っていた。また、玄室の入口近くにまとめておかれた土器の中にも江戸時代の灯明皿が残っていた。
実際に藤ノ木古墳の発掘調査に参加した前園教授は、石室の詳しい観察を記録しておられる。それによると、不思議なことにもっとも加重がかかる最下段の石が極端に小規模だという。そのため、上の段の大型石材の加圧で亀裂が認められる部分もあるようだ。また、石の採取地や石の種類も異なる。下部の小型石材には近くの矢田丘陵で入手できる花崗岩だが、上部の大型石材には竜田川原に見られる雲母石英閃緑岩が使われている。教授は、こうした事実から、当初はさほど規模が大きくない石室の墓作りが計画され構築を開始したが、なんらかの要因で途中で計画を変更する必要が生じたのでは、と憶測しておられる。 教授の憶測をさらに敷衍すれば、厩戸皇子は当初は不運な死と遂げた穴穂部皇子の改葬だけを考えたのかもしれない。だが、墓の築造が開始された頃、崇峻天皇が暗殺され殯も営まれずに埋葬されてしまった。その処置に哀れと憤りを感じて、崇峻天皇の遺骸も引き取ってこちらに改葬することに方針を変えたのかもしれない。
ある年の夏、燃えさかる太陽からまばゆい光が降り注ぐ半完成の石室の中で、しめやかな改葬の儀式が執り行われた。半ば白骨化した二つの遺骸はきれいに洗われて豪華な装飾品で飾られると、深紅の布で覆われた。朱塗りの棺の内部には所狭しと死出の旅路を飾る副葬品が納められた。参列者は棺のまわりに集まり、それぞれ手にもった供花のベニバナを棺の中に置いた。参列者から一歩距離をおいて儀式の様子を見守っていた厩戸皇子は、片手をかざして青空を見上げると、 |
【参考文献】@橿考研附属博物館 特別展図録第68冊「金の輝き、ガラスの煌めき」
A前園実知雄著「斑鳩に眠る二人の貴公子 藤ノ木古墳」(新泉社刊 シリーズ「遺跡を学ぶ」032)
【画像引用】(*)@より転記、(**)Aより転記