橿原日記 平成20年11月07日

ベニバナの花粉が語る藤ノ木古墳の被葬者像

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復元整備された藤ノ木古墳  (撮影 2008/05/06)

11月1日付け産経新聞の一面トップを飾った藤ノ木古墳の被葬者説

産経新聞の一面トップ記事
産経新聞の一面トップ記事
月1日付けの産経新聞の朝刊を見て驚かされた読者も多かったのでは? 「藤ノ木古墳 花粉が語る被葬者像 穴穂部皇子宅部皇子か」という大見出しが突然目に飛び込んできて、何事か思わず記事を読みあさったであろう。27面の社会面にも、「ベニバナが語る”悲劇”」という見出しで関連記事を載せていた。

の世紀の大発見とでも言いたげな産経新聞の記事の要旨はこうだ。橿原考古学研究所(以下、橿考研)が1988年に実施した発掘調査で、石棺内に浮かんでいた繊維製品や棺内の遺物に混じって、大量の植物の花粉が見つかった。ベニバナやアカガシ、イネなどの花粉だが、圧倒的に多かったのはベニバナの花粉だった。ベニバナの花粉は、古くから衣を紅色にそめる染料として盛んに用いられており、紫と並んで古代染色の中でも貴重な染料として、貴族の女性の憧れの色だった。

ノ木古墳の被葬者たちは、ベニバナで染められた深紅の布をまとっていたとされてきた。だが、ベニバナの花粉を発見した奈良教育大学の金原正明准教授(環境考古学)は、常々こうしたベニバナ=染料説に疑問を抱いておられた。そこで、教授は自ら染色作業を体験し、ベニバナの染料に浸した布を堅く絞っていくうちに、花粉も洗い流されるという事実を確認し、「花粉は繊維に付着すると肉眼ではっきり見える。高貴な被葬者に花粉がついた布をかけるはずがない」と染料説を否定されたとのことだ。

ベニバナ
ベニバナ
して、棺内に沢山のベニバナの花粉があった理由として、「現在の葬儀で菊の花を供えるように、藤ノ木古墳の石棺内はベニバナで埋め尽くされていたのだろう」と想定しておられるという。

ニバナはエジプト原産と言われ、古くから世界各地で栽培されている。日本にはシルクロードを経て4〜5世紀ごろまでには渡来したとされている。花が咲く時期は6月から7月にかけてであり、枝先に頭状花をつける。花ははじめ鮮やかな黄色で、徐々に赤くなる。金原准教授が想定されたように、夏に咲くベニバナが死者を弔う供花として石棺に納められたのであれば、被葬者が納棺されたのは、現在の暦で6月から7月の夏の盛りということになる。

は、藤ノ木古墳に埋葬されていたのは二人の男性だった。発掘当時、京都大学の池田次郎・片山一道両教授によって二人の遺骨の詳しい調査が行われている。その結果、北側に埋葬されていた遺体は20歳前後の推定身長164〜165cmの男性であると判明している。全体として華奢な体格で、左足の関節部の少年期に脱臼した痕跡があり、歩行に影響があったようだ。血液型はB型。

二人の被葬者の納棺想定図
二人の被葬者の納棺想定図(**)
う一方の南側に埋葬されていた人物の骨の残り具合は悪く、わずかに残っていた足骨から性別を判断しなければならなかった。身長は近畿地方の現代男性の平均値を超えていて北側の被葬者に近い男性と推定され、わずかに残っていた歯の咬耗度から熟年に達していない壮年(20〜40歳)だったようだ。血液型はこちらもB型。

ノ木古墳の築造時期を推定する手がかりは、石室の中にあった。この古墳の葬送儀礼に用いられ、その後玄室の隅に無造作に置かれていた40個の須恵器である。故田辺昭三氏が作成された陶邑須恵器編年表で言えば、これらの須恵器は第U期の高蔵43式(TK-43)に相当するものだそうだ。この須恵器の制作時期から、古墳の築造時期は6世紀の第4四半期(576〜600)と推定されている。

経新聞は、藤ノ木古墳から見つかったベニバナの花粉は、石棺に納められた2人の被葬者像をみごとにあぶり出したとしている。石棺内に封印されたベニバナは、1400年も前に皇位継承にからんだ血みどろに政争の犠牲になった悲劇の皇子たちの奥津城を明らかにしたというのだ。その皇子たちとは、穴穂部(あなほべ)皇子と彼の友人だった宅部(やかべ)皇子を指す。

穴穂部皇子略系図
穴穂部皇子略系図(**)
西暦587年7月、用明天皇亡き後、大和政権の中枢にいた大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)と大連・物部守屋(もののべのもりや)が直接武力衝突する丁未(ていび)の変が勃発する。その前哨戦ともいうべき事件が、実はその1月前に起きている。故敏達天皇の皇后・堅塩姫(きたしひめ、後の推古女帝)の勅を奉じて、旧暦の6月7日、蘇我馬子は軍隊を派遣して穴穂部皇子を殺害し、翌日にはその盟友とされた宅部皇子を殺害した。こうした『日本書紀』の記述が、藤ノ木古墳の被葬者の埋葬時期と見事に符号するという。

なみに、穴穂部皇子とは、ポスト用明として物部守屋の支援を受けた皇位継承候補の筆頭だった。しかし、堅塩姫を犯す目的で敏達天皇の殯(もがり)の宮に侵入しようとして、天皇の寵臣だった三輪逆(みわのさこう)に阻止される、そのことに根をもった皇子は逆を殺害してしまうのだが、このことが堅塩姫の恨みを買うことになり、皇子誅殺の勅が下されて殺害されてしまう。


花に夏のベニバナが使われたことで、藤ノ木古墳の被葬者が特定できたとする産経新聞のトピック記事は、実は紙面の穴埋め記事のようだ。考古学的にこれほど重大な発見ならば、何時、何処で、誰が公表したかを当然記載すべきなのに、何処にもそうした情報が見あたらない。ちなみに、11月1日付けの各紙の朝刊一面のトップ記事は、朝日新聞と読売新聞は「日銀0.2%利下げ」、毎日新聞は「空幕長の更迭」、地元の奈良新聞ですら「3年後に消費税増税」となっていて、紙面のどこにも藤ノ木古墳のニュースなど伝えていない。思い直してみれば、この日の朝刊でトップ記事として扱うほどの重大な事件は起きていなかった。

ノ木古墳の被葬者=穴穂部皇子・宅部皇子とする説は、古墳発掘直後から言われていることで、今さら大したニュースバリューなどない。奈良芸術短期大学の前園実知雄(まえぞの・みちお)教授もこの説に加担しておられる。また、何年も前から、同教授はベニバナが防腐剤として用いられたことを指摘され、またベニバナの花粉と同様に棺内で見つかったアカガシの花粉の存在に着目して、この花粉が飛ぶ初夏の頃に遺骸の納棺が行われたと推定しておられる。産経新聞は、奈良県の考古学関連のニュースをこまめに拾ってくれるが、その一方でセンセーショナルに報道する新聞としても知られている。それにしても、天下の産経新聞が、手あかに汚れた情報を臆面もなく一面トップに掲げるとは恐れ入った。



ベニバナの花粉が被葬者=穴穂部皇子・宅部皇子説を否定する?

橿考研の昨年の秋季特別展
橿考研の昨年の秋季特別展
経新聞の記事を読みながら、橿考研の附属博物館で開催された昨年の秋季特別展を思い出した。ちょうど一年前のこの時期、橿考研は藤ノ木古墳の全貌を紹介する「金の輝き、ガラスの煌めき」展を開催していた。そのときの図録を取り出して華麗な副葬品の写真に目を通すとともに、前園実知雄教授が2年前に上梓された「斑鳩に眠る二人の貴公子」(新泉社刊)を図書館から借り出して通読した。

ると、ベニバナの花粉の存在が、逆に被葬者=穴穂部皇子・宅部皇子説を否定しているのではないかという疑念が生じた。その理由を以下に示そう。

ず、穴穂部皇子と宅部皇子の死亡時期である。『日本書紀』の記述をそのまま信用すると、穴穂部皇子が殺害されたのは587年6月7日、宅部皇子が殺されたのは翌日の6月8日ということになる。言うまでもなく、『日本書紀』に記された日付は旧暦であり、現在の暦に直せば7月の暑い盛りということになる。

開口直後の横穴式石室
開口直後の横穴式石室(*)
題は、現代の葬儀屋のように死後直後に納棺できる石棺を用意できたかどうかである。藤ノ木古墳の発掘調査に参加した前園教授は、上記の著書の中で非常に興味深い情報を提供している。古墳の横穴式石室に安置されていたのは、二上山の凝灰岩から切り出された刳り抜き式家形石棺である。その石棺の縄掛け突起を利用して蓋を開くのに先だって、実物大に石棺を作って石棺の開閉実験を行うことになった。

の時、基本的にはノミによる手作業を中心に家形石棺を復元したのだが、蓋を作るのに4人で約1カ月、身を作るのに2〜4人で20日前後を要したそうだ。この石棺造りを請け負った石工の話では、古代技法でやろうとすれば、さらに1カ月半の期間が必要だったと思われる。つまり、急いで石棺を用意したとしても、現在の暦で9月半ばになってしまう。そのころ、ベニバナはもう咲いていない。

開棺直後の石棺内部
開棺直後の石棺内部(*)
らに、別の要件が加わる。二人の皇子は、堅塩姫の勅に奉じた体制派によって粛正されている。たとえ皇族であっても、死後すぐに正規の埋葬が認められたとは思えない。まして、一ヶ月後には再び堅塩姫の勅が出され、蘇我馬子は諸皇子・諸豪族を率いて、河内に退いた物部守屋を滅ぼすために進軍している。まさに大和は戦闘準備で騒然としていた時期であり、そのような時期に二皇子を埋葬できる状況にあったとは思えない。たとえ二人の被葬者が穴穂部皇子と宅部皇子だったとしても、埋葬された時期は587年ではなく、もっと後の夏だったはずである。



藤ノ木古墳はなぜ厩戸皇子のコロニーに築かれたのか?

橿考研の秋季特別展「宮都・飛鳥
橿考研の秋季特別展「宮都・飛鳥」
橿考研は現在、「宮都・飛鳥」の名で飛鳥京の発掘の歴史を概括する秋季特別展を開催している。歴史に「たら・れば」は禁句だそうだが、推古女帝がもう少し短命で、摂政の地位にあった厩戸(うまやど)皇子が即位していれば、歴代の天皇が飛鳥を都とすることはなかったかもしれない。皇子は、推古天皇9年(601)に斑鳩宮(いかるがのみや)の造営に着手し、推古天皇13年(605)に移り住んだ。皇子が登極すれば、斑鳩宮一帯が王都となり、明日香は山間の盆地のままだったはずだ。

戸皇子は斑鳩宮の西方に一族の氏寺として斑鳩寺を建立した。後の法隆寺である。そればかりではない。皇子には複数の妃がいたが、いずれの妃も実家を離れて斑鳩宮の近辺に住むようにした。現在の法起寺は、正妻の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を住まわせた岡本宮の跡とされている。最愛の膳大郎女(かしわどのおおいらつめ)は、飽波葦垣宮(あくなみのあしがきのみや)に住まわせ、位奈部橘王(いなべのたちばなのおおきみ)は母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女と一緒に中宮寺の前身の建物に住まわせたとされている。

厩戸皇子のコロニー
厩戸皇子のコロニー
なわち、厩戸皇子は、斑鳩宮を中心としてコロニーを形勢したのである。当時は天皇家や皇族といえども妻問い婚が通例だった時代に、一般通念とかけ離れた生活様式に、周囲の人々は驚きととまどいを感じたであろう。 藤ノ木古墳は、そうした厩戸皇子のコロニーの中に築かれた。おそらく、斑鳩宮の造営が開始される直前だっただろう。

然のことながら、この古墳の造営には厩戸皇子の関与が十分予想される。藤ノ木古墳の被葬者は皇子との関わりの中で考えなければならない。その点に関して、斑鳩寺の後身である法隆寺には興味深い古記録がいくつか残されている。法隆寺の高田良信師の研究によれば、藤ノ木古墳は「陵山」の名称で、法隆寺文書の中に登場し、付近は早くから「ミササキ」の地名がついていたという。さらに、墓の傍らに墓辺寺のような寺または草堂が、名前を変えながら絶えることなく存在していたという。

鞍金具−前輪
藤ノ木古墳出土の鞍金具−前輪(*)
鞍金具−後輪
鞍金具−前輪(*)
陵」(みささぎ)とは丘の形をした天子の墓のことをいう。穴穂部皇子・宅部皇子の両皇子誅殺から5年後の西暦592年11月3日、今度は蘇我馬子が放った刺客によって崇峻天皇が暗殺されるという惨劇が起きた。時の最高権力者に阿(おもね)て殯(もがり)の宮が営まれることもなく、天皇の遺骸はその日のうちに王宮横に埋葬されたと『日本書紀』は伝える。

皇暗殺という前代未聞の事件を引き起こした張本人でありながら、蘇我馬子はさすがに希代の大政治家だった。人心を収攬するために、彼がとった秘策は、我が国最初の女帝・推古天皇の登極である。しかし、女帝も馬子の暴走に歯止めをかける策として、登極と同時に厩戸皇子を摂政に任命した。その年の暮れも押し迫った12月8日のことである。

87年に誅殺された穴穂部皇子も592年に暗殺された崇峻天皇も、用明天皇の皇后だった厩戸皇子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女の実弟である。厩戸皇子から見れば、いずれも伯父にあたる人物だ。女帝の摂政としてこの国の舵取りを任された厩戸皇子であれば、皇位継承の最も近い位置にいた穴穂部皇子や実際に皇位を継承した崇峻天皇を、それなりの礼をもって改葬することを当然考えたであろう。崇峻天皇を改葬した墓ならば、法隆寺が「陵山」と呼んできた理由も納得できる。

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博物館のエントランスホールに置かれた
藤ノ木古墳出土の履(レプリカ)
ノ木古墳の被葬者=穴穂部皇子&宅部皇子説が有力なようだが、筆者は穴穂部皇子と崇峻天皇を合葬したのではないかと勝手に想定している。この場合、南側の遺骸は穴穂部皇子、北側の遺骸は崇峻天皇であろう。石室内に残っていた人骨の残り具合には上記のように差があった。その差はおそらく5年という死亡時期の差であろう。

ノ木古墳は厩戸皇子の伯父にあたる穴穂部皇子と崇峻天皇を改葬した墓であると理解することで、なぜ法隆寺が崇峻天皇の廟としてこの墓を守り、手厚い供養を行ってきたかも理解できる。藤ノ木古墳は未盗掘の墓ではない。石棺こそ開けられた形跡はなかったが、石室には江戸時代の終わりころまでは被葬者を供養するために、石室内にしばしば人が出入りしていたようだ。その証拠に、石棺の正面に置かれた須恵器の器台の端に灯明芯が燃えた痕跡が残っていた。また、玄室の入口近くにまとめておかれた土器の中にも江戸時代の灯明皿が残っていた。

藤ノ木古墳出土の太刀<
藤ノ木古墳出土の太刀(**)
隆寺に伝わる古文書によれば、安政元年(1854)12月29日の夜、墓辺寺だった宝積寺が焼け、31年間寺を守ってきて「ミササギの尼」と呼ばれていた尼僧が焼死したという。第5次の発掘調査で、墳丘の南側で焼け土や炭など建物が焼亡した痕跡が見つかり、この事実が確認されている。

際に藤ノ木古墳の発掘調査に参加した前園教授は、石室の詳しい観察を記録しておられる。それによると、不思議なことにもっとも加重がかかる最下段の石が極端に小規模だという。そのため、上の段の大型石材の加圧で亀裂が認められる部分もあるようだ。また、石の採取地や石の種類も異なる。下部の小型石材には近くの矢田丘陵で入手できる花崗岩だが、上部の大型石材には竜田川原に見られる雲母石英閃緑岩が使われている。教授は、こうした事実から、当初はさほど規模が大きくない石室の墓作りが計画され構築を開始したが、なんらかの要因で途中で計画を変更する必要が生じたのでは、と憶測しておられる。

授の憶測をさらに敷衍すれば、厩戸皇子は当初は不運な死と遂げた穴穂部皇子の改葬だけを考えたのかもしれない。だが、墓の築造が開始された頃、崇峻天皇が暗殺され殯も営まれずに埋葬されてしまった。その処置に哀れと憤りを感じて、崇峻天皇の遺骸も引き取ってこちらに改葬することに方針を変えたのかもしれない。

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北側被葬者が身につけていた
装身具のレプリカ(*)
ノ木古墳から出土した副葬品は見事である。石室奥壁と石棺に挟まれたわずか80cmの隙間からは、東アジアでも類を見ないほど豪華で精巧な馬具類が出土した。石棺内から取り出された刀剣や冠、履(くつ)をはじめとする金銅製品は、過剰なほど金の輝きを強調したものだった。また、被葬者が身につけていた装身具も1万点をこえるガラス玉と金属製品で構成され、ヒスイや瑪瑙で作られた従来の勾玉や管玉といった硬玉の飾りは一点も存在しなかった。

る年の夏、燃えさかる太陽からまばゆい光が降り注ぐ半完成の石室の中で、しめやかな改葬の儀式が執り行われた。半ば白骨化した二つの遺骸はきれいに洗われて豪華な装飾品で飾られると、深紅の布で覆われた。朱塗りの棺の内部には所狭しと死出の旅路を飾る副葬品が納められた。参列者は棺のまわりに集まり、それぞれ手にもった供花のベニバナを棺の中に置いた。参列者から一歩距離をおいて儀式の様子を見守っていた厩戸皇子は、片手をかざして青空を見上げると、
「伯父たちよ、ここで安らかな眠りについてくれ。あなた方の供養は、わが子孫が永久に受け継いでくれるであろう」
と、呟いたかもしれない。そうした光景が眼前に浮かんでくるようだ。だが、太子の願いも長くは続かなかった。それから半世紀後、太子の一族を襲った一族全滅という悲劇を我々は知っている。



【参考文献】@橿考研附属博物館 特別展図録第68冊「金の輝き、ガラスの煌めき」
A前園実知雄著「斑鳩に眠る二人の貴公子 藤ノ木古墳」(新泉社刊 シリーズ「遺跡を学ぶ」032)
【画像引用】(*)@より転記、(**)Aより転記


2008/11/07作成 by pancho_de_ohsei return