橿原日記 平成20年10月24日

相次いで報告される万葉木簡の出土例

『万葉集』のタイトルに込められた編纂者の願い

二十巻からなる『万葉集』は、言うまでもなく我が国で編纂された最初の歌集だが、その成立に関して詳しいことはわかっていない。通説では、一人の編者によってまとめられた歌集ではなく、いくつかの時代的な変遷を経て、最終的には大伴家持(おおとものやかもち)によって二十巻にまとめられたと考えられている。その時期は、奈良時代も終わりに近い延暦2年(783)頃と推定されている。

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京都大学附属図書館所蔵 
近衛文庫 『万葉集(近衛本)』
の歌集のタイトルを『万葉集』と命名したのが大伴家持だったかどうかは判らない。しかし、編纂者は己の願いと自負を込めて「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」というタイトルを選んだに相違ない。万葉の「葉」は木の葉の「葉」ではなく、後葉などの「葉」と同じく「世」の意味である。

かし、『古今和歌集』などと違って『万葉集』は公に認知された歌集とはならなかった。その理由はおそらく家持が死んだ翌年の延暦4年(785)に発生した藤原種継暗殺事件に関係があるのだろう。家持はこの事件の首謀者とされ、死後であっても官位剥奪、財産没収という重い刑罰に処せられた。彼の処分が解除され生前の従三位に復位されたのは延暦25年(806)、事件発生から21年後のことである。

纂者がこの歌集のタイトルに託した願いは、現代の我々にも届いている。天皇、貴族から下級官人、防人など様々な身分の人間が当時詠んだ4500首以上もの歌の中には、今だに多くの人に愛され、人口を膾炙している歌が多い。

代人だけではない。最終的に全二十巻に編纂される以前から、多くの歌が飛鳥時代や奈良時代の知識人の教養として歌い継がれてきたと思われる。そうした事実の証(あかし)は、最近になって古代遺跡の発掘現場から次々と出土している。他でもない、万葉仮名で歌の一部を記した木片、すなわち万葉木簡である。



次々と古代遺跡から出土する木簡に記された万葉歌

 徳島市の観音寺遺跡から出土した最初の万葉木簡

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万葉仮名で書かれた木簡(右)と
「国守」の文字がある木簡(左)
葉木簡が最初に発見されたのは、今からおよそ20年前の昭和という時代が終わった節目の年までさかのぼる。古代の地方行政機関「阿波国府」の跡とされる観音寺遺跡が、徳島市国府町にある。1989年(平成元年)11月4日、この遺跡を調査していた徳島県埋蔵文化センターは、古今和歌集の有名な「難波津」(なにはづ)の和歌と、中央から国府に派遣された国司の長官を表す「国守」の文字が墨書された木簡が出土した、と発表した。木簡はいずれも国府跡推定地の7世紀末の層から見つかったという。

葉仮名で書かれた和歌は、それ以前にも見つかっている。法隆寺五重塔で見つかった8世紀初めの天井板には、和歌の「落書き」が書かれていた。当時はこれが最も古いとされてきた。したがって、観音寺遺跡から出土した万葉木簡はこの落書きからさらに時代を遡ることになる。

さ16cm、幅4.3cmの木簡には、万葉仮名で「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈」と墨書されていた。これは、紀貫之(きのつらゆき)が万葉仮名を習う手本として、『古今和歌集』の序文に引用した「難波津に咲くやこの花冬こもり今は春べと咲くやこの花」という有名な歌の一部である。出土木簡は、当時の下級役人が万葉仮名の手習いとしてこの歌を墨書したものと推定されている。

 難波宮跡から出土した7世紀半ばの万葉木簡

葉仮名で「皮留久佐乃」と和歌を墨書した木簡が大阪市中央区の難波宮跡で見つかったのは、2年前の2006年(平成18年)のことである。

難波宮跡から出土した万葉木簡
難波宮跡から出土した万葉木簡
阪市教育委員会と同市文化財協会が同年10月12日に行なった記者発表によると、難波宮の南西隅でマンション建設に伴う発掘調査を実施したところ、この木簡が見つかった。出土地は難波宮造営のために谷を埋め立てたと見られる場所で、木簡は整地層の下から出土した。一緒に出土した土器の形式などから、西暦652年に完成する難波宮以前の7世紀中頃に作られたものと推定されている。

簡は長さ約18.5cm、幅約2.6cmの大きさで、赤外線撮影の結果、「皮留久佐乃皮斯米之刀斯□」(□は判読不能)と、11文字が墨書され、「春草のはじめの(し)とし……」と読めるという。木簡は12字目をわずかに残して途中で折れていた。「春草の」は万葉集では枕詞(まくらことば)として使われることが多いから、和歌の冒頭部と推定された。

だし、『万葉集』には木簡に記されたような和歌は記載されていない。一字ずつ丁寧に書かれており、習字や落書きとは考えられず、おそらく新年などを祝う宴会で詠まれた目出度い歌だったのでは・・・と考えられている。この木簡は、現在までのところ、万葉仮名で書かれた万葉木簡の最古の例とされている。

 今年の5月、滋賀県甲賀市の宮町遺跡から出土した木簡

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万葉集の一首が記された木簡(左)と
デジタル赤外線の写真(右)
賀県甲賀市の宮町遺跡は、奈良時代に聖武天皇(701〜756年)が紫香楽宮を造営した旧蹟である。1997年(平成9年)の発掘調査で、宮跡の西側を南北方向に流れる基幹排水路跡とみられる溝から木簡が出土した。木簡の上半部で7.9cmと14cmの2片に分かれ、いずれも幅は2.2cm、厚さ1mmだった。一部が焼損しており、元の長さは50センチ前後だったとみられている。

土した時点では、木簡の両面に万葉仮名で和歌が墨書されており、片面には「奈迩波ツ尓(なにわづに)」など13文字が記されていることが判った。しかし、別の面の歌は判読できなかった。2007年末に、赤外線を使って再調査したところ、こちらの面には万葉仮名で「阿佐可夜(あさかや)…流夜真(るやま)」と7文字が書かれていることが確認された。こうして、木簡の両面に、「なにはつの歌」と「あさかやまの歌」がそれぞれ墨書されることがことが判明した。

水路跡から同時に見つかった木簡(荷札)の年号から、この木簡は744年(天平16年)末〜745年(天平17年)初めに捨てらたと考えられている。

簡の両面に墨書されていた2首の和歌は、実は密接な関係にある。905年(延喜5年)に記された『古今和歌集』の序文である「仮名序」で、撰者の紀貫之は、この2首は「歌の父母であり、手習う人が最初に学ぶもの」と記述している。つまり、初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。2首をセットにしたのは貫之の独創と思われていたものが、実はその150年前からセットとして認識されていたことが、この木簡の出土で判明した。

なみに、「なにはつの歌」は上記の観音寺遺跡から出土した木簡に墨書されていたのと同じ歌である。すなわち、
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
冬を終えて難波津に花が咲いた、との歌意で、百済からの渡来人王仁(わに)が、仁徳天皇の即位を祝って詠んだとされている。

方、「あさかやまの歌」は、『万葉集』の巻十六に由緒書きを添えて記載されている次の歌である。
安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 吾思はなくに (巻16-3807)
由緒書きから、陸奥国に派遣された王が当地のもてなしに不満を示した際に、機転を利かせた女性が、誠意を表そうと詠んだ歌とされている。

らに、この木簡の出土時期は『万葉集』成立に対して重大な示唆を与えている。契沖(けいちゅう)が『万葉集』は巻1〜巻16で一度完成し、その後巻17〜巻30が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、万葉集が巻16を境に分かれるという考えが根強い。木簡が作られた時期が744年末〜745年初め頃との推定が正しければ、その頃には『万葉集』は一度完成していることになる。

町遺跡で見つかったこの木簡は、市教委の言葉を借りれば「二大歌集にかかわる、古典文学研究上の極めて重要な発見」であるが、市の財政難のためレプリカ(複製品)を作って常設展示するのが難しいとのことだ。そのため、市は保存と修理費を確保するため、本年度は宮町遺跡の発掘調査を中断したと伝えられている。

 明日香村の石神遺跡でも出土していた7世紀後半の万葉木簡

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万葉歌が刻まれていた木簡
良県明日香村の石神遺跡で出土した7世紀後半の木簡にも、万葉集の和歌が記されていた。木簡は、奈良文化財研究所(=奈文研)の2003年度の石神遺跡発掘調査で、溝付近から出土していた。同じ溝から天武・持統朝(672〜697年)の木簡が見つかっており、同時期のものとみられる。

簡は長さ9.1cm、幅5.5cm、厚さ6mmの羽子板のような形をした木片で、左から左右2列にわたって7文字ずつ、「阿佐奈伎尓伎也(あさなきにきや)」、「留之良奈●麻久(るしらなにまく)」と刃物状のもので万葉仮名が刻まれていた。同研究所は当初、右から左へ読む一般的な木簡の読み方で墨書文字を解釈しようとした。そのため、「和歌の可能性がある」としながらも、意味をつかむことができなかった。

本書道史が専門の筑波大大学院准教授の森岡隆氏は、これを左から読んで、『万葉集』に収められた次の歌の一部であることを明らかにされた。そのことを今春、専門紙に論文で発表されていたことを、今月17日付けの新聞は報じている。
朝なぎに 来寄る白波 見まく欲(ほ)り 我はすれども 風こそ寄せね (巻7-1391)

の歌の作者は未詳だが、白波を恋人にたとえて、「朝なぎに寄せ来る白波を見たいけれども、風は吹いてくれない」と、恋人に会う機会がなかなか訪れないことを嘆いている。

 木津川市の馬場南遺跡から出土した奈良時代中・後期の歌木簡

馬場南遺跡から出土した万葉木簡
馬場南遺跡から出土した
歌木簡
月22日、京都府府埋蔵文化財調査研究センターは、現在発掘調査中の馬場南遺跡(旧・文廻( ぶんまわり)池遺跡、所在 京都府木津川市)から万葉木簡が出土したと発表した。上記の宮町遺跡および石神遺跡についで、今年になって3例目の発見である。

埋蔵文化財調査研究センターは、関西文化学術研究都市の開発事業に伴う発掘調査を今年の4月から実施してきた。この馬場南遺跡は古代の木津の港から続く古道沿いに位置し、平城宮や東大寺への分岐点にあたる交通の要衝にある。現場は山や水が造形され、仏像の周囲を飾ったとみられる三彩陶器や「神雄(尾)寺」などと記した墨書土器、大量の灯明皿が出土した。そのため、専門家は、有力な貴族が関係する文献にない山寺の跡では、と注目しているという。

つかったのは木簡の一部で、ゴミ捨て場と見られる川の跡から土師(はじ)器などの破片とともに出土した。土器の年代から、750〜780年ごろに捨てられたものと推測され、大伴家持が最終的に『万葉集』を編纂した時期とほぼ一致する。木片は長さ23.4cm、幅2.4cm、厚さ1.5cmで、歌を記すための通常の木簡より一回り大きい「歌木簡」の一部とみられる。墨を使い万葉仮名で「阿支波支乃之多波毛美智」(あきはぎのしたばもみち)の11文字が縦書きされ、下部が途中で折れていた。

センターによると、この木簡は『万葉集』巻10にある、読み人知らずの次の歌の冒頭の部分とのことだ。
秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ゆけば 風をいたみかも (巻10-2206)
意味は、萩の下の葉が色づいてきた。月日がたって、風が強くなったからだろうか。

外線カメラで見ると、裏には字の練習の跡とみられる「馬」などの文字が残されており、手習いをしつつ流行歌をしたためた様子がうかがえるという。



2008/10/24作成 by pancho_de_ohsei return