次々と古代遺跡から出土する木簡に記された万葉歌徳島市の観音寺遺跡から出土した最初の万葉木簡
万葉仮名で書かれた和歌は、それ以前にも見つかっている。法隆寺五重塔で見つかった8世紀初めの天井板には、和歌の「落書き」が書かれていた。当時はこれが最も古いとされてきた。したがって、観音寺遺跡から出土した万葉木簡はこの落書きからさらに時代を遡ることになる。 長さ16cm、幅4.3cmの木簡には、万葉仮名で「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈」と墨書されていた。これは、紀貫之(きのつらゆき)が万葉仮名を習う手本として、『古今和歌集』の序文に引用した「難波津に咲くやこの花冬こもり今は春べと咲くやこの花」という有名な歌の一部である。出土木簡は、当時の下級役人が万葉仮名の手習いとしてこの歌を墨書したものと推定されている。
難波宮跡から出土した7世紀半ばの万葉木簡万葉仮名で「皮留久佐乃」と和歌を墨書した木簡が大阪市中央区の難波宮跡で見つかったのは、2年前の2006年(平成18年)のことである。
木簡は長さ約18.5cm、幅約2.6cmの大きさで、赤外線撮影の結果、「皮留久佐乃皮斯米之刀斯□」(□は判読不能)と、11文字が墨書され、「春草のはじめの(し)とし……」と読めるという。木簡は12字目をわずかに残して途中で折れていた。「春草の」は万葉集では枕詞(まくらことば)として使われることが多いから、和歌の冒頭部と推定された。 ただし、『万葉集』には木簡に記されたような和歌は記載されていない。一字ずつ丁寧に書かれており、習字や落書きとは考えられず、おそらく新年などを祝う宴会で詠まれた目出度い歌だったのでは・・・と考えられている。この木簡は、現在までのところ、万葉仮名で書かれた万葉木簡の最古の例とされている。
今年の5月、滋賀県甲賀市の宮町遺跡から出土した木簡
出土した時点では、木簡の両面に万葉仮名で和歌が墨書されており、片面には「奈迩波ツ尓(なにわづに)」など13文字が記されていることが判った。しかし、別の面の歌は判読できなかった。2007年末に、赤外線を使って再調査したところ、こちらの面には万葉仮名で「阿佐可夜(あさかや)…流夜真(るやま)」と7文字が書かれていることが確認された。こうして、木簡の両面に、「なにはつの歌」と「あさかやまの歌」がそれぞれ墨書されることがことが判明した。 排水路跡から同時に見つかった木簡(荷札)の年号から、この木簡は744年(天平16年)末〜745年(天平17年)初めに捨てらたと考えられている。 木簡の両面に墨書されていた2首の和歌は、実は密接な関係にある。905年(延喜5年)に記された『古今和歌集』の序文である「仮名序」で、撰者の紀貫之は、この2首は「歌の父母であり、手習う人が最初に学ぶもの」と記述している。つまり、初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。2首をセットにしたのは貫之の独創と思われていたものが、実はその150年前からセットとして認識されていたことが、この木簡の出土で判明した。
ちなみに、「なにはつの歌」は上記の観音寺遺跡から出土した木簡に墨書されていたのと同じ歌である。すなわち、
一方、「あさかやまの歌」は、『万葉集』の巻十六に由緒書きを添えて記載されている次の歌である。 さらに、この木簡の出土時期は『万葉集』成立に対して重大な示唆を与えている。契沖(けいちゅう)が『万葉集』は巻1〜巻16で一度完成し、その後巻17〜巻30が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、万葉集が巻16を境に分かれるという考えが根強い。木簡が作られた時期が744年末〜745年初め頃との推定が正しければ、その頃には『万葉集』は一度完成していることになる。 宮町遺跡で見つかったこの木簡は、市教委の言葉を借りれば「二大歌集にかかわる、古典文学研究上の極めて重要な発見」であるが、市の財政難のためレプリカ(複製品)を作って常設展示するのが難しいとのことだ。そのため、市は保存と修理費を確保するため、本年度は宮町遺跡の発掘調査を中断したと伝えられている。
明日香村の石神遺跡でも出土していた7世紀後半の万葉木簡
木簡は長さ9.1cm、幅5.5cm、厚さ6mmの羽子板のような形をした木片で、左から左右2列にわたって7文字ずつ、「阿佐奈伎尓伎也(あさなきにきや)」、「留之良奈●麻久(るしらなにまく)」と刃物状のもので万葉仮名が刻まれていた。同研究所は当初、右から左へ読む一般的な木簡の読み方で墨書文字を解釈しようとした。そのため、「和歌の可能性がある」としながらも、意味をつかむことができなかった。
日本書道史が専門の筑波大大学院准教授の森岡隆氏は、これを左から読んで、『万葉集』に収められた次の歌の一部であることを明らかにされた。そのことを今春、専門紙に論文で発表されていたことを、今月17日付けの新聞は報じている。 この歌の作者は未詳だが、白波を恋人にたとえて、「朝なぎに寄せ来る白波を見たいけれども、風は吹いてくれない」と、恋人に会う機会がなかなか訪れないことを嘆いている。
木津川市の馬場南遺跡から出土した奈良時代中・後期の歌木簡
同埋蔵文化財調査研究センターは、関西文化学術研究都市の開発事業に伴う発掘調査を今年の4月から実施してきた。この馬場南遺跡は古代の木津の港から続く古道沿いに位置し、平城宮や東大寺への分岐点にあたる交通の要衝にある。現場は山や水が造形され、仏像の周囲を飾ったとみられる三彩陶器や「神雄(尾)寺」などと記した墨書土器、大量の灯明皿が出土した。そのため、専門家は、有力な貴族が関係する文献にない山寺の跡では、と注目しているという。 見つかったのは木簡の一部で、ゴミ捨て場と見られる川の跡から土師(はじ)器などの破片とともに出土した。土器の年代から、750〜780年ごろに捨てられたものと推測され、大伴家持が最終的に『万葉集』を編纂した時期とほぼ一致する。木片は長さ23.4cm、幅2.4cm、厚さ1.5cmで、歌を記すための通常の木簡より一回り大きい「歌木簡」の一部とみられる。墨を使い万葉仮名で「阿支波支乃之多波毛美智」(あきはぎのしたばもみち)の11文字が縦書きされ、下部が途中で折れていた。
同センターによると、この木簡は『万葉集』巻10にある、読み人知らずの次の歌の冒頭の部分とのことだ。 赤外線カメラで見ると、裏には字の練習の跡とみられる「馬」などの文字が残されており、手習いをしつつ流行歌をしたためた様子がうかがえるという。 |