橿原日記 平成20年10月10日

継体(けいたい)天皇の母・振媛(ふりひめ)の故郷の古墳を巡る

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二本松山古墳の墳頂から九頭竜川を望む(撮影 2008/10/10)

昨年は継体天皇即位1500年を記念する節目の年だった

福井市足羽山の山頂に立つ継体天皇の像
福井市足羽山の山頂に立つ継体天皇の像
井市の市街地の中心に、桜の名所として知られる足羽山(あすわやま)がある。市内を貫流する足羽川や周囲に広がる福井平野が山頂から一望できる足羽山公園は、市民のオアシスとなっている。足羽山にはもう一つの別の顔があり、数十基にもおよぶ古墳が築かれている。山頂には、今から1600年あまり前に築かれた円墳があり、現在でも直径約60m、高さ約7mを測る。その名もずばり山頂古墳という。

頂古墳の上に、巨大な像がそびえている。福井地方の石匠たちが、凝灰岩の一種である地元産の笏谷石(しゃくだにいし)を用いて、明治16年に完成させた継体天皇の像だ。この石像は、継体天皇が治水に際して水門を開いたと伝えられる北北西の三国港を遙かに望んでいる。昭和23年の福井大地震で倒壊したため、現在の像は修復復元されたものだそうだ。正直にいうと、いささか頭でっかちのこの彫像は、いつ見ても筆者の好みではない。

味真野(あじまの)園の「花がたみの像」
味真野(あじまの)園の「花がたみの像」
体天皇の”継体”という天皇名は、奈良時代に淡海三船(おうみのみふね、722-785)が撰進した漢風諡号(しごう)である。また、”天皇”という称号も、それまでの”大王”に代わって7世紀後半の天武朝あたりから使われ出した称号とされている。したがって、継体天皇は、登極する以前は男大迹(オホド)王と呼ばれ、登極後は男大迹(オホド)大王と呼ばれていたにちがいない(以下では、この天皇をオホド王、オホド大王と呼ぶことにする)。

承によれば、即位前のオホド王は、日野川・足羽川・九頭竜川を修理し、水口を三国に求め、福井平野の水を排水して広大な耕地を開いたとされている。その頃のオホド王は、農業殖産を奨励して住民の生活向上に尽くした若き族長のイメージが強い。道教の仙人のように長く白い頬髭を蓄えた老人の姿は、筆者のイメージからはほど遠い。むしろ、謡曲「花筐(はながたみ)」をモチーフに平成13年に作られた越前の里・味真野(あじまの)園の「花がたみの像」の方が、筆者の描く大王像に近い。


羽山山頂の石像が年老いた老人のイメージで制作されたのは、おそらく『日本書紀』(以下、『書紀』と略記)に記されたオホド大王即位の記述が影響しているのだろう。『書紀』はオホド大王誕生の経緯を次のように伝えている。

西暦506年12月に武烈大王が後継を定めぬまま崩御してしまった。武烈には子がなく皇統を継ぐべき親族もなかったため皇統断絶という事態に見舞われることになった。そこで、大連(おおむらじ)の大伴金村らは、皆と協議して丹波国桑田郡にいた仲哀大王の五世の孫にあたる倭彦(やまとひこ)王を次期大皇に推戴することにした。ところが、武威を整えて出迎えに赴いた一行を望見して、倭彦王は恐怖し、山中に遁走してしまった。

天皇堂
天皇堂 (所在:坂井市丸岡町女形谷15−7)

伴金村は、再び大連の物部麁鹿火(もののべのあらかい)や大臣(おおおみ)の許勢男人(こせのおひと)などと協議して、越前三国の坂中井(さかない)に居を構える応神大王の五世の孫のオホド王を新たに大王に推戴することにした。年が明けた507年1月、御輿を備えて迎えに行くと、オホド王はゆったりと床几に腰掛け、侍臣を整列させ一行を迎えたという。

継体天皇想像図
継体天皇想像図
ホド王が大和からの使者を迎えて会見したと伝えられている場所が、丸岡町女形谷(おながだに)集落のはずれの水田の一角にある。「てんのう堂」と呼ばれている場所で、丸岡町の史跡に指定され「天皇堂跡」の碑が建っている。サルスベリと桜とアスナロの木がそびえ、その根元に小さな祠とオホド王が腰掛けたとされる石が置かれているだけの史跡だが、丸岡町教育委員会が立てた案内板には威風堂々としたオホド王の想像図が描かれている。

ホド王は、突然の要請に疑心暗鬼ですぐには登極を承知されなかった。しかし、かねて昵懇にしていた河内の馬飼首荒籠(うまかいのおびと・あらこ)からの情報を得て、皇位につくことを承諾して越前を出た。そして、2月4日、河内国交野の葛葉(くずは)の宮で第26代大王として即位し、武烈大王の姉にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。

に、オホド王の年齢は数え年で58歳。現在の年令で言えば満57歳である。普通のサラリーマンなら、数年後の定年を控えて第二の人生を考える年だ。1500年も昔なら、人間の平均寿命は今よりはるかに短かったはずである。織田信長は「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢まぼろしのごとくなり」で知られる能の『敦盛』を好んで舞ったという。信長の時代ですら、人生五十年と言われた平均寿命である。

書紀』によれば、オホド大王は在位25年目の531年の2月7日に崩御している。すでに82歳の高齢だった。しかも、彼の在位中に、大后として迎えた手白香皇女との間に後の欽明大王をもうけている。とてもではないが、『書紀』の年齢記述には何かの間違いがあると考えざるを得ない。

盾はオホド大王の年齢だけではない。オホド大王の死亡年にも謎がある。国内には大王は在位28年で崩御したという史料が存在した。しかし、『書紀』の編者はわざわざ渡来人が作成した『百済本記』という史書に基づいて、上記のように在位25年で崩御したと記述している。さらに、オホド大王のみならず、皇太子や皇子も一緒に亡くなったとする異聞まで付記している。一方、オホド大王は507年2月に河内国交野の葛葉(くずは)の宮で即位した後、樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮と宮居を点々と変え、大和に入るのに20年も要している。その背景も謎である。

らに付け加えるならば、『書紀』の継体紀には、朝鮮半島南部を巡る外交問題と磐井の反乱以外、これと言った事績の記述がない。25年も在位したのであれば、その間にさまざまな国内問題が発生していたはずだが、ほとんど触れられていない。これも謎である。要するに、記紀を背景にオホド大王の実像に迫ろうとしても謎だらけなのだ。


振媛想像図
振媛想像図
丸岡町教育委員会作成
案内板より
年は、オホド大王が即位して1500年目にあたる節目の年だった。各地で歴史シンポジウムや講演会などさまざまな催しが開かれ、一種の継体フィーバーと呼びたい現象が起きた。そうしたフィーバーぶりは地域おこしの運動に連動したものだったが、その一つに、オホド大王の出身地をめぐる論争があった。昨年出版された継体天皇関連の出版物や各地で催された講演会でも、オホド大王は近江の出か越前の出かで、すいぶん争われた。

由は、『書紀』ではオホド王を越前三国の坂中井(さかない)から迎えたと記しているのに対して、『古事記』では「オホド王を近つ近江国から招き寄せ、手白髪皇女と娶(めあわ)せ、天下を授けた」と記しているためである。『書紀』もオホド王の出生地は近江としているが、成長したのは越前であることを伺わせる次のような記述になっている。

なわち、オホド王の父・彦主人(ひこうし)王は近江国高嶋郡三尾の別業(=別荘)にいたとき、三国の坂中井(さかない)の振媛(ふりひめ)の美貌を聞き、呼び寄せて妃(きさき)とし、オホド王が生まれた。しかし、オホド王がまだ幼い頃、彦主人王が死んでしまった。親族もいない近江にあっては子育てもままならない、と将来に不安を抱いた振媛は、オホド王を伴って故郷の越前三国の高向(たかむく)に戻り、オホド王を育てた。

まり、オホド王の出生地は近江だが、幼少の頃母の実家のある越前の高向に移り住み、そこで成長したことになる。そして、その地で大伴金村らに天下の主として迎えられた。丸岡町の高田集落の中に、振媛を祭神として祀る高向神社(所在:坂井市丸岡町高田1−7)がある。この神社が鎮座するあたりに、かって高向の宮があったと推察されている。そうであれば、幼くしてこの地に移り済んだオホド王は、周囲の山野に親しみながら母方の豪族の庇護のもとに成長をしていったにちがいない。

高向の宮推定地に鎮座する高向神社
高向の宮推定地に鎮座する高向神社



オホド大王の出現を可能にした氏族の奥津城

ームとは一過性のものである。継体天皇即位1500年で大騒ぎした地元でも、年が変わると、あの熱気がまるで嘘のように引いてしまった。今年は「源氏物語千年紀」とやらで、紫式部がもてはやされている。だが、福井県で生まれ育った筆者としては、以前から気になっていることがある。大王として登極するまでのオホド王の事績であり、彼の成長を陰で支えた地方豪族の実態である。

九頭竜川
九頭竜川
に『書紀』の記述を信用するとしても、オホド王が史書に登場するのは58歳からである。彼の即位年は西暦507年とされているから、逆算すれば、誕生は450年になる。父・彦主人(ひこうし)王と死別したのが4〜5歳の頃と仮定したとして、その後の50有余年を、母方の実家があった越前三国の高向(たかむく)あるいはその周辺で育てられ、そして越の国の王の中の王にまでのし上がったことになる。史書は、残念ながらその間の事績を何も語ってはくれない。

料は残っていないが、地元には幾つかの伝承は語り継がれてきた。その一つは福井平野の治水事業である。オホド王が越前に住んでいた頃、福井平野は日野川・足羽川・九頭竜川が流れ込む大きな湖で、洪水のたびに周辺は水害に悩まされた。そこで、湖の水を排出するために三国の河口を広くして、福井平野を広大な耕地に変えたとされている。

川上御前を祀る大瀧神社
川上御前を祀る大瀧神社
本最古の越前漆器の産地として知られる現在の鯖江市河和田地区では、地域の住民に漆器作りを生業とするように奨励したのは、オホド王だったと伝えられている。越前市今立地区では、オホド王の寵愛する川上御前が、大滝を流れる岡本川の清らかな流れを見て、「この地は清らかな水に恵まれているから、紙漉きをして生計をたてると良い」と、紙漉きの技を村人たちに伝授したとのことだ。足羽山の笏谷石の利用方法を民に教えたのも、オホド王だったとされている。


書紀』は、オホド王の父・彦主人王が越前三国の坂中井(さかない)の振媛(ふりひめ)の美貌を噂を聞いて結婚を申し込んだと記す。しかし、彦主人王が振媛を妃に所望したのは、彼女が美人だったからだけではないであろう。越前三国を治める氏族との連携を強めるという政治的意図が主な要因だったことは、容易に想像できる。

越前・若狭の国造と前方後円墳の分布
越前・若狭の国造と前方後円墳の分布(*)
媛が幼いオホド王と伴って戻った越前三国は、九頭竜川が形成した福井平野の北半分を占める土地である。九頭竜川の河口に三国湊をもつ豊かな穀倉地帯であり、まさに越前の中核をなす地域だった。考古学的知見によれば、4世紀初め頃、福井県の嶺北地方で前方後円墳がつくられはじめ、4世紀中頃からは九頭竜川中流域で大規模な首長墓が造られるようになった。

世紀になると福井県の嶺南地方でも主に若狭町付近で前方後円墳がつくられはじめる。この地域はヤマト王権に海の幸を貢納する「御食つ国(みけつくに)」であった。 5世紀後半から6世紀にかけて若狭、高志、三国、角鹿の国造(くにのみやつこ)が置かれ、この頃にはヤマト王権の影響が及んでいたと考えられている。そして、三国国造が置かれた地域は、オホド王がその即位までを過ごした地域とされている。

越の大首長墓
越の大首長墓(*)
井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館の館長・青木豊昭氏は、筆者と同郷の考古学者である。昨年の継体天皇ブームでは、あちこちのシンポジウムに講師として招かれ、独特の福井弁で継体天皇越前出自説を力説された。氏の主張の根底になっているのが、九頭竜川を挟んだ右岸と左岸の海抜150〜271mの山の稜線上に営々と築かれ続けた大首長墓の存在である(丸岡・松岡古墳群の首長墓参照)。

木氏の説明によれば、4世紀の後半に九頭竜川左岸の標高150mの丘陵上に手繰ケ城山(てぐりがじょうやま)古墳が出現する。これが越前の第一広域首長墓で、全長129mを測る大型の前方後円墳である。北陸で最初に出現した前方後円墳であり、その規模は北陸で第2位を誇るという。

繰ケ城山古墳に続いて、九頭竜川右岸の標高200mの上久米田(かみくめだ)の山上に、4世紀末から5世紀の初め頃に六呂瀬山1号墳六呂瀬山3号墳が相次いで築造された。その後、高須という日本海に面した山頂に、免鳥山(めんどりやま)古墳(5世紀前半)という三方に張り出しをもつ円墳が築かれた。しかし、5世紀後半になると、大首長の奥津城は再び九頭竜川の右岸に戻り、旧松岡を南北に貫く丘陵の尾根上に、石舟山古墳(5世紀第V四半期)、二本松山古墳(5世紀第W四半期)、鳥越山古墳(6世紀第T四半期)が次々と築かれていく。

丸岡・松岡古墳群の所在地
丸岡・松岡古墳群の所在地
者の推定では、オホド王の母・振媛が生まれ故郷の高向に息子を連れて戻ったのは450年代のはずである。その実家は当時の越前三国の地域を支配していた三尾氏だったと推定される。オホド大王の妃として三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の妹・稚子媛(わかこひめ)、三尾君堅●(みおのきみかたひ)の妹・倭媛(やまとひめ)の名が知られている。したがって、三尾氏が実在したことは事実のようだ。

般には、三尾氏は近江北部の豪族と理解されているようだが、越前三国にも三尾を名乗る豪族がいた証(あかし)がある。専門家は、正倉院に現存する天平五年(732)の『山背国愛宕郡計帳』(やましろのくにおたぎぐんけいちょう)に記された人物に、「越前国坂井郡水尾郷にあり」との注記があり、当時坂井郡に水尾郷という郷が存在したことを示している。『延喜式』の兵部省式の越前国駅馬の条に、三尾の駅名が見える。坂井市三国町にある大湊(おおみなと)神社の祭神は、三尾君の祖神とも伝えられている三保大明神(三尾大明神)である。さらに、現在でも福井市内の日野川に近いところに三尾野という地名が残っている。

そらくオホド王は越前・近江連合のシンボルとして越前三国で大切に育てられたであろう。やがて彼は近江だけではなく、尾張や美濃の豪族とも婚姻関係を結び、次第に越の国の王の中の王にのしあがっていく。その彼を支えたのは、母の実家である三尾氏だったにちがいない。5世紀後半に築造された石舟山古墳二本松山古墳は、あるいはオホド王が一族の先頭にたって築いた祖父または主要メンバーの墓だったかもしれない。

世紀初頭以降、一族の奥津城は北上して旧金津町の横山古墳群に遷っていく。その中の神奈備山古墳は築造時期が6世紀第U四半期と想定されているが、この古墳の埋葬施設は横穴式石室を採用し、内部に石屋形を安置している。つまり、従来の刳り抜き式石棺を直接埋納していた方法から、「畿内」形の埋葬施設に変わった。このことは、オホド王が越前の王からヤマトの大王へと羽ばたいた時期と軌を一にする。越前がより多くヤマトの影響を受けるようになった証だろう。

者は以前、継体天皇ゆかりの近江の三尾を訪れ、彦主人王の墓に比定されている田中大塚古墳や6世紀前半に築造された鴨稲荷山古墳などを巡ったことがある(平成16年11月4日付け橿原日記参照)。しかし、今まで上記の丸岡・松岡古墳群のいずれも探訪したことがない。オホド大王のブームは去ったが、彼を育てた故地をいつかは訪れたいと思っていた。嬉しいことに、その機会を提供してくれた友人がいる。



持つべきは、やはり気心が知れた旧友

の友人の名を仮にRとしておこう。筆者の高校時代の同級生である。通学の電車が同じだったのと、文学が趣味だったので互いに文学青年を気取って同人雑誌を編集したりして、よく行動を共にしたものだ。そんな仲だったが、高校卒業と同時になぜか音信がプツリと途絶えた。その彼と実に44年ぶりに再会できたのは、平成15年の秋に浜名湖で行われた同窓会の席だった。

春時代を共有した旧友とは、実に良いものである。44年の空白などまるでなかったように、たちまち打ち解けて近況を話し合った。彼の苗字は学生時代とは変わっていた。どうやら、高校を卒業した後波乱に満ちた半生を生きてきたようだ。だが、彼の表情にはそうした苦労を感じさせない明るさがあった。今は福井市内に居を構え、悠々自適の生活を送りながら、趣味で謡曲を習い、ボランティアで私設図書館を運営している。

JR福井駅
JR福井駅
の彼から最近葉書が来た。福井へ来ることがあったら何時でも連絡してくれ、喜んでアッシー役を務めさせて貰う、との暖かい申し出だった。筆者が、九頭竜川の両岸の丘陵上に築かれた古墳群に興味を抱いていると知った上でのことである。たまたま所要で田舎へ行くことになったので、彼に電話すると、「連絡を待っていた。必要な資料はすでに揃えてある」と、まことに嬉しい返事が返ってきた。

日の午前9時15分、JR北陸線の「福井」駅の改札を出て駅前広場に立った。広場は、秋の深まりを感じさせる清々しい空気がみなぎっていた。振り返ると、今ではすっかり様変わりした駅の建物が、朝日を浴びてまぶしい。タクシー乗り場の方に視線を向けると、さかんに両手を振っている男がいる。それが本日の史跡探訪のアッシー役をかってくれたRだった。


日は山道や細い田舎道を走ることなると想定して、Rは奥さんが普段使っている軽自動車を用意してくれていた。
「さて、どのような順序で案内しようか」
福井の市街地を抜けて東へ向かう国道416号線に出ると、Rは軽快にアクセルをふかしながら聞いた。
「自慢じゃないが、考古学には余り興味がないので、君が行きたい場所は地図の上で抑えただけだ。今まで一度も探訪したことはない」
と、彼は白い歯を見せて笑った。

れてみたい古墳や史跡は、あらかじめ彼に連絡しておいたが、古墳といっても丘陵の尾根伝いに歩くことになり、所要時間は皆目見当がつかない。できるだけ多く回ることで、順番は彼に一任した。
「分かった。それではまず六呂瀬山古墳群から見ることにしよう」
と、彼は交差点でハンドルを左に切って北上する道に入った。その道は、九頭竜川に架かる五松橋を渡って、福井大学医学部付属病院の方面へ続いていく。
「ところで、九頭竜川の名前の由来を知っているか」
五松橋を渡りながら、Rが聞いてきた。

頭竜川の上流の奥越地域は多雨地帯である。山間部に降った雨は流れ下り、平野部に出ると洪水となって流路を変え、有史以来氾濫を繰り返してきた。川が流路を変える様は九匹の竜がのたうち回るのに似ていることから、川の名前になったのでは、と答えると、Rは
「そう言う説もある。でも、氾濫を繰り返したので「崩れ川」と呼ばれていたが、それが訛って九頭竜川になったようだ」と言って、少し川上に建設された鳴鹿大堰(なるかおおぜき)の説明をしてくれた。

九頭竜川鳴鹿大堰
九頭竜川鳴鹿大堰
の地には江戸時代から農業用水の水源として、川の中に石積みの堰が作られていた。戦後になって、河川の流水を用水路に引き入れるための施設として大がかりな農業用頭首工(とうしゅこう)が建設され、昭和30年に完成した。しかし頭首工が老朽化したことに加えて、水道用の水需要が増大してきたために建設省が多目的ダムとして再開発を行った。それが現在の九頭竜川鳴鹿大堰だそうだ。、周囲の景観に配慮して堰柱は、地名の鳴鹿から「鹿」をイメージしてあるという。

学部付属病院を過ぎると、Rは右折して都市緑化植物園の脇を東に向かった。道路に平行して流れる用水路の向こうに丘陵が迫っていた。その頂の稜線あたりを指し示しながら、Rは、 「あの当たりが、六呂瀬山古墳群だ」
と説明した。写真を撮ろうとしたが、堤防の雑草が邪魔してうまく撮れない。すると、彼はハンドルを切って砂利道を駆け上がり、川の堤の上に車を乗り入れた。そのとき、左側の前輪を縁石でこすったようだ。橋を渡って農道を走り出したら、車から異常音が聞こえだした。タイヤがパンクしていた。

六呂瀬山古墳群がある丘陵
六呂瀬山古墳群がある丘陵

タイヤを取り替えるR君
タイヤを取り替えるR君
は農道に車を止めてスペアタイヤと取り替えたが、空気圧が足りない。彼はしばらく車を走らせて、近くの集落にガソリンスタンドがないか探した。しかし、見つからなかったので、結局は国道416線まで戻ることになった。そのため、かなり時間をロスったことになる。

ソリンスタンドを出ると、すぐに「松岡公園」の標識が出ていた。松岡公園は丘陵の尾根の上に築かれた古墳群を順に巡って、標高273mの二本松山古墳まで行くハイキングコースの起点となっている。Rは少し迷ったようだが、予定を変更して、まず松岡古墳群から見学することを提案してきた。



往復約3kmの二本松山古墳コースに挑戦

松岡古墳群案内図
永平寺町教育委員会が掲げた松岡古墳群案内図

は丘陵の中腹にある松岡公園の駐車場まで、アクセルを噴かして一気に坂道の登りきった。駐車場は大きな給水タンクの前にあり、ハイキング用の遊歩道の登り口は駐車場の脇にあった。駐車場には10時10分に到着した。駐車場の脇に、永平寺町教育委員会が作成した松岡古墳群の案内図が立っていた。因みに、旧松岡町は町村合併で平成18年2月13日から「永平寺町」に町名が変更されている。

内図を見ると、乃木山古墳−三峯山古墳−石舟山古墳−鳥越山古墳−二本松山古墳と続く古墳群が、それぞれ峯の頂に描かれている。このうち、最後の3つが青木氏の言う三尾氏の大首長墓である。案内図には、後で登る予定の手繰ケ城山古墳も描かれていた。

ハイキングコースの登り口
ハイキングコースの登り口
内図を見上げながら,Rが言った。
「ウム、これはかなりきつい登り坂を覚悟しなければならないな」
彼の声が聞こえたのか、いつの間にか駐車場に立っている管理人らしい男が声をかけてきた。
「途中、三カ所ほど厳しい坂があります。それよりも、熊に気を付けてください。大きな声で話しながら登ったほうがいいですよ」
「エーツ、熊が出るんですか」
筆者も驚いて聞き返した。見ると、「熊に注意しましょう」という看板が立っていて、一人歩きのハイキングは避けよう、携帯ラジオなど音を出しながらハイキングしようと、注意書きが書いてあった。


乃木山古墳
乃木山古墳
■ 乃木山(のぎさん)古墳

イキングコースはよく整備されていたが、最初から急坂が続いた。道には枯れ葉に混じってドングリや栗の実が散乱している。熊に注意とあったのは、おそらくこうした木の実を求めて熊が集落近くまで下りてくるからだろう。途中で何回か小休止を入れながら、二人は息を切らして最初の古墳にたどり着いた。こざっぱりと整理された乃木山古墳である。

木山古墳は、二本松山丘陵の先端の尾根の上に築かれた全長30mを超す古墳で、このあたりの標高は110mである。地名は、大正天皇の即位を記念して、大正4年にこの場所に乃木大将の銅像が建てられたことに由来する。その時、土地の削平が行われ甕や刀が出土したとのことだ。そのため、当時からここに古墳があることは判明していたようだ。

内板の説明によると、平成3年に発掘調査が行われ、墳丘から壺や高坏が出土した。これらの土器から築造年代は3世紀中葉と推察されている。大正4年に大きく削平されたため古墳の元の形は分からないが、帆立貝式に復元されている。調査では埋葬施設が3カ所見つかり、大きいものから第1号、2号3号と名付けられた。

1号埋葬施設は長さ720m、幅450mの墓壙に箱形木棺が納められていた。木棺から木製の枕、素環頭の鉄剣、鉄刀がそれぞれ1点出土した。第2号埋葬施設には舟形木棺が納められていて、鉄製の刀が4本出土した。そのうち2本は木製の柄が付いていた。第3号埋葬施設は、大正時代に削平されていて、何も出土しなかったとのことだ。

墳は平成4年に復元整備された。一面に芝生が植えられているが、埋葬設備があった場所は土舗装で示してある。


乃木山古墳
どこまでも続く急坂
■ 三峰山(みつみねやま)城址

内図では、次の古墳は三峯山古墳と記されていた。しかし、平成9年に発掘調査が行われ、出土したカワラケや越前焼から14世紀の南北朝時代に築かれた山城だったことが判明した。南北朝時代の山城は全国的にも調査例が少ないため、貴重な遺跡とされている。

の辺りの山は通称「三峰山」と呼ばれていて、東三峰山、西三峰山、南三峰山の三つの峰から成り立っている。標高は240mくらいあるようだ。乃木山古墳のところで標高110mと表示されていたから、それより130m高所に位置する。

峯山付近は自然の急峻な山である。その頂に到達するには急な階段を2カ所も登りきらなければならない。しかも遊歩道はほぼ一直線に40度ほどの仰角で続いている。「お互いに年だな」と冗談を交えながら、途中で何回も小休止を入れて呼吸を整えると、なんとか東三峰山の頂にたどり着いた。

今も残る三峰山古墳の標識 樹木の間から九頭竜川を見下ろす
今も残る三峰山古墳の標識 樹木の間から九頭竜川を見下ろす

こが東三峰山城址だった。周囲に掘切(ほりきり)、切岸(きりきし)などが施された単純な構造の山城とのことだが、繁茂する樹木に囲われて城壁が良く分からなかった。しかし、梢の間から、山麓を流れる九頭竜川を見下ろすことができる。南北朝時代には九頭竜川付近で戦が盛んに行われた。この山城に立て籠もっていれば、敵方の軍勢の動きが良く観察できたことだろう。


■ 石舟山(いしふねやま)古墳

城を過ぎると、休憩所があった。二本松山古墳までのほぼ中間点のようだ。二人はここでしばらく休憩を取ることにしてベンチに腰を下ろした。Rはタバコを取り出すと、旨そうに吸いながら聞いてきた。
「オホド王は、どのようにして”越の国の王の中の王”と言われるほど、強力な勢力圏を築いたのだろうか。母方の実家がバックにあったことは容易に想像できるが、それほど強力な氏族だったのだろうか」

石舟山古墳へ続く遊歩道
石舟山古墳へ続く遊歩道
石舟山古墳
石舟山古墳

母方の三尾一族というのは、どうも実態がよく分かっていない氏族のようだ。だが、この松岡古墳群や後から行く六呂瀬山古墳群の中に、巨大な前方後円墳を連綿と造り続けたのがその一族ならば、すごい勢力を持っていたと考えざるを得ない。九頭竜川が福井平野に流れ出る場所を抑えているだけでも、その水利権にからんで川下の氏族たちに大きな影響力を行使できたはずだ」
「稲作だけでは、他を圧するだけの勢力を蓄えることはできないだろう。他になにか勢力拡大の基盤を持っていたのだろうか」
Rはたたみかけるように聞いてきた。

考えられる要素として2つある。一つは九頭竜川の河口にある三国湊だ。古くから三国湊は日本海海運の重要な港だったと言われている。この港を拠点として日本海交易を行えば、莫大な経済的利益を得ていただろう。もう一つは鉄の生産だ。この丸岡の北に、今ではあわら市に編入されてしまったが「金津」という町がある。その名が示す通り、古くから鉄の生産が盛んだった地域だ。自分たちの支配圏に鉄の生産地を持つことは、当時の氏族にとって”鬼に金棒”ではなかっただろうか」

んな会話を交わしながら一息つくと、二人は休憩所を後にした。次の石舟山古墳への道は、いったん谷部へ下り、また上りの階段が続く。階段を登りきったところが石舟山古墳があった。しかし、整備されていないので、「石舟山古墳」と書かれた標識と案内板が立ててなければ、単なる尾根の頂きとして気づかずに通りすぎてしまうところだった。

内板の説明によれば、石舟山古墳は標高260mの山頂に主軸をほぼ南北方向に向けて築かれた前方後円墳で、前方部が南側、後円部が北側に位置している。古くからこの古墳の存在が知られていて、江戸時代には乱掘されたそうだ。そのとき石棺が見つかったので、「石舟山」と呼ばれるようになったとのこと。

石舟山古墳からの北側の展望
石舟山古墳からの北側の展望

成14年に発掘調査が行われ、全長79.5m、後円部の直径は41.8mの規模を有することが分かった。埴輪や須恵器が見つかっていて、その年代から5世紀後半の古墳とされている。特に、埴輪は裾部、テラス部、墳頂部のまわりに円筒埴輪や家形埴輪が整然と並べられていた。すそ部に埴輪を並べるのは畿内地方の特徴で、北陸の前方後円墳では最初だそうだ。被葬者が中央と関係が深かったことを裏付ける証拠とされている。

葬施設は後円部に舟形石棺が直葬されていた。石棺は長さ230cm、幅86cmの規模で、側面には縄をつけるための突起が各々1個づつ付けられていた。

舟山古墳の後円部に立つと、北側に展望が開け、心地よい風が山の峰を伝わって吹いてくる。Rは九頭竜川の対岸に見える橙色の建物を指さして、建物の背後にそびえる丘陵の尾根に六呂瀬山1号墳や3号墳が築かれていると説明してくれた。


■ 鳥越山(とりこえやま)古墳

舟山から鳥越山古墳へ続く遊歩道もまた階段である。遊歩道に3ツある階段の最後らしいので、なんとか頑張って登りきった。墳頂には、松岡町教育委員会が平成4年に立てた案内板があった。

鳥越山古墳の後円部に続く階段
鳥越山古墳の後円部に続く階段
鳥越山古墳の墳頂
鳥越山古墳のなにもない墳頂
内板の説明によると、この古墳は昭和27年に斎藤優氏によって発見された全長約58mの前方後円墳である。ただし、自然の尾根を利用して削り出しをおこなっているため、発見当時は整った前方後円墳に見えなかったそうだ。主軸は東南東を向いており、後円部に2基の石棺が直葬されていた。須恵器が採集され、それによって築造時期は5世紀後葉と推定された。外部施設の埴輪や葺石は見つかっていない。

かし、この情報は古い。平成13年11月に奈良文化財研究所と松岡町教育委員会が合同で発掘調査を行い、舟形石棺と横穴式石室を発見した。石室は古墳の主軸に沿って築かれ、後円部の中心より約5m東南に石室の中心があった。規模は幅約2m、奥行き6m、高さ2mで足羽山の笏谷石の石板を使って壁や天井が作られ、そのまわりを付近の山石で囲っていた。

棺も笏谷石で作られていた。縄掛取手付き石棺で、全長3.4m、幅1.35m、重さ約4トンと、北陸地方では最大のものである。蓋の破壊孔からファイバースコープを挿入して内部を調査したところ、内部は朱に塗られており、ほぼ完全な形の人骨や多数の刀、石製品、大陸からの渡来品と思われる銀装の鉄製品などが確認された。副葬品や石棺の形態から、被葬者は当時朝鮮半島と交流のあったこの地域の大酋長の可能性が高いとされている。

の古墳の石室は入口に天井石がなかった。こうした様式は北部九州に多く見られる特徴である。また、石室で見つかった供献土器から、5世紀後葉とされていた古墳の築造時期が、5世紀末または6世紀第一四半期頃に変更された。つまり、オホド大王の即位前後に築かれた可能性があり、ひょっとすると振媛を埋葬した墓だったのかもしれない。


やっとたどり着いた二本松山古墳
やっとたどり着いた二本松山古墳
■ 二本松山(にほんまつやま)古墳

前11時40分、ようやく遊歩道の終点である二本松古墳に到着した。前方に案内板が見え、その向こうにシダに覆われた後円部の高みあった。標高273,3mの、二本松山丘陵の最高点である。

本松山古墳は5世紀後葉に築かれた全長約90mの前方後円墳で、主軸は北東、南西を向いている。しかし尾根の地形に制約され、前方部と後円部とが歪んだ感じに見えるという。

側に位置する後円部には2基の石棺が直葬されていた。発見された順番に1号石棺、2号石棺と呼ばれている。1号石棺は江戸時代の享保年間に盗掘され、金銀の豊富な遺物が出土したとのことだ。盗掘者は病気や事故で子孫が絶えてしまったという伝説が残っている。明治13年に再び石棺が開けられたが、盗掘の後だったので出土品はなにもなかった。

後円部に立つ碑 雑草に覆われた前方部
後円部に立つ碑 雑草に覆われた前方部

号石棺は明治39年に発掘調査され、舟形石棺の中から金銅冠銀銅冠、四獣鏡、管玉、眉庇(まひさし)付き冑(かぶと)、短甲(たんこう)、頸鎧(あかべよろい)などが出土した。これらの出土品は東京国立博物館に展示されている。

二本松山古墳出土の金銅冠 二本松山古墳出土の銀銅冠 韓国池山洞32号墳出土に金銅冠
二本松山古墳出土の金銅冠
(東京国立博物館所蔵)
二本松山古墳出土の銀銅冠
(東京国立博物館所蔵)
韓国池山洞32号墳
出土の金銅冠

に、銀メッキをほどこした銀銅冠は、韓国の高霊にある池山(チサンドン)古墳群の32号墳から出土した金銅冠と形状が似ている。朝鮮半島からの渡来品とされていて、この墓の被葬者は当時朝鮮半島の南部にあった大加耶連合、あるいは新羅(しらぎ)と交流があったと推察されている。

啓明大学の行素博物館に展示されていた金銅冠
啓明大学の行素博物館に
展示されていた金銅冠
年の春、韓国歴史探訪ツアーに参加したとき、大邱広域市にある啓明(ケミョン)大学の行素(ヘンソ)博物館でも、池山古墳群の32号墳出土の金銅冠のレプリカを見ている。そのとき、講師として同行された大学教授から、二本松山古墳から出土品との類似点の説明を受けた。

鮮半島の古代国家では、国王クラスの人物が儀式や外国の使節に会う時に王冠を被る風習があった。二本松山古墳の被葬者がそうした半島の風習をいち早く取り入れていた証として、2個の王冠は貴重である。因みに、畿内ヤマトの戴冠の風習が入るのはかなり遅れ、6世紀末の藤ノ木古墳の頃と考えられている。

眼下に広がる福井平野 木々の間から見える鹿鳴大堰
眼下に広がる福井平野 木々の間から見える鳴鹿大堰

井平野と九頭竜川を見下ろす二本松山古墳からの眺望は素晴らしい。よく晴れ渡った日は日本海まで展望が開けるという。肌にさわやかな秋風が吹き渡る墳頂にたって、二人はしばらく眼下に広がる景観を堪能した。
「ここに立っていると、越の国の王者になったような気分が味わえるネ」
と、Rは筆者を見ながら笑った。

石棺運びに使われた修羅
石棺運びに使われた修羅
れにしても、とRは付け加えた。
「足羽山から切り出した笏谷石をその場で加工したとしても、身の部分も蓋の部分も数トンはあっただろうに。273,3mの山頂まで運び上げるのは大変な苦労だっただろうな」
当時の運搬に使用された道具は、修羅(しゅら)とその下に敷くコロぐらいだっただろう。修羅に石棺を積んで平地を運ぶのさえ大変なのに、山麓から山頂まで運び上げるには数倍の人力が必要だったはずだ。

岡公園の駐車場の隅に、笏谷石を積んだ修羅がおいてあった。おそらく実験考古学か何かで当時の苦労を再現するのに用いたものなのだろう。死せる族長の遺骸を埋葬するために、この地域を4世紀から6世紀にかけて支配した一族の者たちは、何代にもわたって同じ苦労を強制されてきたことになる。それを思うと、越の国の支配者の権力の大きさを今さらのように思い知らされた。



国史跡 六呂瀬山古墳群を訪れる

本松山古墳から松岡公園の駐車場に下りて来て時計を見ると、12時35分だった。11時50分ころ下山を開始したのだから、1時間足らずで下りてきたことになる。

「けんぞう 手打蕎麦」
「けんぞう 手打蕎麦」
この近くに、旨いソバを食べさせてくれる店がある。昼食はそこで取ろう」
そう言って、Rは車のアクセルを踏んだ。その店は松岡町の住宅街の中にひっそりとたたずんでいるが、超人気のそば屋だそうだ。店の名前を「けんぞう 手打蕎麦」という(所在 永平寺町松岡春日3-26)。

柱に店の名が貼りだしてあったおかげで、場所はすぐにわかった。変わった名前の店だったので、後で店主に由来を聞くと、ネーミングをいろいろ考えるのが面倒で、自分の名前の謙造をそのまま店の名にしたという。

の店のソバは、つなぎを使わずソバ粉100%で、メニューもおろしソバけんぞうソバの2種類。ソバそのものは同じだが、だし汁が異なり、けんぞうソバは辛味大根を使っているのでピリッと辛いとのことだ。筆者はおろしソバを注文したが、さすがは噂だけの店だけあって美味しかった。


手繰ケ城山古墳
手繰ケ城山古墳
初の予定では、二本松山古墳などを探訪した後に手繰ケ城山(てぐりがじょうやま)古墳を見るつもりでいた。この古墳は4世紀第V四半期に築造されたと推定されている前方後円墳で、全長は129mを測る。規模としては北陸第二位を誇り、越の国を治めた最初の大首長の古墳と考えられている。昭和52年に国の重要文化財に指定された。

墳は標高150mの丘陵の尾根に築かれている。丘陵の中腹に第二駐車場があり、そこまでは車で行ける。だが駐車場から古墳までは徒歩で登らなければならない。どれくらいの山歩きになるのか分からなかったが、午前中に急な坂道を上り下りした足にはかなり疲労が溜まっていた。そこで、二人で相談して、今回は割愛して、国道の傍にある六呂瀬山古墳群に向かうことにした。


六呂瀬山古墳群の所在
六呂瀬山古墳群の所在(*より転記)
は、六呂瀬山古墳群&鳴鹿大堰を愛する会と丸岡町教育委員会が共同で作成した「国史跡 六呂瀬山古墳群のしおり」(*)というパンフレットを用意してくれていた。それによって、この古墳群の概要を整理すると次のようになる。

呂瀬山古墳群は、九頭竜川右岸の坂井市丸岡町上久米田(かみくめだ)の六呂瀬山の山頂に展開する古墳群で、九頭竜川の鳴鹿大堰(なるかおおぜき)や越前竹人形の里に近い。六呂瀬山1号墳と呼ばれている前方後円墳とその陪塚である方墳(2号墳)、および六呂瀬山3号墳と呼ばれている前方後円墳とその陪塚である方墳(4号墳)の4基から構成されている。いずれも丘陵の尾根の上に築造されているため自然地形の制約を受けているが、平成2年5月16日、これらの古墳は一括して国の文化財に指定された。

六呂瀬山古墳群
六呂瀬山古墳群
れぞれの古墳の規模と築造場所は次の通り。

六呂瀬山1号墳 (前方後円墳)

復元推定規模:全長140m、後円部径78m、同高さ13m、前方部長67m、同幅58m、同高さ11m。

六呂瀬山2号墳 (方墳)
復元推定規模:頂径6.5mx7m、裾形14mx16m、高さ2.2m

六呂瀬山3号墳 (前方後円墳)
復元推定規模:全長110m、後円部径67m、同高さ11m、前方部長50m、同幅52m、同高さ9m。

六呂瀬山4号墳 (方墳)
復元推定規模:頂径10mx6m、裾形16mx13m、高さ2.7m

の立地条件や規模、出土品から推して、1号墳と3号墳は4世紀後葉から5世紀前葉にかけて越の国を支配した広域大首長の墓と推定されている。ところで、これらの古墳が一時破壊の危機に瀕したことがある。昭和50年(1975)、福井県の大野市と石川県の加賀市を結ぶ一般国道364号線の新設がきまった。この国道によって六呂瀬山3号墳や周辺の古墳が破壊されることになった。そのため、六呂瀬山の古墳群を保存し、それを核にした町おこしの運動がはじまった。

六呂瀬山古墳群環境整備鳥瞰図
六呂瀬山古墳群環境整備鳥瞰図
和53年には県教育委員会が国道364号線建設に伴う発掘調査を行い、昭和60年には丸岡町教育委員会が六呂瀬山古墳群範囲の確定調査を実施した。平成元年には六呂瀬山古墳群を後世に守り伝える地域運動が高まり、翌平成2年には国史跡の指定を取り付けた。こうして国道364号線は全ての古墳を迂回するか、またはトンネルを掘って古墳を保存することが決まった。

成16年4月、福井県大野市を起点とし、美山町、永平寺町、丸岡町を経て、石川県加賀市に至る総延長約67kmの国道364号線が開通した。国道は古墳群のまわりを迂回し、3号墳の後方部の下にはトンネルが築かれた。


が運転する車は朝通った五松橋を再びわたり、九頭竜川の対岸に出ると、国道364号線に入った。山腹を蛇行しながら続く新設の道路をしばらく進むと、3号墳の下をトンネルで抜けた。その先に、六呂瀬山古墳群見学のための駐車場が道路脇にあった。その横に、川原石で築いた前方後円墳の模型が置かれていた。「越まほろば物語」編纂委員会が作った記念モニュメントだった。

六呂瀬山3号墳の下を通るトンネル 「越まほろば物語」編纂委員会作成のモニュメント
六呂瀬山3号墳の下を通るトンネル 「越まほろば物語」編纂委員会作成のモニュメント

念モニュメントの横を通って古墳群への登り道に入ろうとしていたRが、突然大きな声を上げた。
「おいおい、立ち入り禁止の看板が立っているぞ、どうする?」
見ると、新生坂井市が平成19年度から古墳群付近の整備関係工事に着手していて、古墳群への登り道が設置される計画がある。そのため付近を立ち入りを禁止する、という内容である。登り道にはロープが張ってある。といって、ここまで来て引き交わす訳にも行かない。

構わない、進むことにしよう」と、筆者が先頭に立つとロープをくぐり山道へ踏み込んだ。将来は遊歩道として整備されるはずのアクセスも、今は手入れのされていない山道だ。途中で何度も蜘蛛の巣が顔を覆った。少し進むと、車道から登ってくる階段があり、そこが「仮登口」になっていた。

1号墳の前方部 1号墳の後円部
1号墳の前方部 1号墳の後円部

うやく墳墓が築かれている尾根の上に出たが、松林の中の下草が刈りこんであるだけで、どこまでは墳丘なのかよく分からない。古墳群の略図でも1号墳と3号墳は接近して描かれている。松の木が作る影で、ようやく方向を推定したほどである。それぞれの陪塚の位置を確認したかったが、樹木と雑草に覆われて無理だった。いずれ復元整備されてイラストに示されたようなイメージの古墳公園が実現するのだろうが、おそらくずいぶん先のことだろう。

3号墳の後円部 3号墳の前方部
3号墳の後円部 3号墳の前方部

号墳の築造時期は4世紀の第W四半期、3号墳は5世紀の第T四半期と推定されている。そうであれば、西暦400年を境として前後50年の間に二つの大首長墓が築かれたことになり、被葬者はおそらく親子関係にあったのだろう。オホド王が450年の誕生だとすれば、その祖祖父かその一代前の血縁者がここに眠っていたことになる。

継体天皇の系譜
継体天皇の系譜
被葬者は特定できていないのだろうか?」
Rが聞いてきたが、残念ながら筆者にもよく分からない。ただ、『釈日本紀』には、『日本書紀』に劣らず古いとされる「上宮記」(じょうぐうき)が引用されていて、その中では、オホド大王の母系の実質的な始祖は、イハツクワケとされている。『日本書紀』で磐衝別(いわつくわけ)命、『古事記』で石衝別(いわつく)王と表されている人物で、能登の羽咋神社、越前の大湊神社、近江の水尾神社などに祭神として祀られている。その子はイハチワケで、越前足羽郡の分(わけ)神社(福井市)に祀られている。これらの神社の所在は、イハツクワケを祖とする一族の勢力範囲を示しているという。

ハチワケの後裔は、イハコリワケ−マカワケ−アカハチ君−ヲハチ君と続いている。ヲハチ君は加賀江沼郡の豪族・余奴(えぬ)の娘・アナニヒメを娶って生まれた姫がフリヒメ(振媛)である。後のオホド大王の年令から逆算すれば、振媛が生まれたのは西暦430年前後だったと推察できる。振媛にはツヌムシ君という実の兄または弟がいた。この系図が信をおけるものならば、オホド王の曾祖父はアカハチ君、その一代前はマカワケということになる。

長140mの一号墳は、北陸最大の前方後円墳である。墳丘は二段築成で、斜面に円礫の葺石が敷かれていた。埴輪も、円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪、家形埴輪、短甲形埴輪などが、後円部の頂きの中央とその周囲、後方部の頂き周囲、テラス、裾部から出土している。内部主体に関しては、盗掘坑付近で笏谷石の石棺片が出土したことから、舟形石棺が直葬されていたと推定されている。この古墳の被葬者が三尾氏の首長だったならば、彼の時代に越の国の王として大きく成長を遂げたと思われる


の後、Rは国道364号線を北に向かい、さらに竹田川に沿って西に下り、丸岡町の女形谷(おながだに)にある天皇堂跡と丸岡町高田にある高向神社に案内してくれた。天皇堂はオホド王が大和からの使者を迎えた場所とされ、高向神社は振媛が近江から戻ってオホド王を養育した場所とされている伝承地である。いわばオホド伝説の中枢部と言って良い。それぞれの場所についてもレポートしたいが、今回の探訪記はあまりに冗長になりすぎたので割愛することにする。

天皇堂跡 高向神社
天皇堂跡(所在 丸岡町女形谷15−7) 高向神社(所在 丸岡町高田107−1)

aaaaa
の後、福井市内に戻り、足羽山の継体天皇の石像のところまで案内してくれた。石像の傍のベンチに腰掛けて暮れなずむ空を見上げながら、さらにオホド大王について話し合った。オホド大王にはその出自以外にも大きな謎がある。オホド王は近江または越前を基盤とし、歴史学者の直木孝次郎氏の言葉を借りれば”風を望んで北方より立ち”、新しい王朝を創始した現皇室の始祖かどうかである。

王朝説はロマンがあって面白いが、Rはどうやら否定的な見解をもっているようだ。最後に、行きつけの店で夕食をご馳走してくれ、わざわざ福井駅まで送ってくれた。今回の探訪が実現できたのは、Rが丸一日アッシー役を引き受けてくれたおかげである。彼の友情には改めて謝意を表したい。Muchas Gracias (ムーチャス・グラシャス、どうも有り難う)。(完)



本日訪れた古墳

・乃木山古墳 ・三峰山城跡 ・石舟山古墳 ・鳥越山古墳 ・二本松山古墳 ・六呂瀬山1号墳 ・六呂瀬山3号墳


追記:二本松山古墳出土の鋲留式甲冑

二本松山古墳出土の鋲留式甲冑
二本松山古墳出土の鋲留式甲冑
本松山古墳から出土した金銅製の冠と銀銅製の冠は、東京国立博物館に中にある平成館で常設展示されている。現物を見てみたいと思っていたところ、、現在開催中の尾形光琳生誕350周年記念「大琳派展」を本日(10月22日)見学に出かけ、ついでに常設展で実見してきた。展示されていた2つの冠は上に示した通りである。

設展示場には、二本松山古墳出土の鋲留式甲冑(ひょうどめしきかっちゅう)も展示されていた。眉庇付冑(まゆひさしつきかぶと)、頸甲(あかべよろい)、鋲留単甲(びょうどめたんこう)の三点セットである。なかなか立派な甲冑だった。

本松山古墳の築造時期は、5世紀第W四半期と推定されている。オホド王がまだ越前で活躍していた頃亡くなった人物の墓ということになる。被葬者は振媛の父ヲハチ君か祖父のアカハチ君だったかもしれない。その人物はこの甲冑を身に纏い三尾氏が支配する領地を切り開いたり、あるいは朝鮮半島へ軍事出兵したことがあったにちがいない。



参考資料:1.「福井県の歴史」(山川出版社)、2.森浩一、門脇禎二編「継体王朝 日本古代史の謎に挑む」(大巧社刊)掲載の青木豊昭著「継体大王の母・振媛の里・三国」(1999年11月13〜14日に行われた第7階春日井シンポジウムの内容を編纂したもの)


2008/10/15作成 by pancho_de_ohsei return