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| 二本松山古墳の墳頂から九頭竜川を望む(撮影 2008/10/10) |
オホド大王の出現を可能にした氏族の奥津城ブームとは一過性のものである。継体天皇即位1500年で大騒ぎした地元でも、年が変わると、あの熱気がまるで嘘のように引いてしまった。今年は「源氏物語千年紀」とやらで、紫式部がもてはやされている。だが、福井県で生まれ育った筆者としては、以前から気になっていることがある。大王として登極するまでのオホド王の事績であり、彼の成長を陰で支えた地方豪族の実態である。
史料は残っていないが、地元には幾つかの伝承は語り継がれてきた。その一つは福井平野の治水事業である。オホド王が越前に住んでいた頃、福井平野は日野川・足羽川・九頭竜川が流れ込む大きな湖で、洪水のたびに周辺は水害に悩まされた。そこで、湖の水を排出するために三国の河口を広くして、福井平野を広大な耕地に変えたとされている。
『書紀』は、オホド王の父・彦主人王が越前三国の坂中井(さかない)の振媛(ふりひめ)の美貌を噂を聞いて結婚を申し込んだと記す。しかし、彦主人王が振媛を妃に所望したのは、彼女が美人だったからだけではないであろう。越前三国を治める氏族との連携を強めるという政治的意図が主な要因だったことは、容易に想像できる。
5世紀になると福井県の嶺南地方でも主に若狭町付近で前方後円墳がつくられはじめる。この地域はヤマト王権に海の幸を貢納する「御食つ国(みけつくに)」であった。 5世紀後半から6世紀にかけて若狭、高志、三国、角鹿の国造(くにのみやつこ)が置かれ、この頃にはヤマト王権の影響が及んでいたと考えられている。そして、三国国造が置かれた地域は、オホド王がその即位までを過ごした地域とされている。
青木氏の説明によれば、4世紀の後半に九頭竜川左岸の標高150mの丘陵上に手繰ケ城山(てぐりがじょうやま)古墳が出現する。これが越前の第一広域首長墓で、全長129mを測る大型の前方後円墳である。北陸で最初に出現した前方後円墳であり、その規模は北陸で第2位を誇るという。 手繰ケ城山古墳に続いて、九頭竜川右岸の標高200mの上久米田(かみくめだ)の山上に、4世紀末から5世紀の初め頃に六呂瀬山1号墳と六呂瀬山3号墳が相次いで築造された。その後、高須という日本海に面した山頂に、免鳥山(めんどりやま)古墳(5世紀前半)という三方に張り出しをもつ円墳が築かれた。しかし、5世紀後半になると、大首長の奥津城は再び九頭竜川の右岸に戻り、旧松岡を南北に貫く丘陵の尾根上に、石舟山古墳(5世紀第V四半期)、二本松山古墳(5世紀第W四半期)、鳥越山古墳(6世紀第T四半期)が次々と築かれていく。
一般には、三尾氏は近江北部の豪族と理解されているようだが、越前三国にも三尾を名乗る豪族がいた証(あかし)がある。専門家は、正倉院に現存する天平五年(732)の『山背国愛宕郡計帳』(やましろのくにおたぎぐんけいちょう)に記された人物に、「越前国坂井郡水尾郷にあり」との注記があり、当時坂井郡に水尾郷という郷が存在したことを示している。『延喜式』の兵部省式の越前国駅馬の条に、三尾の駅名が見える。坂井市三国町にある大湊(おおみなと)神社の祭神は、三尾君の祖神とも伝えられている三保大明神(三尾大明神)である。さらに、現在でも福井市内の日野川に近いところに三尾野という地名が残っている。 おそらくオホド王は越前・近江連合のシンボルとして越前三国で大切に育てられたであろう。やがて彼は近江だけではなく、尾張や美濃の豪族とも婚姻関係を結び、次第に越の国の王の中の王にのしあがっていく。その彼を支えたのは、母の実家である三尾氏だったにちがいない。5世紀後半に築造された石舟山古墳や二本松山古墳は、あるいはオホド王が一族の先頭にたって築いた祖父または主要メンバーの墓だったかもしれない。 6世紀初頭以降、一族の奥津城は北上して旧金津町の横山古墳群に遷っていく。その中の神奈備山古墳は築造時期が6世紀第U四半期と想定されているが、この古墳の埋葬施設は横穴式石室を採用し、内部に石屋形を安置している。つまり、従来の刳り抜き式石棺を直接埋納していた方法から、「畿内」形の埋葬施設に変わった。このことは、オホド王が越前の王からヤマトの大王へと羽ばたいた時期と軌を一にする。越前がより多くヤマトの影響を受けるようになった証だろう。 筆者は以前、継体天皇ゆかりの近江の三尾を訪れ、彦主人王の墓に比定されている田中大塚古墳や6世紀前半に築造された鴨稲荷山古墳などを巡ったことがある(平成16年11月4日付け橿原日記参照)。しかし、今まで上記の丸岡・松岡古墳群のいずれも探訪したことがない。オホド大王のブームは去ったが、彼を育てた故地をいつかは訪れたいと思っていた。嬉しいことに、その機会を提供してくれた友人がいる。 |
持つべきは、やはり気心が知れた旧友その友人の名を仮にRとしておこう。筆者の高校時代の同級生である。通学の電車が同じだったのと、文学が趣味だったので互いに文学青年を気取って同人雑誌を編集したりして、よく行動を共にしたものだ。そんな仲だったが、高校卒業と同時になぜか音信がプツリと途絶えた。その彼と実に44年ぶりに再会できたのは、平成15年の秋に浜名湖で行われた同窓会の席だった。 青春時代を共有した旧友とは、実に良いものである。44年の空白などまるでなかったように、たちまち打ち解けて近況を話し合った。彼の苗字は学生時代とは変わっていた。どうやら、高校を卒業した後波乱に満ちた半生を生きてきたようだ。だが、彼の表情にはそうした苦労を感じさせない明るさがあった。今は福井市内に居を構え、悠々自適の生活を送りながら、趣味で謡曲を習い、ボランティアで私設図書館を運営している。
本日の午前9時15分、JR北陸線の「福井」駅の改札を出て駅前広場に立った。広場は、秋の深まりを感じさせる清々しい空気がみなぎっていた。振り返ると、今ではすっかり様変わりした駅の建物が、朝日を浴びてまぶしい。タクシー乗り場の方に視線を向けると、さかんに両手を振っている男がいる。それが本日の史跡探訪のアッシー役をかってくれたRだった。
本日は山道や細い田舎道を走ることなると想定して、Rは奥さんが普段使っている軽自動車を用意してくれていた。
訪れてみたい古墳や史跡は、あらかじめ彼に連絡しておいたが、古墳といっても丘陵の尾根伝いに歩くことになり、所要時間は皆目見当がつかない。できるだけ多く回ることで、順番は彼に一任した。
九頭竜川の上流の奥越地域は多雨地帯である。山間部に降った雨は流れ下り、平野部に出ると洪水となって流路を変え、有史以来氾濫を繰り返してきた。川が流路を変える様は九匹の竜がのたうち回るのに似ていることから、川の名前になったのでは、と答えると、Rは
医学部付属病院を過ぎると、Rは右折して都市緑化植物園の脇を東に向かった。道路に平行して流れる用水路の向こうに丘陵が迫っていた。その頂の稜線あたりを指し示しながら、Rは、
「あの当たりが、六呂瀬山古墳群だ」
ガソリンスタンドを出ると、すぐに「松岡公園」の標識が出ていた。松岡公園は丘陵の尾根の上に築かれた古墳群を順に巡って、標高273mの二本松山古墳まで行くハイキングコースの起点となっている。Rは少し迷ったようだが、予定を変更して、まず松岡古墳群から見学することを提案してきた。 |
往復約3kmの二本松山古墳コースに挑戦
Rは丘陵の中腹にある松岡公園の駐車場まで、アクセルを噴かして一気に坂道の登りきった。駐車場は大きな給水タンクの前にあり、ハイキング用の遊歩道の登り口は駐車場の脇にあった。駐車場には10時10分に到着した。駐車場の脇に、永平寺町教育委員会が作成した松岡古墳群の案内図が立っていた。因みに、旧松岡町は町村合併で平成18年2月13日から「永平寺町」に町名が変更されている。 案内図を見ると、乃木山古墳−三峯山古墳−石舟山古墳−鳥越山古墳−二本松山古墳と続く古墳群が、それぞれ峯の頂に描かれている。このうち、最後の3つが青木氏の言う三尾氏の大首長墓である。案内図には、後で登る予定の手繰ケ城山古墳も描かれていた。
「ウム、これはかなりきつい登り坂を覚悟しなければならないな」 彼の声が聞こえたのか、いつの間にか駐車場に立っている管理人らしい男が声をかけてきた。 「途中、三カ所ほど厳しい坂があります。それよりも、熊に気を付けてください。大きな声で話しながら登ったほうがいいですよ」 「エーツ、熊が出るんですか」 筆者も驚いて聞き返した。見ると、「熊に注意しましょう」という看板が立っていて、一人歩きのハイキングは避けよう、携帯ラジオなど音を出しながらハイキングしようと、注意書きが書いてあった。
ハイキングコースはよく整備されていたが、最初から急坂が続いた。道には枯れ葉に混じってドングリや栗の実が散乱している。熊に注意とあったのは、おそらくこうした木の実を求めて熊が集落近くまで下りてくるからだろう。途中で何回か小休止を入れながら、二人は息を切らして最初の古墳にたどり着いた。こざっぱりと整理された乃木山古墳である。 乃木山古墳は、二本松山丘陵の先端の尾根の上に築かれた全長30mを超す古墳で、このあたりの標高は110mである。地名は、大正天皇の即位を記念して、大正4年にこの場所に乃木大将の銅像が建てられたことに由来する。その時、土地の削平が行われ甕や刀が出土したとのことだ。そのため、当時からここに古墳があることは判明していたようだ。 案内板の説明によると、平成3年に発掘調査が行われ、墳丘から壺や高坏が出土した。これらの土器から築造年代は3世紀中葉と推察されている。大正4年に大きく削平されたため古墳の元の形は分からないが、帆立貝式に復元されている。調査では埋葬施設が3カ所見つかり、大きいものから第1号、2号3号と名付けられた。 第1号埋葬施設は長さ720m、幅450mの墓壙に箱形木棺が納められていた。木棺から木製の枕、素環頭の鉄剣、鉄刀がそれぞれ1点出土した。第2号埋葬施設には舟形木棺が納められていて、鉄製の刀が4本出土した。そのうち2本は木製の柄が付いていた。第3号埋葬施設は、大正時代に削平されていて、何も出土しなかったとのことだ。 古墳は平成4年に復元整備された。一面に芝生が植えられているが、埋葬設備があった場所は土舗装で示してある。
案内図では、次の古墳は三峯山古墳と記されていた。しかし、平成9年に発掘調査が行われ、出土したカワラケや越前焼から14世紀の南北朝時代に築かれた山城だったことが判明した。南北朝時代の山城は全国的にも調査例が少ないため、貴重な遺跡とされている。 この辺りの山は通称「三峰山」と呼ばれていて、東三峰山、西三峰山、南三峰山の三つの峰から成り立っている。標高は240mくらいあるようだ。乃木山古墳のところで標高110mと表示されていたから、それより130m高所に位置する。 三峯山付近は自然の急峻な山である。その頂に到達するには急な階段を2カ所も登りきらなければならない。しかも遊歩道はほぼ一直線に40度ほどの仰角で続いている。「お互いに年だな」と冗談を交えながら、途中で何回も小休止を入れて呼吸を整えると、なんとか東三峰山の頂にたどり着いた。
そこが東三峰山城址だった。周囲に掘切(ほりきり)、切岸(きりきし)などが施された単純な構造の山城とのことだが、繁茂する樹木に囲われて城壁が良く分からなかった。しかし、梢の間から、山麓を流れる九頭竜川を見下ろすことができる。南北朝時代には九頭竜川付近で戦が盛んに行われた。この山城に立て籠もっていれば、敵方の軍勢の動きが良く観察できたことだろう。
山城を過ぎると、休憩所があった。二本松山古墳までのほぼ中間点のようだ。二人はここでしばらく休憩を取ることにしてベンチに腰を下ろした。Rはタバコを取り出すと、旨そうに吸いながら聞いてきた。
「母方の三尾一族というのは、どうも実態がよく分かっていない氏族のようだ。だが、この松岡古墳群や後から行く六呂瀬山古墳群の中に、巨大な前方後円墳を連綿と造り続けたのがその一族ならば、すごい勢力を持っていたと考えざるを得ない。九頭竜川が福井平野に流れ出る場所を抑えているだけでも、その水利権にからんで川下の氏族たちに大きな影響力を行使できたはずだ」 「考えられる要素として2つある。一つは九頭竜川の河口にある三国湊だ。古くから三国湊は日本海海運の重要な港だったと言われている。この港を拠点として日本海交易を行えば、莫大な経済的利益を得ていただろう。もう一つは鉄の生産だ。この丸岡の北に、今ではあわら市に編入されてしまったが「金津」という町がある。その名が示す通り、古くから鉄の生産が盛んだった地域だ。自分たちの支配圏に鉄の生産地を持つことは、当時の氏族にとって”鬼に金棒”ではなかっただろうか」 そんな会話を交わしながら一息つくと、二人は休憩所を後にした。次の石舟山古墳への道は、いったん谷部へ下り、また上りの階段が続く。階段を登りきったところが石舟山古墳があった。しかし、整備されていないので、「石舟山古墳」と書かれた標識と案内板が立ててなければ、単なる尾根の頂きとして気づかずに通りすぎてしまうところだった。 案内板の説明によれば、石舟山古墳は標高260mの山頂に主軸をほぼ南北方向に向けて築かれた前方後円墳で、前方部が南側、後円部が北側に位置している。古くからこの古墳の存在が知られていて、江戸時代には乱掘されたそうだ。そのとき石棺が見つかったので、「石舟山」と呼ばれるようになったとのこと。
平成14年に発掘調査が行われ、全長79.5m、後円部の直径は41.8mの規模を有することが分かった。埴輪や須恵器が見つかっていて、その年代から5世紀後半の古墳とされている。特に、埴輪は裾部、テラス部、墳頂部のまわりに円筒埴輪や家形埴輪が整然と並べられていた。すそ部に埴輪を並べるのは畿内地方の特徴で、北陸の前方後円墳では最初だそうだ。被葬者が中央と関係が深かったことを裏付ける証拠とされている。 埋葬施設は後円部に舟形石棺が直葬されていた。石棺は長さ230cm、幅86cmの規模で、側面には縄をつけるための突起が各々1個づつ付けられていた。 石舟山古墳の後円部に立つと、北側に展望が開け、心地よい風が山の峰を伝わって吹いてくる。Rは九頭竜川の対岸に見える橙色の建物を指さして、建物の背後にそびえる丘陵の尾根に六呂瀬山1号墳や3号墳が築かれていると説明してくれた。 石舟山から鳥越山古墳へ続く遊歩道もまた階段である。遊歩道に3ツある階段の最後らしいので、なんとか頑張って登りきった。墳頂には、松岡町教育委員会が平成4年に立てた案内板があった。
しかし、この情報は古い。平成13年11月に奈良文化財研究所と松岡町教育委員会が合同で発掘調査を行い、舟形石棺と横穴式石室を発見した。石室は古墳の主軸に沿って築かれ、後円部の中心より約5m東南に石室の中心があった。規模は幅約2m、奥行き6m、高さ2mで足羽山の笏谷石の石板を使って壁や天井が作られ、そのまわりを付近の山石で囲っていた。 石棺も笏谷石で作られていた。縄掛取手付き石棺で、全長3.4m、幅1.35m、重さ約4トンと、北陸地方では最大のものである。蓋の破壊孔からファイバースコープを挿入して内部を調査したところ、内部は朱に塗られており、ほぼ完全な形の人骨や多数の刀、石製品、大陸からの渡来品と思われる銀装の鉄製品などが確認された。副葬品や石棺の形態から、被葬者は当時朝鮮半島と交流のあったこの地域の大酋長の可能性が高いとされている。 この古墳の石室は入口に天井石がなかった。こうした様式は北部九州に多く見られる特徴である。また、石室で見つかった供献土器から、5世紀後葉とされていた古墳の築造時期が、5世紀末または6世紀第一四半期頃に変更された。つまり、オホド大王の即位前後に築かれた可能性があり、ひょっとすると振媛を埋葬した墓だったのかもしれない。
午前11時40分、ようやく遊歩道の終点である二本松古墳に到着した。前方に案内板が見え、その向こうにシダに覆われた後円部の高みあった。標高273,3mの、二本松山丘陵の最高点である。 二本松山古墳は5世紀後葉に築かれた全長約90mの前方後円墳で、主軸は北東、南西を向いている。しかし尾根の地形に制約され、前方部と後円部とが歪んだ感じに見えるという。 北側に位置する後円部には2基の石棺が直葬されていた。発見された順番に1号石棺、2号石棺と呼ばれている。1号石棺は江戸時代の享保年間に盗掘され、金銀の豊富な遺物が出土したとのことだ。盗掘者は病気や事故で子孫が絶えてしまったという伝説が残っている。明治13年に再び石棺が開けられたが、盗掘の後だったので出土品はなにもなかった。
2号石棺は明治39年に発掘調査され、舟形石棺の中から金銅冠、銀銅冠、四獣鏡、管玉、眉庇(まひさし)付き冑(かぶと)、短甲(たんこう)、頸鎧(あかべよろい)などが出土した。これらの出土品は東京国立博物館に展示されている。
特に、銀メッキをほどこした銀銅冠は、韓国の高霊にある池山(チサンドン)古墳群の32号墳から出土した金銅冠と形状が似ている。朝鮮半島からの渡来品とされていて、この墓の被葬者は当時朝鮮半島の南部にあった大加耶連合、あるいは新羅(しらぎ)と交流があったと推察されている。
朝鮮半島の古代国家では、国王クラスの人物が儀式や外国の使節に会う時に王冠を被る風習があった。二本松山古墳の被葬者がそうした半島の風習をいち早く取り入れていた証として、2個の王冠は貴重である。因みに、畿内ヤマトの戴冠の風習が入るのはかなり遅れ、6世紀末の藤ノ木古墳の頃と考えられている。
福井平野と九頭竜川を見下ろす二本松山古墳からの眺望は素晴らしい。よく晴れ渡った日は日本海まで展望が開けるという。肌にさわやかな秋風が吹き渡る墳頂にたって、二人はしばらく眼下に広がる景観を堪能した。
「足羽山から切り出した笏谷石をその場で加工したとしても、身の部分も蓋の部分も数トンはあっただろうに。273,3mの山頂まで運び上げるのは大変な苦労だっただろうな」 当時の運搬に使用された道具は、修羅(しゅら)とその下に敷くコロぐらいだっただろう。修羅に石棺を積んで平地を運ぶのさえ大変なのに、山麓から山頂まで運び上げるには数倍の人力が必要だったはずだ。 松岡公園の駐車場の隅に、笏谷石を積んだ修羅がおいてあった。おそらく実験考古学か何かで当時の苦労を再現するのに用いたものなのだろう。死せる族長の遺骸を埋葬するために、この地域を4世紀から6世紀にかけて支配した一族の者たちは、何代にもわたって同じ苦労を強制されてきたことになる。それを思うと、越の国の支配者の権力の大きさを今さらのように思い知らされた。 |
国史跡 六呂瀬山古墳群を訪れる二本松山古墳から松岡公園の駐車場に下りて来て時計を見ると、12時35分だった。11時50分ころ下山を開始したのだから、1時間足らずで下りてきたことになる。
そう言って、Rは車のアクセルを踏んだ。その店は松岡町の住宅街の中にひっそりとたたずんでいるが、超人気のそば屋だそうだ。店の名前を「けんぞう 手打蕎麦」という(所在 永平寺町松岡春日3-26)。 電柱に店の名が貼りだしてあったおかげで、場所はすぐにわかった。変わった名前の店だったので、後で店主に由来を聞くと、ネーミングをいろいろ考えるのが面倒で、自分の名前の謙造をそのまま店の名にしたという。 この店のソバは、つなぎを使わずソバ粉100%で、メニューもおろしソバとけんぞうソバの2種類。ソバそのものは同じだが、だし汁が異なり、けんぞうソバは辛味大根を使っているのでピリッと辛いとのことだ。筆者はおろしソバを注文したが、さすがは噂だけの店だけあって美味しかった。
古墳は標高150mの丘陵の尾根に築かれている。丘陵の中腹に第二駐車場があり、そこまでは車で行ける。だが駐車場から古墳までは徒歩で登らなければならない。どれくらいの山歩きになるのか分からなかったが、午前中に急な坂道を上り下りした足にはかなり疲労が溜まっていた。そこで、二人で相談して、今回は割愛して、国道の傍にある六呂瀬山古墳群に向かうことにした。
六呂瀬山古墳群は、九頭竜川右岸の坂井市丸岡町上久米田(かみくめだ)の六呂瀬山の山頂に展開する古墳群で、九頭竜川の鳴鹿大堰(なるかおおぜき)や越前竹人形の里に近い。六呂瀬山1号墳と呼ばれている前方後円墳とその陪塚である方墳(2号墳)、および六呂瀬山3号墳と呼ばれている前方後円墳とその陪塚である方墳(4号墳)の4基から構成されている。いずれも丘陵の尾根の上に築造されているため自然地形の制約を受けているが、平成2年5月16日、これらの古墳は一括して国の文化財に指定された。
その立地条件や規模、出土品から推して、1号墳と3号墳は4世紀後葉から5世紀前葉にかけて越の国を支配した広域大首長の墓と推定されている。ところで、これらの古墳が一時破壊の危機に瀕したことがある。昭和50年(1975)、福井県の大野市と石川県の加賀市を結ぶ一般国道364号線の新設がきまった。この国道によって六呂瀬山3号墳や周辺の古墳が破壊されることになった。そのため、六呂瀬山の古墳群を保存し、それを核にした町おこしの運動がはじまった。
平成16年4月、福井県大野市を起点とし、美山町、永平寺町、丸岡町を経て、石川県加賀市に至る総延長約67kmの国道364号線が開通した。国道は古墳群のまわりを迂回し、3号墳の後方部の下にはトンネルが築かれた。 Rが運転する車は朝通った五松橋を再びわたり、九頭竜川の対岸に出ると、国道364号線に入った。山腹を蛇行しながら続く新設の道路をしばらく進むと、3号墳の下をトンネルで抜けた。その先に、六呂瀬山古墳群見学のための駐車場が道路脇にあった。その横に、川原石で築いた前方後円墳の模型が置かれていた。「越まほろば物語」編纂委員会が作った記念モニュメントだった。
記念モニュメントの横を通って古墳群への登り道に入ろうとしていたRが、突然大きな声を上げた。 「構わない、進むことにしよう」と、筆者が先頭に立つとロープをくぐり山道へ踏み込んだ。将来は遊歩道として整備されるはずのアクセスも、今は手入れのされていない山道だ。途中で何度も蜘蛛の巣が顔を覆った。少し進むと、車道から登ってくる階段があり、そこが「仮登口」になっていた。
ようやく墳墓が築かれている尾根の上に出たが、松林の中の下草が刈りこんであるだけで、どこまでは墳丘なのかよく分からない。古墳群の略図でも1号墳と3号墳は接近して描かれている。松の木が作る影で、ようやく方向を推定したほどである。それぞれの陪塚の位置を確認したかったが、樹木と雑草に覆われて無理だった。いずれ復元整備されてイラストに示されたようなイメージの古墳公園が実現するのだろうが、おそらくずいぶん先のことだろう。
1号墳の築造時期は4世紀の第W四半期、3号墳は5世紀の第T四半期と推定されている。そうであれば、西暦400年を境として前後50年の間に二つの大首長墓が築かれたことになり、被葬者はおそらく親子関係にあったのだろう。オホド王が450年の誕生だとすれば、その祖祖父かその一代前の血縁者がここに眠っていたことになる。
Rが聞いてきたが、残念ながら筆者にもよく分からない。ただ、『釈日本紀』には、『日本書紀』に劣らず古いとされる「上宮記」(じょうぐうき)が引用されていて、その中では、オホド大王の母系の実質的な始祖は、イハツクワケとされている。『日本書紀』で磐衝別(いわつくわけ)命、『古事記』で石衝別(いわつく)王と表されている人物で、能登の羽咋神社、越前の大湊神社、近江の水尾神社などに祭神として祀られている。その子はイハチワケで、越前足羽郡の分(わけ)神社(福井市)に祀られている。これらの神社の所在は、イハツクワケを祖とする一族の勢力範囲を示しているという。 イハチワケの後裔は、イハコリワケ−マカワケ−アカハチ君−ヲハチ君と続いている。ヲハチ君は加賀江沼郡の豪族・余奴(えぬ)の娘・アナニヒメを娶って生まれた姫がフリヒメ(振媛)である。後のオホド大王の年令から逆算すれば、振媛が生まれたのは西暦430年前後だったと推察できる。振媛にはツヌムシ君という実の兄または弟がいた。この系図が信をおけるものならば、オホド王の曾祖父はアカハチ君、その一代前はマカワケということになる。 全長140mの一号墳は、北陸最大の前方後円墳である。墳丘は二段築成で、斜面に円礫の葺石が敷かれていた。埴輪も、円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪、家形埴輪、短甲形埴輪などが、後円部の頂きの中央とその周囲、後方部の頂き周囲、テラス、裾部から出土している。内部主体に関しては、盗掘坑付近で笏谷石の石棺片が出土したことから、舟形石棺が直葬されていたと推定されている。この古墳の被葬者が三尾氏の首長だったならば、彼の時代に越の国の王として大きく成長を遂げたと思われる この後、Rは国道364号線を北に向かい、さらに竹田川に沿って西に下り、丸岡町の女形谷(おながだに)にある天皇堂跡と丸岡町高田にある高向神社に案内してくれた。天皇堂はオホド王が大和からの使者を迎えた場所とされ、高向神社は振媛が近江から戻ってオホド王を養育した場所とされている伝承地である。いわばオホド伝説の中枢部と言って良い。それぞれの場所についてもレポートしたいが、今回の探訪記はあまりに冗長になりすぎたので割愛することにする。
新王朝説はロマンがあって面白いが、Rはどうやら否定的な見解をもっているようだ。最後に、行きつけの店で夕食をご馳走してくれ、わざわざ福井駅まで送ってくれた。今回の探訪が実現できたのは、Rが丸一日アッシー役を引き受けてくれたおかげである。彼の友情には改めて謝意を表したい。Muchas Gracias (ムーチャス・グラシャス、どうも有り難う)。(完) |
本日訪れた古墳・乃木山古墳 ・三峰山城跡 ・石舟山古墳 ・鳥越山古墳 ・二本松山古墳 ・六呂瀬山1号墳 ・六呂瀬山3号墳 |
追記:二本松山古墳出土の鋲留式甲冑
常設展示場には、二本松山古墳出土の鋲留式甲冑(ひょうどめしきかっちゅう)も展示されていた。眉庇付冑(まゆひさしつきかぶと)、頸甲(あかべよろい)、鋲留単甲(びょうどめたんこう)の三点セットである。なかなか立派な甲冑だった。 二本松山古墳の築造時期は、5世紀第W四半期と推定されている。オホド王がまだ越前で活躍していた頃亡くなった人物の墓ということになる。被葬者は振媛の父ヲハチ君か祖父のアカハチ君だったかもしれない。その人物はこの甲冑を身に纏い三尾氏が支配する領地を切り開いたり、あるいは朝鮮半島へ軍事出兵したことがあったにちがいない。 |
参考資料:1.「福井県の歴史」(山川出版社)、2.森浩一、門脇禎二編「継体王朝 日本古代史の謎に挑む」(大巧社刊)掲載の青木豊昭著「継体大王の母・振媛の里・三国」(1999年11月13〜14日に行われた第7階春日井シンポジウムの内容を編纂したもの)