祭神として大彦命を祀る船津神社JRの線路に沿った駅前の道を南に5分も歩いていくと、道路脇に船津神社(所在:鯖江市舟津町)の鳥居が建っている。鳥居の横に立てられた案内板によると、この神社は北陸で最も古い式内社で、祭神として大彦命(おおひこのみこと)を祀っている。また、相殿の大山御板(おおやまみいた)神社には、猿田彦命(さるたひこのみこと)、孝元天皇、素佐鳴雄命(すさのおのみこと)を祀っている。
当初は、上宮は王山の上に、下宮は王山の東方数町のところに鎮座していた。しかし、寛仁3年(1019)に下宮が火災を被り上宮に合祀され、さらに応永23年(1416)に下宮が再建されて、上宮・下宮同殿の社になったという。中世には守護の斯波氏や朝倉氏の崇敬を受け、江戸時代には享保6年(1721)に間部氏の鯖江入部以来その祈願所となり、鯖江の産土神(うぶすながみ)として崇敬された。寛保2年(1742)に、往古の上宮と下宮があった中間地である王山の東麓に社殿が移され、現在に至っているという。
「我はこの深江に住む住民の頭目で阿伊奴彦(あいぬひこ)と申す者なり。この地方の事情に詳しければご協力申し上げる」 と、大彦命の軍船を案内したという。 大彦命は現在の王山に陣を敷き賊を平定したが、戦いの最中に佐婆矢(さばや)が敵の魁師に当たり死なせてしまった。この矢が鯖の尾に似ていたことから、この地を鯖矢と呼ぶようになった。後に、鯖矢が訛って鯖江になったとのことだ。別の説では、鯖矢の「鯖」と深江の「江」を取って「鯖江」としたとも言われている。なお、正式な地名としての鯖江の鯖の字は、右辺が「青」ではなく「」と書く。
●みさかりの 世にかへすべく 宮はしら ふときこころを たつる人もが 橘曙覧は、奈良時代の橘諸兄(たちばなのもろえ)を先祖とあおぎ、中央の歌壇と交わることなくひっそりと一地方の歌人として清貧の暮らしの中で生涯を送った人物である。国学者でもあった彼の古体歌への深い理解に基づいた独自の歌風は、越前藩の名君・松平春嶽に様々な影響を与えたと言われている。彼の歌は、日常生活に題材をとり身近な言葉で詠んだことで知られる。特に「独楽吟」と呼ばれる「たのしみは」で始り「のとき」で終わる短歌はわかりやすい言葉でストレートに日常の機微を詠っている。たとえば、次のような歌がある。
●たのしみは珍しき書人にかり始め一ひらひろげたる時
平成6年(1994)に天皇皇后両陛下が訪米されたとき、クリントン大統領は歓迎式典で曙覧の
参道の途中に、大鳥居がそびえている。寛政12年(1800)に再建された木造の両部鳥居である。島木や笠木の上に屋根を付けた越前型の典型的な鳥居だそうだ。総高6.58m、柱中心間隔4.77m。江戸時代後期の白木の木造鳥居は現存遺構が少なく、建築的にも意匠が優れれいることから、昭和61年3月28日に県の重要文化財に指定された。 さらに参道を進むと、今度は社殿の前に赤鳥居があった。こちらは木造、朱塗りの明神鳥居である。安永3年(1774)5月、鯖江藩主・間部詮茂(まなべあきしげ)が奉納したものだそうだ。総高4.2m、柱中心間隔3.4m。平成10年4月24日、本殿と共に県の重要文化財の指定を受けている。
その本殿は、赤鳥居の先にあった。文政3年(1820)に再建された五間社流造(ごけんしゃながれづくり)の建物で、屋根は柿葺(こけらぶき)である。ここに祭神として大彦命、相殿に大山御板神社すなわち猿田彦命(さるたひこのみこと)、孝元天皇、素佐鳴雄命(すさのおのみこと)を祀っている。 |
約50基の方形周溝墓と円墳からなる国指定史跡 王山
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| 王山の頂に点在する方形周溝墓 (撮影 2008/10/10) |
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| 王山古墳群の登り口 |
”王山にはその稜線と北部斜面におよそ50基の古墳が所在し、これを「王山古墳群」と呼んでいます。
昭和40年に行われた発掘調査により、山頂部にあるものの多くは方形墳(方形周溝墓)であることが判明しました。方形周溝墓の発見は全国的に見ても早い発見でした。
周溝からは葬祭儀礼に関係したと思われる弥生式後期の土器や古式の土師器が出土しました。これらの副葬品から推定して王山古墳群は弥生時代の終わり頃から古墳時代の初め(3世紀末から5世紀初め)に築造されたものといわれます。
この王山古墳群は、全体が山林に覆われ原状がよく保たれており、昭和42年6月22日国の史跡として指定を受けました。”
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| 王山古墳群全体図 |
方形周溝墓の基底の一辺は約6〜15m、復元後の高さは2m前後のものが多い。いずれも土壙をもち、5号墳からは鉄刀、6号墳からは鉄剣がそれぞれ1個見つかっている。円墳は直径だけが判明していて、31号墳は約20m、32号墳は約7〜8mとのことだ。31号墳からは鉄剣、鉄鏃、緑色凝灰岩製小玉49が、32号墳からも鉄剣、鉄鏃などが出土していて、両円墳の築造時期は古墳前期に比定されている。
ここに築かれた古墳群は、王山周辺にあったムラの有力者や指導者、およびこの地域を統率した王たちの墓だったと推定されている。出土した土器は近江地方や尾張地方の影響を受けた土器がほとんどだったとのことだ。このことは、王山に葬られた人々がこれらの地域と密接な関係を持っていたことを物語っている。
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| 古墳群の中に築かれた遊歩道 |
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| 古墳群中最大・最古の王山40号墳 |
一方、多くの場所で平安時代(9〜11世紀)の土器も出土している。古墳時代が終わった後も、この地が人々の宗教活動の場になっていたようだ。特に21号墳の上には、鎌倉時代から室町時代末期の石塔や集石墓が発見されており、古墳を再利用して墓を造っていたと推測されている。
丘陵の最高所に王山40号墳があった。今からおよそ2000年前の弥生時代中期の方形周溝墓である。規模は東西23.5m、南北21m、高さは3mとのことだ。よく整備されているが、埋葬設備は保存のため未調査である。王山で最大・最古の墳墓であるばかりか、福井県の弥生時代墳墓の中でも最大規模を誇る。王山が墓地形成の契機となった盟主的な墳墓であり、この地方を治めた首長の墓だったと推定されている。
追記:5世紀後半に築造された北陸最大の円墳・兜山古墳
『鯖江市史』によれば、市域で確認されている古墳の種類は、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などで、その数はほぼ800基に達するとのことだ。市の東部にある今北山古墳群、磯部古墳群、弁財天古墳群なども史跡に指定されているが、筆者が若い頃はその存在すら知られていなかった。
兜山古墳は、鯖江台地の緩やかな東部傾斜面に、鏡餅を二段に重ねたように築かれた円墳である。基底の直径は約60m、高さは約7mで、周囲に幅10mの濠を巡らせた古墳時代中期(5世紀後半)築かれた墓と推定されている。現在は八幡神社の境内になっている。 地図で確認すると、古墳の所在地は鯖江市神明町2丁目で、福井鉄道の「神明駅」が近い。たまたまJR鯖江駅前から出発しようとしていた市内循環バスの行き先を見ると、「神明駅」行きになっていたので、それを利用することにした。
兜山古墳は神明駅に近い踏切のそばにある。踏切を横切って住宅街を見やると、住宅の屋根の向こうに巨木に覆われた小さな丘が見える。それが墳丘である。古墳の正面にまわると、八幡神社の鳥居が立っていて、参道の先が墳頂へ登る石段になっていた。 石段を登り切ると、最上部で両側で狛犬の石像が迎えてくれる。その先は直径が30m程の平坦な広場になっていた。社殿は墳丘の奥の西側傾斜面を利用して建てられている。このため、社殿を建てるのに墳丘の頂が若干削平されたようで、当初の墳丘は今より1mは高かったと推定されている。
筆者はこの5世紀後半という築造時期に興味を抱いている。というのは、近江国高嶋郡三尾で誕生したオホド王(後の継体天皇)が、父の彦主人(ひこうし)王が死んだので、母の振媛(ふりひめ)に連れられて越前三国の高向(たかむく)に戻り、豪族の若き首長として成長していた時期だ。あるいは、兜山古墳の被葬者はオホド王に臣下の礼をとっていたかもしれない。 |