橿原日記 平成20年10月10日

朝の散歩に鯖江市内の船津神社と王山古墳群を巡る


久しぶりに訪れた生まれ故郷・鯖江の朝

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駅前ホテルの窓から見た朝ぼらけの三里山 (撮影 2008/10/10)


の6時、JR北陸線「鯖江」駅の前にあるホテルの部屋でカーテンを開けると、正面に墨絵のような三里山が見えた。朝焼けの淡いピンクの空を背景に、山は中腹に朝霞を白くたなびかせていた。久しぶりに見る生まれ故郷の朝の景観である。

江市は、福井県の嶺北地方の中央に位置する地方都市で、人口は先月現在で約67,000人。駅前に建てられた大きな緑の標識には「ものづくりのまち さばえ」と大書され、特産品の繊維と漆器と眼鏡が描かれている。ひと頃は眼鏡フレームの国内シェアは96%、世界シェアでも約20%を占め、「めがねのまち」として全国に知られた。今は眼鏡産業も不振である。繊維産業が盛んだったのは戦後の話で、漆器産業も今は不況らしい。

者が生まれたのは鯖江の市街地ではない。昭和35年の町村合併で鯖江市に編入された農村地域で、ホテルの窓から見える三里山の向こう側の集落だ。市域の東の外れで、あと100mも行けば、隣の越前市に入る。昨日、中学時代の同級生の家を訪ねたが、過疎化が一段と進んだ集落の中は、まるでゴーストタウンのように人影がなかった。

JR鯖江駅付近のマップ
JR鯖江駅付近のマップ
の散歩を習慣にしているせいか、6時前には必ず目が覚める。昨日の夕方、駅の観光案内所に立ち寄って「鯖江市ロードマップ」を貰った。それには、駅からそれほど遠くない所に舟津(ふなつ)神社が記されている。高校時代、自転車通学をしていた時はいつもその前を通っていたが、立ち寄ったことがなかった。神社の背後の丘陵には、弥生時代から古墳時代にかけての王山(おうざん)古墳群があるという。散歩に手頃な距離なので、朝食前の腹ごなしにでかけることにした。



祭神として大彦命(おおひこのみこと)を祀る船津神社

Rの線路に沿った駅前の道を南に5分も歩いていくと、道路脇に船津神社(所在:鯖江市舟津町)の鳥居が建っている。鳥居の横に立てられた案内板によると、この神社は北陸で最も古い式内社で、祭神として大彦命(おおひこのみこと)を祀っている。また、相殿の大山御板(おおやまみいた)神社には、猿田彦命(さるたひこのみこと)、孝元天皇、素佐鳴雄命(すさのおのみこと)を祀っている。

舟津神社の参道入口
舟津神社の参道入口
彦命とは、崇神天皇10年に地方の賊を平定するために北陸道に遣わされた皇族将軍である。将軍は当地の逢山(おうやま、王山)の峯で楯3枚を立てて社の形を作り、猿田彦命を祀ると国中の安寧を祈願したという。それが上宮の大山御板神社の起源とされている。その後、成務天皇4年に大彦命の五世孫の市入命(いちいりのみこと)が勅命を受けて、大彦命を舟津郷に祀った。それが下宮の舟津神社の始まりである。

初は、上宮は王山の上に、下宮は王山の東方数町のところに鎮座していた。しかし、寛仁3年(1019)に下宮が火災を被り上宮に合祀され、さらに応永23年(1416)に下宮が再建されて、上宮・下宮同殿の社になったという。中世には守護の斯波氏朝倉氏の崇敬を受け、江戸時代には享保6年(1721)に間部氏の鯖江入部以来その祈願所となり、鯖江の産土神(うぶすながみ)として崇敬された。寛保2年(1742)に、往古の上宮と下宮があった中間地である王山の東麓に社殿が移され、現在に至っているという。

一面にコケが生い茂った境内
一面にコケが生い茂った境内
津神社の起源に関係して、鯖江という地名の由来伝承が今に伝えられている。それによると、当時この付近は日野川の氾濫に悩まされ、鯖江の平野部一帯は沼地で、大彦命の一行は今の深江あたりで進軍に難渋していた。そこへ舟を漕ぎ寄せてきた老翁がいた。老人は、
「我はこの深江に住む住民の頭目で阿伊奴彦(あいぬひこ)と申す者なり。この地方の事情に詳しければご協力申し上げる」
と、大彦命の軍船を案内したという。

彦命は現在の王山に陣を敷き賊を平定したが、戦いの最中に佐婆矢(さばや)が敵の魁師に当たり死なせてしまった。この矢が鯖の尾に似ていたことから、この地を鯖矢と呼ぶようになった。後に、鯖矢が訛って鯖江になったとのことだ。別の説では、鯖矢の「鯖」と深江の「江」を取って「鯖江」としたとも言われている。なお、正式な地名としての鯖江の鯖の字は、右辺が「青」ではなく「」と書く。

橘曙覧の歌碑
橘曙覧の歌碑
直線にのびる参道の両脇にスギの巨木が並び、その根元で繁茂するコケが夜露を含んで鮮やかに緑色をしている。そのコケの絨毯の中に歌碑が建っていた。近寄って見ると、福井県出身の国学者であり歌人でもあった橘曙覧(たちばなのあけみ、1812 - 1868)の次の歌が刻まれていた。
●みさかりの 世にかへすべく 宮はしら ふときこころを たつる人もが

曙覧は、奈良時代の橘諸兄(たちばなのもろえ)を先祖とあおぎ、中央の歌壇と交わることなくひっそりと一地方の歌人として清貧の暮らしの中で生涯を送った人物である。国学者でもあった彼の古体歌への深い理解に基づいた独自の歌風は、越前藩の名君・松平春嶽に様々な影響を与えたと言われている。彼の歌は、日常生活に題材をとり身近な言葉で詠んだことで知られる。特に「独楽吟」と呼ばれる「たのしみは」で始り「のとき」で終わる短歌はわかりやすい言葉でストレートに日常の機微を詠っている。たとえば、次のような歌がある。

●たのしみは珍しき書人にかり始め一ひらひろげたる時
●たのしみはまれに魚煮て児等皆がうましうましといひて食ふ時

成6年(1994)に天皇皇后両陛下が訪米されたとき、クリントン大統領は歓迎式典で曙覧の
●たのしみは 朝起きいでて昨日まで なかりし花の咲ける見る時
を歓迎スピーチの締めくくりの言葉としたという。

舟津神社の大鳥居 舟津神社の大鳥居
舟津神社の大鳥居 舟津神社の大鳥居

道の途中に、大鳥居がそびえている。寛政12年(1800)に再建された木造の両部鳥居である。島木や笠木の上に屋根を付けた越前型の典型的な鳥居だそうだ。総高6.58m、柱中心間隔4.77m。江戸時代後期の白木の木造鳥居は現存遺構が少なく、建築的にも意匠が優れれいることから、昭和61年3月28日に県の重要文化財に指定された。

らに参道を進むと、今度は社殿の前に赤鳥居があった。こちらは木造、朱塗りの明神鳥居である。安永3年(1774)5月、鯖江藩主・間部詮茂(まなべあきしげ)が奉納したものだそうだ。総高4.2m、柱中心間隔3.4m。平成10年4月24日、本殿と共に県の重要文化財の指定を受けている。

舟津神社の本殿
舟津神社の本殿

の本殿は、赤鳥居の先にあった。文政3年(1820)に再建された五間社流造(ごけんしゃながれづくり)の建物で、屋根は柿葺(こけらぶき)である。ここに祭神として大彦命、相殿に大山御板神社すなわち猿田彦命(さるたひこのみこと)、孝元天皇、素佐鳴雄命(すさのおのみこと)を祀っている。



約50基の方形周溝墓と円墳からなる国指定史跡 王山(おうざん)古墳群

王山の頂に点在する方形周溝墓
王山の頂に点在する方形周溝墓 (撮影 2008/10/10)


王山古墳群の登り口
王山古墳群の登り口
津神社の背後に、鯖江台地の南端に位置する海抜66mの独立丘がある。王山(おうざん)と呼ばれている小山だ。尾根付近に弥生時代から古墳時代にかけて築かれた古墳群があるというので立ち寄った。山頂へ続く遊歩道の登り口は舟津神社から見て、反対側の山麓にある。登り口の案内板には、次のような説明がなされていた。

”王山にはその稜線と北部斜面におよそ50基の古墳が所在し、これを「王山古墳群」と呼んでいます。
昭和40年に行われた発掘調査により、山頂部にあるものの多くは方形墳(方形周溝墓)であることが判明しました。方形周溝墓の発見は全国的に見ても早い発見でした。
周溝からは葬祭儀礼に関係したと思われる弥生式後期の土器や古式の土師器が出土しました。これらの副葬品から推定して王山古墳群は弥生時代の終わり頃から古墳時代の初め(3世紀末から5世紀初め)に築造されたものといわれます。
この王山古墳群は、全体が山林に覆われ原状がよく保たれており、昭和42年6月22日国の史跡として指定を受けました。”

王山古墳群全体図
王山古墳群全体図
墳の間を縫って築かれた遊歩道は薄いピンク色の砂利舗装がなされていて、よく整備された古墳公園になっている。この古墳群が発見されたのは、今から80年も前の昭和3年(1928)のことだ。案内板に書かれているように、昭和40年(1965)に福井県教育委員会が発掘調査を実施した。しかし、実際に調査されたのは、50余基ある古墳のうち、山上の平坦部に並ぶ方形周溝墓9基と円墳2基だけだった。残りは未発掘の状態のまま保存されている。

形周溝墓の基底の一辺は約6〜15m、復元後の高さは2m前後のものが多い。いずれも土壙をもち、5号墳からは鉄刀、6号墳からは鉄剣がそれぞれ1個見つかっている。円墳は直径だけが判明していて、31号墳は約20m、32号墳は約7〜8mとのことだ。31号墳からは鉄剣、鉄鏃、緑色凝灰岩製小玉49が、32号墳からも鉄剣、鉄鏃などが出土していて、両円墳の築造時期は古墳前期に比定されている。

こに築かれた古墳群は、王山周辺にあったムラの有力者や指導者、およびこの地域を統率した王たちの墓だったと推定されている。出土した土器は近江地方尾張地方の影響を受けた土器がほとんどだったとのことだ。このことは、王山に葬られた人々がこれらの地域と密接な関係を持っていたことを物語っている。

古墳群の中に築かれた遊歩道
古墳群の中に築かれた遊歩道
古墳群中最大・最古の王山40号墳
古墳群中最大・最古の王山40号墳
代が下がってもこれらの地域との通交は続けられていたことは容易に想像できる。5世紀後半のオホド王の時代、近江や尾張の族長と強力な同盟関係にあったことは良く知られている。

方、多くの場所で平安時代(9〜11世紀)の土器も出土している。古墳時代が終わった後も、この地が人々の宗教活動の場になっていたようだ。特に21号墳の上には、鎌倉時代から室町時代末期の石塔や集石墓が発見されており、古墳を再利用して墓を造っていたと推測されている。

陵の最高所に王山40号墳があった。今からおよそ2000年前の弥生時代中期の方形周溝墓である。規模は東西23.5m、南北21m、高さは3mとのことだ。よく整備されているが、埋葬設備は保存のため未調査である。王山で最大・最古の墳墓であるばかりか、福井県の弥生時代墳墓の中でも最大規模を誇る。王山が墓地形成の契機となった盟主的な墳墓であり、この地方を治めた首長の墓だったと推定されている。



追記:5世紀後半に築造された北陸最大の円墳・兜山古墳

兜山古墳遠望
北陸最大の円墳とされている兜山古墳を遠望 (撮影 2008/10/11)


鯖江市史』によれば、市域で確認されている古墳の種類は、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などで、その数はほぼ800基に達するとのことだ。市の東部にある今北山古墳群磯部古墳群弁財天古墳群なども史跡に指定されているが、筆者が若い頃はその存在すら知られていなかった。

兜山古墳の正面
兜山古墳の正面
井県の古墳の数は約4000基とされている。したがって、鯖江市域にはその五分の一にあたる古墳が見つかっているいることになる。その中でも、北陸最大の円墳があると聞いていた。鯖江市神明町にある兜山(かぶとやま)古墳である。11日の朝、鯖江を発つ前に時間があったので、事のついでに見ておくことにした。

山古墳は、鯖江台地の緩やかな東部傾斜面に、鏡餅を二段に重ねたように築かれた円墳である。基底の直径は約60m、高さは約7mで、周囲に幅10mの濠を巡らせた古墳時代中期(5世紀後半)築かれた墓と推定されている。現在は八幡神社の境内になっている。

図で確認すると、古墳の所在地は鯖江市神明町2丁目で、福井鉄道の「神明駅」が近い。たまたまJR鯖江駅前から出発しようとしていた市内循環バスの行き先を見ると、「神明駅」行きになっていたので、それを利用することにした。

墳頂に続く参道
墳頂に続く参道
スは市街地をあちこち通り抜けて、15分ほどで神明駅に到着する。3連休初日の土曜日の朝とあって、乗客は筆者一人だったので、一番前の席に座って運転手と色々雑談を交わした。そのうちに、意外なことにその運転手が中学校時代の同窓生であることが分かって、突然会話が福井弁に変わった。年金だけでは苦しいので、この4月からアルバイトにバスの運転手を始めたとのことだ。

山古墳は神明駅に近い踏切のそばにある。踏切を横切って住宅街を見やると、住宅の屋根の向こうに巨木に覆われた小さな丘が見える。それが墳丘である。古墳の正面にまわると、八幡神社の鳥居が立っていて、参道の先が墳頂へ登る石段になっていた。

段を登り切ると、最上部で両側で狛犬の石像が迎えてくれる。その先は直径が30m程の平坦な広場になっていた。社殿は墳丘の奥の西側傾斜面を利用して建てられている。このため、社殿を建てるのに墳丘の頂が若干削平されたようで、当初の墳丘は今より1mは高かったと推定されている。

兜山古墳の墳頂に建つ八幡神社の社殿
兜山古墳の墳頂に建つ八幡神社の社殿
の古墳の外部施設として葺石や埴輪の存在は確認されていない。内部の埋葬施設についても、その構造も副葬品も確認されていない。外部から見た印象では盗掘の被害を受けた形跡も見あたらないため、当初の状態のまま残っているのではと推測されている。ただ、外観が巨大なので、5世紀の後半頃この地方を治めた豪族の墓に比定されている。

者はこの5世紀後半という築造時期に興味を抱いている。というのは、近江国高嶋郡三尾で誕生したオホド王(後の継体天皇)が、父の彦主人(ひこうし)王が死んだので、母の振媛(ふりひめ)に連れられて越前三国の高向(たかむく)に戻り、豪族の若き首長として成長していた時期だ。あるいは、兜山古墳の被葬者はオホド王に臣下の礼をとっていたかもしれない。




2008/10/14作成 by pancho_de_ohsei return