橿原日記 平成20年10月3日

江戸時代、自治都市として栄えた環濠集落の今井町

知人を案内して今井町を訪れる

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今井町の入口に近い飛鳥川に架かる蘇武橋 (撮影 2008/10/03)


 蘇武橋(そぶばし)と蘇武井(そぶのい)

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橿原市今井町 − 今から15年も前の平成5年(1993)12月8日に重要伝統的建造物群保存地区に指定され、住民と行政が一体となって歴史的町並みの保存に尽力している町。橿原市の中心街へ出るのに、筆者はこの今井町のはずれを毎週のように自転車で往復している。そのくせ、意外とこの歴史的保存地区に無関心だった。一つには、筆者の関心が古代史の舞台になった飛鳥や藤原京に偏っていたことによる。

までに二度ばかり、今井町の中を自転車で一回りしたことがある。幾つかの旧家の名前を覚えたが、町の歴史にはそれほど関心を抱かなかった。ところが、ひょんな風向きで知人を案内して今井町を歩くことになった。以下は、江戸の町並みにタイムスリップして、彼と二人で行なった今井町散策のレポートである。


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蘇武橋、別名尊坊橋
人の名を仮にSとしておこう。本日の午前11時に、彼とは近鉄橿原線の「八木西口」駅の改札口で落ち合った。駅の西口を出て南西方向に向かうと、すぐのところに飛鳥川に架かる朱塗りの橋がある。蘇武橋(そぶばし)である。彼は場違いなところに朱塗りの橋が架かっているのに興味を抱き、欄干の様子をデジカメに納めながら地名のいわれを聞いてきた。

蘇武井
蘇武橋の西詰めにある蘇武井
元では、蘇武橋を尊坊橋(そんぼばし)と呼んでいる。筆者も詳しいことは知らないが、橋の西詰めの南側に、蘇武井(そぶのい)という井戸があり、そこより少し先の飛鳥川べりにも庚申の祠の隣に井戸がある、かっての今井の里の水は水質の悪かったが、蘇武井からは良質の水がこんこんと湧き出た。今井の里の千軒の家々がこの水を毎日汲んでも、またいかなる日照りが続いても、枯れることはなかったという。

申の祠の右手に石碑が立ち、「今井ソンボの朝水汲みは桶がもるやら涙やら」と歌の一節が刻まれている。今井蘇武(ソンボ)の朝水汲みは、桶から漏れる水と自分の涙で、襦袢(じゅばん)や片袖がみな濡れたという意味だそうな。歌の作者は誰だか知らないが、朝早くから蘇武井の水汲みをさせられる乙女たちの悲しさが伝わってくるような歌である。

蘇武井の近くに立つ石碑
蘇武井の近くに立つ石碑

の付近は昔の高市郡遊部(あそぶべ)郷にあたる地域で、飛鳥川も遊部川といい、蘇武井のある付近は”遊部の岡”とか”あそふ岡”と呼ばれていた。蘇武または尊坊は、”あそふ”がなまって、”アソブベ”の上・下音アとベを省略した語であるとする説がある。

武井は、聖徳太子が水を飲まれたとも、愛馬の黒駒に水を与えられた井戸とも伝えられている。 太子道は、この付近では飛鳥川の堤が利用されていたのだろう。


 今井まちなみ交流センター華甍(はないらか)

武橋をわたって今井町に入ると、町並みの景観がガラリと変わり、まるで江戸時代にタイムスリップしたような錯覚に襲われる。後述するように、江戸時代の今井は、約180年間江戸幕府の天領だったが、自治の気風が強く大幅な自治的特権が許されていた。また、近在から多くの商人が移り住み、あらゆる商売が行われて商業都市として栄えた。

の最盛期には、「大和の金は今井に七分」と言われるほどで、商売で豊かな財力を蓄えた商人は、両替商を営み、大名にも金銀を貸す者もいた。当時の繁栄を誇った江戸時代の町並みが、冷凍保存されたように現在でも町内の路地で見ることができる。

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今井まちなみ交流センター華甍 (撮影 2008/10/03)

井町の歴史と伝統を知る上で格好の場所がある。今井まちなみ交流センター華甍(はないらか)だ。今井寺内町に接して南に建つ交流センターは、かっての高市郡教育博物館である。大正天皇のご成婚の折、神武天皇陵に参拝されたとき下賜金を下された。それを資金に明治36年(1903)に竣工した奈良県初の社会教育施設と聞いている。

今井寺内町の模型
今井寺内町の模型
階建ての本館と平屋の両翼廊からなる左右対称の建物として設計された教育博物館だったが、昭和4年(1929)からは今井町役場として使用された。相当痛んだので、修理の際に建設当初の姿に復元され、現在は「今井まちなみ交流センター華甍」として利用されている。一階には資料室や展示室があって自由に見学できる。

関を入って右側の展示室には、中央に今井町の模型が置かれ、周囲の壁には資料が展示してある。ここで、女性職員が今井町発展の歴史を概略説明してくれる。彼女の説明や提供された資料から、今井町の歴史を振り返ると次のようになる。

 武装宗教都市を建設した石山本願寺の家衆・今井兵部卿豊寿(いまいひょうぶのきょうとよひさ)

の付近に今井庄(いまいのしょう)という荘園が作られたのは、12世紀から13世紀にかけてのようだ。文献上初めて今井の地名が登場するのは、室町時代の至徳3年 ( 1386 )に作られた興福寺一条院文書で、今井庄を興福寺領の荘園としている。その後も、16世紀まで、今井庄は興福寺領として存続した。

今井町の変遷
今井町の変遷(*)
が、室町時代には荘園制度が崩壊し、大和の国でも豪族が割拠し始め、やがて村の周囲に環濠を築いて自衛する集落も出現した。その頃、一向宗が大和に広がり、旧勢力の興福寺との争いが続いた。天文元年(1532)、一向門徒が一揆を起こして興福寺を焼き討ちした、興福寺はその報復として一向一揆の拠点を攻めた。そのとき今井も焼き討ちされた。

の後も、今井は何回か旧勢力に焼き払われるが、天文10年(1541)に石山本願寺は今井兵部卿豊寿 (いまいひょうぶのきょう・とよひさ)という家衆を送り込んできた。家衆と言うからには、生粋の僧侶ではない。おそらく一向宗の信徒を護る武装集団のボスのような人物だったのだろう。あるいは今井庄出身の熱烈な一向信徒だったかもしれない。兵部は農民門徒を背景として、この地に本願寺の念仏道場を建てた。その道場が後の称念寺の前身であり、今井町発展の中心となっていく。

現在の称念寺の表門
現在の称念寺の表門
の兵部という人物はなかなかの器量人だったようだ。道場の四町四方に幅3間の濠を掘り、土塁を巡らせ、境内に東西五本、南北六本の道路を築いて碁盤状の町割りを敷いた。さらに、方々から人を呼び集めて商いなどを行わせ、また自衛のために浪人たちを呼び集めて、武装宗教都市・今井寺内町(いまいじないまち)を築きあげた。これが、現在の今井町の始まりとされている。

時、本願寺の第十一世・顕如(けんにょ、1543-1592))は、経済的・軍事的な要衝である石山本願寺を拠点として、主に畿内を中心に本願寺派の寺を配置し大名に匹敵する権力を有していた。彼の時代、教団は最盛期を迎えた。しかし、永禄11年(1568年)に上洛を果たした織田信長から圧迫を受けるようになると、顕如は信長と戦うことを決意し、元亀元年(1570)から本願寺と織田氏は交戦状態に入った。

信長が与えた赦免状
信長が与えた赦免状(*)
れに呼応して、今井では今井兵部のもと、町を武装化して参戦し、周辺を放火してまわり織田方を苦しめた。信長は筒井順慶明智光秀を今井鎮圧に差し向けたが、半年かかっても攻め落とすことができなかったという。しかし、天正3年(1575)、明智光秀の調停で信長軍に降伏し、今井兵部は赦免状を得て今井の支配を任された。武装を解除した今井はその後、米穀や、繰り綿、綿布、味噌、醤油、油などの取引を活発に行い、在郷町として発展していく。

長5年(1600)の関ヶ原の合戦の後、今井は徳川幕府の天領となり、郡山藩の配下に入った一時期を除いて、180年間徳川幕府の直接支配を受けた。慶長の頃の今井は、東西約610m、南北約310mの長方形で、街路の端々に東西南北9つの門があり、昼は全ての門を開き、夜間は4つの門を除いて門を閉じたとされている。元和元年(1615)の大阪夏の陣では、大坂方が今井を攻めたが、これを撃退した。

和7年(1621)、何代目かの今井兵部に今井の支配を命じられ、兵部は惣年寄(そうとしより)を設け、町年寄などの町役人を指揮して町政を行なう制度を作り上げた。今西家尾崎家が惣年寄に指名され、後に上田家が加わり、この三家が高度な自治組織を運営していたという。

の頃、多くの商人が近在から移り住み、あらゆる商売を行っていた。なかでも繰り綿・古手・木綿を中心に栄えた。商人の中には、商売で財力を蓄え、両替商を営んだり、大名貸しを行なうものも現れた。寛永11年(1634)には「今井札」という藩札の発行が幕府から許可されたほどである。

時の今井の繁栄を、上述の「大和の金は 今井に七分」や、「今井しんど屋(=山尾家)は 大金もちや 金の虫干し 玄関までも」といった戯れ歌が如実に表している。さらに、近くの畝傍山の山上から今井を見下ろしたときの、民家の立ち並ぶ風景の美しさを詠んだ「お峯山から 今井を見れば、今井千軒 お手の下」という歌もある。

慶長の頃の今井町の町割り
慶長の頃の今井町の町割り
盛期を迎えたこの頃、「今井町」と称することが許され、町域も南町・西町・東町・北町・今町・新町の六町が整い、戸数約1200,人口4000を擁したという。

かし、18世紀に入ると、重税のため町民が困窮し、人口が減少し初め、町内にも空き地が目立ち始める。元文5年(1740)には戸数924、人口3,786というデータが残っている。19世紀にはいると、享和4年(1804)のデータでは、家数797,人口2,795まで減少している。

橿原市の平成19年度統計書によると、往年の今井寺内町の町域に含まれる今井町1丁目から4丁目の戸数は788戸、人口は2、412人である。戸数の約8割は江戸時代の民家で占められ、日本でも最も特徴的な寺内町の町並みを今に留めていると言われている。昭和30年頃から町並み保存運動が芽生え、昭和40年代に入ると、称念寺の住職今井氏を中心の町並み保存運動が本格化した。

現在の今井町
現在の今井町
の住民と行政が一体となった保存運動によって、まず昭和32年(1957)に今西家の住宅が国の重要文化財に指定された。続いて、昭和47年(1972)には、旧米谷家・高木家・音村家・中橋家・豊田家・上田家の住宅が、さらに昭和51年(1976)には河合家の住宅も国の重要文化財の指定を受けた。それとは別に、昭和56年(1981)に吉村家(旧上田家)が、昭和60年(1985)には山尾家がそれぞれ県の文化財に指定された。

して、平成5年(1993)、かっての今井寺内町が「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。そのお陰で、今井町の大半の民家が江戸時代以来の伝統様式をまもっていて、その中に今西家をはじめ国の重要文化財や県の文化財が点在している。この地区を訪れる人たちは、静かな江戸時代の雰囲気が残る町並みの中に、戦国時代を生き延びて江戸時代初期に繁栄を極めた寺内町の歴史の重さを感じ取ることができる。

(*) 橿原市教育委員会作成「今井町 歴史的町並み」より転写



平日の昼下がりは、人通りの耐えた映画のセットのような町並み

茶の「三大宗匠」の一人とされた今井宗久との関わりは・・・

今井町のイラストマップ
今井町のイラストマップ
今井町の歴史は称念寺を中心に、南西から北東方向に発展してきました。歴史の流れに沿って見学したいなら、先ず、称念寺を訪れなさい。それから西の端まで行き、今西家から順に北東方向に進むのがよいですよ」

井町の模型の前で、女性職員は親切にもアドバイスしてくれた。玄関に置いてあったイラストマップでも、そうした道順での散策を勧めているようだ。彼女の親切には感謝したが、正午の時間が迫っていた。

化財に指定されている建物の多くは、現在も家族が住んでいる。そのため、内部を見せて貰うには事前連絡が必要だ。だが、事前連絡なしでも見せてくれる住宅があった。旧米谷家住宅である。その家も正午から午後1時までは昼休みで閉めるという。そこで、彼女のアドバイスを無視して、中尊坊通りから中町通りへ向かうことにした。

流センターの玄関を出ると、秋空が高く明るい。Sは思わず手をかざして空を見上げた。室内の展示室から出た二人には、昼時の太陽はまぶしかった。先ほど歩いてきた道を少し戻り、高木家住宅と河合家住宅が並ぶ中尊坊通りに入った。今井町内の道路は地道風にカラーの砂利舗装されていて、足の裏の感触が心地よく歩きやすい。今井町では電線の地中化が進められていると聞いていたが、地中化の整備が完了しているのは中町筋本町筋だけである。

今井町の中尊坊通り
今井町の中尊坊通り

なぜ信長は、一向宗門徒を率いて頑強に敵対した今井兵部に赦免状を与えたのだろう?」
Sが独り言のように呟いた。展示室で見た赤茶けた赦免状が気になっていたようだ。比叡山の焼き討ちを命じたほどの信長である。敵対する既存の宗教勢力に対しては情け容赦がなかったはずなのに、今井町に対する処置はあまりに甘い。

案顔のSが何かに思い当たったように聞いた。
「ひょっとして、今井宗久(そうきゅう)は今井の出身だったのでは?」
そうであれば、信長方と今井兵部の和議を持ちかけたのは、宗久だったのかもしれない、と彼は言った。

利休津田宗及(つだそうきゅう)とともに茶の「三大宗匠」と称せられた今井宗久(1520 - 1593) は、確かに今井出身の茶人である。堺に出て納屋宗次(なやそうじ.)の居宅に身を寄せ、武野紹鴎(たけの じょうおう)に茶を学んだ。軍需品として当時は需要があった鹿皮などの皮製品を扱って財をなし、各地の戦国大名とのつながりを深めた。永禄11年(1568)10月、上洛した織田信長に名物の松島の茶壺紹鴎茄子の茶入などを献上して、いち早く信長の知己を得ている。

禄11年といえば、今井兵部が本願寺の道場を今井に築く3年前のことである。今井兵部と今井宗久は知古の間柄であった可能性は否定できない。そうであれば、一般には明智光秀が信長と今井の仲介の労をとったとされているが、その背後には今井宗久の尽力があったのかもしれない。

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今井宗久の茶室を再興したとされる「黄梅庵」
流センターの展示室には、今井宗久と今井町との関わりを示すものは見あたらなかった。ただ、材木商で財をなした豊田家には、今井宗久の茶室があったと伝えられている。戦前に「電力の鬼」と呼ばれた電力産業界の雄・松永安左ヱ門(1875-1971)の手に渡り、小田原の別邸で再興された。梅の実が黄熟する頃に完成したことから、松永は「黄梅庵」と名付けたという。その後、昭和55年(1980)に松永の遺族から寄贈され、現在は堺市の博物館内に移築されている。ただし、建築様式的には宗久の時代のものとするのは難しいとのことだ。

 自治都市・今井、商業都市・今井を今に伝える様々な景観

日の昼下がり、今井町の町並み見学で町内を散策する観光客の姿はほとんどいない。住民の姿も路上になく、町並み保存地区はまるで映画のロケのセットのように静まりかえっている。砂利舗装された道路の両側には、古い町家の建物が寄り添うように軒を連ねていた。

春日神社周辺で復元されている旧環濠 半間ほど道をずらした「あてまげ」
復元されている旧環濠 半間ほど道をずらした「あてまげ」

井兵部卿豊寿がこの地に本願寺の道場を建てると、その四町四方に周濠と土居を巡らせた武装宗教都市を築いたという。当時の周濠の跡は、わずかに南西の春日神社の近辺に一部復元されているにすぎない。だが、町内の道路は城塞都市の名残をいたるところに留めている。敵の侵入に備えて、その遠見や、弓矢・鉄砲の射通しを防ぐために、道路がT字路になっていたり、辻角の街路を半間ほどずらした「あてまげ」になっている。

正年間に信長に降伏した後、今井は自治を任され、町の政治は今西、尾崎、上田氏の惣年寄を中心に行われてきた。江戸時代初期には商業都市として発展したが、町家が密集する地域で怖いのは火災である。そこで、町民自ら「町掟」やお触れを定め、家の造りにも防災のための厳しい規制を設けた。その証が建物の本瓦葺きであり、軒丸瓦の瓦頭に描かれた三つ巴文であろう。三つ巴文が、水が渦巻く様子を表したものとして、防火の願いが込められている。

伝統的な町家建築の名称
伝統的な町家建築の名称(*)
井町の伝統的な様式の町家は、切妻造り平入(ひらいり)、前後庇付き本瓦葺(または桟瓦葺)が基本だった。町家の造りには厳しい規制があったが、しかし、その中で町民たちは個性的なデザインを生み出している。通りを歩いていくと、昔の町家の屋根の煙出しや、鬼瓦つし二階にはめ込まれた虫籠窓(むしこまど)、「しもみせ・みせのま・みせおく」の通りに面した格子(こうし)や出格子などに、様々な意匠を見ることができる。

 広く金物商を営んでいた旧米谷家住宅の内部

旧米谷家住宅の正面
旧米谷家住宅の正面
軒ある重要文化財指定の住宅は、現在も住居として使われているが、中町筋の北側に面する旧米谷家住宅は、施設として一般開放している。月曜日以外であれば、午前中は9時から12時、午後は13時から15時まで無料で建物の内部を見学できる。

米谷家は、「米忠」の屋号で金物商・肥料商を営んだ豪商だった。主屋は18世紀中期の建物で、正面から見ると、切妻造、本瓦葺き、平入と伝統的な様式の町家だが、隣家に比べると若干低い。建物の中に入ると、内部は東側に通り土間、西側に床上の居室が設けられている。居室は6間取りが普通だが、他家とは異なりここでは5間取りになっている。

旧米谷家の通り土間 床上の居室の居間
旧米谷家の通り土間 床上の居室の居間

の家の土間には、立派なかまどが置かれている。かまどは一人で多くの釜の面倒が見られるように勾玉の形に配列されている。天井を見上げると煙出しが取り付けられていて、農家風のイメージがある。主屋の裏手にまわると、後に増築された土蔵や蔵前座敷があった。

勾玉の形に配列されたカマド 天井の煙出し
勾玉の形に配列されたカマド 天井の煙出し

 金物問屋を営んでいた音村家住宅の内部

音村家住宅
音村家住宅
村家住宅は旧米谷家住宅から一軒おいた西隣にある。こちらも内部を見学させてくれるが、お一人様200円の有料である。音村家の建物は17世紀後半ごろの建築で旧米谷家より少し古いが、切妻造、本瓦葺、平入と伝統的な様式を守っている。正面から見ると、「つしニ階」すなわち中二階があるのが分かる。

米谷家住宅の内部を見学したついでに、音村家の内部も見学していくことにした。小さな戸口をくぐると、内部は東側に通り土間があり、隅にシモミセ(下店)があった。西側には床上の居室があり、六間取りの奥に角座敷が増設されている。今も客間として利用しているとのことだ。安政2年(1885)には、角座敷の西側上手に二間続きの新座敷を増築した。鹿の角のように突き出た形をしているので、「つのざしき」と呼んでいる。

音村家住居の居間 音村家住居のカマド
音村家住居の居室部 音村家住居のカマド

の住宅は、建設年代が古いばかりではなく、喰違い間取り、あるいは揚げ戸など江戸時代中期の新しい手法が採用されている。そのため、今井町町家の初期の発展状況を示す貴重な建物とされている。こちらの通り土間には、可愛いカマドが一つ設けられていた。

 今は荒れ果てて建物の修復が待たれる称念寺

称念寺の表門 称念寺の本堂(重要文化財)
称念寺の表門 称念寺の本堂(重要文化財)

堂筋の中程に、浄土真宗本願寺派の今井山称念寺(しょうねんじ)がある。阿弥陀如来を本尊として祀り、「今井御坊」とも呼ばれている寺だ。上述のように、天文年間に石山本願寺の家衆であった今井兵部卿豊寿が建てた念仏道場にその始まりとされている。弘化2年(1845)に建てられた太鼓楼(市の指定文化財)が、境内の外からでもひときわ目立っている。

称念寺の庫裏と「明治天皇駐蹕碑」
称念寺の庫裏と「明治天皇駐蹕碑」
念寺の正面に「夢ら咲長屋」という観光案内所兼休憩所がある。「夢ら咲」と書いて”むらさき”と読む。「夢ら咲長屋」にはボランティアのガイドが詰めていて、称念寺に関わるさまざまなエピソードを話してくれた。寺内町今井は、称念寺を中核として発展し、信長・秀吉・家康に仕えたが、徳川幕府は寺内町の存続を認めず「郷中並」の扱いとした。このため、今井氏は武士を返上して釈門に専念することになったとのことだ。以後、今井氏が歴代の住職を務めている。

念寺の庫裏は、玄関屋根が朽ちかけて今にも崩れ落ちそうだ。庫裏の前面に聳える桜の枝葉が邪魔して見にくいが、屋根の鬼瓦には天皇家の菊の紋と徳川家の葵の紋が彫られている。葵の紋は、第三世住職が紀州徳川家の城普請に貢献したことで三ツ葉葵を寺の紋に使用することが認められたとのことだ。そう言って、ガイドは手持ちの資料をめくって、葵の紋を見せてくれた。

庫裏玄関屋根の鬼瓦 紀州徳川家の葵の紋
庫裏玄関屋根の鬼瓦 紀州徳川家の葵の紋

どうして、これが紀州徳川家の家紋と分かるんですか?]
と、Sはその写真をしげしげと見入りながら聞いた。家紋に描かれた葵の葉の葉脈の数がそれぞれ違っていて、それによって何処の徳川家か分かるそうだ。ガイドはこんな話しもしてくれた。葵の紋は住職が乗る駕籠にも印されていて、町中を通行する住職の駕籠に出逢ったなら、大名といえども道を譲ったとのことだ。

葵の紋が入った駕籠
葵の紋が入った駕籠
明治天皇が使った風呂桶
明治天皇が使った風呂桶
念寺の門は立派である。もともと寺の門は長屋門しかなかったそうだ。ところが、明治10年(1877)12月に明治天皇が畝傍御陵に行幸されたとき、この寺が宿泊所とされた。それで、多武峰談山神社の廃仏毀釈で不要となった表門を急遽移築したとのこと。明治天皇がこの地に宿泊しているとき、「西南の役」勃発の報がもたらされた。そこで、天皇は滞在期間を変更してすぐに京都に戻られた。門前には、「明治天皇今井行在所」の碑が建ち、境内の庫裏の前には「明治天皇駐蹕碑」(ちゅうひつひ)もある。なお、寺には明治天皇が滞在中に使った風呂桶も保管されている。

の重要文化財に指定されている称念寺本堂は、かなり痛んでいるようだ。屋根瓦の並びが不揃いになっているのを見れば、その痛み具合が想像できる。国の重要文化財なのだから、国の補助を受けて早いうちに修復すべきなのだろうが、なかなかその順番が回ってこないのかもしれない。

堂の内部を拝見できないのは残念だが、見なくてもだいたいの想像はつく。浄土真宗では、西方極楽浄土を再現するように、仏間まわりや仏壇は金色のまばゆいばかりに派手に作ってある。この寺も例外ではあるまい。ガイドが見せてくれた写真でも欄間の美しさは目を見張るものがある。仏間の上部には、紀州徳川家の徳川頼宣の揮毫による功徳蔵(くどくぞう)という扁額が掲げられている。功徳蔵の意味はあらゆる功徳をおさめ、たくわえられている仏の意だそうだ。

称念寺本堂の内部 仏間に掲げられた扁額
称念寺本堂の内部 仏間に掲げられた扁額

念寺の境内から見上げたときも本堂の屋根がかなり痛んでいるのが気になった。しかし、本堂の裏側にまわって唖然とさせられた。
「これは、これは・・・」
Sも驚いたように感嘆の声を上げた。
裏側から見た大屋根はほとんどがトタン板で覆われている。おそらく瓦のずれ込みがひどくて、雨漏りを防ぐ手だては、こうする意外に方法はなかったのであろう。妻側の屋根の端は崩れ落ちて、遺跡の発掘現場のようにシートがかけてある。 二人は思わず顔を見合わせた。これが国の重要文化財に指定された建造物の今の姿である。日本の文化行政のお粗末さが、ここでも実感させられた。

トタン板で雨漏りを防いでいる本堂屋根 崩れ落ちた屋根
トタン板で雨漏りを防いでいる本堂屋根 崩れ落ちた屋根



参考:今井町の国指定重要文化財と県指定文化財

今井町の国指定重要文化財と県指定文化財の所在地

日二人が訪れた国指定重要文化財と県指定文化財の指定を受けている建造物の所在を上の地図に示す。

@ 高木家住宅 A 河合家住宅 B 旧米谷家住宅 C 音村家住宅 
D 上田家住宅 E 吉村家住宅 F 山尾家住宅 G 中橋家住宅
H 豊田家住宅 I 今西家住宅 J 称念寺本堂 K 旧高市郡教育博物館

れたと言っても、通りから建物の外観を眺めた程度で、ほとんどの家は現在も人が住んでいるため、内部を見学したい場合は事前の連絡が必要である。今回内部を見学できたのは、旧米谷家住宅とその近くにある音村家住宅だけである。

井町見学のハイライトはおそらく今西家住宅だろうが、こちらは、春は4月15日から5月14日まで、秋は10月15日から11月14日の期間限定である。本日でなくて、2週間ほど今井町散策の時期を遅らせれば、今西家の内部を見学できたのに残念と、S君は最後までぼやいていた。

@ 高木家住宅  (重要文化財)

19世紀の初期、「四条屋」から分家し、「大東の四条屋」の屋号で酒造業を営む。建物は切妻造り、本瓦葺き、平入(ひらいり)の二階建て。前面の格子は木割が細く、吹き寄せのところもある。一階、二階ともに2列6室形の部屋になっていて、幕末の今井町の上層民家として好例。

A 河合家住宅 (重要文化財)

江戸時代初期に上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営む。建物は18世紀中頃に建てられた二階建て町屋で、二階に座敷などがある。正面に太い格子を入れ、二階は塗籠となっている。屋根は、東側が入母屋造り、西側が切妻造りの瓦葺き。

B 旧米谷家住宅 (重要文化財)

かっての米谷(こめたに)家で、「米忠」の屋号で金具商を営む。建物は18世紀中頃の建築で、切妻造り本瓦葺き平入。内部は5間取で、土間部には煙返しなどが取り付けられ、農家風のイメージが強い。

C 音村家住宅 (重要文化財)

「細九」の屋号で金物問屋を営む。建物は17世紀後半頃の建築と推定されている。屋根は切妻造り本瓦葺き平入、正面だけに”つし2階”(中二階)が設けてある。後に、主屋の西北済みに二間続きの「つのざしき」を増設するなど、時代の情勢に合わせて逐次増設されている。

D 上田家住宅 (重要文化財)

屋号を「壺屋」といい、今西家、尾崎家とならび今井町惣年寄(そうどしより)を勤めた。主屋に貼られた祈祷札から、建物は延享元年(1744)の建築とみられる。入母屋造り本瓦葺き平入、つし二階建てで、大壁造りの妻を見せた外観は重厚である。入口を西に設けてあり、他家と異なっている。

E 吉村家住宅 (県指定文化財)

元の上田家で、「壺八」という屋号で肥料商その他を営む。主屋は文化2年(1805)に再建された建物だが、その他の建物は50年ほど遡るとされている。狭い敷地を巧みに利用して多くの建物を配置した一般商家風の構えの家である。

F 山尾家住宅 (県指定文化財)

十市群新堂から移住してきたため「新堂屋」の屋号で、幕末に町年寄を勤めた大商家。広い敷地に多くの建物が道路に面して建っている。主屋は18世紀後半ごろ建てられたの推測されているが、その後部分的な改造がなされている。

G 中橋家住宅 (重要文化財)

称念寺の向かいにある旧家で、江戸時代、「米彦」の屋号で米屋を営む。主屋は18世紀後半ころに建てられた平屋の町家だが、19世紀の初めに正面通りに「つし二階」が増築された。

H 豊田家住宅 (重要文化財)

元は、材木商「西の木屋」と呼ばれた牧村家の所有で、牧村家は幕末には大名貸しを行い藩の蔵元などを務めた豪商である。建物は寛文2年(1662)に建てられたもので、屋根は入母屋造り本瓦葺きで軒が高い。二階正面壁には丸に木の字の紋がある。今西家住宅と並んで、今井町における上層町家の好例とされている。

I 今西家住宅 (重要文化財)

今井町の西の端に位置し、惣年寄の筆頭で、領主、代官の町方支配の一翼を担い、自治権がゆだねられていた。建物は慶安3年(1650)に建てられた民家だが、城郭のような構造をしており、「八つ棟造り」とも呼ばれている。外壁を白漆喰塗籠とし、大棟の両端に段違いの小棟を付け、入母屋造り本瓦葺きの堂々とした外観は、我が国の民家建築史上の重要な建物とされている。

J 称念寺本堂 (重要文化財)

称念寺は天文10年(1541)に、一向宗本願寺の僧・今井兵部卿豊寿が開いた浄土真宗の道場が、のちに寺に改められた。今井町は、この寺の境内から寺内町(じないちょう)として発達した。本堂は江戸時代初期に再建された大規模な浄土真宗の本堂だが、破損がひどい。

K 旧高市郡教育博物館 (県指定文化財)

明治36年(1903)に建てられた奈良県最初の社会教育施設。昭和4年(1929)より今井町役場として使用されてきた。修理にあたって建設当初の姿に復元し、現在は「今井まちなみ交流センター華甍(はないらか)」として利用されている。一階には資料室、展示室があり、自由に見学できる。



【出典】橿原市教育委員会作成「今井町 歴史的町並み」、歴史街道イラストマップ「歴史と出逢う都市・かしはら今井町」、
2008/10/04作成 by pancho_de_ohsei return