平日の昼下がりは、人通りの耐えた映画のセットのような町並み茶の「三大宗匠」の一人とされた今井宗久との関わりは・・・
今井町の模型の前で、女性職員は親切にもアドバイスしてくれた。玄関に置いてあったイラストマップでも、そうした道順での散策を勧めているようだ。彼女の親切には感謝したが、正午の時間が迫っていた。 文化財に指定されている建物の多くは、現在も家族が住んでいる。そのため、内部を見せて貰うには事前連絡が必要だ。だが、事前連絡なしでも見せてくれる住宅があった。旧米谷家住宅である。その家も正午から午後1時までは昼休みで閉めるという。そこで、彼女のアドバイスを無視して、中尊坊通りから中町通りへ向かうことにした。 交流センターの玄関を出ると、秋空が高く明るい。Sは思わず手をかざして空を見上げた。室内の展示室から出た二人には、昼時の太陽はまぶしかった。先ほど歩いてきた道を少し戻り、高木家住宅と河合家住宅が並ぶ中尊坊通りに入った。今井町内の道路は地道風にカラーの砂利舗装されていて、足の裏の感触が心地よく歩きやすい。今井町では電線の地中化が進められていると聞いていたが、地中化の整備が完了しているのは中町筋と本町筋だけである。
「なぜ信長は、一向宗門徒を率いて頑強に敵対した今井兵部に赦免状を与えたのだろう?」
思案顔のSが何かに思い当たったように聞いた。
千利休、津田宗及(つだそうきゅう)とともに茶の「三大宗匠」と称せられた今井宗久(1520 - 1593) は、確かに今井出身の茶人である。堺に出て納屋宗次(なやそうじ.)の居宅に身を寄せ、武野紹鴎(たけの じょうおう)に茶を学んだ。軍需品として当時は需要があった鹿皮などの皮製品を扱って財をなし、各地の戦国大名とのつながりを深めた。永禄11年(1568)10月、上洛した織田信長に名物の松島の茶壺や紹鴎茄子の茶入などを献上して、いち早く信長の知己を得ている。 永禄11年といえば、今井兵部が本願寺の道場を今井に築く3年前のことである。今井兵部と今井宗久は知古の間柄であった可能性は否定できない。そうであれば、一般には明智光秀が信長と今井の仲介の労をとったとされているが、その背後には今井宗久の尽力があったのかもしれない。
自治都市・今井、商業都市・今井を今に伝える様々な景観平日の昼下がり、今井町の町並み見学で町内を散策する観光客の姿はほとんどいない。住民の姿も路上になく、町並み保存地区はまるで映画のロケのセットのように静まりかえっている。砂利舗装された道路の両側には、古い町家の建物が寄り添うように軒を連ねていた。
今井兵部卿豊寿がこの地に本願寺の道場を建てると、その四町四方に周濠と土居を巡らせた武装宗教都市を築いたという。当時の周濠の跡は、わずかに南西の春日神社の近辺に一部復元されているにすぎない。だが、町内の道路は城塞都市の名残をいたるところに留めている。敵の侵入に備えて、その遠見や、弓矢・鉄砲の射通しを防ぐために、道路がT字路になっていたり、辻角の街路を半間ほどずらした「あてまげ」になっている。 天正年間に信長に降伏した後、今井は自治を任され、町の政治は今西、尾崎、上田氏の惣年寄を中心に行われてきた。江戸時代初期には商業都市として発展したが、町家が密集する地域で怖いのは火災である。そこで、町民自ら「町掟」やお触れを定め、家の造りにも防災のための厳しい規制を設けた。その証が建物の本瓦葺きであり、軒丸瓦の瓦頭に描かれた三つ巴文であろう。三つ巴文が、水が渦巻く様子を表したものとして、防火の願いが込められている。
広く金物商を営んでいた旧米谷家住宅の内部
旧米谷家は、「米忠」の屋号で金物商・肥料商を営んだ豪商だった。主屋は18世紀中期の建物で、正面から見ると、切妻造、本瓦葺き、平入と伝統的な様式の町家だが、隣家に比べると若干低い。建物の中に入ると、内部は東側に通り土間、西側に床上の居室が設けられている。居室は6間取りが普通だが、他家とは異なりここでは5間取りになっている。
この家の土間には、立派なかまどが置かれている。かまどは一人で多くの釜の面倒が見られるように勾玉の形に配列されている。天井を見上げると煙出しが取り付けられていて、農家風のイメージがある。主屋の裏手にまわると、後に増築された土蔵や蔵前座敷があった。
金物問屋を営んでいた音村家住宅の内部
旧米谷家住宅の内部を見学したついでに、音村家の内部も見学していくことにした。小さな戸口をくぐると、内部は東側に通り土間があり、隅にシモミセ(下店)があった。西側には床上の居室があり、六間取りの奥に角座敷が増設されている。今も客間として利用しているとのことだ。安政2年(1885)には、角座敷の西側上手に二間続きの新座敷を増築した。鹿の角のように突き出た形をしているので、「つのざしき」と呼んでいる。
この住宅は、建設年代が古いばかりではなく、喰違い間取り、あるいは揚げ戸など江戸時代中期の新しい手法が採用されている。そのため、今井町町家の初期の発展状況を示す貴重な建物とされている。こちらの通り土間には、可愛いカマドが一つ設けられていた。 今は荒れ果てて建物の修復が待たれる称念寺
御堂筋の中程に、浄土真宗本願寺派の今井山称念寺(しょうねんじ)がある。阿弥陀如来を本尊として祀り、「今井御坊」とも呼ばれている寺だ。上述のように、天文年間に石山本願寺の家衆であった今井兵部卿豊寿が建てた念仏道場にその始まりとされている。弘化2年(1845)に建てられた太鼓楼(市の指定文化財)が、境内の外からでもひときわ目立っている。
称念寺の庫裏は、玄関屋根が朽ちかけて今にも崩れ落ちそうだ。庫裏の前面に聳える桜の枝葉が邪魔して見にくいが、屋根の鬼瓦には天皇家の菊の紋と徳川家の葵の紋が彫られている。葵の紋は、第三世住職が紀州徳川家の城普請に貢献したことで三ツ葉葵を寺の紋に使用することが認められたとのことだ。そう言って、ガイドは手持ちの資料をめくって、葵の紋を見せてくれた。
「どうして、これが紀州徳川家の家紋と分かるんですか?]
国の重要文化財に指定されている称念寺本堂は、かなり痛んでいるようだ。屋根瓦の並びが不揃いになっているのを見れば、その痛み具合が想像できる。国の重要文化財なのだから、国の補助を受けて早いうちに修復すべきなのだろうが、なかなかその順番が回ってこないのかもしれない。 本堂の内部を拝見できないのは残念だが、見なくてもだいたいの想像はつく。浄土真宗では、西方極楽浄土を再現するように、仏間まわりや仏壇は金色のまばゆいばかりに派手に作ってある。この寺も例外ではあるまい。ガイドが見せてくれた写真でも欄間の美しさは目を見張るものがある。仏間の上部には、紀州徳川家の徳川頼宣の揮毫による功徳蔵(くどくぞう)という扁額が掲げられている。功徳蔵の意味はあらゆる功徳をおさめ、たくわえられている仏の意だそうだ。
称念寺の境内から見上げたときも本堂の屋根がかなり痛んでいるのが気になった。しかし、本堂の裏側にまわって唖然とさせられた。
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参考:今井町の国指定重要文化財と県指定文化財
本日二人が訪れた国指定重要文化財と県指定文化財の指定を受けている建造物の所在を上の地図に示す。
@ 高木家住宅 A 河合家住宅 B 旧米谷家住宅 C 音村家住宅
訪れたと言っても、通りから建物の外観を眺めた程度で、ほとんどの家は現在も人が住んでいるため、内部を見学したい場合は事前の連絡が必要である。今回内部を見学できたのは、旧米谷家住宅とその近くにある音村家住宅だけである。 今井町見学のハイライトはおそらく今西家住宅だろうが、こちらは、春は4月15日から5月14日まで、秋は10月15日から11月14日の期間限定である。本日でなくて、2週間ほど今井町散策の時期を遅らせれば、今西家の内部を見学できたのに残念と、S君は最後までぼやいていた。
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