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| 現地説明会にはせ参じた多くの考古学ファン (撮影 2008/09/27) |
朝堂院の礫敷きの前庭を一枚剥いだら出てきた遺構
本日は午前中、明日香村檜前で行われた現地見学会に参加した(橿原日記参照)。午後は1時半から藤原宮跡で現地説明会が行われるというので出かけてきた。 奈良文化財研究所(=奈文研)は藤原宮の大極殿南門前の朝堂院跡で、今年の4月1日から第153次発掘調査を行っている。朝堂院の建物に囲まれた朝庭で、礫敷き(れきじき)遺構と儀式に使う旗ざおの柱跡が検出されたということで、6月30日に現地見学会が開かれた(橿原日記参照)。その調査区でまた新しい発見があった。 9月24日に行われた記者発表で、奈文研は礫敷きの下から、南北溝と北東方向の斜行溝を各一本確認したと発表した。南北溝は宮の造営時に資材を運んだ運河である。斜行溝は運河の支流や水量調整弁としての役割があったようだ。奈文研では、藤原宮の造営にあたって運河網を整備し造営資材を計画的に搬入していた様子が伺えるとコメントを発表している。だが、筆者は別の視点からこの運河の存在に着目し、発掘された遺構に興味を抱いた。
この発掘調査現場で前回行われたのは、現地見学会であって、現地説明会ではなかった。入口で資料を配布していた関係者の話では、礫石をめくっての調査は9月まで続けられるが、場所が朝堂院の朝庭だけに、役人たちの書き損じた木簡などが大量に見つかるかもしれないと漏らしていた。だが、見つかったのは木簡ではなくて藤原京を南北に貫く運河の一部と、その支流だった。藤原京完成以前の造営計画のインフラを掘り当てたことになる。 さらに、大極殿院南門基壇のすぐ南に3基の巨大な柱穴が見つかった。一辺が1.6mの方形の穴で、まるで正三角形のそれぞれの頂点の位置に巨大な柱が建てられていたようだ。また、朱雀大路の東側の溝も礫敷きの下から一部見つかった。 |
2つの疑問
今回の現地説明会で関心を抱いたのは、運河の位置と南北溝1である。碁盤の目のような条坊制の藤原京を机上で立案する場合、もっとも重要な施設は藤原宮であることは、誰しも異存はあるまい。広大な地域に資材を搬入するには、道路よりも河川などの水運を利用する方がはるかに便利だ。そのため、河川を京域に引き込むために造営工事に先駆けて運河を築いた理由も納得できる。 だが、なぜ藤原宮の中心を南北に貫通するような場所をわざわざ選んで運河が築かれたのであろうか。藤原京内の最重要施設である藤原宮の工事着工時点では、運河は埋め戻され宮城の整地が行わなければならない。藤原宮の地鎮祭は692年5月に行われた、それから2年半後の694年の年の暮れには、持統天皇は藤原宮へ遷居している。その時期に天皇の住まいの内裏はある程度完成していただろう。だが藤原宮・藤原京の造営はその後も続けられ、資材の搬入が必要だったはずだ、文献上、大極殿の名前の初見は698年、朝堂は701年である。
そうであれば、資材搬入のために建設した運河を後々生活排水施設に利用することぐらいは考えなかったのだろうか。最初から宮城の東辺または西辺に運河を開削しておけば、わざわざ埋め戻す手間も必要なかったはずだ。藤原京の地形は上述のように東南方向が高く北西方向が低い。したがって水は南から北へ、東から西へと流れる。藤原宮は都城の北側に位置していた。当時はトイレも垂れ流しである。北に行くほど悪臭が漂っていたと推定される。『続日本紀』は慶雲3年(706)3月の記事に「京城の内外の多く穢臭(えしゅう)あり」と聞くと伝えている。 あるいは運河は宮城内では埋め戻されたが、宮城の外部では迂回してその後も利用されたのかもしれない。政治や儀式の場である大極殿、天皇の住居である内裏、多くの役所が建ち並ぶ朝堂院などを配置した藤原宮は、その周囲を大垣で囲まれ、大垣の外側は幅5mの外濠がめぐされていたことが分かっている。
朱雀大路は朱雀門から南にのびていると一般に解されている。実は信じられないことだが、朱雀大路は藤原宮を南北に貫いて北にものびているという。現地説明会の資料にも朱雀大路と明示され、その東側溝が南北溝1だったと説明された。しかし、この朱雀大路は藤原京の朱雀大路ではない。 今までの発掘調査ににって、藤原宮の下層には宮の造営に先行する条坊道路が存在することが分かっている。専門的には「宮内先行道路」と呼ばれている古道であり、北へ延びる朱雀大路もその一つだ。もっとも、当時この道路が朱雀大路と呼ばれていた確証はない。
しかし、発掘責任者の話では、この調査で南北方向に走る古い道路の遺構が見つかった。この道路は西二坊大路と西三坊大路の中間に位置し、まっすぐ北に延ばして行くと、本薬師寺中門の正面にぶつかる。元薬師寺とは、天武天皇が皇后の病気平癒を願って680年(天武9年)11月に建立に着手した薬師寺の旧蹟である。したがって、その寺地は、この道路の存在を前提に、藤原京の条坊制以前に決定されていたことになる。 橿考研の林部均氏は、藤原京の造営以前に存在した先行条坊道路の存在を根拠に、面白い推論をされている。『日本書紀』に記された「新城」(にいき)の造営は676年(天武5)から開始され、方形地割りが設定されたが、それは官僚制の整備に伴う官人の増加により、その居住空間として設定されたものであるという(林部均著『飛鳥の宮と藤原京』)。
新都造営に当たっては、途中で中断した方形地割りによる条坊道路が手直しして利用することになった。林部氏の説に立てば、我が国最初の都城と呼んでいる藤原京・藤原宮は、一般に言われているように当初から立案・計画されたものではない。官僚制の整備に伴う官人たちの居住空間として開発した地域を、途中から王都建設に振り当てたことになる。はたして、実情はどうだったのだろうか? |