平成20年9月27日

藤原宮跡:朝堂院の朝庭から出土した運河の斜行溝 

現地説明会にはせ参じた多くの考古学ファン
現地説明会にはせ参じた多くの考古学ファン (撮影 2008/09/27)

朝堂院の礫敷きの前庭を一枚剥いだら出てきた遺構

第153次発掘調査地
第153次発掘調査地(*)
然のように本格的な秋がやってきた。そんな感じを抱かせる今朝の天気だった。大陸から張り出してきた高気圧が、昨晩の内に前線を南に追いやってしまった。そのため、朝の散歩に出かけた時の橿原の気温は摂氏12度。昨日より6度は低い。澄み切った青空の下で、朝日を浴びた畝傍山の木々が目に痛いほどまぶしかった。

日は午前中、明日香村檜前で行われた現地見学会に参加した(橿原日記参照)。午後は1時半から藤原宮跡で現地説明会が行われるというので出かけてきた。

良文化財研究所(=奈文研)は藤原宮の大極殿南門前の朝堂院跡で、今年の4月1日から第153次発掘調査を行っている。朝堂院の建物に囲まれた朝庭で、礫敷き(れきじき)遺構と儀式に使う旗ざおの柱跡が検出されたということで、6月30日に現地見学会が開かれた(橿原日記参照)。その調査区でまた新しい発見があった。

月24日に行われた記者発表で、奈文研は礫敷きの下から、南北溝北東方向の斜行溝を各一本確認したと発表した。南北溝は宮の造営時に資材を運んだ運河である。斜行溝は運河の支流や水量調整弁としての役割があったようだ。奈文研では、藤原宮の造営にあたって運河網を整備し造営資材を計画的に搬入していた様子が伺えるとコメントを発表している。だが、筆者は別の視点からこの運河の存在に着目し、発掘された遺構に興味を抱いた。


出土品展示テント
出土品展示テント
現地説明会の会場
現地説明会の会場の様子
刻の15分ほど前に説明会の会場に到着したが、そこにはいつもの光景があった。出土品を展示したテントでは、押しかけた見学者が列を作りカメラ撮影に余念がない、説明用に設置された大きなパネルの前では、用意された特設の椅子は満席で多くの考古学ファンは青空の下で芝に腰を下ろしている。

の発掘調査現場で前回行われたのは、現地見学会であって、現地説明会ではなかった。入口で資料を配布していた関係者の話では、礫石をめくっての調査は9月まで続けられるが、場所が朝堂院の朝庭だけに、役人たちの書き損じた木簡などが大量に見つかるかもしれないと漏らしていた。だが、見つかったのは木簡ではなくて藤原京を南北に貫く運河の一部と、その支流だった。藤原京完成以前の造営計画のインフラを掘り当てたことになる。

らに、大極殿院南門基壇のすぐ南に3基の巨大な柱穴が見つかった。一辺が1.6mの方形の穴で、まるで正三角形のそれぞれの頂点の位置に巨大な柱が建てられていたようだ。また、朱雀大路の東側の溝も礫敷きの下から一部見つかった。



藤原宮の造営工事の過程を具体的に語る遺構

遺構平面図
遺構平面図(説明会資料より)
地説明会は定刻通り午後1時半に開始された。奈文研の都城発掘調査部長の挨拶の後、研究員二人による発掘の経緯の説明があった。

回の発掘調査で最も注目されたのは、南北方向の大規模な運河の跡とその運河に取り付いていた斜行溝である。発掘された運河の跡は、幅が約4m、深さが約2mの溝で、実際に発掘された長さは7mにすぎない。

が、運河の一部は、1975年にすでに発見されている。大極殿の北側の藤原京の北辺で、今回の出土地から北に500mも離れた場所だった。それ以来、今回を含め計4カ所で発見され、いずれも南北の同一線上にあった。そのため、この運河は藤原京あるいは藤原宮を造営するための材木や瓦、礎石などを運ぶための水路として掘削されたと見なされている。

運河と斜行溝(西側から見る) 運河と斜行溝(南から見る)
運河と斜行溝(西側から見る) 運河と斜行溝(南から見る)

田上山から木材を運んだ想定ルート
田上山から木材を運んだ想定ルート
万葉集』には藤原京の造営に駆り出された作業員が作ったとされる「藤原京役民(えだちのたみ)の歌」(巻1-0050)が記載されている。この歌を読み解くと、藤原宮の造営に用いられた用材は、近江の田上山(たなかみやま)で伐採され、筏(いかだ)を組んで瀬田川−宇治川に流され、巨椋池から木津川を遡り、泉津(いずみのつ)で陸揚げされた。

の後の経路は、万葉歌からは分からないが、おそらく奈良山を越えて再び筏を組んで佐保川に浮かべられ、川下で大和川から飛鳥川あるいは米川に導かれた。その後は、運河に導き入れられ蓄材場所まで運ばれたと思われる。その運搬に要した距離は100キロを超える。

ころで、藤原京が築かれた土地はかなり高低差があり、東南が高く西北が低い。そのため、資材を載せた船を水流に逆流して南行させるのは、人力だけでなく、牛馬の力も借りたようだ。運河跡から牛や馬の骨が発見されている。

河跡には灰色の砂が0.8m堆積し、さらに砂混じりの青灰色の粘質土が1m堆積していた。その上に黄灰色の土と葉灰色の粘土で埋立られていた。この運河跡には牛馬の骨以外にも興味深い出土品があった。まったく無傷の完形の壺である。出土品陳列テントに置かれていた壺は、とても1300年以上も前の作品とは思えないほど美しかった。

運河跡から出土した牛馬の骨 運河跡から出土した完形の壺
運河跡から出土した牛馬の骨 運河跡から出土した完形の壺

回の発掘調査で初めて確認された溝が2本ある。調査区中央で北東方向に続く斜行溝A斜行溝Bである。これらの溝は掘削された時期が異なる。

い時期に築かれた斜行溝Aは、幅約2.5〜5m、深さ0.6m〜1mで運河に取り付いている。そのため、運河の支線とも考えられ、運河を通って運ばれてきた資材を別の場所に搬入する目的で掘られたとする見方がある。そうであれば、こうした運河の支線は一カ所とは限らず、藤原宮の造営段階で運河のネットワークが築かれていた可能性がある。ただし、斜行溝の深さは運河より約1.2m浅い。そのため、運河の水量を調節する施設だったことも考えられる。

しい時期の斜行溝Bは幅1.8m、深さ0.7mだが、運河や斜行溝Aを埋め立てた後に掘られている。南門を造営する際に排水を迂回するために掘られた溝のようだ。

運河と斜行溝のとりつけ部分 斜行溝Aと斜行溝B
運河と斜行溝のとりつけ部分 斜行溝Aと斜行溝B

れらの斜行溝の他に、南北方向に2本の溝が見つかっている。南北溝1は浅い素掘の溝を埋めた礫敷きの溝だったようだ。礫敷き広場内に設けられた通路状施設の側溝だったと考えられているが、もともとは先行朱雀大路の東側溝だったようだ。

北溝1の西にも素掘の南北溝2があった。この溝は大極殿南門付近の高まりを造ったとき掘られたもので、南門を造営するときの排水溝だったと思われる。この溝を埋める際には多数の瓦が廃棄されたようで、多くの瓦がこの溝から見つかっている。

南北溝2 南北溝1
南北溝2 南北溝1

本の暗渠(あんきょ)も見つかった。東西暗渠は調査区の北よりに東西に築かれた溝で、礫と瓦を詰め、その上に礫が敷いてあった。このあたりは礫敷き広場でもっとも低いため、広場の水を集めて東から西へ流す排水設備だったと考えられている。調査区中央で見つかった南北暗渠は幅が1mで、内部に大ぶりの礫が詰められていた、周辺の水を集めて、南から北へ流し東西暗渠につながっていた。

東西方向に築かれた暗渠
東西方向に築かれた暗渠

大型の3基の柱穴
大型の3基の柱穴
西暗渠の近くで巨大な土坑が一つ発見された。用途不明の謎の穴である。謎と言えば、東西暗渠の北側で見つかった3基の大型の柱穴の目的も分かっていない。2基は南北方向に並び、1基はその西側に位置するが、ちょうど正三角形の頂点に位置するように配されている。現時点では儀式に用いた旗を立てた柱の穴ではないかと推測されている。



2つの疑問

熱心に説明員の解説を聞く参加者
熱心に説明員の解説を聞く参加者

回の現地説明会で関心を抱いたのは、運河の位置と南北溝1である。碁盤の目のような条坊制の藤原京を机上で立案する場合、もっとも重要な施設は藤原宮であることは、誰しも異存はあるまい。広大な地域に資材を搬入するには、道路よりも河川などの水運を利用する方がはるかに便利だ。そのため、河川を京域に引き込むために造営工事に先駆けて運河を築いた理由も納得できる。

が、なぜ藤原宮の中心を南北に貫通するような場所をわざわざ選んで運河が築かれたのであろうか。藤原京内の最重要施設である藤原宮の工事着工時点では、運河は埋め戻され宮城の整地が行わなければならない。藤原宮の地鎮祭は692年5月に行われた、それから2年半後の694年の年の暮れには、持統天皇は藤原宮へ遷居している。その時期に天皇の住まいの内裏はある程度完成していただろう。だが藤原宮・藤原京の造営はその後も続けられ、資材の搬入が必要だったはずだ、文献上、大極殿の名前の初見は698年、朝堂は701年である。

藤原宮跡に咲くコスモス
藤原宮跡に咲くコスモス
う一つ、忘れてならない事がある。政治都市を計画する場合のインフラの整備だ。東京学芸大学の木下正史教授は、その著書『藤原京』(中公新書)の中で、藤原京の当時の総人口は3万〜5万人程度だったと推定しておられる。天武天皇が藤原京の造営を計画したとき、これだけの人口を抱えた都市空間の生活用水の確保や汚水の排水設備を考えなかったはずはない。上水は井戸を掘ることで確保できただろうが、汚水処理に対してはしっかりした排水設備が必要だったはずだ。

うであれば、資材搬入のために建設した運河を後々生活排水施設に利用することぐらいは考えなかったのだろうか。最初から宮城の東辺または西辺に運河を開削しておけば、わざわざ埋め戻す手間も必要なかったはずだ。藤原京の地形は上述のように東南方向が高く北西方向が低い。したがって水は南から北へ、東から西へと流れる。藤原宮は都城の北側に位置していた。当時はトイレも垂れ流しである。北に行くほど悪臭が漂っていたと推定される。『続日本紀』は慶雲3年(706)3月の記事に「京城の内外の多く穢臭(えしゅう)あり」と聞くと伝えている。

るいは運河は宮城内では埋め戻されたが、宮城の外部では迂回してその後も利用されたのかもしれない。政治や儀式の場である大極殿、天皇の住居である内裏、多くの役所が建ち並ぶ朝堂院などを配置した藤原宮は、その周囲を大垣で囲まれ、大垣の外側は幅5mの外濠がめぐされていたことが分かっている。


藤原宮跡に咲く紅花コスモス
藤原宮跡に咲く紅花コスモス
原京のメインストリートは、宮城の朱雀門から南へまっすぐ築かれた朱雀大路である。朱雀門の南約0.2キロのところで、朱雀大路の側溝の遺構が見つかり、側溝を含めた道幅は約24mであったことが判明した。この大路はそのまま南に続き、約1.5キロ先の山田道まで続いていたと推定されていた。しかし、2003年に橿考研が藤原京の南端に近い十一条を東西420mにわたって調査したところ、朱雀大路の東西にあった坊間路の遺構は見つかったが、朱雀大路の遺構は確認できなかった。つまり、藤原京の南端まで届かず朱雀門の南約1・3キロの地点で途切れていたのである。

雀大路は朱雀門から南にのびていると一般に解されている。実は信じられないことだが、朱雀大路は藤原宮を南北に貫いて北にものびているという。現地説明会の資料にも朱雀大路と明示され、その東側溝が南北溝1だったと説明された。しかし、この朱雀大路は藤原京の朱雀大路ではない。

までの発掘調査ににって、藤原宮の下層には宮の造営に先行する条坊道路が存在することが分かっている。専門的には「宮内先行道路」と呼ばれている古道であり、北へ延びる朱雀大路もその一つだ。もっとも、当時この道路が朱雀大路と呼ばれていた確証はない。

aaaaa
元薬師寺の伽藍配置復元図
うした藤原京に先行する条坊道路の発見は、藤原宮の外でも見つかっている。例えば今年の2月、橿考研は藤原京の南北方向の西三坊大路と東西方向の十一条大路に接する坊付近を、「橿原神宮東口停車場飛鳥線」という新設道路の建設に伴う緊急発掘調査を行なった。取り立てて目新しい出土遺物が見つかっていないため、現地説明会/見学会は行われなかった(橿原日記参照)。

かし、発掘責任者の話では、この調査で南北方向に走る古い道路の遺構が見つかった。この道路は西二坊大路と西三坊大路の中間に位置し、まっすぐ北に延ばして行くと、本薬師寺中門の正面にぶつかる。元薬師寺とは、天武天皇が皇后の病気平癒を願って680年(天武9年)11月に建立に着手した薬師寺の旧蹟である。したがって、その寺地は、この道路の存在を前提に、藤原京の条坊制以前に決定されていたことになる。

橿考研の林部均氏は、藤原京の造営以前に存在した先行条坊道路の存在を根拠に、面白い推論をされている。『日本書紀』に記された「新城」(にいき)の造営は676年(天武5)から開始され、方形地割りが設定されたが、それは官僚制の整備に伴う官人の増加により、その居住空間として設定されたものであるという(林部均著『飛鳥の宮と藤原京』)。

かし、「新城」の造営はなぜか頓挫してしまう。つまり、天武が「新城」の建設を考えていた時点では、本格的な藤原京の造営までは意図していなかったことになる。天武天皇が本格的な都城として新益京(あらましのみやこ)の造営に方針を変更したのは、684年(天武13)だったようだ。この年、天武天皇は新都造営予定地を巡行して、藤原宮の位置を決定した。

都造営に当たっては、途中で中断した方形地割りによる条坊道路が手直しして利用することになった。林部氏の説に立てば、我が国最初の都城と呼んでいる藤原京・藤原宮は、一般に言われているように当初から立案・計画されたものではない。官僚制の整備に伴う官人たちの居住空間として開発した地域を、途中から王都建設に振り当てたことになる。はたして、実情はどうだったのだろうか?




2008/09/29作成 by pancho_de_ohsei return