平成20年9月27日

古代の渡来系氏族・東漢(やまとのあや)氏の氏寺・檜隈寺(ひのくまでら)

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檜隈寺の塔心礎の位置に建つ十三重石塔(重要文化財)

東漢氏(やまとのあやうじ)雑感

明日香村大字檜前(ひのくま)付近
明日香村大字檜前(ひのくま)付近
在の奈良県高市郡明日香村大字檜前(ひのくま)は、近鉄吉野線の「飛鳥」駅から南へ歩いて10分ほどのところにある。古代の大和国高市郡檜隈(ひのくま)はもう少し広い範囲だった。現在の檜前、栗原、御園を中心とする一帯だったらしい。

世紀の前半、朝鮮半島南端の阿邪加耶(あやかや)とか安羅加耶(あらかや)と呼ばれた国からこの地に移り住んだ人々がいた。彼らは特に血縁関係のない小さな氏族集団にすぎなかったが、出身地や居住地を同じくしたことから、次第に同族意識を高め、やがて東漢(やまとのあや)氏を名乗るようになった。

日本書紀』は、応神天皇20年9月に、東漢氏の祖・阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が渡来し、檜隈郷の地が与えられたと記されている。しかし、東漢氏は単一の氏族ではない。文(ふみ)氏、民(みたみ)氏、坂上(さかのうえ)氏、谷氏、内蔵(くら)氏、長氏など多くの支族によって構成される渡来系氏族の総称である。檜隈やその周辺に住み、蘇我氏のもとで、大和政権の外交・財政・軍事などに深く関わって成長してきたとされている。彼らは一族のアイデンティテイとして共通の祖先渡来神話を作り上げた。それが、この阿知使主・都加使主父子の渡来伝説だったとされている。

於美阿志神社
於美阿志神社
十三重石塔
十三重石塔社
在の明日香村檜前のほぼ中央に、式内社の於美阿志(おみあし)神社がある。祭神として東漢氏の祖とされている阿知使主夫妻の二柱が祭られている。社名の由来ははっきりしない。一説には、「阿知使主」の呼称が逆転して「使主阿知」となり、それがさらに転訛して「於美阿志」となったとされているが、はたしてどうだろうか。

美阿志神社の拝殿は数年前に建て替えられて一新されたが、境内には重要文化財に指定されている十三重石塔が建っている。平安時代の作とされる石塔は、十一番目から上は大きく壊れている。だが、その端正なたたずまいには思わず襟を正したくなるような厳しさがある。周囲の緑の樹木を背景にすっくと立つ姿は、いつ見ても見飽きない。

は、於美阿志神社は東漢氏の氏寺だった檜前寺(ひのくまでら)の跡地に位置している。以前は社前の檜垣坂を隔てた西方に鎮座していた。檜隈寺跡の方が高台の乾燥地であるという理由で、明治40年7月に現在の地に遷されてきた。高松塚古墳とは指呼の間にありながら、飛鳥観光でこの地まで足をのばす人は少ない。そのため、何時訪れても於美阿志神社は静謐の中にある。


集落の十字路の隅に立つ標識
集落の十字路の隅に立つ標識
前の集落は、国道169号線沿いの丘陵の上に位置している。近鉄吉野線「飛鳥」駅から国道を南に歩き、二つ目の信号を右折して坂道を上れば、すぐに集落の中の十字路に出る。十字路の角に、檜隈寺跡方面への標識が立っているから、目的地までの道のりを間違うことはない。

落の中央に溜め池や稲田があり、その周りに白壁の民家が軒を連ねていて、静かな集落である。何時訪れても、道路に人影がない。時折、軽自動車がすれ違う程度で、人々は家の中で息をひそめてこちらの様子を伺っているのでは、という錯覚のようなものを覚える。この地域の人々は、間違いなくかって繁栄を誇った東漢氏の末裔である。

安時代初期に征夷大将軍に任ぜられ蝦夷征伐に活躍した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、東漢氏の支族の一つである坂上氏の出だ。その父である坂上刈田麻呂(かりたまろ)は、奈良時代の天平宝字8年(764)に起きた恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で活躍し、一族の隆盛を決定づけた人物として知られている。刈田麻呂が宝亀3年(772)4月に朝廷に提出した上表文が今に伝わっている。その中で、刈田麻呂は高市郡司に同族を任ずべき由縁を綴っている。その理由として、「およそ高市郡内は檜前=檜隈忌寸および(渡来した)17県の人々が、地にみちあふれるほど居住し、東漢氏につらならない姓の者は十のうち一か二に過ぎない」と述べている。

檜前集落の中にある標識
檜前集落の中にある次の標識
の上表文から、東漢氏一族は、奈良時代の末になっても、飛鳥の地に多く居住していて、強い同族的紐帯を保持してきたことが伺える。その紐帯として建造されたのが檜隈寺(ひのくまでら)であり、遺構は現在の於美阿志神社の地下に眠っている。

かし、この寺の存在を書き記した公の記録はすくない。わずかに『日本書紀』の朱鳥元年(686)8月に、軽寺、大窪寺とともに30年に限って封戸100戸を与えたと記されている程度だ、それでも、この記録によって、686年頃には檜隈寺がすでに建立されていたことがわかる。

の他の資料としては、京都東山の清水寺の沿革を記した『清水寺縁起』がある。それには、坂上氏が知行する寺として、大和国高市郡檜前の「道興寺」(どうこうじ)の名が記され、先祖の阿知使主が賜った土地に建てた寺と記されている。ちなみに、清水寺は坂上田村麻呂が建立した寺である。

世紀の前半に相次いで渡来した小氏族を束ねた東漢氏は、やがて新興豪族・蘇我氏と結びつくことで大きく飛躍することになる。一方、蘇我氏は渡来系氏族が携えてきた半島の最新文化や技術を独占することで、大和政権内で執政官として地位を高めていく。特に、5世紀後半から6世紀にかけて、朝鮮半島では、百済の一時的滅亡や加耶諸国の新羅併合といった混乱が続き、大量の渡来人が戦乱を逃れて列島に移住してきた。こうした人々の中には優れた技術を持っている者がおり、彼らは「今来才伎」(いまきのてひと)と呼ばれた。

於美阿志神社
檜前寺跡に鎮座する於美阿志神社

今来才伎」は東漢氏の傘下に組み入れられた。このため、東漢氏は、従来の大和王権の外交・財政・軍事などの他に、渡来系技術者を統括する役目も担うようになった。たとえば、雄略天皇は、その治世7年に、東漢直掬(やまとのあやのあたい・つか)に命じて、新漢(いまきのあや)である陶部高貴(すえつくりのこうき)・鞍作堅貴(くらつくりのけんき)・画部因斯羅我(えかきいんしらが)・錦部定那錦(にしきごりじょうあんなこむ)・訳語卯安那(おさみょうあんな)らを、上桃原・下桃原・真神原の三ヶ所に定住させている。

於美阿志神社の周辺は彼岸花が花盛り
於美阿志神社の周辺は彼岸花が花盛り
うして、蘇我氏の隆盛の影で一族の発展を図ってきた東漢氏だが、この氏族には古代の歴史の裏面で暗躍したダーティなイメージがつきまとう。天武天皇6年(677)4月、天皇は東漢直(やまとのあやのあたい)らに次のような詔を下したという。

お前たちの仲間は今まで7つの良からぬことを行なった。このため、小墾田の御代(推古朝)から近江の御代(天智朝)にいたるまで、常にお前たちは警戒されてきた。今、私の世において、お前たちが良からぬことを行えば、罪の通りに罰する、云々」

かし、壬申の乱で天武方についたため、7つの大罪は大恩をもって許された。7つの罪とは具体的に何を指すのかは不明である。だが、その一つは、崇峻天皇5年(592)に起きた東漢直駒(こま)による天皇暗殺事件だったことは間違いない。

成17年(2005)9月、檜前寺跡から南におよそ1キロの地点にある高取町観覚寺で、朝鮮半島特有の大壁(おおかべ)建物跡や、石組みの方形池床暖房(オンドル)などが、発掘調査中の観覚寺遺跡で見つかり、渡来人が住んでいた異国人街ではないかと話題を呼んだ。筆者がこの地が東漢直駒の住まいだったと勝手に想像して崇峻天皇暗殺事件を追ったことがある(平成17年9月21日付け橿原日記参照)。

が、そうしたダーティなイメージでこの一族を捉えるのは間違いである。古代宮都の造営で名を残した人物として、孝徳天皇の難波の宮の造営を指揮した荒田井直比羅夫(あらたいのあたいひらふ) 、舒明天皇の百済大宮の大匠(おおたくみ)・書直県(ふみのあたいのあがた)、平城京造得を指揮した坂上忌寸忍熊(さかのうえのいみき・おしくま)など東漢氏出身者の名も伝えられている。武人として活躍した上記の坂上刈田麻呂やその子・田村麻呂も東漢氏の支族の出である。



発掘の成果が示す特異な伽藍配置の檜前寺

年の6月、檜隈寺跡(国史跡)に関する新しい発見があった。明日香村の教育委員会の発表によれば、飛鳥時代の有力渡来系氏族東漢氏の氏寺とされる檜隈寺の寺跡の北西約70mの谷で、中世の瓦などとともに、金銅製仏像の手首から指先までの右手部分が出土した。

金銅製仏像の手
檜隈寺跡近くで出土した金銅製仏像の手
つかった手の部分は長さが2.3cm、幅が1cmと小さく、また一部指が欠け、金がはがれていた。しかし、金の発色の具合や、指を1本ずつ彫る技法などから、7世紀後半〜8世紀に鋳造された仏像で、中国または朝鮮半島からの渡来物の可能性が高いと推測されている。

像本体は、全長25cmほどの小型の金銅仏だったようだ。おそらく僧侶や信者たちが念持仏として持っていたものだろうる。東漢氏の氏寺として建立された檜隈寺は、11世紀から15世紀にかけて徐々に廃れた。寺が廃寺となったころ、寺の仏具と一緒に廃棄されたのであろう。当時の仏像が発掘調査で見つかるのは全国的にも珍しい。


鳥時代の有力な渡来系氏族・東漢氏が建立したとされる檜隈寺だが、創建時期や造営の経過を記した記録は残されていない。正史に記された唯一の記録は、上に述べたように、『日本書紀』の朱鳥元年(686)に、軽寺と大窪寺と一緒に30年を限度に封戸が与えられたとする記事だけである。したがって、寺の創建時期は686年よりもさかのぼる。

檜隈寺の伽藍配置(案内板より)
檜隈寺の伽藍配置(案内板より)
発掘調査時の金堂跡
発掘調査時の金堂跡
檜隈寺講堂の瓦積基壇
檜隈寺講堂の瓦積基壇
十三重石塔の南に置かれた塔心礎(レプリカ)
十三重石塔の南に置かれた塔心礎(レプリカ)
建時期は不明だが、寺院としての伽藍配置は今までに実施された遺跡の発掘調査で明らかにされている。調査は1969〜70年の塔の調査から始まった。その後、奈良国立文化財研究所によって1979年から4次にわたる発掘調査が行われ、きわめて特異な伽藍配置の寺院だったことが明らかになった。

建された檜隈寺は、西門(中門)を正面とする伽藍だった、西門を入ると、南に金堂を、北に講堂を、そして正面に塔を置く配置になっていた。南北90m、東西60mほどの回廊は単廊で、西門・金堂・講堂をつないでおり、回廊内に塔が建っていた。他に例のない伽藍配置である。  

堂は桁行5間、梁間4間の規模を持つ建物で、高さ1.3mの二重基壇の上に建っていた。基壇の4面には階段が取り付けられ、柱の礎石には円形の柱座を造り出した花崗岩が遣われていた。

堂は桁行7間、梁間4間の建物だった。この規模は、法隆寺西院の講堂に匹敵するという。講堂は高さ1.2mの基壇の上に立てられていた。基壇の外装は瓦積みで、後に一部を河原積みで補修されたことも判明している。積み上げられた瓦は平瓦を半分に割ったものだったが、中には7世紀前半のものと見られる軒丸瓦や軒平瓦も少数混じっていた。

壇の上面や周辺からセンが沢山出土したため、基壇の上面はセン敷きだったと思われる。礎石は15個見つかっているが、ほとんどは自然石を加工せずに使っていた。中には、7世紀の石棺の底石をそのまま用いたものも1個あったという。西門は桁行・梁間とも三間の門であることも明らかになった。

堂の瓦積み基壇の中に、7世紀前半のものと見られる軒丸瓦や軒平瓦が混じっていたことことから、この寺の創建時期をその頃まで遡るとする説がある。しかし、当時の伽藍の規模や配置は不明のままである。

安時代に造られた十三重石塔は、かっての檜隈寺の塔跡の基壇の上に建てられている。発掘調査からは、塔の建物は一辺が7.5mに復元できるという。十三重石塔を解体修理した際に、旧塔の半地下式心礎石塔の埋納物(ガラス製小壺・青白磁合子・蓋付須恵器四耳壺)が見つかった。出土品は国の重要文化財の指定を受けて、現在は国立奈良博物館に収蔵されている。埋納物のガラス製小壺は、創建当時の舎利容器の可能性があるという。

心礎のレプリカが十三重石塔を囲むフェンスの南に置かれていて、その大きさが実感できる。二段目に掘り込まれた孔には、排水用に円形の溝が彫られ、そこから一本の溝が心礎を貫いて外に向けて開けられている。なかなか手の込んだ造りである。心柱を支える為に、心礎の外周には講堂基壇と同じように瓦が基礎として積まれていたことが調査で判明している。

隈寺跡からは、奈良時代の瓦も出土する。平城宮の屋根を葺いた軒丸瓦や軒平瓦と同じ型で作られた同范瓦 である。これらの瓦は天平宝字(757 - 764)から天平神護(765 - 766)年間に作られたとされている。一族の氏寺を宮殿の瓦で補修することができたのは、その頃活躍した坂上刈田麻呂の働きによるとされている。



檜前寺近くの丘陵から見つかった東漢氏関連の建物群跡

檜前遺跡群と命名された建物群跡
檜前遺跡群と命名された建物群跡 ( 2008/09/25 撮影)


隈寺の近くでまた新しい発見があった。明日香村の教育委員会は、キトラ古墳周辺に新たに作られる国営飛鳥歴史公園の整備のため、檜隈寺から谷を隔てて200mほど南にある丘陵の尾根で約580平米の土地を今年の4月から事前調査していた。ところが、その調査地から7世紀中頃から8世紀前半にかけて作られた建物群跡が検出された。そこで、同教育委員会は去る9月25日に記者発表を行なって発掘された建物群跡を紹介し、この遺跡を檜前遺跡群と命名した。

於美阿志神社から続く遊歩道
於美阿志神社から続く遊歩道
於美阿志神社から続く遊歩道
於美阿志神社から続く遊歩道
日わざわざ檜前まで出向いてきたのは、檜前遺跡群の現地見学会に参加するためである。発掘現場は於美阿志神社から谷沿いに南に延びる道をそのまま進めばよい。この道はキトラ古墳へ行くとき利用する道だが、意外なことに道の傍らを彼岸花の放列が続いている。すでに盛りを過ぎていたのは少し残念だが、飛鳥の彼岸花は稲淵の棚田以外にも檜前で十分観賞できることを知った。

掘現場付近で振り返ると、今通ってきた道の谷側は赤い絨毯の壁が張り付いていた。その城壁の上に乗っかるように、檜隈寺の金堂跡に植えられた樹木が緑の城を形作っていた。

地見学会は午前10時からとなっていたので、その時間に到着するようにアパートを出た。説明はないが受付で資料が配付され、質問すれば近くにいる調査員が説明してくれる。丘陵の尾根に沿って南北に細長く掘られた調査地が緩やかな弧を描きながら続いている。出土した柱穴が赤や黄、緑のテープで囲ってあり、掘立柱の大きさや方向が分かるようになっている。

布資料によれば、検出したのは掘立柱建物5棟と塀跡2つである。出土した土器や建物跡の重なり具合から、7世紀半ばから8世紀前半にかけて、建物は3つの時期にわたって造り替えられたことが判明しているとのことだ。

発掘調査地(南→北) 発掘調査地(北→南)
発掘調査地(南→北) 発掘調査地(北→南)

出された遺構は北から南に並んでいて、順番に塀1、建物1〜建物5,塀2と表示されている。3つに区分された想定建設時期のうち、第1期に該当するものは建物2、建物4、塀2で、柱穴は赤テープで示してある。5棟の掘立柱建物のうち、最大のものは建物2で,南北方向3.6m、東西方向10mを測る。柱の痕跡は20〜25cmだが、柱の据え付け穴は90〜100cmと大型であり、建物の内部にも小さな柱穴が見つかっている。そのため、床張りの住居だったと考えられる。同時期に作られた建物4は、南北方向1.8m以上、東西方向5.4mだが、北側に(ひさし)をもっていた。

発掘調査地(南→北) 発掘調査地(北→南)
北端の塀1(黄)と建物1(緑) 最大の建物2(赤)

2期に建てられた建物は、建物1と建物3で、柱穴は緑のテープで示されていた。建物1の規模は、南北約3m、東西約7.5mの大きさで、柱穴の規模は70〜90cm。間仕切りの柱が見つかっている。

発掘調査地(南→北) 発掘調査地(北→南)
建物3 建物4(赤)と建物5(黄)

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南端の塀2(赤)
3期の建物跡は、柱穴80〜90cm規模の建物5と塀1で、柱穴は黄色のテープで示されていた。

1期の建物が建てられた時期は檜隈寺の本格的な造営が開始された頃と重なる。そのため、これらの掘立柱建物跡は檜前寺に関わる施設とも考えられた。だが、檜隈寺とは谷を隔てて200mも離れている上に、瓦や寺院に関わる遺物も出土していないため、この可能性は低いとされている。ただし、寺の造営や維持管理に関わる建物の可能性までは否定されていない。

物の規模は、観覚寺遺跡で見つかった大壁(おおかべ)建物に比較しても小さい。観覚寺遺跡で出土した3棟のうち最大の大壁建物は、東西7.8m、南北8.8mの広さだった。したがって、東漢氏の住居跡だとしても、族長の邸宅跡とは言えず、発掘担当者もせいぜい「中の上」ぐらいの人物の家だったのでは、と推論しているという。

現地見学会の資料
現地見学会の資料
は言え、東漢氏の本拠地だった檜前地域の中心部から住居跡がまとまって見つかったのは、今回が初めてである。現在、奈良文化財研究所は於美阿志神社の周辺2カ所でも発掘調査を進めている。さらなる発見があって、謎のベールに包まれた東漢氏の実態が一層解明されていくのが楽しみである。

隈寺から見ると、高松塚古墳キトラ古墳もほぼ等距離にある。両装飾壁画古墳が、言われているように皇族の墓ではなく、あるいは渡来系氏族に関わるとする千田稔氏の説もあながち捨てたものではない。石舞台古墳の石室に匹敵する大きさの真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづかこふん)の被葬者を東漢氏の族長とする説もある。




2008/09/27作成 by pancho_de_ohsei return