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| 檜隈寺の塔心礎の位置に建つ十三重石塔(重要文化財) |
東漢氏
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| 明日香村大字檜前(ひのくま)付近 |
5世紀の前半、朝鮮半島南端の阿邪加耶(あやかや)とか安羅加耶(あらかや)と呼ばれた国からこの地に移り住んだ人々がいた。彼らは特に血縁関係のない小さな氏族集団にすぎなかったが、出身地や居住地を同じくしたことから、次第に同族意識を高め、やがて東漢(やまとのあや)氏を名乗るようになった。
『日本書紀』は、応神天皇20年9月に、東漢氏の祖・阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が渡来し、檜隈郷の地が与えられたと記されている。しかし、東漢氏は単一の氏族ではない。文(ふみ)氏、民(みたみ)氏、坂上(さかのうえ)氏、谷氏、内蔵(くら)氏、長氏など多くの支族によって構成される渡来系氏族の総称である。檜隈やその周辺に住み、蘇我氏のもとで、大和政権の外交・財政・軍事などに深く関わって成長してきたとされている。彼らは一族のアイデンティテイとして共通の祖先渡来神話を作り上げた。それが、この阿知使主・都加使主父子の渡来伝説だったとされている。
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| 於美阿志神社 |
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| 十三重石塔社 |
於美阿志神社の拝殿は数年前に建て替えられて一新されたが、境内には重要文化財に指定されている十三重石塔が建っている。平安時代の作とされる石塔は、十一番目から上は大きく壊れている。だが、その端正なたたずまいには思わず襟を正したくなるような厳しさがある。周囲の緑の樹木を背景にすっくと立つ姿は、いつ見ても見飽きない。
実は、於美阿志神社は東漢氏の氏寺だった檜前寺(ひのくまでら)の跡地に位置している。以前は社前の檜垣坂を隔てた西方に鎮座していた。檜隈寺跡の方が高台の乾燥地であるという理由で、明治40年7月に現在の地に遷されてきた。高松塚古墳とは指呼の間にありながら、飛鳥観光でこの地まで足をのばす人は少ない。そのため、何時訪れても於美阿志神社は静謐の中にある。
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| 集落の十字路の隅に立つ標識 |
集落の中央に溜め池や稲田があり、その周りに白壁の民家が軒を連ねていて、静かな集落である。何時訪れても、道路に人影がない。時折、軽自動車がすれ違う程度で、人々は家の中で息をひそめてこちらの様子を伺っているのでは、という錯覚のようなものを覚える。この地域の人々は、間違いなくかって繁栄を誇った東漢氏の末裔である。
平安時代初期に征夷大将軍に任ぜられ蝦夷征伐に活躍した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、東漢氏の支族の一つである坂上氏の出だ。その父である坂上刈田麻呂(かりたまろ)は、奈良時代の天平宝字8年(764)に起きた恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で活躍し、一族の隆盛を決定づけた人物として知られている。刈田麻呂が宝亀3年(772)4月に朝廷に提出した上表文が今に伝わっている。その中で、刈田麻呂は高市郡司に同族を任ずべき由縁を綴っている。その理由として、「およそ高市郡内は檜前=檜隈忌寸および(渡来した)17県の人々が、地にみちあふれるほど居住し、東漢氏につらならない姓の者は十のうち一か二に過ぎない」と述べている。
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| 檜前集落の中にある次の標識 |
しかし、この寺の存在を書き記した公の記録はすくない。わずかに『日本書紀』の朱鳥元年(686)8月に、軽寺、大窪寺とともに30年に限って封戸100戸を与えたと記されている程度だ、それでも、この記録によって、686年頃には檜隈寺がすでに建立されていたことがわかる。
その他の資料としては、京都東山の清水寺の沿革を記した『清水寺縁起』がある。それには、坂上氏が知行する寺として、大和国高市郡檜前の「道興寺」(どうこうじ)の名が記され、先祖の阿知使主が賜った土地に建てた寺と記されている。ちなみに、清水寺は坂上田村麻呂が建立した寺である。
5世紀の前半に相次いで渡来した小氏族を束ねた東漢氏は、やがて新興豪族・蘇我氏と結びつくことで大きく飛躍することになる。一方、蘇我氏は渡来系氏族が携えてきた半島の最新文化や技術を独占することで、大和政権内で執政官として地位を高めていく。特に、5世紀後半から6世紀にかけて、朝鮮半島では、百済の一時的滅亡や加耶諸国の新羅併合といった混乱が続き、大量の渡来人が戦乱を逃れて列島に移住してきた。こうした人々の中には優れた技術を持っている者がおり、彼らは「今来才伎」(いまきのてひと)と呼ばれた。
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| 檜前寺跡に鎮座する於美阿志神社 |
「今来才伎」は東漢氏の傘下に組み入れられた。このため、東漢氏は、従来の大和王権の外交・財政・軍事などの他に、渡来系技術者を統括する役目も担うようになった。たとえば、雄略天皇は、その治世7年に、東漢直掬(やまとのあやのあたい・つか)に命じて、新漢(いまきのあや)である陶部高貴(すえつくりのこうき)・鞍作堅貴(くらつくりのけんき)・画部因斯羅我(えかきいんしらが)・錦部定那錦(にしきごりじょうあんなこむ)・訳語卯安那(おさみょうあんな)らを、上桃原・下桃原・真神原の三ヶ所に定住させている。
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| 於美阿志神社の周辺は彼岸花が花盛り |
「お前たちの仲間は今まで7つの良からぬことを行なった。このため、小墾田の御代(推古朝)から近江の御代(天智朝)にいたるまで、常にお前たちは警戒されてきた。今、私の世において、お前たちが良からぬことを行えば、罪の通りに罰する、云々」
しかし、壬申の乱で天武方についたため、7つの大罪は大恩をもって許された。7つの罪とは具体的に何を指すのかは不明である。だが、その一つは、崇峻天皇5年(592)に起きた東漢直駒(こま)による天皇暗殺事件だったことは間違いない。
平成17年(2005)9月、檜前寺跡から南におよそ1キロの地点にある高取町観覚寺で、朝鮮半島特有の大壁(おおかべ)建物跡や、石組みの方形池、床暖房(オンドル)などが、発掘調査中の観覚寺遺跡で見つかり、渡来人が住んでいた異国人街ではないかと話題を呼んだ。筆者がこの地が東漢直駒の住まいだったと勝手に想像して崇峻天皇暗殺事件を追ったことがある(平成17年9月21日付け橿原日記参照)。
だが、そうしたダーティなイメージでこの一族を捉えるのは間違いである。古代宮都の造営で名を残した人物として、孝徳天皇の難波の宮の造営を指揮した荒田井直比羅夫(あらたいのあたいひらふ) 、舒明天皇の百済大宮の大匠(おおたくみ)・書直県(ふみのあたいのあがた)、平城京造得を指揮した坂上忌寸忍熊(さかのうえのいみき・おしくま)など東漢氏出身者の名も伝えられている。武人として活躍した上記の坂上刈田麻呂やその子・田村麻呂も東漢氏の支族の出である。
檜前寺近くの丘陵から見つかった東漢氏関連の建物群跡
檜隈寺の近くでまた新しい発見があった。明日香村の教育委員会は、キトラ古墳周辺に新たに作られる国営飛鳥歴史公園の整備のため、檜隈寺から谷を隔てて200mほど南にある丘陵の尾根で約580平米の土地を今年の4月から事前調査していた。ところが、その調査地から7世紀中頃から8世紀前半にかけて作られた建物群跡が検出された。そこで、同教育委員会は去る9月25日に記者発表を行なって発掘された建物群跡を紹介し、この遺跡を檜前遺跡群と命名した。
発掘現場付近で振り返ると、今通ってきた道の谷側は赤い絨毯の壁が張り付いていた。その城壁の上に乗っかるように、檜隈寺の金堂跡に植えられた樹木が緑の城を形作っていた。 現地見学会は午前10時からとなっていたので、その時間に到着するようにアパートを出た。説明はないが受付で資料が配付され、質問すれば近くにいる調査員が説明してくれる。丘陵の尾根に沿って南北に細長く掘られた調査地が緩やかな弧を描きながら続いている。出土した柱穴が赤や黄、緑のテープで囲ってあり、掘立柱の大きさや方向が分かるようになっている。 配布資料によれば、検出したのは掘立柱建物5棟と塀跡2つである。出土した土器や建物跡の重なり具合から、7世紀半ばから8世紀前半にかけて、建物は3つの時期にわたって造り替えられたことが判明しているとのことだ。
検出された遺構は北から南に並んでいて、順番に塀1、建物1〜建物5,塀2と表示されている。3つに区分された想定建設時期のうち、第1期に該当するものは建物2、建物4、塀2で、柱穴は赤テープで示してある。5棟の掘立柱建物のうち、最大のものは建物2で,南北方向3.6m、東西方向10mを測る。柱の痕跡は20〜25cmだが、柱の据え付け穴は90〜100cmと大型であり、建物の内部にも小さな柱穴が見つかっている。そのため、床張りの住居だったと考えられる。同時期に作られた建物4は、南北方向1.8m以上、東西方向5.4mだが、北側に庇(ひさし)をもっていた。
第2期に建てられた建物は、建物1と建物3で、柱穴は緑のテープで示されていた。建物1の規模は、南北約3m、東西約7.5mの大きさで、柱穴の規模は70〜90cm。間仕切りの柱が見つかっている。
第1期の建物が建てられた時期は檜隈寺の本格的な造営が開始された頃と重なる。そのため、これらの掘立柱建物跡は檜前寺に関わる施設とも考えられた。だが、檜隈寺とは谷を隔てて200mも離れている上に、瓦や寺院に関わる遺物も出土していないため、この可能性は低いとされている。ただし、寺の造営や維持管理に関わる建物の可能性までは否定されていない。 建物の規模は、観覚寺遺跡で見つかった大壁(おおかべ)建物に比較しても小さい。観覚寺遺跡で出土した3棟のうち最大の大壁建物は、東西7.8m、南北8.8mの広さだった。したがって、東漢氏の住居跡だとしても、族長の邸宅跡とは言えず、発掘担当者もせいぜい「中の上」ぐらいの人物の家だったのでは、と推論しているという。
檜隈寺から見ると、高松塚古墳もキトラ古墳もほぼ等距離にある。両装飾壁画古墳が、言われているように皇族の墓ではなく、あるいは渡来系氏族に関わるとする千田稔氏の説もあながち捨てたものではない。石舞台古墳の石室に匹敵する大きさの真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづかこふん)の被葬者を東漢氏の族長とする説もある。 |