橿原日記 平成20年9月21日

玉手山3号墳:雷鳴の轟き渡る中で行われた現地説明会

大和川の対岸を望む
玉手山3号墳付近から大和川の対岸を望む。頼山陽が「河内嵐山」と名付けた風光明媚な風景

天気予報が当たってくれるのも良し悪し

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玉手山古墳群と周辺地図(*)
和川と石川の合流点に向かって南からグッとせり出した玉手山丘陵は、大坂夏の陣(1615)の古戦場だったことで知られている。

方、その丘陵上には、古墳時代前期(3世紀後半から4世紀初頭)に築造さた合計14基の前方後円墳と数基の円墳が、南北に連なって築造されており、玉手山古墳群と呼ばれている(ただし、現存しているのは1〜3,7〜9号墳の6基だけ)。また、玉手山7号古墳の近くに位置する安福寺の参道などには、6世紀から7世紀に造られた横穴群が存在している。この考古学上でも大変貴重な地域を一度見ておきたいと、2年前に一度探訪したことがある(平成18年3月24付け橿原日記参照)。

阪市立大学の日本史研究室は大阪府および柏原市の教育委員会の指導のもとに、今年の8月6日から玉手山3号墳の埋設施設の発掘調査を実施してきた。調査の目的は後円部に設けられた埋葬施設の構造を明らかにすることだった。

安福寺の境内に置かれた石棺の蓋
安福寺の境内に置かれた石棺の蓋
味深いことに、上記の安福寺の境内には、直弧文入りの竹割形石棺の蓋が伝わっていて、重要文化財に指定されている。この石棺の蓋は香川県鷲ノ山産の凝灰岩で作られていて、近畿地方では最古の石棺として知られているが、実は寺には玉手山3号墳から出土したとする伝承があるという。今回の調査では、この蓋と対になる石棺の身の部分を見つけることが主な目的だった。

調査の結果、古墳の石室は盗掘で徹底的に破壊され、残念ながら安福寺の石棺がこの場所にあったかどうかの確認はできなかった。しかし、この古墳の埋葬施設には石棺が納められていた蓋然性は高まった。

のため、去る9月17日、大阪市立大は埋葬施設の規模や副葬品から近畿最古とみられる石棺が存在した可能性が高いことがわかったと記者発表した。同時に、革綴冑(かわとじかぶと)の鉄板部品である小札(こざね)が60枚ほど見つかっていて、奈良県天理市の黒塚古墳などにも埋葬されていた中国製冑(かぶと)が埋葬されていたことも確認したと発表した。

本日午後の天気図
本日午後の天気図
地説明会が本日の午後2時から、発掘現場である柏原市立老人福祉センターの敷地内で行われるとのことだった。午前中一杯、説明会に参加しようかどうか迷っていた。迷いの原因は本日の天気予報である。

象庁の予報によると、停滞前線が九州の西から西日本を通って東海道沖に伸びており、この前線に向かって温かい空気が流れ込むため、大気の状態が不安定になってるとのことだ。このため、所々で雷を伴う1時間に60ミリ以上の非常に激しい雨が降る恐れがあるとして警戒を呼びかけている。だが、朝の散歩に出る頃、橿原の空は晴れていた。昼近くになって雲の厚みは増してきたが、いっこうに雨になる様子もない。結局、昼食を取った後、いつものようにリュックを背負って出かけることした。

午後1時過ぎの河内国分駅前の様子図
午後1時過ぎの河内国分駅前の様子
後1時少し前に大和八木駅から乗った電車が「関屋」駅を出る頃、電車の窓ガラスに水滴がポツリポツリとつき始めた。13時12分に「河内国分」駅で降りて、西の出口を出ようとするころ、突然大地を叩きつけるような猛烈な雨が降り出した。念のために折りたたみの傘を持ってきたが、駅前の交差点を信号を渡っただけで靴の中までびしょぬれになった。滝のような雨とはよく言ったものだ。折りたたみの傘など何の役にもたたない。中華料理店の軒下で雨宿りをしながら駅前の府道27号線を見ると、水しぶきを上げて車が通りすぎて行く。

地説明会が行われる玉手山3号墳は、近鉄河内国分駅から玉手山丘陵の頂きに続く坂道を約15分ほど歩かなければならない。この激しい夕立のような通り雨が止んでくれなければ、とてもではないが歩いて行く気力も萎えてくる。結局、昼食を済ませて出てきたが、店先での余り長い雨宿りも気が引けるので、中へ入ってラーメンを注文して、雨が止むのを待つことにした。



盗掘によって徹底的に破壊されていた墳頂部の埋納施設

玉手山3号墳の発掘現場
玉手山3号墳の発掘調査現場(撮影 2008/09/21)


ーメンを食べ終わる頃雨が止んだ。玉手山古墳群への道は以前に訪れたことがあるから分かっている。駅前から50mほど南の「国分駅西」交差点で右折すると、すぐの所に原川に架かる橋がある。橋のたもとに「市立玉手山公園」の標識が立っている。その標識が示す方向に、住宅街の中の坂道を上っていけばよい。

原川に架かる橋の先は長々と続く坂道
原川に架かる橋の先は長々と続く坂道
陵の頂きに出るまで15分も続く坂道はかなりの勾配がある。最近は足腰が弱ってきている筆者にとって、この坂道は以前よりもはるかに厳しく感じられた。

道の途中に案内人が立っていた。彼の指示で坂道を右折すると、2〜3分で宗教法人普明会教壇大阪支部の横を抜けて、丘陵の尾根に築かれた共同墓地の前に出る。墓地の南に市立老人福祉センター「やすらぎの園」があり、現地説明会の受付はそのセンターの玄関が当てられていた。

付の横に、今回の発掘調査で見つかった出土品の一部が展示されていた。墳頂部には埴輪が並べられていたようだ。しかし盗掘の際に破壊されて、原位置を留めているものはなかった。出土したのはほとんど破片だけである。それらの破片から普通の円筒埴輪朝顔形円筒埴輪だったと推定されている。後者には巴形の透かし孔を施したものや鋸歯文、幾何学的な線刻を施したものがあり、古墳時代前期でも、比較的古い時代に古墳が造られたことが分かる。後で調査担当者は4世紀初め頃と推定していた。

ああああ ああああ ああああ
朝顔形埴輪 管玉、銅鏃、石製品 小札、鉄鏃、鉄のみ

さ4cm、孔径1cmの碧玉製管玉も1点見つかっている、その他に銅製のやじりである銅鏃(どうぞく)が12点、鉄製のやじりである鉄鏃が6点、さらに、刀、剣などの武器類や刀子(とうす)ヤリガンナ、ノミなどの工具類などの鉄製破片も出土した。石製品としては、紡錘車型石製品が3点、破片で見つかっている。

小札革綴冑復元イメージ
滋賀県の雪野山古墳出土の
小札革綴冑復元イメージ
味があった鉄製の小札(こざね)は、長さ2.5cm、幅2.2cm、厚さ1mmサイズのものが60枚ほど確認された。しかし、原位置で見つかったのではなく、掘り起こした土を篩(ふるい)にかけて発見したとのことだ。小札には直径1.5mmほどの孔が7個穿(うが)たれていて、この孔に革紐を通して上下左右を連結することで、冑(かぶと)ができあがる。これを小札革綴冑(こざねかわとじかぶと)といい、中国製と考えられている。

くの玉手山6号墳からも小札革綴冑が出土しているが、古墳時代前期のものは珍らしい。今までに全国で10数例が確認されているにすぎない。その中には、先日訪れた天理市の黒塚古墳や、滋賀県y八日市の雪野山古墳、京都府の椿井大塚山古墳妙見山古墳などがある。

の他に、古墳時代の副葬品ではないが、寛永通宝や鉄砲玉も出土している。鉄砲玉はこの付近が大阪夏の陣の激戦地だったため、それに伴う遺物と推定されている。


墳頂に続く歴史の散歩道
墳頂に続く歴史の散歩道
手山丘陵は昔から景勝の地で、江戸時代の儒者・頼山陽は3号墳があるあたりから大和川の風景を望み、「河内嵐山」と名付けたことは有名である。この付近一帯は小松山と呼ばれ、大阪夏の陣の古戦場でもある。元和元年(1615)5月6日、豊臣方の後藤又兵衛は2800の軍勢ほ率いて、小松山を挟んで徳川家康の本陣と対峙し、死闘を繰り広げた。だが、徳川方の軍勢は22、800,衆寡敵せず後藤又兵衛は敗れて自害して果てた。この戦いは勝ったり負けたりで、昔はこの付近を勝負山と呼んでいたという。

手山3号墳は大阪夏の陣の舞台となったところから「勝負山(かちまけやま)古墳」とも呼ばれているそうだ。古墳時代前期ころ築造された全長約100mの前方後円墳である。老人福祉センターの裏から後円部にのぼる「歴史の道」と名付けられた階段が続いている。その登り口に、柏原市教育委員会が立てたこの古墳の説明板があった。

れによると、安福寺境内にある竹割形石棺はこの3号墳から出土したものと伝えられてきた。1988年に後円部の墳頂部をレーザー探査したところ、長さ3.3m前後の竪穴式石室の存在が明らかになった。その石室の大きさから、竹割形石棺が伝承通りこの竪穴式石室から出土した可能性が高くなっと考えられているという。

発掘された後円部の墳頂
発掘された後円部の墳頂/font>
阪市立大学の日本史研究室は2000年度から玉手山古墳を継続調査している。2001年度にはこの3号墳の墳丘を実測し、2003年度には前方部を中心に第一次調査を実施した。その結果前方部は3段で構成され、平坦面は礫が敷かれていたこと、墳形が西殿塚古墳に類似していることが判明した。また、検出した埴輪から古墳の年代を4世紀初めと推定した。

二次調査は、2006年度に後円部を中心に行なった。後円部の墳裾は確定できなかったが、後円部も3段築成であること、墳頂の埋葬施設が盗掘で荒らされていることが判明した。こうした成果を受けて、本年度は、盗掘坑の範囲に沿うかたちで南北7m、東西約6m、面積約40平米の調査区を設定して、安楽寺の棺蓋の対になる棺の身の部分の確認を目指して調査を行ってきた。

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説明される大阪市立大学の岸本准教授
後2時少し前になんとか現地説明会の現場に到着することができた。上空を厚い雲が覆い、時折遠雷が不気味に響き渡る。説明会は定刻通り、午後2時に始まった。柏原教育委員会からの簡単な挨拶の後、マイクが解説者の大阪市立大学文学研究科の岸本准教授に渡された。岸本准教授は調査を直接担当された御仁のようだ。「雨が降られる前に駆け足で説明します」と冗談を言いながら、調査地の中に下りられた。

本准教授の説明を待つまでもなく、埋葬施設は広範囲にわたって徹底的な盗掘を受けていて、大きく破壊されている。全体に礫(れき)が散乱し、周囲に板石や少し大きめの川石が目立つ程度で、中央部分は赤彩された土まじりの小礫が広がっていた。

墳時代前期の築造であるから、この時期の古墳の埋葬施設は合掌式竪穴式石室竹割形木棺が埋納されているのが一般的だ。竹割形木棺を納める場合、通常はその床面に赤く着色した粘土棺床が築かれている。この古墳では粘土製の棺床が築かれた様子は伺えなかったとのことだ。ということは、埋納されていたのは石棺だったという傍証になる。

礫の控え積み 最後は盛土して礫を敷き詰めた跡
掘り込み部分に敷かれた礫の控え積み 最後は盛土して礫を敷き詰めた跡

かし、考古学者はすごいなァと感心した。この石室は、墓坑の外側から大きく盗掘のため掘り込まれて破壊されてしまっている上に、石室の壁を形作ったり床面を装飾していた結晶片岩がことごとく持ち出されていた。それでも残っていた石積みの礫(れき)や板石の様相から、埋葬設備の築造過程を推定できるという。彼の説明によると、この竪穴式石室は次のように構築されたようだ。

石室断面模式図
石室断面模式図(*)
・はじめに、墳頂の盛土面から70cmほど掘り下げ、墓坑の床面を作る。
・その中心の石棺を置く部分の南北4m、東西約1.5mの範囲に、朱またはベンガラ赤彩された礫を積み、中心部分はややくぼんだ形に仕上げ、そこに棺を据える。
・石室の側面に板石を積んで石室の壁を作る。
・棺を囲む石室の裏側に、床面から60cmほど大きさ5cmほどの小ぶりの礫を積み重ねる
・床面と裏込めの間には、同一の高さで連続して板石をはめ込む。

室の下部が出来上がると、石室の構築と墳頂の盛土が同時並行で行って石室の上部を作り上げたようだ。すなわち、
・小さな礫の上に大きさ20cm程の礫を積み上げる。
・大きな礫の上に、礫にかぶせるように、朱またはベンガラで赤彩された「被覆粘土」を置く
・こうして石室の構築を終え、最終的にその上に数10cmの墳頂仕上げ土を積み、礫を敷き詰めている。

本准教授の説明の間にも、上空を覆った雨雲の上を雷公が暴れ回っていた。時折、稲光が空を切り、不気味な音を響かせて雷鳴がとどろく。今にも大粒の雨が降り注いできそうな気配を察知して、准教授の口調も自然と早くなる。

の説明を聞きながら、安福寺の境内に置かれた石棺と対をなす「身」の部分に早く話が及ばないか気になった。だが、期待していた石棺の存在を示す証拠は結局見つからなかった。その破片すら見つからなかった。 だが、埋葬施設には石棺が納められていた蓋然性が高まったと、解説者は自信を持って話した。その理由として、次の理由を挙げた。

●床面に残っていた赤彩部分の範囲から石室の幅は4mとこの時期のものとしては小さい。
●床面には木棺を据えるための構造としての粘土棺床が認められなかった。
●南側、東側が広範囲におよぶ徹底的な盗掘がなされている。

そらくは、破壊された南側または北側から、「蓋」と同じように、「身」の部分も墓荒らしによって持ち去られたに違いない。とにかく、副葬品だけでなく、石室の壁石や床石なも持ち去られており、石に対する墓荒らしの偏執ぶりは尋常ではなかったようだ。古墳時代前期の墓に通常埋納されている鏡も一枚も出土しなかった。同時代の天理市の黒塚古墳や山城町の椿井大塚山古墳から大量の三角縁神獣鏡が見つかっているのを考えれば、やはり全てが持ち去られたにちがいない。

発掘調査で掘り出された礫の山
発掘調査で掘り出された礫の山
んな中にあって、甲冑を形成するための根本的な材料である小札(こざね)が多数見つかった意義は大きい。小さなな鉄片としてちりぢりになっていたため、墓荒らしも錆びた鉄鏃や銅鏃と同様に見向きもしなかったのだろう。発掘で掘りだした土を篩(ふるい)にかけて見つかったとのことだ。

世紀から4世紀初め頃の古墳からは、三角縁神獣鏡とともに小札革綴冑(こざねかわとじかぶと)が伴出することがある。だが、この武具は弥生時代の在来の武具ではなく、明らかに外国製である。徳島大学の東潮(あずまうしお)教授は、上記の黒塚古墳や椿井大塚山古墳だけでなく兵庫の西求女塚(にしもとめづか)古墳、大分の石塚山古墳から出土した小札革綴冑も、魏から倭国王に贈与され、さらに分配されたものと考えておられる。

に降られる前にと、説明会が終わった後はやばやと会場を出て、雷鳴と競争するように急坂を下って駅に向かった。歩きながら、この玉手山丘陵が大和川や石川の水運を押さえる絶好の位置にある意味を考えた。当時の大和政権が纒向地域にあったとしたら、この地に隠然と勢力を張る一族の存在を無視できなかったであろう。あるいは、その末裔たちは石川を渡り、対岸の地に古市古墳群を築き挙げたかもしれない。(おわり)


付録

玉手山3号墳の発掘現場
橿考研付属博物館の庭に並べられた埴輪たち。
埴輪教室で小学生が作った作品である(撮影 2008/09/20)



【参考・引用文献】 (*) 玉手山3号墳の発掘調査(第3次)現地説明会資料
2008/09/21作成 by pancho_de_ohsei return