![]() |
| 柳本古墳群の黒塚古墳から検出された合掌式竪穴式石室の模形 |
|
用途不明のU字形鉄製品とは・・・・
発掘当時、この大小2本のU字形に曲げた鉄製品が何であるか類推できなかった。そのため調査報告書でも「用途不明の鉄製品」と記されている。謎のU字形鉄製品は、両端がとがった長さ約70cmと57cmの鉄の棒をU字形に曲げ、その間に長さ5cmのパイプ(鉄板を丸めたもの)をV字形に並べパイプの中にひもを通して結びつけていたようだ。 その後、X線撮影で調べてみると、リボンのような絹織物が巻き付けてあったことが判明した。そのため、一種の吹き流しのようなものではなかったかと想像された。だが、他に出土例がなく相変わらずその形状や使用目的は謎のままだった。 邪馬台国畿内説の論者にとっては、三角縁神獣鏡は自説を補強する強力な物的証拠とされている。三角縁神獣鏡の分布の中心は畿内大和にある。京大講師だった故・小林行雄氏は、鏡は服属の証として各地の豪族に配られ、大和政権の勢力範囲を表すとする「同笵鏡(どうはんきょう)理論」によって、画期的な初期大和政権論を提示したことはよく知られている。だが、その前提は邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)が魏の皇帝から貰った鏡が三角縁神獣鏡であることだ。
印綬を授かったのは、女王卑弥呼だけではない。239年遣魏使節の大夫・難升米(なしめ)や次使・都市牛利(つしぐり)もそれぞれ銀印青綬を受けている。243年(正始4)に派遣された大夫・伊声耆(いえせき)、掖耶狗(えきやく)ら8人もみな率善中朗将の印綬を受けている。こうした印綬が、志賀島の金印のようにどこかの古墳から見つかれば、そこが邪馬台国である。
『三国志』の魏書東夷伝には、次のような史実が記されている。 つまり、245年に魏は突如として帯方郡を通じて倭の大夫率善中郎将・難升米へ詔書と黄幢を假授することを決定した。しかし、魏は諸韓国の反乱に手を焼いていたので、倭地へもたらされたのは2年後の247年(正始8)になってしまった。この年、邪馬台国は、載斯・烏越らを帯方郡に派遣して、狗奴国の男王との交戦の状況を説明させた。帯方郡太守として着任した王斤頁は、邪馬台国と狗奴国との和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史・張政(ちょうせい)らを派遣してきた。このとき、張政らは245年に仮綬された詔書と黄幢を難升米に拝仮し、檄文によって告諭したという。 難升米とは、239年(景初3)に女王卑弥呼が魏に派遣した最初の遣魏使節の大使である。おそらく卑弥呼が最も信頼していた人物だったのだろう。魏の都洛陽で皇帝と相まみえ、皇帝から宮殿警護の率善中郎将の位と銀印青綬を授けられている。その時から6年も経て、難升米に黄幢を授けた魏の意図はよく分からない。魏の外臣としての率善中郎将だけでなく、軍事的司令官に任命したものと解する説もある。 発掘中の黒塚古墳の石室内でU字形鉄製品を見て、「黄幢」と直感した考古学者がいる。徳島大学の東潮教授である。そのとき、この鉄製品が難升米が貰った黄幢ならば、銀印があるかもしれないと、発掘調査員に話したという。しかし、棺外の北小口にあった画文帯神獣鏡付近や棺内から銀印は見つからなかったとのことだ。 |
|
黒塚古墳の被葬者は難升米か?
中国の三国時代、魏の曹氏・蜀の劉氏・呉の孫氏と並ぶ強勢を誇った公孫氏が、燕という国を建てて遼東の地を支配していた。燕と対峙した魏は、ひそかに黄海を越えて帯方郡と楽浪郡を掌握すると、燕王の退路を絶ってこれを攻めた。燕王公孫淵は敗死、彼らが歴代にわたってきた支配してきた広大な領域は魏の支配する領域となった。時に西暦238年、魏の年号でいえば明帝の景初2年のことである。翌年の239年(景初3)倭の女王・卑弥呼が帯方郡を介して魏の都・洛陽に慶賀の使節を派遣した。東アジア世界に邪馬台国の名が初めて登場する遣使だった。 我々は邪馬台国というと、魏との二国間の外交関係で捕らえようとする傾向が強い。だが、燕を滅ぼしたことで、魏は高句麗と国境を接するようになり、東アジア世界は国際環境の緊張が一気に高まった時期であることを忘れてはならない。238年、魏の司馬懿(しばい)が公孫淵を討伐したとき、高句麗は燕に援軍を送ったが、その甲斐もなく燕は滅びた。 242年(正始3)になると高句麗は西安平地区に侵入しこの地を奪い取った。その反撃として、244年(正始5)魏の将軍・母丘倹(かんきゅうけん)が高句麗に侵攻し、国内城を陥落させている。さらに翌245年(正始5)には、楽浪郡太守・劉茂と帯方郡太守・弓遵は、遼東のワイ(さんずい+歳)が高句麗についたので、軍を派遣してこれを伐った。同じ年の5月、母丘倹は高句麗に侵攻し、楽浪郡からの援軍と合流して戦っている。さらに、翌246年(正始7)にも母丘倹は高句麗の領土に侵攻している。魏が倭の大夫・難升米に黄幢(こうどう)を授けたのは、魏と高句麗が緊張状態にあった最中のことである。
張政らがこの黄幢を持って倭にやってきたとき、邪馬台国と狗奴國は戦争状態にあり、黄幢は邪馬台国の背後に強大な魏・帯方郡の後ろ盾がいる印しだったと見なされるかもしれない。だが、それは間違いのようだ。難升米への黄幢の仮授を決定したのは、2年も前のことである。やはり魏の対高句麗戦争の視点から捉えるべきである。 東教授が黒塚古墳の石室の片隅で見つかったU字型鉄製品に注目された理由が分かるような気がする。この鉄製品が本当に難升米に仮授された黄幢ならば、そこから躍動的な当時の東アジア世界が見えてくる。卑弥呼の時代にすでに魏の冊封体制に組み込まれ、倭の軍隊が広開土王の軍と干戈を交える150年も前から高句麗を仮想敵国としていたことになる。 ただし、この黄幢に関してはさまざまな疑問がある。まず、なぜ倭国の女王である卑弥呼に対してではなく、難升米に対して仮授したのか。また、「仮授」とは仮に貸し与えることで、永久に授与するという意味ではない。つまり、仮授された黄幢は戦争が終われば返還すべき性質の旌旗であるということだ。それが何故古墳に埋納できたのか?
箸墓については、最近また新しい発見があった。桜井市の教育委員会は、箸墓古墳の前方部前面にあたる水田約110平方メートルを、住宅建設に伴う緊急調査で今年の5〜7月にかけて発掘したと、先月の27日公表した。調査の結果、大きな溝状の落ち込み(深さ1.3m以上)を33m分を検出したとのことだ。底に水があったことを示す腐植層が見つかったことから、落ち込みと墳丘の位置関係や出土した土器の年代などを勘案して、外濠の一部と判断したという。 箸墓古墳の外濠はこれまで墳丘北側などで一部を検出していた。今回は墳丘南側で確認されたことになる。墳丘を一定幅で一周する馬蹄形で、内堤を挟んで内濠と外濠が巡る二重構造であることも、ほぼ確定した。周濠を含む古墳の全長は推定で一回り大きい約450mに達するという。黒塚古墳の展示館を見学した後、箸墓古墳の発掘現場を見たいと立ち寄ったが、調査地はすでに埋めも出されて雑草が生い茂り、民家の家が建っていた。 東教授は、黒塚古墳の石室構造、三角縁神獣鏡の組合せから、その築造時期を3世紀中葉と想定しておられる。箸墓に埋葬されている卑弥呼と難升米は同時代に生きた人間である。黄幢の遺物の存在で、黒塚古墳の被葬者を難升米である推定することは可能だ。そのことは、邪馬台国が畿内大和にあったことの明確な証ともなる。「用途不明の鉄製品」は本当に難升米に仮授された黄幢の遺品なのだろうか? |