橿原日記 平成20年9月14日

黒塚古墳から出土した用途不明のU字形鉄製品

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柳本古墳群の黒塚古墳から検出された合掌式竪穴式石室の模形

10年前の発掘で多量の三角縁神獣鏡が出土し話題を呼んだ黒塚古墳

黒塚古墳周辺地図 黒塚古墳
黒塚古墳周辺地図 周濠に陰を落とす黒塚古墳

R桜井線の「やなぎもと」駅から、柳本集落の中を通って一直線に東へのびる道がある。きれいに舗装されたその道を500mほど進むと、左手に貯水池が見えてくる。今は貯水池として利用されているが、古代には墳丘の周りに巡らされた周濠だった。現在は整備された墳丘が静かな影を周濠に落としている。それが黒塚古墳(所在地:天理市柳本町黒塚)である。

黒塚古墳の碑
黒塚古墳の碑
塚古墳は大和(おおやまと)古墳群の中の柳本古墳群に属する前方後円墳で、全長は約130m。主軸をほぼ東西に置き、前方部を西に向けて築かれている。中世から近世にかけて城郭に利用され、また幕末から明治にかけて大幅に客土として持ち去られた。そのため、発掘調査時の墳丘は、著しく改変されていた。

本古墳群は、崇神天皇陵に比定されている全長242mの行燈山古墳(あんどんやまこふん)や、景行天皇陵に比定されている全長300mの渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)などを筆頭に、13基の前方後円墳と1基の双方中円墳から構成され、いずれも古墳時代前期の築造と推定されている。この柳本古墳群をとりわけ有名にしたのが、実は黒塚古墳の発掘調査だった。

塚古墳の発掘調査は2回にわたって実施されている。1997年8月から翌年5月に行われた第一次調査では、後円部中央に南北に向けた合掌式の竪穴式石室(長さ8.3m)が検出され、三角縁神獣鏡32面、画文帯神獣鏡1面の国内最多の銅鏡をはじめ、多数の鉄製武器、工具などが出土して世間を驚かせた。1998年1月に行われた現地説明会では、3日間で3万人が押し寄せたという。

天理市立黒塚古墳展示館
天理市立黒塚古墳展示館
998年7月から翌年2月に行われた第二次調査では、前方部にのびる作業道と排水溝を検出し、墳丘規模と盛土の調査が行われた。作業道は遺骸を納棺し、副葬品を並べる埋葬儀式の出入り口として使った後、主に黒い粘土で丁寧に埋め戻されていた。また、付近の古墳は丘陵の先端を利用して築かれている例が多い中で、黒塚古墳の墳丘は大半が盛土で築かれていて、大変な労力を要したことも分かっている。第二次調査では、新たに三角縁神獣鏡1面が出土し、合計で33面となった。

土した土器から判定して、黒塚古墳は、3世紀後半から4世紀前半の古墳時代前期に築造されたと推定されている。この古墳には大規模な盗掘坑があり、鎌倉時代に盗掘が試みられた。しかし、地震で石室の一部が崩壊していたため、墓荒らしは石室に入れなかったようだ。石室の床面は盗掘された形跡がなく、すべての副葬品が残されていた。圧巻は、長さ約6.2mのコウヤマキの竹割形木棺の外側に置かれたと思われる三角縁神獣鏡である。木棺を置いた粘土床が水銀朱で赤く染まり、その外側に鏡面を内側にして33面の三角縁神獣鏡が石室の東西および北の壁面に立てかけた状態で置かれていたことだ。

土した三角縁神獣鏡33面すべての形式を解明した結果、同じ原形で作った「同笵(はん)鏡」が宮崎県から群馬県までの15府県に21種類、58枚が分布していることが判明した。初期ヤマト政権の勢力図を示す重要な手掛かりとなりそうだと注目された。

竪穴式石室の模形 展示されている鏡
竪穴式石室の模形 展示されている鏡

外を守るように配列された三角縁神獣鏡とは別に、棺内では直径13.5cmと小ぶりで薄い画文帯神獣鏡が1面立った状態で見つかっている。魔よけの意味を持つ水銀朱の層がこの鏡を境に南側で濃くなっていることから、調査委員会では画文帯神獣鏡付近が遺骸の頭部にあたる可能性が強いとしている。文様などから判断して中国製であり、同タイプの画文帯神獣鏡が大和(おおやまと)古墳群では近くの大和天神山古墳桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)の2ヵ所で確認されている。

002年10月、黒塚古墳の周濠だったと思われる池の東畔に、「天理市立黒塚古墳展示館」完成した。ここでは、出土した鏡群(レプリカ)や石室内の実物大復元模形を見ることができる。本日、久しぶりにこの展示館を訪れた。目的は、用途が不明とされている「U字形鉄製品」がどのようなものであり、どのように埋葬されていたかを確かめたかったためである。



用途不明のU字形鉄製品とは・・・・

発掘当時の写真
発掘当時の写真
復元模形の中の様子
復元模形の中の様子
立橿原考古学研究所(以下、橿考研)の発掘調査報告書によれば、大小2本のU字形に曲げられた鉄製品は、木棺の北小口の外側に置かれ、石室の北東の隅に立てかけてあった。2本の鉄棒の間にはV字形をとどめる鉄板製の管があり、大半は崩落していたが、U字形鉄棒の間をつないだ形を保つ部分だったと思われる。この製品の両側に接して、全長40cm前後の棒状鉄製品が立てた状態で5点、横にして移動した状態で9点出土したとのことだ。

掘当時、この大小2本のU字形に曲げた鉄製品が何であるか類推できなかった。そのため調査報告書でも「用途不明の鉄製品」と記されている。謎のU字形鉄製品は、両端がとがった長さ約70cmと57cmの鉄の棒をU字形に曲げ、その間に長さ5cmのパイプ(鉄板を丸めたもの)をV字形に並べパイプの中にひもを通して結びつけていたようだ。

の後、X線撮影で調べてみると、リボンのような絹織物が巻き付けてあったことが判明した。そのため、一種の吹き流しのようなものではなかったかと想像された。だが、他に出土例がなく相変わらずその形状や使用目的は謎のままだった。

馬台国畿内説の論者にとっては、三角縁神獣鏡は自説を補強する強力な物的証拠とされている。三角縁神獣鏡の分布の中心は畿内大和にある。京大講師だった故・小林行雄氏は、鏡は服属の証として各地の豪族に配られ、大和政権の勢力範囲を表すとする「同笵鏡(どうはんきょう)理論」によって、画期的な初期大和政権論を提示したことはよく知られている。だが、その前提は邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)が魏の皇帝から貰った鏡が三角縁神獣鏡であることだ。

U字形鉄製品のX線撮影
U字形鉄製品のX線撮影
馬台国が畿内にあったことを証明する物的証拠は三角縁神獣鏡以外にないのか。いや、存在しているはずだ。西暦239年(景初3年)、邪馬台国の女王・卑弥呼は魏に使いを遣わし、「親魏倭王」の金印紫綬を授かっている。その金印は、翌240年(正始元)に魏の帯方太守・弓遵(きゅうじゅん)が建中校尉・梯儁(ていしゅん)らを使わし、魏の皇帝からの下賜品とともに邪馬台国にもたらした。女王卑弥呼の墓とされる箸墓古墳がいつか発掘され、その石室から金印でも出てくれば、邪馬台国論争は一挙に決着する。

綬を授かったのは、女王卑弥呼だけではない。239年遣魏使節の大夫・難升米(なしめ)や次使・都市牛利(つしぐり)もそれぞれ銀印青綬を受けている。243年(正始4)に派遣された大夫・伊声耆(いえせき)、掖耶狗(えきやく)ら8人もみな率善中朗将の印綬を受けている。こうした印綬が、志賀島の金印のようにどこかの古墳から見つかれば、そこが邪馬台国である。

騎従が持つ幢
騎従が持つ幢(*)
騎従が持つ幢
馬台国の所在地を示す物的証拠は、まだ存在する。黄幢(こうどう)である。黄幢の幢とは、軍事指揮や儀仗行列に用いられる旌旗(せいき)の一種で、天子が部下に権限を付与した印しとして与えたものだった。遼陽北園墓の墓室には、騎従がもつ幢が描かれている。幢形のものが二つ重なり、上は黒、下は赤に塗られ、上のものは丸い傘状のものの下に短い垂れ下がりがあり、下の方は鳥の長い羽毛が垂れている図である。

三国志』の魏書東夷伝には、次のような史実が記されている。
●245年(正始6)5月。魏の母丘倹(かんきゅうけん)、高句麗に侵攻。楽浪郡の軍隊とあわせる。詔して倭の難升米(なしめ)に黄幢を賜い、郡に付して假授せしむ。
●247年(正始8)太守王斤頁(おうき)、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴(くな)國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯(さいし)・烏越(うえつ)らを遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史・張政らを遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。

まり、245年に魏は突如として帯方郡を通じて倭の大夫率善中郎将・難升米へ詔書と黄幢を假授することを決定した。しかし、魏は諸韓国の反乱に手を焼いていたので、倭地へもたらされたのは2年後の247年(正始8)になってしまった。この年、邪馬台国は、載斯・烏越らを帯方郡に派遣して、狗奴国の男王との交戦の状況を説明させた。帯方郡太守として着任した王斤頁は、邪馬台国と狗奴国との和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史・張政(ちょうせい)らを派遣してきた。このとき、張政らは245年に仮綬された詔書と黄幢を難升米に拝仮し、檄文によって告諭したという。

升米とは、239年(景初3)に女王卑弥呼が魏に派遣した最初の遣魏使節の大使である。おそらく卑弥呼が最も信頼していた人物だったのだろう。魏の都洛陽で皇帝と相まみえ、皇帝から宮殿警護の率善中郎将の位と銀印青綬を授けられている。その時から6年も経て、難升米に黄幢を授けた魏の意図はよく分からない。魏の外臣としての率善中郎将だけでなく、軍事的司令官に任命したものと解する説もある。

掘中の黒塚古墳の石室内でU字形鉄製品を見て、「黄幢」と直感した考古学者がいる。徳島大学の東潮教授である。そのとき、この鉄製品が難升米が貰った黄幢ならば、銀印があるかもしれないと、発掘調査員に話したという。しかし、棺外の北小口にあった画文帯神獣鏡付近や棺内から銀印は見つからなかったとのことだ。



黒塚古墳の被葬者は難升米か?

3世紀の東アジア
3世紀の東アジア
阪では毎月第一日曜日に市民グループの「日韓古代文化研究会」が定例学習会を開いている。今回で202回目となる学習会は、久しぶりに東潮教授を招いて『三国志』東夷伝の国際環境について講義して頂くことになった、との案内状が届いた。その説明の中で「魏の高句麗戦争」や「魏倭軍事同盟」という言葉が注目を引いた。邪馬台国の卑弥呼壹與(とよ)の時代に、狗奴国との戦争の仲裁に魏が帯方郡から張政らを派遣させたことは知っていたが、魏と倭が軍事同盟を結んでいたとは初耳である。どのような話が聞けるのか楽しみにでかけた。

国の三国時代、魏の曹氏・蜀の劉氏・呉の孫氏と並ぶ強勢を誇った公孫氏が、という国を建てて遼東の地を支配していた。燕と対峙した魏は、ひそかに黄海を越えて帯方郡楽浪郡を掌握すると、燕王の退路を絶ってこれを攻めた。燕王公孫淵は敗死、彼らが歴代にわたってきた支配してきた広大な領域は魏の支配する領域となった。時に西暦238年、魏の年号でいえば明帝の景初2年のことである。翌年の239年(景初3)倭の女王・卑弥呼が帯方郡を介して魏の都・洛陽に慶賀の使節を派遣した。東アジア世界に邪馬台国の名が初めて登場する遣使だった。

々は邪馬台国というと、魏との二国間の外交関係で捕らえようとする傾向が強い。だが、燕を滅ぼしたことで、魏は高句麗と国境を接するようになり、東アジア世界は国際環境の緊張が一気に高まった時期であることを忘れてはならない。238年、魏の司馬懿(しばい)が公孫淵を討伐したとき、高句麗は燕に援軍を送ったが、その甲斐もなく燕は滅びた。

42年(正始3)になると高句麗は西安平地区に侵入しこの地を奪い取った。その反撃として、244年(正始5)魏の将軍・母丘倹(かんきゅうけん)が高句麗に侵攻し、国内城を陥落させている。さらに翌245年(正始5)には、楽浪郡太守・劉茂と帯方郡太守・弓遵は、遼東のワイ(さんずい+歳)が高句麗についたので、軍を派遣してこれを伐った。同じ年の5月、母丘倹は高句麗に侵攻し、楽浪郡からの援軍と合流して戦っている。さらに、翌246年(正始7)にも母丘倹は高句麗の領土に侵攻している。魏が倭の大夫・難升米に黄幢(こうどう)を授けたのは、魏と高句麗が緊張状態にあった最中のことである。

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邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とされる 箸墓古墳
のため、魏から難升米への黄幢の授与を、東教授はそれまでの魏・倭の朝貢関係を軍事同盟に高めたことを意味すると解される。つまり、難升米は魏の外臣としてのそれまでの率善中朗将に加えて、魏の軍事的司令官に任命され、倭は魏の冊封体制下で魏の東方戦略に組み込まれた証(あかし)と捉えておられる。

政らがこの黄幢を持って倭にやってきたとき、邪馬台国と狗奴國は戦争状態にあり、黄幢は邪馬台国の背後に強大な魏・帯方郡の後ろ盾がいる印しだったと見なされるかもしれない。だが、それは間違いのようだ。難升米への黄幢の仮授を決定したのは、2年も前のことである。やはり魏の対高句麗戦争の視点から捉えるべきである。

教授が黒塚古墳の石室の片隅で見つかったU字型鉄製品に注目された理由が分かるような気がする。この鉄製品が本当に難升米に仮授された黄幢ならば、そこから躍動的な当時の東アジア世界が見えてくる。卑弥呼の時代にすでに魏の冊封体制に組み込まれ、倭の軍隊が広開土王の軍と干戈を交える150年も前から高句麗を仮想敵国としていたことになる。

だし、この黄幢に関してはさまざまな疑問がある。まず、なぜ倭国の女王である卑弥呼に対してではなく、難升米に対して仮授したのか。また、「仮授」とは仮に貸し与えることで、永久に授与するという意味ではない。つまり、仮授された黄幢は戦争が終われば返還すべき性質の旌旗であるということだ。それが何故古墳に埋納できたのか?

箸墓古墳の周濠の落ち込み遺構
箸墓古墳の周濠の落ち込み遺構
教授は邪馬台国畿内説を支持しておられる。日本列島内での最古の前方後円墳は、黒塚古墳唐南2.3キロに築かれている纒向古墳群の盟主・箸墓(はしはか)古墳で、その成立時期は3世紀中葉と考えられている。

墓については、最近また新しい発見があった。桜井市の教育委員会は、箸墓古墳の前方部前面にあたる水田約110平方メートルを、住宅建設に伴う緊急調査で今年の5〜7月にかけて発掘したと、先月の27日公表した。調査の結果、大きな溝状の落ち込み(深さ1.3m以上)を33m分を検出したとのことだ。底に水があったことを示す腐植層が見つかったことから、落ち込みと墳丘の位置関係や出土した土器の年代などを勘案して、外濠の一部と判断したという。

墓古墳の外濠はこれまで墳丘北側などで一部を検出していた。今回は墳丘南側で確認されたことになる。墳丘を一定幅で一周する馬蹄形で、内堤を挟んで内濠と外濠が巡る二重構造であることも、ほぼ確定した。周濠を含む古墳の全長は推定で一回り大きい約450mに達するという。黒塚古墳の展示館を見学した後、箸墓古墳の発掘現場を見たいと立ち寄ったが、調査地はすでに埋めも出されて雑草が生い茂り、民家の家が建っていた。

教授は、黒塚古墳の石室構造、三角縁神獣鏡の組合せから、その築造時期を3世紀中葉と想定しておられる。箸墓に埋葬されている卑弥呼と難升米は同時代に生きた人間である。黄幢の遺物の存在で、黒塚古墳の被葬者を難升米である推定することは可能だ。そのことは、邪馬台国が畿内大和にあったことの明確な証ともなる。「用途不明の鉄製品」は本当に難升米に仮授された黄幢の遺品なのだろうか?



【参考・引用文献】 東 潮著『倭と加耶の国際環境』(吉川弘文館)
2008/09/16作成 by pancho_de_ohsei return