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| 藤原種継暗殺の舞台となった長岡京の復元イメージ (撮影 2008/08/27) |
長岡京の宮跡の北側から新たに道路遺構を検出
遷都の理由について、『続日本紀』は水陸交通の便がよいことを挙げている。その他にも、中国の思想に強い影響を受けた桓武天皇は、父・光仁天皇以来、皇統が天武系から天智系に代わったことを革命と捉え、革命にあたって都を遷すべきと考えたとする説や、既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置くために遷都を考えたとする説などがある。 それはともかく、先月久しぶりに長岡京に関するニュースがメディアをにぎわした。京都府向日市埋蔵文化財センターは去る8月21日、長岡京の宮跡の北側(同市森本町)で、京域内にあったとみられる道路跡が見つかったと発表した。
平城京や平安京の発掘調査では、宮城にあたる宮は京の北辺に築かれていたことがすでに判明している。その中間に位置する長岡京でも当然北辺に造営されたと推定されていたが、平成17年の調査で、北京極大路から約800m北の修理式遺跡から、条坊道路跡が見つかっている。今回の調査で、長岡京全体が北に広がっていたことがほぼ確実となった。 この発掘報道を聞いて一週間後の8月27日、知人のAが車で八幡市方面へ出かけるというので、便乗して出かけ長岡京跡に立ち寄ってもらうことにした。名神高速道路の大山崎ICで一般道に下りて用事を済ませた彼は、再び車を大山崎ICの出口近くにある国道五条本交差点まで戻した。後は、カーナビの指示に従って、名神高速道路の脇を沿うように北上する国道171号線を進むだけだった。
大極殿は天皇が政治を行う重要な建物であり、小安殿は天皇が大極殿に出向くための控えの間として利用された建物である。二つの建物の発掘跡は、現在芝生を植えて公園として整備されている。大極殿跡の道沿いに、巨大なパネルが立てられ長岡京の復元イメージが描かれていた(本ページのトップ参照)。横山康子さんが原図を描き、板垣真誠氏が彩色したしたものだという。京域にはびっしりと住宅が描かれているが、わずか10年で廃都になる京域これほど人家が密集していたとはとても思えない。
往時の長岡宮の主要な建物跡や周辺の遺跡は、住宅地の下に埋まっている。この地域は急激な宅地化、工業地化が進み、系統だった発掘調査が行われてきたわけではない。したがって、調査地域が現在の地図にプロットされているのを見ると、まるで虫食いの古本のようだ。復元作業には相当の推測とイマージネーションが必要だったのでは、とその苦労が忍ばれる。 朝堂院の復元図を掲げた案内板があった。長岡宮の朝堂院は8棟の建物からなる。いずれも聖武天皇が副都として建設した難波宮の施設をそっくりそのまま移建したものと推測されている。出土する瓦の大半が難波宮で用いられたものだからである。 |
長岡京を短命に終わらせた早良親王
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| 現在の乙訓寺の本堂 |
だが、実際は自ら食を断ったのではなく、7日7夜にわたって水分も食事も摂ることを禁じられたようだ。そうであれば、彼の衰弱死を狙った何者かの意志が働いていたと考えざるを得ない。10月7日、食事も水も断たれてやせ衰えた親王は、船に乗せられて淡路に移送される途中、河内の国の淀川に架かる高瀬橋のあたりで絶命した。しかし、遺体は長岡京に戻ることが許されず、そのまま流刑地の淡路に送られ仁井の里に埋葬された。
事件処理が一段落した後の11月25日、皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)が生んだ安殿(あて)親王が、早良親王に代わって皇太子に立てられた。こうして桓武天皇の基礎は固まったかに見えた。だが、それから数年後に桓武天皇の近親者に不幸が続くようになる。どのような凶事が続いたか整理してみよう。
●788年(延暦7)5月、大伴親王(後の淳和天皇)を生んだ夫人・藤原旅子(たびこ)が死去
●789年(延暦8)12月、桓武天皇の生母・皇太夫人高野新笠が病死
●790年(延暦9)閏3月、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)が31歳の若さで突然死
●791年(延暦10)秋、皇太子・安殿親王が原因不明の重病に陥る。
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| 大極殿の前に並べられた宝憧のイメージ |
安殿親王が病床に伏したとき、陰陽師に占わせたところ、こうした一連の凶事は早良親王の怨霊の祟りが原因と出た。さすがの桓武天皇も、毎年のように身のまわりに続く不幸を思い返せば、早良親王の怨霊の祟りと信じないわけにはいかなかった。早良親王を乙訓寺に幽閉し死に至らしめたことに、心の負担を感じたのだろう。天皇は、ただちに二人の僧を淡路に送って、廃太子の霊前で経を読ませ、その霊を慰めさせた。
この年、桓武天皇は新しい都の建設を思い立った。死霊のさまよう長岡京にはいたたまれない思いだったのだろう。折もおり、心機一転のため、同じ山背国の葛野郡宇太(うだ)村に新京を造営しては、と具申するものが現れた。和気清麻呂である。
793年(延暦12)1月、天皇は藤原小黒麻呂らを派遣して葛野郡宇太村を視察させ、3月には自らも葛野に行幸して新京の地を巡覧した。新京の造営は急ピッチに進められ、早くも翌年の794年(延暦13)10月22日には遷都が行われた。新都は平安京と名付けられられた。こうして、長岡京はわずか10年たらずの都としてその歴史の幕を閉じた。
長岡京への遷都とその廃都の理由をトレースしていくと、その遠因が桓武天皇と早良親王という実の兄弟の間に、かなり厳しい相克があったような気がする。まず事件の背景を振り返ってみよう。
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| 天皇家・藤原氏関係系図(*) |
光仁天皇の即位で皇太子に立てられたのは、聖武天皇の第一皇女・井上(いのえ)内親王を母に持つ他戸親王(おさべしんのう)だった。本来なら、白壁王の第一皇子だった山部(やまべ)親王(737 - 806)が皇太子に推挙されてしかるべきだが、母親の高野新笠が身分の低い渡来系の和(やまと)氏出身であったため立太子は望まれなかったようだ。そこで、山部親王は官僚としての出世を目指した。
一方、山部親王より13歳年下の早良親王(750 - 785)は、761年に12歳で出家して仏門に入り、東大寺や大安寺に住み、親王禅師と呼ばれていた。東大寺を開いた良弁が774年に臨終を迎えたとき、親王禅師に後事を託したとされており、すでに仏教界での第一人者になっていた。
光仁天皇即位から2年後の772年(宝亀3)、奇妙な事件が起きた。皇后の井上内親王が夫である天皇を呪ったという大逆容疑で皇后を廃され、これに連座する形で他戸親王も皇太子を廃されてしまったのだ。二人は庶人に落とされて、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)幽閉された。この事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であったとされている(ちなみに、井上内親王と他戸親王は、3年後の775年に幽閉先で急死している。変死である)。
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| 桓武天皇 |
45歳という最も油がのりきった年に登極した桓武天皇は、理想に燃えていた。中国の思想の強い影響を受けた彼は、父・光仁のとき皇統が天武系から天智系に代わったことを革命と捉え、革命にあたって都を遷すべきだと考えたようだ。中国で古くから伝わる讖緯説(しんいせつ)では、干支(えと)の最初の組合せである甲子(かっし)の年には革命が起きるとされ、これを甲子革命説という。即位4年後の784年は甲子の年である。その年には新しい都を建設して遷都すべきだ、と強い信念を抱いたものと思われる。
遷都からすでに70年を経た平城京は、南都仏教寺院が林立する宗教都市であり、仏教勢力が強大化していた。皇統の転換による革命気分を醸成し、加えて仏教勢力を排除するには何をなすべきか。そう考えたとき、桓武天皇の腹は決まった。新しい都を築きそこへの遷都のイニシアティブを取ることができれば、新帝としての指導力を見せつけることができる。さっそく、股肱の臣ともいうべき藤原種継を長岡京の造営使に任命し、新都の造営を一任した。
桓武天皇は、国家仏教として手厚く保護されてきた仏教寺院の新都への移転を認めなかった。このことは、新都造営を阻止しようとする勢力に寺院側を押し上げた。その反対勢力の中心に立たされたのは、かっては親王禅師と呼ばれた皇太子の早良親王だったに違いない。早良親王は実の兄である桓武に新都造営の中止を懇願し、また着々と新都計画の手を打っていく参議・式部卿の藤原種継とは朝堂でことごとく対立したにちがいない。
新都造営に反対する勢力は他にもいた。大和に基盤を持つ大伴氏など古来の大氏族たちである。彼らは平城京内に居宅をもらいながら、京の外の根拠地に広大な荘園や別荘を構えているのが普通だった。だが、新都が大和を離れて山背に造営されるとなると、彼らは根拠地から完全に切り離されることになり、長年にわたって培ってきた利権を失うことになる。大伴氏や佐伯氏が東宮の周りに集まってくるのは自然の理であり、彼らの中から種継暗殺計画が持ち上がるのも致し方のないことだっただろう。
継暗殺は785年(延暦4)9月23日の夜、実行に移された。早良親王がこの計画に加わっていたかどうかは今となっては確認の方法がない。逮捕された佐伯高成(さえきのたかなり)が大友家持が大伴・佐伯両氏を糾合し、皇太子早良の了解を得た上で事に及んだと白状しているとされている。しかし、天皇の寵臣を殺害することは事が成功しても失敗しても、天皇に対する反逆である。次の天皇を約束されている皇太子の位を投げ出してまで、早良親王がこの危険な計画に参加したとはちょっと考えにくい。
この事件をさらに深読みするとどうなるか? 事件の関係者の中には大伴家持をはじめ、春宮坊の官僚が含まれていた。春宮坊とは、皇太子の家政や令旨などの事務を行っていた機関で、現在の宮内庁の東宮職にあたる。天皇の実弟である早良親王を皇太子から追い落とすことを画策していた一派があったら、種継暗殺事件は千載一遇のチャンスだったにちがいない。
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一方、桓武天皇は781年の即位の時、父・光仁が推輓で、弟の早良親王を皇太子に立てた。しかし、日々我が子の成長を見守ってきて、天皇という至上の位を我が子に継がせたいと思うのは、父親として自然の情である。祖祖父の天智天皇は、当時の皇太弟だった大海人皇子(おおあまのみこ)を亡き者にして我が子の大友皇子に皇位を継がせようとした。その天智天皇が定めた不常改典(ふかいのじょうてん、改めるまじき常の典(のり))では、皇位はわが子に授けることを規定している。早良親王をなんとか廃太子にできないものか思案しているとき、思いがけず廃太子の口実にできる事件が発生した。
桓武天皇と皇后の藤原乙牟漏は、この機会に早良親王を皇太子の座から降ろし、代わりに実子の安殿親王を立てることで暗黙の了解がなされたであろう。事件の関係者として早良親王は捕らえられ乙訓寺に幽閉された。己の無実を訴えて、彼はハンガーストライキを行なった。兄として桓武天皇は弟に死を賜うことまでは考えていなかったようだ。だが、皇后側は親王の背後にある巨大な仏教勢力を畏れた。我が子の安泰のためには生きていてもらっては困るのだ。それで、天皇には知られずに餓死させる方法を選んだ。
皇后側の思惑通り、水も与えられなかった早良親王は配流の途中で餓死した。数年後、親王の魂は怨霊となって桓武天皇の近親者に祟るようになる。だが、不思議なことに、親王を捕らえて幽閉し淡路への配流を命じた桓武天皇自身に先ず祟るべきなのに、早良親王の怨霊は天皇に直接の害を加えていない。怨霊がターゲットにしたのは、主に藤原乙牟漏や安殿親王である。このことは、事件の背後に皇位継承にからんだ水面下の陰謀があったことを推測させる。
崇道天皇
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| 崇道天皇嶋陵 |
794年(延暦13)10月22日、都が長岡京から平安京へ遷された。この平安京遷都の要因の一つが、早良親王の怨霊だったことは、今日ではほぼ定説になっている。しかし、親王の怨霊に対する桓武天皇の畏れは、平安京に遷った後も治まらなかったようだ。
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| 道路の真ん中にある「八ツ石」 |
もうかなり前になるが、北山の辺の道を歩いたとき、この陵の前を通ったことがある。どのような陵だったか記憶が薄れかけていたので、もう一度訪れてみることにした。最寄りの駅はJR桜井線の帯解(おびとけ)駅だが、駅から2.4キロほど離れていて、徒歩でも35分はかかる。幸い、JR奈良駅/近鉄奈良駅から山村町行きのバスが30分に一本の割合で出ている。終点の「山村町」から2つ手前に「八嶋町」バス停があり、そこからだと徒歩2〜3分で八嶋陵に着くことができる。
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| 崇道天皇八嶋陵に向かう道 | 三叉道の角に立つ標識 |
八嶋町内をバスが通る高畑山線はかなり狭い箇所がある。バス停は奈良万葉CCへ向かう三叉路の角にあるが、八嶋陵へ行く道はその三叉路からもう一本南にある道を登って行けばよい。道路の角に東海自然歩道の標識が立っていて、そこに崇道天皇八嶋陵の表示がでている。
村の中の緩やかな坂道を上りきると、右手に前池という溜め池があり、左手に崇道天皇八嶋陵がある。驚いたことに、道の真ん真ん中に、地元では「八ツ石」と呼んでいる石の囲いがある。横穴式古墳の石室の名残だそうだ。大型天井石が露出しているが、石室はほとんど破壊されている上に、封土も無くなっている。自動車の往来の妨げになっていることは一目瞭然で、撤去するなり他へ移せばよいと思うのだが、地元では動かすと祟りがあると信じられているようだ。
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| 崇道天皇八嶋陵 (左から撮影) | 崇道天皇八嶋陵 (右から撮影) |
「八ツ石」の前から左手の階段を数段上ると、崇道天皇八嶋陵の正面に出る。奈良県内には宮内庁が管理する陵がかなりあるが、この八嶋陵は見慣れた天皇陵とは少し様子が異なる。一般には、墓の前面に遙拝所が設けられ、柵の内側に石の鳥居が立っていて、鳥居越しにその先の墳墓を拝むかたちを取っている。だが、ここでは柵の内側に鳥居は見えない。まるで武家屋敷のように白壁の塀に囲われた正面の門の後ろにわずかに鳥居の笠木が見えている。
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| 崇道天皇八嶋陵の前に築かれた前池 |
帰りも同じルートを運行するバスを利用したが、奈良教育大前の「高畑町」バス停で途中下車した。「奈良教育大」前の三叉路から西に歩いていくと、国道169号線の「紀寺」交差点あり、その角に国立奈良病院が建っている。その交差点を過ぎた付近に崇道天皇社があると聞いていた。早良親王の霊を鎮めるために建てられた御霊社の一つである。所在地は、奈良市西紀寺町45となっている。「紀寺」交差点を過ぎてさらに西に下っていくと、2つ目の路地に赤い鳥居が見えた。そこが崇道天皇社で、西向きに細長い境内が続く町中の社だった。
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| 崇道天皇社の一の鳥居 | 参道の途中にある門 |
朱色も鮮やかな鳥居の前に立つと、まるで路地のように細長い参道がまっすぐ東に向かって続いている。途中に表門があり、その門をくぐって、両脇に石灯篭が並ぶ参道をさらに進むと、二の鳥居が立っている。鳥居の先に黒い扉の建物があった。神楽殿である。その左手に、拝殿が南向きに建っている。1623年に春日大社の若宮本殿を移築したとされる本殿(国の重要文化財)は、拝殿の後ろに建っているが、樹木に邪魔されてわずかに千木と堅魚木が望めるにすぎない。
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| 表門からさらに奥に続く参道 |
神社の由緒書きによれば、この神社の創建は大同元年(806)までさかのぼる。大同元年といえば、空海が唐から帰朝して真言宗を始めた年である。前年崩御した桓武天皇の後を継いで登極した第51代平城天皇は、この社を建立して異母兄の早良親王の霊を慰めたとのことだ。平城天皇は安殿親王と呼ばれていた時代、早良親王の怨霊によって病気になった経験がある。それから15年が経過していたが、悪霊の怖さは忘れられなかったにちがいない。
それにしても、当時は平安京にいた平城天皇が、なぜこの地に怨霊鎮めの神社を建てさせたのか分からない。平城天皇は病気で弟に皇位を譲り、奈良に腰を落ち着けるのは、809年のことである。健康が回復すると翌年には、都を平安京から自分のいる平城京に戻し、もう一度天皇に戻ることを目指して兵を起こそうとしたことで知られる天皇である。
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| 神楽殿の左にある南向きの拝殿 | 国の重要文化財に指定されている本殿 |
【参考文献】
・図説 京都府の歴史 (河出書房新社刊)
・安西篤子著『油小路の決闘』所蔵の「長岡京の怨霊」
・坂上康俊著『律令国家の転換と「日本」』(講談社刊日本の歴史05)
【出典】:
(*) 坂上康俊著『律令国家の転換と「日本」』から転記