橿原日記 平成20年8月30日

意外! 被葬者が埋葬されていなかった天神山古墳


創立70周年記念特別展示「橿原考古学研究所発足の頃」

天神山出土の木櫃と水銀朱
天神山出土の木櫃と水銀朱
在、県立橿原考古学研究所(以下、橿考研と略称)の附属博物館で、研究所創立70周年を記念して特別展示が開催されている。その会場の中央に、実に意外なものが展示されていた。破損した丸太船に似た棺(ひつぎ)のような出土品が置かれている。その内部は、現在でも目に鮮やかな朱色が塗られ、傍に出土した多量の水銀朱が置かれている。さらに、船の縁にあたる部分には銅鏡の写真を貼った円形の切り抜きが多数置かれている。
「何だ、これは?」
解説板を見るより先に、奇形の展示品にまず目が奪われた。

特別陳列のレジメ
特別陳列のレジメ
橿考研は今年、創立70周年を迎えた。橿考研創立の端緒となったのは、現在の橿原公苑の下に眠る橿原遺跡の本格的な発掘調査だったことは有名である。70年前の昭和13年(1938)、「皇紀2600年」事業の一環として橿原神宮外苑の大規模な拡張整備事業が進められようとしていた。後に初代の研究所所長に就任された末永雅雄博士は、付近から出土していた考古資料の重要性を鑑みて、その年の9月に遺跡発掘調査団を組織された。そして、西日本屈指の縄文時代晩期の橿原遺跡の実態を明らかにされた。それが研究所発足の第一歩だった。

れ以来、橿考研は奈良県内の主要な発掘調査を担い幾多の注目すべき考古学上の発見をしてきた。そこで、創立70周年を記念して、8月9日から9月21日までの会期で、「橿原考古学研究所発足の頃」と題する特別展示を開催している。研究所が最初に手掛けた橿原遺跡をはじめ、創立期の約30年間に実施した主要な11遺跡を、遺物やパネルで振り返る特別企画展である。

木櫃に埋納されていた大量の水銀朱と銅鏡

大和天神山古墳
大和天神山古墳
に記した朱塗りの木棺は、天理市の天神山古墳から出土したものである。天神山古墳という名称はあちこちにあるので、この古墳はそれらと区別するために大和天神山古墳と呼ばることが多い。4世紀前半に築造された墳丘103mの前方後円墳で、国道169号線沿いの伊射奈岐(いざなぎ)神社の境内の裏手にある。

の天神古墳は、大型の行燈山(あんどんやま)古墳(崇神陵)渋谷向山古墳(景行陵)を中心に13基で構成される柳本古墳群の中の1基である。国道を挟んで墳丘長242mの行燈山古墳が黒々と横たわっており、天神山古墳はその陪塚(ばいちょう)とされている。

発掘当時の天神山古墳の石室内部
発掘当時の天神山古墳の石室内部(*)
和35年(1960)に県道桜井・天理線を拡幅して国道にする計画がスタートし、天神山古墳の東半分が削り取られることになった。そこで、3月1日から緊急発掘調査を実施したところ、後円部から合掌式の竪穴式石室が見つかった。石室内には竹割形の木棺が置かれ、中央部分に約41kgの水銀朱があった。さらに、木棺の内側には周囲を囲むように20面の銅鏡が並べられていた。木棺の小口板の外側からも3面の鏡や鉄刀・鉄剣、鉄鏃、鉄鉋、土師器の破片などが見つかった。出土した23面の銅鏡には三角縁神獣鏡は含まれず、大部分は舶載鏡だった。

掘記録によると、竪穴式石室の側壁石は石室内に落ち込んでいたが、自然倒壊によるものだった。検出されたものは何も錯乱しておらず、盗掘の被害は受けていなかった。調査開始から5日目、石室内の石を除去すると、見事な朱が現れ、その下に表面を上にして銅鏡がずらりと並べられていた。残っていた木棺は、縦に長く3分割された状態で、木目に沿って割れていた。

材は全長が2.6m、幅76cmで、割れた3本を組み合わせると、底部が刳り抜き木棺の内部のように曲線を描いた。木口の木材を置いた部分から20cmほど内側に1cmの彫り刻んだ窪みがあり、そこで計測すると木棺は内径が1m、幅が50cm程度だったようだ。上蓋は見つからなかった。最初からなかったのか、それとも薄い板だったので腐食してなくなってしまったのかもしれない。

棺の内側には1.4m間隔で木口材が置かれていた。鏡は棺の上面に8面ずつ左右に、また2面ずつ両方の木口側に並べられていた。木口の外にも南に1面と北に2面が置かれていた。木棺には鏡を並べた内側に貴重な水銀朱が詰められていたと推定された。採取された水銀朱の重さは41kgにも達した。


黒塚古墳の復元された竪穴式石室
黒塚古墳の復元された竪穴式石室
前に、今回展示されているような出土遺物を見たことがある(平成16年10月30日付け橿原日記参照)。場所は天理市にある柳本古墳群の中の黒塚古墳。平成9年(1997)に実施した発掘調査で、一挙に34枚もの銅鏡が出土したことで知られる古墳である。古墳の前に建設された展示館には、発掘当時の竪穴式石窟の様子が見事に再現されている。被葬者の遺体を埋納した木棺は腐ってなくなっていたが、木棺の中央部に多量の水銀朱が使われていた(厚さ4〜5cm)ようで、粘土の棺台が赤く染まっているのが印象的だった。34面の鏡は木棺の周囲に並べておかれていた。

塚古墳は古墳時代前期のT期(3世紀末〜4世紀前半)に築造された全長130mの前方後円墳である。天神山古墳もほぼ同じ時期に築かれた全長103mの前方後円墳である。だが、黒塚古墳とは決定的な違いがある。丹念に木棺の中央部が調べられたが、遺骸を埋葬していた形跡を認めることが出来なかった。埋納されていたのは、41kgの水銀朱だった。

銀朱とは、もともと水銀と硫黄が化合した硫化水銀で、多くの場合辰砂(しんしゃ)を砕いて得られる。辰砂は、中央構造線に沿った断層に多く認められる。吉野川流域では石杵を使用した水銀朱の精製を行っていた遺跡が点在している。『魏志倭人伝』には、「その山には丹(辰砂)あり」と倭国の特産物としてあげられ、卑弥呼が正始4年(243年)に魏に献上したと記載している。

銀朱は、縄文時代より赤色顔料の代表として使われてきたが、弥生時代から古墳時代にかけては、その防腐作用が注目され葬礼にも欠かせない鉱物だった。棺材に塗るだけではなく、遺体そのものに散布したり 塗布したりもした。しかし、実際はその朱色の呪術的要素を尊重されたと考えられている。いずれにしても、非常に貴重なものとして扱われたようだ。

出土した銅鏡の一部
展示されている出土銅鏡の一部
らに、副葬されていた銅鏡にも違いがある。黒塚古墳から見つかった34面の銅鏡は、33面が三角縁神獣鏡で、残る1面が画文帯神獣鏡だった。だが、天神山古墳出土の銅鏡はそのほとんどは舶載鏡とのことである。内訳は、方格規矩神獣鏡(6)、画文帯神獣鏡(4)、内向花文鏡(4)、画像鏡(2)、獣帯鏡(1)、斜縁二神一獣鏡(2)、獣形鏡(3)、人物鳥獣文鏡(1)となっている。これらの出土鏡は重要文化財に指定され、奈良国立博物館の所蔵となっているが、今回の特別展示のため貸し出され、展示室の硝子ケースに並べられている。


説板の説明を読みながら、なにか奇異なものを感じた。解説板でも、展示されている木材を「木棺」と説明している。木棺としては、古墳時代前期のT期(3世紀後半から4世紀前半)の竪穴式石室に遺体を安置するために埋納された割竹形木棺組合せ式木棺などが知られている。しかし、天神山古墳は行燈山古墳の陪塚とされながら、行燈山古墳の被葬者に関係した人物の墓ではなかった。埋葬されていたのは水銀朱と舶載鏡、それに鉄刀・鉄剣などで、つまりは行燈山古墳の被葬者の威信財だった。

崇神天皇陵に比定されている行燈山古墳
崇神天皇陵に比定されている行燈山古墳
間の遺体ではなく威信財を埋納したものを棺(ひつぎ)というのだろうか。気になって、附属博物館の情報コーナーで発掘調査報告書を調べてみた。報告書でも出土した木材を「木棺」と記していたが、さすがに遺体の埋納形跡のないものを棺と呼ぶことに気が引けたのか、報告書の最後のほうでは「木櫃」(きひつ)と呼称を改めている。

辞苑によれば「櫃」とは、大型の匣(はこ)の類で、上に向かって開くものをいう。したがって木櫃とは遺体ではなく重要な遺品を納めた木製の箱だったのだろう。「櫃」と聞いて思い出した映画がある。インディ・ジョーンズの活躍を描いた「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」というハリウッド映画である。この場合の聖櫃(せいひつ)とは、モーゼの十戒の書かれた石板を納めた櫃だった。行燈山古墳の被葬者が、言われているように第10代崇神天皇だったとしたら、木櫃に納められていたのは、彼のお宝だったことになる。

椿井大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡
椿井大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡
ひとつ気になったことがある。天神山古墳から発見された23枚の銅鏡が、伝世された中国製の舶載鏡であれば、行燈山古墳の被葬者の威信財だったことは理解できる。しかし、同じ頃に埋葬された黒塚古墳の被葬者の棺の周りには33面もの三角縁神獣鏡が置かれていた。畿内で多数の三角縁神獣鏡が見つかった古墳は他にもある。京都府山城町の椿井大塚山古墳からも30数面が見つかっている(正確な出土枚数が資料によって異なり今もって確定していない)。

に三角縁神獣鏡が魏鏡でなく、国産のホウ製鏡(ほうせいきょう)だったとしたら・・・。舶載鏡に比べて、威信財とするほどの値打ちものではなくなる。また、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の皇帝から拝受した銅鏡を臣下の礼を取る豪族たちに配布したとする説も根拠を失う。畿内大和のお膝元で、一人の豪族が、どのような手柄を立てたにしろ、何十枚もの鏡を授けられるわけがない。

者は、古墳の被葬者たちが己の権力や財力を誇示するために、畿内の鏡作り集団から買い求めたものではなかったかと想像している。古代では、銅鏡は破邪の霊力があるとされた。彼らは、黄泉の世界は悪霊が跋扈する世界であると考えたにちがいない。そうした悪霊の侵入から死後の己を守り永久の眠りを保証するために、生前に多くの鏡を入手し、埋葬時に棺の内外に置かせた、と解する方が分かりやすい。

(*) 特別展示展のレジメより引用


2008/08/31作成 by pancho_de_ohsei return