2008/08/29

藤原京はなぜ新益京(あらましのみやこ)と呼ばれたかのか?


飛鳥時代の遷都に対して抱き続けてきた単純な疑問

飛鳥京(部分)
飛鳥京(部分) (飛鳥資料館のジオラマより)

■ 最近、飛鳥京(あすかきょう)という言葉をよく耳にするようになった。飛鳥宮(あすかのみや)ではなく、飛鳥京である。現在の奈良県高市郡明日香村一帯は、飛鳥時代に天皇の宮が幾つも営まれ、今日で言えば、日本の首都の様相を呈した。そのため、飛鳥「京」という名称が用いられるようになった。飛鳥京は”あすかのみやこ”とも読む。だが、「宮」と「京」は、明らかに異なる概念だ。

■ 「宮」は建物を意味する「屋」(ヤ)に、尊敬を表す接頭辞の「ミ」がついて、高貴な人物の住まいを意味し、そこから転じて天皇などの居住空間を指すようになった。さらにその「宮」に、周辺とか、”そこらあたり”を意味する「コ」が付いて”ミヤコ”という言葉が作られ、「都」または「京」という漢字が当てられた。

■ つまり、天皇の居住空間である王宮の周辺に、国家を統治する役所などの施設や、そこに勤める役人たちおよび役人に仕える住民たちの居住空間が存在して、初めて「京」といえる。飛鳥には確かに天皇の王宮は存在した。だが、官人たちの役所や住民たちの住居はあったのか?

■ 我が国の古代には、天皇の代替わりごとに場所を遷してその居所を建て替えていた。これを歴代遷宮という。その理由の一つは、死穢(しあい) を避けるためだったとされている。6世紀末まで、歴代の天皇は、主に現在の桜井市の纒向(まきむく)・磯城(しき)・磐余(いわれ)地域に王宮を営んできた。

太子山向原寺
豊浦宮跡に建つ現在の太子山向原寺

■ 西暦592年の暮れ、我が国最初の女帝となった推古天皇は、初めて現在の高市郡明日香村の豊浦(とようら)の地に豊浦宮(とようらのみや)を営んだ。それ以後、飛鳥地方に天皇の宮が営まれるようになり、地名の飛鳥を冠した王宮が多く築かれた。
(例:舒明天皇の飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)、皇極天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)、斉明天皇の後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)、天武天皇の飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはら))。

■ 飛鳥歴史公園展示室のパネルや飛鳥資料館のジオラマには、当時の飛鳥の景観が復元されている。だが、これらのパネルやジオラマで目に付くのは、飛鳥浄御原宮の広大な境域であり、周辺に点在する巨大な飛鳥寺院の境内ばかりである。我々が歴史の授業で教えられた藤原京平城京長岡京平安京といった条坊制の都市空間は見あたらず、ずいぶんイメージが異なる。

■ 7世紀の初めに聖徳太子が制定した憲法17条には、官吏の服務規定に類する条文が多い。そのことから、初期の律令官制がすでに萌芽していたと推察されている。そうであれば、彼ら官人が勤務する役所が王宮の近くになければならない。彼らの住居も当然出仕できる距離に存在したはずだ。官人ばかりではない。当時の政治は中央豪族たちの合議で決した。豪族たちの邸宅も、本拠地とは別に飛鳥地域に築かれていたはずだ。

■ ジオラマにはそうした住居跡の復元はない。単に今まで発掘されていないだけなのか、それとも飛鳥と呼ばれる地域には存在しなかったのか。これが、飛鳥時代の王都に関して抱き続けてきた筆者の疑問である。

飛鳥の地に築かれた飛鳥宮は歴代遷宮ではなかった

林部 均著『飛鳥の宮を藤原京』
林部 均著『飛鳥の宮を藤原京』
■ 奈良県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)の総括研究員である林部 均(はやしべひとし)氏は、今年の2月に『飛鳥の宮を藤原京』を出版された。橿考研附属博物館の情報コーナーで購入して現在読んでいるが、実際に飛鳥宮の発掘調査に従事してこられただけに、著作の内容は従来の通り一遍の解説書に比べて非常に示唆に富む。

■ この著書は筆者が抱いていた疑問を解くヒントを与えてくれたのは有り難い。それだけではない。考古学から見た飛鳥京や藤原京に関する新しい知識も提供してくれている。この著書から得た筆者の理解を整理すると次のようになる。

推古天皇の豊浦宮や小墾田宮は飛鳥の外に営まれた

■ 西暦592年11月、我が国では崇峻天皇暗殺という前代未聞の不祥事が発生した。その異常事態の中で世情の安定を図るため、我が国最初の女帝が誕生した。推古天皇の登極である。推古天皇は現在の高市郡明日香村の豊浦の地に豊浦宮(とようらのみや)を営んだ。その時から数えて710年の平城京遷都までの100余年間を、我が国の歴史では一般に飛鳥時代と呼んでいる。推古天皇の豊浦宮を皮切りに、後続の天皇は主として飛鳥地域に王宮を営んできた。飛鳥時代と言われる由縁である。

■ 即位からほぼ10年後の西暦603年、推古天皇は新たに小墾田宮(おわりだのみや)を築き、そこに移り住んだ。小墾田宮の所在地は、長らく豊浦の集落の入口にある古宮土壇とされてきたが、現在は雷丘(いかづちのおか)の東にあったと推定されている。

豊浦集落の入口近くにある古宮土壇
豊浦集落の入口近くにある古宮土壇

■ ところで、推古天皇が営んだ豊浦宮も小墾田宮も、林部氏によれば、古代の飛鳥の範疇の外に位置するという。我々が現在「飛鳥」と考えている地域はかなり広い。奈良県高市郡の明日香村を中心として、北は橿原市の一部、南は高取町の一部、東は桜井市の一部が含まれる。だが、古代に飛鳥と呼ばれていた地域は意外と狭く、現在の明日香村飛鳥・岡・川原の一部を含む東西約600m、南北約1キロの範囲を指すようだ。すなわち、東を岡寺山、西を甘樫丘に挟まれ、南は橘寺付近、北は現在の阿倍山田道付近までとする飛鳥川の右岸(東側)で一部左岸を含む地域をいう。

■ 推古天皇が即位した豊浦宮付近は、欽明天皇の時代に仏教が百済から伝えられたとき、蘇我稲目(そがのいなめ)が天皇の許可を得て邸宅を改造して仏像を安置した向原の家があった。蘇我氏の出自は謎が多くいろんな説があるが、畝傍山の北,現在の奈良県橿原市曽我町あたりを本拠とし、その地名を氏の名とした葛城系の豪族だったようだ 。その蘇我氏が、6世紀の半ばには、すでに飛鳥地域まで勢力圏におさめていた。

■ 587年の蘇我・物部戦争で大和王権の一方の雄である物部本宗家を滅亡させた蘇我馬子は、絶大な権力を掌中に収めた。しかも馬子と推古は叔父・姪の間柄である。己の勢力圏に天皇の宮を営ませることなどたやすいことだったであろう。

■ だが、林部氏は、蘇我氏が拠点を置く飛鳥の北に隣接し飛鳥の入口を塞ぐような位置にあたる小墾田を支配拠点として積極的に開発しようとした、すなわち、推古天皇は厳密な意味で飛鳥に入らなかったことを積極的に評価すべきだと言われる。叔父・姪の間柄であるとは言え、また女帝であったとは言え、天皇としての尊厳を立派に誇示されたと言われる。


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飛鳥の諸宮の変遷(*)
■ 592年に豊浦宮で即位した推古天皇は、上記のように603年に宮居を小墾田宮に遷し、628年に没するまで小墾田宮で君臨した。いわゆる古代の飛鳥の地に初めて王宮を営んだのは、推古の没後に登極した田村皇子、すなわち舒明天皇ということになる。したがって、厳密な意味での飛鳥時代の開始は630年とすべきであろう。

■ 飛鳥時代の歴代天皇の王宮を整理して示すと次のようになる。

●舒明天皇:飛鳥岡本宮(630〜火災)→ 田中宮(636〜639)→ 厩坂宮(640)→ 百済宮(640〜641)
●皇極天皇:百済宮(641)→ 小墾田宮(642)→飛鳥板蓋宮(643〜645)
●孝徳天皇:難波長柄豊碕宮(645〜654)
●斉明天皇:飛鳥板蓋宮(655)→飛鳥川原宮(655)→後飛鳥岡本宮(656〜661)
●天智天皇:後飛鳥岡本宮(661〜667)→近江大津京(667→672)
●天武天皇:後飛鳥岡本宮(672)→ 飛鳥浄御原宮(672〜686)
●持統天皇:飛鳥浄御原宮(686〜694)→藤原京(694〜697)
●文武天皇:藤原京(697〜707) 
●元明天皇:藤原京(707〜710)→ 平城京(710〜715)
(注:青色表示:飛鳥地方以外に営まれた王宮・王都)

飛鳥地方の王宮跡
飛鳥諸宮と藤原京(*)
■ こうして歴代の王宮跡を整理してみると、乙巳(いっし)の変(645)に続いて大化の改新を断行すべく孝徳天皇が難波長柄豊碕に宮を遷した時期と、白村江の大敗(663)の後に天智天皇が都を近江の大津に遷した時以外、各天皇の王宮が飛鳥およびその近辺を離れたことはなかった。

■ 舒明天皇が630年に即位した飛鳥岡本宮は、636年に火災で焼失した。その後、天皇は田中宮、厩坂宮、百済宮を点々とし、二度と飛鳥に戻ることはなかった。643年、舒明天皇の皇后だった皇極天皇は、飛鳥岡本宮の跡地に新しい王宮の建設を命じた。当時としては珍しい板葺きの屋根を持つ飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)である。後に、645年の乙巳(いっし)の変で蘇我入鹿(そがのいるか)が誅殺される舞台となったことで知られる王宮である。

■ 乙巳の変で、皇極天皇は弟の軽皇子に我が国で初めてとなる生前譲位を行なった。譲位を受けて即位した孝徳天皇は宮を難波の長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)に遷し、10年にわたって大化の改新を行った。孝徳天皇の死後、皇極天皇が再び登極し、斉明天皇として655年、飛鳥板蓋宮を宮居とした。しかし、この宮が火事で焼失したので、一時飛鳥川原宮に仮住まいをし、焼け跡に新しい宮の建設を命じた。それが656年に築かれた後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)である。

■ 672年、大海人皇子(おおあまのみこ)は壬申の乱に勝利すると、飛鳥に戻り母の斉明天皇の宮だった後飛鳥岡本宮に移り、宮の南に新しく宮殿の造営を命じた。翌673年、大海人皇子はこの宮殿で天武天皇として即位した。橿考研の発掘調査でこの宮殿の所在が明らかになり、その一画は現在「エビノコ郭」と呼ばれている。つまり、天武天皇は後飛鳥岡本宮をそのまま継承し、「エビノコ郭」を増築しただけである。

■ こうして見てみると、飛鳥の地に営まれた天皇の王宮は、歴代遷宮によって狭い盆地の中を点々としたのではない。最初に舒明天皇が築いた飛鳥岡本宮が火災で焼失したが、その後に飛鳥板蓋宮が築かれ、この宮が火災で焼失すると、あらたに後飛鳥岡本宮が築かれたのであり、宮居の場所は動いていない。ただ、「エビノコ郭」の例に見るように、新築のたびに宮としての規模は拡大したであろう。

■ 天武が政治を行った王宮は飛鳥浄御原宮と呼ばれている。だが、この名称は天武の即位を機に付けられたものではない。天武は686年9月に波乱に富んだ生涯を閉じるが、その2ヶ月前に改元してその年を朱鳥(あかみとり)元年とした。飛鳥浄御原宮と命名されたのはその時である。それまでの天皇の宮が何と呼ばれていたのかを示す史料は残っていない。

豊浦展望台の東の端から見下ろした明日香村
豊浦展望台の東の端から見下ろした明日香村

■ 甘樫丘の北端に豊浦展望台が築かれている。この展望台の東の端に立つと、古代の飛鳥の地域をそのまま俯瞰することができる。眼下のヒノキの植林の向こうに明日香村の大字・飛鳥の集落が見える。集落を貫いて一本の道がまっすぐ東にのびていて、その道を目線でたどると、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)の丘に突き当たる。集落の南に視線を巡らせると、寄せ棟の屋根を戴く飛鳥寺本堂が見える。蘇我馬子が一族の氏寺として建立した飛鳥寺は、我が国最初の本格寺院だった。創建当時の領域は、現在の飛鳥の集落に匹敵する広さを誇った。

■ 飛鳥寺の境内の南は、緩やかな傾斜を利用して築かれた緑豊かな棚田が広がっている。その水田の奥に見えている家並みが岡の集落だ。岡の集落の手前に伝飛鳥板蓋宮跡の遺跡がある。この付近一帯は、かって舒明・皇極・斉明・天武・持統の天皇の宮が置かれたところで、現在は飛鳥京跡と呼ばれている。

■ 現在までの発掘調査によって、飛鳥京跡の遺構は、大まかにT期(舒明の飛鳥岡本宮 630年〜)、U期(皇極の飛鳥板蓋宮 643年〜)、V期(斉明・天智の後飛鳥岡本宮 656年〜、天武・持統の飛鳥浄御原宮 672年〜)に区分できるという。V期は便宜上、V-a期とV-b期に分けられ、後飛鳥岡本宮はV-a期、飛鳥浄御原宮はV-b期とされている。

地形の制約を無視し正方位を重視する王宮の登場

甘樫丘の山麓を流れる現在の飛鳥川
甘樫丘の山麓を流れる現在の飛鳥川

■ なぜ飛鳥が王城の地に選ばれたのだろうか。飛鳥は奈良盆地の東南に位置する小さな盆地であり、甘樫丘から俯瞰できる狭い地域にすぎない。和田萃氏の名著『飛鳥 −歴史と風土を歩く』(岩波新書850)によれば、もともと「アスカ」の地は真神原(まがみがはら)と称されていた。真神とはオオカミのことである。

■ また、『万葉集』ではアスカの地は「飛ぶ鳥の」という枕詞を冠して歌われている。おそらく暴れ川の飛鳥川が洪水のたびに流路を変えて真神原を横切り、ほうぼうに湿潤地帯を作っていたのだろう。そのため、アスカの地は鳥類が多く生息し、オオカミが跋扈する荒れ地だったにちがいない。

■ もう6年も前のことだが、飛鳥資料館で「”あすか”以前」という特別展示が開催されたことがある(平成14年5月2日付け橿原日記参照)。展示解説には、飛鳥川流域で出土した弥生時代の遺物は、大官大寺、奥山久米寺、岡の集落付近の3カ所にすぎないと記されていた。しかも面白いのは、弥生時代の終わりころ飛鳥地方に住んでいた人々がどこかへ移住して居なくなってしまったという。

入鹿の首塚。背景は甘樫丘
入鹿の首塚、この付近に槻の木の林があった。背景は甘樫丘

■ ユリカモメなどの鳥が多く生息し、オオカミが徘徊していた無人の真神原に、百済から新たに列島に渡来した人々が住み始めたのは5世紀も後半になってからである。『日本書紀』の雄略天皇7年の条には、百済からの渡来人を飛鳥の上桃原・下桃原・真神原に置いたとある。ちなみに、上桃原・下桃原とは石舞台古墳がある現在の明日香村島庄を中心とした一帯と見られている。

■ この奈良盆地の中でも後進地域とされた飛鳥が後の王城の地となるきっかけを作ったのは、おそらく蘇我氏である。古代にはオオカミは畏敬の念で見られて神として祀られたり、神の使いとされた。このオオカミが徘徊する真神原は神聖な場所とされた。その神聖な場所を象徴するように真神原の中心に槻(つき)の木の林があった。槻の木は現在のケヤキだが、その巨木は神の依り代の神木とされていた。

■ 神の降臨する場所こそ仏教寺院を建立するのにふさわしい。我が国最初の本格的な寺の建設を思い立った蘇我馬子はそう考えたにちがいない。彼はまず、槻の木のそばにあった飛鳥衣縫造(あすかのきぬぬいのみやつこ)の先祖にあたる渡来人・樹葉(このは)の家を撤去させた。そして、百済から寺院建立の技術者集団を呼び寄せて、塔のまわりに3つの金堂を配する壮大な伽藍を建立すると、仏法興隆の願いをこめて「法興寺」と命名した。その法興寺、すなわち現在の飛鳥寺が、飛鳥地域発展の基礎となった。

飛鳥寺伽藍復元図<
中西立大氏が描かれた飛鳥寺伽藍復元図

■ 林部均氏の上記の著作では、古代の飛鳥と呼ばれた空間を「飛鳥」と呼び、さらにその周辺の一般に飛鳥と考えられている地域を含む場合は「飛鳥・藤原地域」と呼んで厳密に区別している。そして重要な指摘をしておられる。推古天皇の時代の建物跡など7世紀前半以前にさかのぼる遺構は、北から西に約20度前後振れているものが多いとのことだ。飛鳥・藤原地域では、地形は南東が高く北西に向かって傾斜している。このため、地形の改変をより少なくして、最大限に土地活用をした場合、建物は等高線に平行か、または直交するようにつくられたようだ。

■ ところが、飛鳥時代のある段階から、建物の造営方位を真北にむける正方位が採用されるようになったとのことだ。最初に建てられたのは飛鳥板蓋宮である。その背景に、「天子、南面す」という言葉に代表されるような、中国から新しく導入された世界認識、宇宙論があると、林部氏は推論される。従来の地形を利用した建物の造営に対して、正方位を意識した建物は、王宮としての特別な空間を象徴する視覚的な効果をもたらしたようだ。

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法興寺(=飛鳥寺)の堂塔の方位
(出典:坪井清足著『』飛鳥の寺と国分寺)
■ 正方位を重視した王宮の建設は、飛鳥板蓋宮以後、難波長柄豊碕宮、後飛鳥岡本宮、近江大津宮、飛鳥浄御原宮と引き継がれ、さらに規模を拡大して藤原京、平城京、長岡京、平安京の都市計画へと続いていく。

■ 林部氏の正方位を重視した都市計画論は、論理が明快で説得力がある。だが、氏の推論にいささか疑問を感じたのも事実である。氏は643年に築かれた飛鳥板蓋宮が飛鳥に築かれた正方位の建物の皓歯とされているが、実際にはそれより半世紀も前の592年に正方位にのっとって造営された建物がある。他ならぬ法興寺である。

■ 仏教寺院も南北線を極めて重視する。四天王寺様式の伽藍配置では、南から南大門、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ。したがって、王宮・王都として周辺地域とは異なる象徴的な空間を演出するために、正方位の建物が造営されたとは必ずしも言い切れない。

飛鳥地域を王宮の特殊空間に特化し、荘厳化した斉明天皇

■ 王宮であれば、天皇の私的な生活空間と公的な行事を行う空間があれば、宮として機能する。しかし、王都となるとそうはいかない。後の藤原京や難波宮に見られるように、国の中枢として官人たちが国事を執り行う朝堂やそれに付随する官衙が王宮の周辺に存在しなければならない。官人たちの生活空間も存在しなければならない。

難波宮の大極殿跡復元
難波宮の大極殿跡復元
■ 推古天皇の摂政の任にあった聖徳太子は、604年に十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を作成している。その中には、官人たちに対する服務規定の条文も含まれ、律令体制の萌芽がすでに見られる。645年の乙巳の変の後、王都は難波の長柄豊碕宮(ながらとよさきみや)に移るが、発掘調査で内裏南門の前に14棟からなる朝堂院が存在したことが明らかになっている。この前期難波宮と称される王宮の朝堂空間は、大化5年の「八省百官」の創設に伴って設けられたもので、中央政治機構の政務空間だった。

甘樫丘東麓遺跡の発掘現場
甘樫丘東麓遺跡の発掘現場(H17/11/16撮影)
飛鳥京内安殿(北の正殿)の現地説明会
飛鳥京内安殿(北の正殿)の現地説明会(H18/03/11撮影)
竹田遺跡の現地説明会
竹田遺跡の現地説明会(H18/11/23撮影)

■ だが不思議なことに、王都が難波から飛鳥に戻って築かれた斉明天皇の後飛鳥岡本宮でも、それを継承した天武・持統の飛鳥浄御原宮でも、朝堂院に相当する政務空間は見つかっていない。飛鳥資料館に展示されているジオラマをみても、古代の飛鳥を占拠しているのは、飛鳥寺や川原寺、橘寺といった仏教寺院と、最近では飛鳥京と呼ばれるようになった飛鳥岡本宮以降の複合王宮跡だけである。

■ いわゆる飛鳥と呼ばれた空間では、朝堂院や官衙の存在を示す遺構が発見されていないだけではない。豪族や貴族の邸宅跡も見つかっていない、今まで発見されているのは、飛鳥の周辺に位置する蘇我馬子の邸宅とされる島の庄遺跡、蘇我入鹿の邸宅跡と想定されている、新田部皇子(にいたべのみこ、?〜735年)の邸宅跡とされる竹田遺跡程度にすぎない。

■ こうした事実から見えてくるものは何か。いたって簡単である。飛鳥の地は王宮の位置する聖なるところであり、そこには有力氏族も皇子たちも住むことを許されなかった。その王宮の地を荘厳化するためにさまざまな施策を施したのは、斉明天皇である。彼女は皇極天皇の時住んだ飛鳥板蓋宮跡に後飛鳥岡本宮を造営させるとともに、さまざまな土木事業を行わせた。そのため、後世「興事を好む」女王と評された。

苑池の復元イラスト
酒船石遺跡近くに今に残る石垣
苑池の復元イラスト
苑池の復元イラスト
(橿考研の現地説明資料より)
■ 例えば、香具山の西から石上山(岡の酒船石遺跡のある山)に至る運河を掘らせ、船200隻で石材を運び、後飛鳥岡本宮の東の山を大規模に成形して三重に石垣を巡らせている。そのとき掘削された運河は時の人に「狂心の渠」(たわむれごころのみぞ)と呼ばれ、現在飛鳥坐神社の西南で発見されている。飛鳥東垣内(ひがしかいと)遺跡である。

■ 後飛鳥岡本宮の近くには、大規模な苑池も築かれた。その場所は、発掘されて飛鳥京跡苑池遺構と呼ばれている。この苑池が築かれたのは、出土土器から斉明天皇の時代とされている。飛鳥寺の北西には、石人像や須弥山が出土したことで知られる石神(いしがみ)遺跡がある。この場所を外交に関わる迎賓館的施設として整備したのも斉明天皇の時である。

■ 斉明天皇の皇子の中大兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)は、石神遺跡の近くに斉明天皇6年(660)、漏剋(ろうこく)を造っている。その遺構は1981年に発見されて、現在は水落遺跡と呼ばれている。漏剋とは水時計である。こうして時の王権は時間も支配するようになった。漏剋から告げられる時刻を共有する地域は、まさに飛鳥であり、きわめて特殊な王城の地となった。

■ 大化の改新によって本格的な律令体制の確立へ舵を切った時の倭国にとって、現在の霞ヶ関のように官僚たちが各業務を分担した中央政治機構は不可欠である。しかも、官僚機構は時代が下るに従って肥大化する。前期難波宮に営まれた朝堂院の施設は、飛鳥に戻った斉明政権では何処に築かれたのか。壬申の乱に勝利して、近江から飛鳥に戻った天武天皇やその後を継いだ持統天皇時代は、皇親政治の時代と言われる。皇親政治でも、国政を維持するには膨大な官僚機構が必要である。だが、彼らが政務を行なった役所や官僚たちの居住空間は、飛鳥の地にはない。このことが長い間の疑問だった。

 天武天皇は藤原の地に新しい都の造営を意図していた?

■ 西暦672年に勃発した壬申(じんしん)の乱では、6月に吉野を脱出した大海人皇子(おおあまのみこ)は、自軍と行動をともにしたわけではない。野上行宮(あんぐう)でどっしりと腰を据えると、不破にいる高市皇子と互いに連絡を取り合いながら、戦況報告を分析し、全軍への指示を下していた。戦いに勝利した大海人軍は7月26日、自殺した大友皇子の首を不破に持ち帰った。大海人皇子はその首実検を行い、引き続いて近江方の処分や自軍の論功行賞を行った。彼が飛鳥へ凱旋してきたのは、それから一ヶ月半後の9月12日である。

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飛鳥飛鳥浄御原宮のエビノコ郭(右手前)
■ 大海人皇子は取りあえず島宮で旅装を解いたが、3日後には島宮から母・斉明天皇の宮だった後飛鳥岡本宮に移り、宮の東南に新しい宮室の造営を開始した。その建物跡が発掘調査で見つかり「東南郭正殿」あるいは土地の名をとって「エビノコ郭」と呼ばれている飛鳥浄御原宮の一部である。大海人皇子はこの「エビノコ郭」を、後の「大極殿」として建設したとされている。明けて673年2月27日、皇子は新装なった大極殿で天武天皇として即位すると、従来のように左右大臣を置かず皇親政治を開始した。

■ 天武天皇はなぜ「大極殿」を必要としたか。林部氏はこう読み解く。大海人皇子は、壬申の乱で天智天皇の子の大友皇子から武力で王位を簒奪した。しかし、それだけでは王位につく正当性を欠如している。つまり、権力はあったが、権威は欠如していた。皇子は、天皇たる正当性を保証するものが必要だった。そこで着目したのが、中国の世界認識のための宇宙論であり天の思想であるという。中国では、太極殿は天帝の代行者として天下に臨む天子の居住地を意味していた。大海人皇子は大極殿を天皇の正当性を象徴する殿舎として造営し、そこで天皇位に登極することにしたのである。

676年
(天武5年)
新城の造営を計画
680年
(天武9年)
11月、皇后の病気平癒を願い、薬師寺建立に着手
682年
(天武11年)
3月、天武天皇、新城に行幸。12月、複都制の詔
684年
(天武13)
3月、天武天皇、京師を巡行して、宮室の地を定める。
686年
(朱鳥元)
正月、大蔵省から出火し、難波宮全焼
7月、改元して朱鳥(あけみどり)元年という。現在の宮を飛鳥浄御原宮と命名。
9月、天武天皇崩御。
■ このように、大海人皇子は後飛鳥岡本宮に「東南郭正殿」を増築して即位したが、後飛鳥岡本宮はあくまで仮の王宮だった。当然のことながら、己の権力にふさわしい都城の建設を計画した。『日本書紀』は676年(天武5年)の条に、”この年、新城(にいき)に都を造ろうとされた。予定地の田畑は公私を問わず耕作されなかったので、たいへん荒廃した。しかし、ついに都は造られなかった”と記す。以前は「新城」は大和郡山市新木」を指すと解されたが、現在は飛鳥宮の北方を指すと理解されている。

■ おそらく、676年には「新城」の造営が開始されたのであろう。それが中断された理由は不明である。この「新城」では、のちの藤原京の条坊制に基本的に継承される正方位の方格地割が行われたと解されている。発掘調査によって、藤原宮の下層には、宮造営に先行する条坊道路(宮内先行条坊)が存在し、その地割りに沿って多くの掘立柱の建物跡が見つかっている。680年(天武9年)11月、皇后の病気平癒を願い、薬師寺建立に着手したが、その寺地は後の藤原京の方格地割に従っているという。

甘樫丘から西方を望む
甘樫丘から西方の畝傍山を望む

■ なぜ天武が新城の造営を中断させたのかは不明である。彼が新城を訪れたのは、6年後の682年(天武11年)3月である。その年の12月には、複都制の詔を出している。つまり、彼の頭には、中国の王朝に倣って、飛鳥と難波にそれぞれ都を建設する構想があった。難波の長柄豊碕宮はまだ存在している。そこで、翌年の3月、天武は再び新城に巡行して、新しい宮(藤原宮)の宮地を定めた。この時点で、新城の都市計画はほぼ固まったと思われる。それは、長柄豊碕宮をモデルにした可能性が高い。だが、天武は藤原宮の完成を見ることなく、2年後に他界してしまう。

■ 林部氏は、その著書の中で面白い指摘をしておられる。676年に「新城」を計画したときは、その中に王宮は構想されていなかったという。興味深い指摘である。676年時点では、王宮としては、後飛鳥岡本宮をそのまま継続し、飛鳥の北に位置する藤原の地に正方位の方形区画の王都の拡張を立案した。その「新城」は、官僚制の整備にともなう官人の増加により、その居住空間として設定されたものであるという。

甘樫丘から北方を望む
甘樫丘から北方の香具山(右)と耳成山(左)を望む

■ 林部氏の指摘を独断と偏見で敷衍するならば、孝徳天皇が薨去して斉明天皇が即位した時点では、無理して官僚機構を飛鳥に移さなくても、そのまま長柄豊碕宮で機能していた。その後、百済滅亡と復興支援で多難な時期を迎え、さらに天智天皇の近江遷都と続いた。壬申の乱に勝利して飛鳥に戻った天武も、古代最大の内乱で疲弊した国民を酷使して新都を建設するだけの大義名分はなかった。そこで、長柄豊碕宮の朝堂院や飛鳥・藤原地域のあちこちに外廷機能を分散させていた。

■ しかし、それでは不便な点が多い。そこで、外廷機能を「新城」と呼ばれる地域に集中させることにした。合わせてそこに勤務する官人たちや彼らの生活を支える一般住民の居住区域を方形区画で整然と区切ろうとした。当初の天武の意図は、おそらくこのようなものだったのだろう。

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岸俊男説の藤原京条坊復元図
■ だが、天武が複都制を構想するに及んで、彼の意図は変わった。中国の都城に匹敵するような都市空間を難波と飛鳥に建設することにする。複都となると、「新城」の中心にも新しい宮を造営しなければならない。そのために、682年3月に天武は新城に行幸し、さらに翌年にも新城に赴いて宮居の地を定めた。

■ やがて、飛鳥に築かれた飛鳥宮が天武天皇の時代に「京」と呼ばれるようになり、新しく藤原の地を中心に築かれることになった「新城」は新たに益した京、すなわち「新益京」(あらましのみやこ)と呼ばれるようになった。因みに天武天皇が構想し、持統天皇の代に造営された都を、我々は何の違和感もなく「藤原京」と呼んでいるが、これは明治時代に歴史学者の喜田貞吉が付けた造語である。

夫・天武の遺志を継いで王都を完成させた持統天皇

藤原宮跡から北方を臨む
藤原宮跡から北方を臨む

■ 686年5月、天武天皇は病に倒れた。病気平癒を祈って「朱鳥(あかみとり)」と改元され、このとき初めて、天武の宮が飛鳥浄御原宮と命名された。しかし、9月9日、病がついに癒えず、天皇は波乱に満ちた生涯を正宮で閉じた。彼が自ら計画し、位置を決定した王都の完成を目にすることはなかった。殯宮(もがりのみや)は飛鳥浄御原宮の南庭に営まれた。そこで2年間の殯が行われ、688年11月に大内陵に埋葬された。

■ 天武が崩御した686年9月、大津皇子の謀反が発覚し、次期皇位継承者である草壁皇子の最大のライバルを葬った。その草壁皇子も689年4月、即位を目前にして突然28歳の若さで死去してしまう。それまで称制として朝政に臨んできたウ野讚良(うののさらら)皇女は、翌690年正月飛鳥浄御原宮の大極殿で持統天皇として登極した。夫の遺志を継いだ持統天皇は、新しい王宮・王都の建設に着手する。

大極殿の南門跡から出土した須恵器の平瓶
大極殿の南門跡から出土した須恵器の平瓶
■ 即位した690年の10月、先ず高市皇子に藤原の宮地を視察させ、12月には自ら藤原に行幸して宮地を見学している。翌691年10月には、使者を派遣して新益京の地鎮祭を行わせた。692年正月には、新益京の方形街区を見る儀式が催され、さらに5月には藤原宮の地鎮祭を行わせている。

■ このとき埋められたと思われる平瓶(ひらか)が、藤原宮の大極殿院の正門とされる南門の跡から昨年発掘された。注ぎ口には富本銭(ふほんせん)9枚が詰め込まれ、中には長さ2〜4センチの六角柱状の水晶の原石が底に9個入っていた。

■ その後の造営工事は順調に進んだようだ。藤原宮の地鎮祭が行われた翌月、宮地への天皇行幸があり、翌年の693年8月、さらに694年正月にも天皇の行幸があった。いずれも、藤原宮の進捗状況の視察をかねた行幸だったのだろう。そして、694年の年の瀬も押し迫った12月6日、持統天皇は「藤原宮に遷(うつ)り居(おわ)します」と『日本書紀』は記している。

■ 天武天皇が新城の造営を計画したのは676年、それから約20年近い歳月を経て、ようやく天皇の遷居までこぎ着けたことになる。その間、当初の新城建設の計画は一時中断し、また天武の死でも再び頓挫した。本格的な工事が開始されたのは、地鎮祭が行われて以降であり、新益京では3年、藤原宮にいたっては2年半しか経っていない。694年の暮れの段階では、藤原宮ですら、天皇の住まいの内裏が完成していた程度だったであろう。

ジオラマ
橿原市藤原宮資料室のジオラマ。北から南を見る
■ 天皇が藤原宮へ遷居の時点では、宮も京も工事の真っ最中だった。一般には、遷都といえば、新しい王宮・王都で新しい政治が開始されたというイメージを描きがちである。しかし、我々が概説書で見るような方形区画の新益京が完成するのは、はるか後の話である。あるいは、計画通りに完成することなく、平城京への遷都で、廃都となった可能性が十分ありうる。

■ 藤原宮の大極殿の名前が初めて現れるのは698年(文武2年)、朝堂の名前は701年(大宝元年)である。そのころになってようやく藤原宮の体裁が整ったようだ。しかし、平城遷都が政治日程にあがるようになるのは、707年(慶雲4年)2月である。708年(慶雲5年)には元明天皇により遷都の詔が出され、710年(和銅3年)には王都は平城京に遷った。新益京(=藤原京)はわずか16年の短命な王都にすぎなかった。

■ しかし、この王都は中国の都城制を採用して、恒常的な宮殿を中心に持ち、条坊街路とそれによって区画された市街地で構成された初めての計画的政治都市だった。天武天皇が目指した、新しい法令に基づく新しい政治を実現するための舞台だった。夫が果たせなかった夢を引き継いで、それを実現させた持統天皇の心境はいかばかりであっただろうか。

醍醐池の傍らに立つ万葉歌碑
醍醐池の傍らに立つ万葉歌碑
■ その女帝は、702年(大宝2年)12月22日に崩御した。1年間におよぶ殯の後、翌年の12月17日に火葬されて、遺骨は夫の眠る大内陵に合葬された。合葬は、おそらく持統天皇の生前からの希望だったのだろう。

■ 現在、藤原宮の大極殿跡の北にある醍醐池の堤に万葉歌碑が立っている。そこに刻まれているのは、次の持統天皇の歌である。
春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山 (『万葉集』巻1・28)
女帝はおそらく内裏から近くの香具山を望んでこの歌をよんだにちがいない。初夏の光が見える歌として有名で、いまだに人口を膾炙しているな歌である。筆者には、夫の夢を実現させた喜びと満足感をそこはかとなく感じさせる歌でもある。現在、大極殿跡近くの畑には、キバナコスモスが咲き乱れている。

藤原宮跡近くに咲き乱れるキバナコスモス
藤原宮跡近くで咲き乱れるキバナコスモス

エルシアターで開催された「明日香村まるごと博物館フォーラム」

飛鳥寺伽藍復元図<
「明日香村まるごと博物館フォーラム」のパネル討論風景(2008/08/23 撮影)

■ 去る8月23日(土)、大阪市中央区にあるエル・大阪のエルシアターで、明日香村や飛鳥保存財団などが主催する「明日香村まるごと博物館フォーラム」が開かれた。「古代の飛鳥と難波−7世紀の都の実像をさぐる」というサブタイトルがついていたので、どんな話が聞けるのかと興味を抱いて参加した。

■ パネル討論に先立って、3人の講師による講演があった。その中で、特に関心を持って拝聴したのは考古学者で元帝塚山学院大学教授・中尾芳治氏の「難波宮から藤原宮へ」と題する講演だった。講演の中で、教授は前期難波宮(=長柄豊碕宮)藤原宮類似点として、以下の点を指摘された。

●大極殿院の東西幅が近似している(前期難波宮:114.6m、藤原宮:約118m)
●大極殿院の前面に巨大な南門があった(前期難波宮:7x2間、藤原宮:7x2間)
●大極殿に東・西門があった (前期難波宮:5x2間、藤原宮:7x2間)
●朝堂院の東西幅が近似している (前期難波宮:233.4m、藤原宮:235.8m)
●多数の朝堂が建てられていた (前期難波宮:14堂、藤原宮:12堂)
●朝堂の規模と構造が似ている (1・2堂と3堂以下とでは規模も構造も違う)
●東・西楼閣があった(前期難波宮:八角殿、藤原宮:楼閣)
●東・西朝集殿があった
●宮城門として朱雀門が築かれていた (前期難波宮:翼廊形式、藤原宮:翼廊形式?)

■ 考えてみれば、天武天皇が前期難波宮を新しい王宮のモデルとしたのは、至極当然である。孝徳天皇の時代、中大兄皇子の皇太弟として常に前期難波宮に出入りし、難波宮の規模や構造を熟知していたはずである。まして、難波と飛鳥に二つの都を構想したとき、それぞれの王宮は類似の構造と規模を持つ空間としてイメージしたはずである。

■ 一方、中尾教授は2つの相違点を指摘された。まず、建築様式が異なる。前期難波宮では伝統的な掘立柱建築が採用されていた(基壇建築の可能性あり)が、藤原宮では中国的な礎石立・瓦葺きの建築だった。礎石立・瓦葺きの建築はそれまで寺院の伽藍専用の様式だった。それを宮殿建築に採用した背景には、天武あるいは持統天皇の中国都城に対する強い憧れがあったのであろう。

■ 中尾教授によれば、相違点は大極殿院の構造にもある。前期難波宮には内裏前殿に東・西長殿が付属していた。しかし、藤原宮では大極殿のみになっている。おそらく内裏前殿が天皇の独占空間としてイメージされるようになったためだろうと推測された。なお、教授は、大極殿とされている飛鳥浄御原宮のエビノコ郭の実態は、大安殿だったとする自説を披瀝された。

■ 中尾教授の講演では、外廷機能である朝堂院が、斉明天皇の後飛鳥岡本宮および天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮では、どのように引き継がれたか触れられることを期待した。しかし、具体的な説明はなかった。飛鳥の周辺に分散している施設が施設として利用されたのだろうと、水落遺跡や石神遺跡などを例としてあげられたが、これらは漏刻や外国使節の饗宴施設であって、官人が勤務する役所としてはふさわしくない。

■ 新益京の造営が始まる以前に、朝堂に類する建物が新城として計画された方形区画の中に存在したかもしれない。だが、発掘調査によってそれらしい遺跡が検出されないかぎり、考古学者や文献史学者は具体的な発言はしない。



【参照・引用文献】 林部 均著『飛鳥の宮と藤原京』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー249)
『明日香村まるごと博物館フォーラム』のレジメ

2008/08/30作成 by pancho_de_ohsei
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