平成20年8月24日

安曇野に残された渡来仏から考える古代の弥勒信仰

法隆寺宝物館内で金堂仏や光背、押出仏を展示している第2室
法隆寺宝物館内の金銅仏や光背、押出仏などを展示する第二ギャラリー

長野県の安曇野に伝来する我が国最古(?)の銅造菩薩半跏像

観松院の銅造菩薩半跏像
観松院の銅造菩薩半跏像
だ訪れたことないが、長野県の北安曇郡松川村は、北アルプスの峯々が望める自然の豊かな村だそうだ。その村に曹洞宗の観松院(かんしょういん)という寺がある。地元の人も知らないような住職不在の小さな寺だそうだ。その寺の本堂脇に「慈氏堂」という白壁の収蔵庫があり、そこに寺宝の菩薩像が安置されている。

の仏像の像高は30.2cmばかりの金銅製の小型半跏菩薩像である。飛鳥時代の7世紀頃、朝鮮半島の新羅(しらぎ)で制作され国内に持ち込まれたと推定されている。中部・関東以北の最古の仏像のことで、昭和57年(1982)に国重要文化財の指定を受けた。

真でみるかぎり、体躯が引き締まった細身の半跏思惟像だ。火事にあって鍍金がはがれ、全身焼肌の黒色を呈している。少しうつむき加減だが、慈愛に満ちた優しい微笑みをたたえていて、心を和ませてくれる。

京国立博物館の敷地には、建築家谷口吉生氏のデザインで平成11年7月にリニューアル・オープンした法隆寺宝物館がある。明治11年(1878)に法隆寺から皇室に献納された宝物を展示する特別施設だ。その第二ギャラリーには法隆寺献納宝物のなかの四十八体仏がずらりと並んでいる。観松院の半跏菩薩像も焼損していなければ、そのいずれにも劣らない雄品だっただろう。この仏像は、事前に松川村の教育委員会(TEL:0261-62-2481)に申請すれば拝観できる。


近、観松院の半跏菩薩像に関する2つのニュースが筆者の関心を惹いた。一つは、去る8月9日に毎日新聞のインターネット版でも報じられた仏像の学術調査の記事である。報道によれば、調査は大阪大学文学部の藤岡穣(ゆたか)准教授と韓国の閔丙贊(ミンビョンチャン)国立中央博物館学芸員らによって実施された。

の結果、今まで7世紀に朝鮮半島の新羅から伝えられたと言われてきたが、6世紀末に百済(くだら)から伝来した可能性が高まったという。6世紀末と言えば、聖徳太子の時代である。中央の大和では、蘇我氏が氏寺の飛鳥寺を建立している頃だ。従来の説より制作時期が早まれば、日本に存在する最古の渡来仏の一つとなる。そのため、これから本格的な調査が行われるようだ。


『失われた弥勒の手』の表紙
『失われた弥勒の手』の表紙
う一つの話題は、ちひろ美術館の現在の館長・松本猛氏が友人で医療情報会社を経営する菊池恩恵氏との合作で、この4月に出版された『失われた弥勒の手』という歴史小説である。

説では、観松院の半跏菩薩像の右手が失われている謎を追うストーリが、主題の縦糸になっている。松本氏は安曇野ちひろ美術館の建設準備で今から十数年前に松川村を訪れ、初めて観松院の半跏菩薩像を拝観された。そして、どうしてこれだけ優れた仏像が安曇野にあるのか気になり、その疑問を解決するためにこつこつと研究を重ねられた。安曇野はもとより九州、対馬、韓国を訪れて多くの取材をされている。

手を失った弥勒菩薩のルーツ探しが物語の縦糸ならば、その横糸は古代安曇(あづみ)族の興亡の物語である。この小説には「安曇野伝説」というサブタイトルがついている、安曇野は長野県中部(中信地方)にある松本盆地のうち、安曇野市を中心とした地域一帯を指す。郡名としての「安曇」が現れるのは奈良時代からだが、それ以前から安曇族が住み着き、安曇野と呼ばれるようになったようだ。なぜ古代日本を代表する海人(あま)の安曇族がこの土地に住みついたのか。

曇は「アマツミ」つまり「海人津見」の転訛だそうで、「アマツミ」→「アヅミ」に変化し、阿曇、安曇、厚見、厚海、渥美、阿積などと表記される。阿曇族は、もともと玄界灘の制海権を握っていた海人の一族で、本拠地を北九州の志賀島一帯(現在の福岡市東区)に置き、朝鮮半島はもちろん、遠く中国まで交易を広げていた。また日本各地にも勢力を広げていて、その足跡は瀬戸内海を経由して、阿波、淡路、播磨、摂津、河内、近江などにも及んでいる。琵琶湖西側には安曇(あど)川の地名を残している。

岩戸山古墳の別区に並べられたレプリカの石人石馬
磐岩戸山古墳(磐井の墓)の別区に並べられた石人石馬
曇族が海から遠く離れた信州の山奥にいつ頃、何故入り込んできたかは、興味あるテーマだ。松本氏はその研究で、観松院の弥勒半跏像を安曇野にもたらしたのは安曇族であり、その契機を継体天皇21年(527)に勃発した「磐井(いわい)の乱」ではなかったかと推論されたようだ。すなわち、筑紫君磐井の乱に加担した安曇族は、敗戦によって、その本拠地だった筑前国の糟屋(かすや)地域がヤマト朝廷の直轄地にされてしまった。本拠地を追われた安曇族は日本各地に散ったが、その一部が日本海に流れ込む姫川をさかのぼり、安曇盆地に住み着いた・・・と想定されたのであろう。

のとき、一族の中の仏教信者が、念持仏として金銅製の弥勒半跏像を携えてきたと考えられたにちがいない。だが、安曇族と磐井の乱との結びつきから、観松院にある半跏菩薩像が安曇野にもたらされたとするには、弥勒半跏像の制作時期が問題になる。従来の学説のように7世紀製造説では松本説は成立しない。そこで、松本氏はこの仏像の制作時期を6世紀前半とされた。しかし、研究論文として自説をまとめるにはあまりに資料が少ない。そこで小説という形で発表することにしたという。



弥勒菩薩の半跏思惟像は韓国と日本だけの特異な造形

広隆寺の弥勒半跏思惟像
広隆寺の弥勒半跏思惟像(宝冠弥勒)
中宮寺の弥勒菩薩半跏像
中宮寺の弥勒菩薩半跏像
の小説の主人公は、波田野渉(わたる)という30歳前のフリーのライターである。物語は、主人公が長野県警のあずみの警察所から突然電話を受けるところから始まる。彼の父と思われる人物の遺体が安曇野市の有明(ありあけ)山の麓で見つかったので、身元確認に来て欲しいという。推理小説のストーリ展開を十分に予想させるような書き出しである。

の死は、魏石鬼岩窟(ぎしきのいわや)と呼ばれる6世紀代の古墳に続く山道の途中で足を滑らせ、沢に転落したまま凍え死んだ事故死だった。その父がさまざまな謎のキーワードを書き記した黒革の手帳を残していた。父とは別居していて主人公は知らなかったが、父はガンを患っていて、余命一年を宣告されていた。そこで、残り短い命を波田野家のルーツ探しに当てることにして、さまざまな調査に乗り出していた矢先の事故だった。

田野家には「仏像の手」が代々伝わっていた。博多の空襲で家が焼かれたとき、手そのものは焼失したが、写真は残っていた。さらに、波田野家には一つの伝承が伝えられていた。元寇よりはるか昔の戦いの時に、仏像の手が折れ、本体を父の荒磯(ありそ)が、手を息子の斗濤(となみ)が持って逃げたという。その「仏像の手」がいずれの仏像の手か分かれば、波田野家のルーツも自ずから見えてくる。そこで、父は右手を欠損しているか、上体のない小金銅仏を探していた。

人公は父の遺志を継ぐ決意をし、北陸の大学で美術史の非常勤講をしている友人の協力を得て、右手を欠いた仏像を求めて史跡探訪を続ける。なぜか、旅行会社に勤める二人の若い韓国女性もからんで、探訪先で楽しい会話がはずむ。訪れる先が、北九州から八女の磐井の墓、対馬、そして韓国のソウル、公州、扶余であり、以前に筆者が訪れたところばかりだ。当時を思い出しながら楽しく読ませて貰った。


松院の半跏菩薩像は、半跏思惟(はんかしい)の造形で表された弥勒菩薩像と解されている。像を安置している「慈氏堂」という名称も、そのことを表している、弥勒の名前はサンスクリット語でマイトレーヤという。「慈しみから生まれた者」を意味し、そのため中国では弥勒菩薩の別名として慈氏を使っている。一般に、半跏思惟像は台座に座って右脚を曲げ、左脚を踏み下げ、右肘を右膝の上において指先を顔に近づけて何か考え事をしている形をとる。京都の広隆寺の宝冠弥勒菩薩や中宮寺の菩薩半跏思惟像などがこの造形であることはよく知られている。

観松院の半跏菩薩像
観松院の半跏菩薩像
法隆寺献納金銅仏N155
法隆寺献納金銅仏N155
が、観松院の弥勒半跏像は、よく見ると右手の形が違う。手を上げて手の平を前に向けている。このような印相を施無畏印(せむいいん) といい、釈迦如来像には多いが、半跏思惟像ではきわめてまれである。

の弥勒像の手の先はもともと欠けていたそうだ。そこで昭和35年(1960)ころに補って付け足した。そのとき、肘から先の素材は銅ではなく木を用いたという。後補のときわざわざ元の形を別のものにするとも考えられない。しかし右手が施無畏印ならば、左手は手のひらを上に向け膝上にのせる与願印(よがんいん)が普通だ。この像では左手は明らかに与願印ではない。そうであれば、制作当初は右手は施無畏印でなかった可能性もある。作者の松本猛氏はその点に着目された。

説の最後で、主人公が許可を得て撮影した観松院の弥勒半跏像と波田野家に代々伝わってきた仏像の手の写真をパソコンに取り込む。そして、仏像とその手の大きさや角度をディスプレイ上で画像処理して、もともと一体だったことをつきとめ、この仏像も右肘を右膝の上において指先を顔に近づけていたことが判明することになっている。

かし、観松院の弥勒半跏像の右手は、もともと手の平を前に向けた施無畏印ではなかったと果たして言い切れるだろうか。弥勒半跏思惟像とされている現存仏像のほとんどは、確かに右手の指先を頬に近づけて考え事をしている造形をとるが、施無畏印を結んでいる半跏思惟像が皆無ではない。その具体的な実例を法隆寺宝物館第二ギャラリーで見ることができる。

二ギャラリーの一番奥の右端にあるガラスケースの中に、N155とN156の識別番号で呼ばれる二体の金銅製小仏像が置かれている。向かって右側のN155号は、飛鳥時代の金銅仏の中では抜群の出来栄えと評価が高い菩薩半跏像だが、その右手は施無畏印をしている。


説の世界で物語の展開を楽しく追いながら、実はある疑問が常に脳裏から離れなかった。それは弥勒半跏像とされている飛鳥仏が本当に弥勒菩薩の像なのか、という疑問である。

釈迦菩薩半跏思惟
釈迦菩薩半跏思惟像(ガンダーラ)
本では半跏思惟像といえば「弥勒菩薩」だと思われている。しかし、これは朝鮮半島と日本だけの特異な現象のようだ。西域から中国でも半跏思惟像は作られたが、弥勒と銘刻のある作品はない。仏教発祥の地ガンダーラでは、2世紀から3世紀にかけて砂岩で半跏思惟像が作られている。だが、それは釈迦が悟りを開く以前の釈迦菩薩(シッダールタ太子)像や観音菩薩像であるとされている。

国で彫られた半跏思惟像には「太子」の銘がある作品がある。だが、弥勒菩薩像と断定できる半跏思惟像はない。「太子」とはシッダールタ太子すなわち出家する以前の釈迦の姿で、老病生死の四苦を脱するために思索する姿を表している。中国では、弥勒菩薩は唐の時代までは足を交差させ椅子に座る像として造像され、元・明時代以降は弥勒の化身とされた布袋として肥満形で表されている。

ンダーラで最初に作られた釈迦菩薩半跏思惟像の姿は、西域、中国を経て、朝鮮半島で「弥勒」と名を改められた。弥勒菩薩は釈迦の後継者で、現在兜卒天(とそつてん)で修行中だが、釈迦が入滅してから56億7千万年の後、この世に下生(かしょう)して人々を救うとされる未来仏である。半跏思惟像は、衆生救済の方法を兜卒天で瞑想しながら考えている弥勒菩薩の姿を表しているという。

、国宝83号半跏思惟像
国立中央博物館の国宝83号半跏思惟像
跏思惟像は朝鮮半島の三国時代に百済で作られた様式だとされている。実際は6世紀後半から7世紀にかけて、ほどんど新羅で流行した弥勒信仰を表現したもののようだ。その頃の新羅では、花郎(ファラン)と呼ばれる美貌の青年貴族だけで構成された武装集団が存在した。この武装集団の信仰の対象となったのが弥勒菩薩だったと言われている。

勒を未来の救済仏とする信仰は、メシア(救世主)思想と結びつきやすい。このメシア思想と花郎を英雄視する庶民人気が結びつき、新羅では弥勒信仰が庶民の間で大いに隆盛したという。花郎の前世の姿を弥勒菩薩とみなして、6世紀中頃の真興王(540−576年)の頃から7世紀にかけて、ほんの短い間だったが弥勒の半跏思惟像が盛んに作られた。

ウルの国立中央博物館の3階東館にある美術館Uには、我が国にもその名がよく知られている金銅製の国宝83号半跏思惟像が展示されている。何処の寺に安置されていたか不明なため、韓国では今だに百済仏か新羅仏かで争われている。


国の国宝83号半跏思惟像は、京都太秦広隆寺に安置されている我が国の国宝第1号・宝冠弥勒とウリ二つと言われている。広隆寺の宝冠弥勒は金銅製ではなく木製だが、我が国には自生していなかったアカマツで作られていて、朝鮮半島からの渡来仏とされている。

広隆寺の弥勒半跏思惟像
広隆寺の弥勒半跏思惟像(宝冠弥勒)
でこそ、表面の金箔や彩色が剥げ落ちて木地を露出しているが、もとは厚手の乾漆がおかれ、威厳と華麗さを漂わせた金色の半跏思惟像だったと思われる。木地を露出した現在の姿が日本人の感性にぴったりなのか、日本人の中でも特に好まれている仏像である。

和35年(1980)、京大の学生がこの仏像に近付いて不用意に触ったせいで、指が一本折れる事件 が発生した。
「弥勒菩薩像があまりに美しかった。その美しさに感激して、ついキスしようとして頬が指に触れた。それで薬指が折れてしまった」
というのが動機とされている。東京芸大教授の故西村公朝氏がこの指の修理を担当された。その指を詳細な調査した結果、この仏像の材質がアカマツであることが判明した。

冠弥勒が広隆寺に安置される経緯については、『日本書紀』の次の記載がよく引用される。
”推古11年(603)11月1日、聖徳太子は群臣を集めて「私は尊い仏像を持っている。誰かこの仏を祀るものはいないか」と訊かれた。このとき、秦河勝(はたのかわかつ)が進んで申し出て「臣(やつがれ)がお祀りしましょう」と言って仏像を貰い受け、蜂岡寺を造った、云々”。
このとき秦河勝が貰い受けたのが、像高2尺8寸の宝冠弥勒木造であるとされている。なお、蜂岡寺は広隆寺の前身である。

広隆寺の「泣き弥勒」
広隆寺の「泣き弥勒」
は、広隆寺にはもう一体の弥勒菩薩半跏像が安置されている。やはり国宝であるが、幾分憂いを含んだ表情をしているため、「泣き弥勒」の名で知られている。この仏像も朝鮮半島からの渡来仏であるとする説がある。『日本書紀』によれば、推古31年(623)7月、新羅の使節が来朝して、仏像1体および金塔と舎利を献上した。これらの献上品のうち仏像は蜂岡寺に安置し、その他は四天王寺に納めた、と記されているためである。しかし、この弥勒菩薩半跏像は、クスノキで作られている。朝鮮半島にはクスノキがないことから、渡来仏ではなく7世紀末〜8世紀初頭の頃に造られた日本製とする説が有力だ。

献資料には、朝鮮半島からの弥勒菩薩像の渡来を記述が、他にもある。『日本書紀』によれば敏達13年(584)、百済から帰国した鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩の石像一体をもたらした。蘇我馬子(そがのうまこ)はその仏像を貰いうけ、家の東方に仏殿を造って安置し、渡来系氏族の娘三人を出家させて尼として奉仕させた。その一人は、法名を善信尼(ぜんしんに)といい、後に百済に留学した我が国最初の海外留学僧である。

が国に百済から仏教が公伝したのは、『日本書紀』は、欽明天皇13年(552年、壬申)10月としている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』においては、欽明天皇の「戊午年」(538年)としており、こちらの説の方が仏教伝来年として有力だ。その時、百済の聖明王から太子像、潅仏器、仏説起巻一篋を贈ってきたと伝えられている。この太子像は、一般にはシッダールタ太子像だったと解されているが、弥勒半跏思惟像ではなかったかとする説もある。

金銅弥勒菩薩半跏思惟像
野中寺の金銅弥勒菩薩像
上のように、現存する仏像や文献資料から、我が国の仏教伝来の当初から礼拝の対象として半跏思惟像が朝鮮半島から伝えられていたことは、確かなようだ。だが、半跏思惟像が弥勒菩薩像であったかと言われれば、疑問が残る。実は、半跏思惟像を弥勒菩薩と明記したものは、たった一体しか現存していない。それは、大正7年(1918)に宝蔵の塵芥の中から発見された野中寺(やちゅうじ)の金銅弥勒菩薩像である。この像の台座框には、61文字の造像記が刻されており、その中に丙寅年(666)4月8日に鋳造した弥勒御像とある。

ころが、この像の制作年代に関する衝撃的な論文が、平成12年(2000)に奈良大学の東野治之氏によって発表された。氏によれば、この半跏思惟像は後世の贋作であり、しかも制作されたのは大正7年(1918)であるという。まさに青天の霹靂にも似た説であるが、この説が妥当であるならば、弥勒菩薩であるとする根拠もなくなる。

者はごく単純な理由から、弥勒半跏思惟像とされている仏像の多くは悉達多(シッダールタ)太子像ではないのかと疑っている。百済の聖王(聖明王)が仏教東漸のために公式に仏教を伝えるとすれば、そのためにふさわしい仏像を選んだと推測するからである。その仏像は、仏教の教祖である釈迦如来像でなければならない。あるいは一歩譲っても、釈迦の出家前の思索する姿を形にした釈迦菩薩半跏思惟像だったにちがいないと思う。数多い仏の中の一仏に特化した信仰の対象を送りつけることはしなかったはずだ。それに、当時の百済では、弥勒信仰はまだ根付いて間もない頃であろうし、新羅のように花郎(ファラン)の前世の姿を弥勒菩薩とみなす武装集団はなかった。

来系氏族の成員が念持仏として朝鮮半島から持ってきた小型金銅製半跏思惟像は別として、飛鳥時代の弥勒半跏像は、広隆寺や中宮寺など聖徳太子が関係した寺の本尊として祀られているものが多い。そのことは、太子の死後、シッダールタ太子像に夢殿で瞑想にふける聖徳太子の面影が重ねられた可能性を示唆している。信者たちは、半跏思惟像をシッダールタ太子や弥勒菩薩ではなく、聖徳太子像として礼拝していたかもしれない。



本来は末法思想が生んだ弥勒信仰の盛行

勒菩薩(梵名マイトレーヤ)は、釈迦の次に仏陀となることが約束された菩薩である。現在は兜率天(とそつてん)で修行あるいは説法しているとされている。その弥勒菩薩を中心とした信仰が弥勒信仰であり、教義は弥勒三部経と呼ばれる以下の仏典に基づいている。これらの仏典の漢訳は5世紀になって行われた。

●『弥勒大成仏経』(全1巻、後秦、鳩摩羅什、弘始4年(402)訳)
●『仏説弥勒下生経』(全一巻、西晋、鳩摩羅什、弘始4年(402)〜弘始14年(412)訳)
●『仏説弥勒菩薩上生兜率天経』(全一巻、宋、沮渠京声、孝建2年(455)訳)

勒信仰には、下生(げしょう)信仰上生(じょうしょう)信仰がある。下生信仰は『弥勒大成仏経』と『仏説弥勒下生経』に基づいていて、釈迦滅亡後56億7千万年の後に弥勒菩薩が娑婆世界に下生し、釈迦と同じように華林園の竜華樹(りゅうげじゅ)の木で悟りを開き、久遠に苦しむ人々を救うと説く。

方、上生信仰は『仏説弥勒菩薩上生兜率天経』に基づいており、死後に弥勒浄土の兜率天に往生せんと願う者は瞬時にその願望が叶えられると説く。そして、弥勒菩薩の傍で56億余年を過ごし,やがて弥勒菩薩が下生するときに弥勒に従って再び地上に戻り,弥勒仏の三会説法の初会説法に参加できるという。

勒信仰が生まれた背景には、末法思想があるとされている。末法思想 とは、 仏教の予言思想の一種で、釈迦の入滅後、二千年を経過すると、一万年間は釈迦の教えだけが残り、悟りを得る者はいなくなる末法の時代が続くという。そこで、末法の世に降臨し、あまねく衆生を救済する救世主・弥勒の信仰が生まれた。弥勒信仰は,インドから中国へ,中国から朝鮮半島,朝鮮半島の百済から日本へと伝来されたが、中国・韓国でも、そして日本でも、上生信仰がまず発達し,次に下生信仰が発達した。

弥勒寺址の西塔
弥勒寺址の西塔
弥勒寺址の東塔
弥勒寺址の東塔
国時代の百済には、弥勒信仰の記念碑的遺跡がある。扶余市の南約30kmのところに益山市にある弥勒寺址である。武王(在位600〜641)の時代に建立された寺院で、伽藍を三つの院で構成するという独特の配置で知られる。百済で最大の寺であり、百済の弥勒信仰の中心だった。その建築には当時の百済の建築・工芸など各分野の最高の技術が結集され、新羅の真平王も工人を送って助力したとされている。

勒寺址には、韓国の最高・最大の石塔とされる東塔と西塔がある。弥勒寺の創建時に建立されたもので、西塔は現在は六層の一部までしか残っていないが、発掘調査で出土した石材からみて、本来は九層の石塔であったと推定されている。東塔は現在復元されて、美しい九重の姿を天に向かってそびえている。

世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島の諸国は激動の時代を過ごした。6世紀前半には半島の南にあった加耶諸国が新羅に併合され、7世紀の後半には、唐と連合した新羅が百済と高句麗を併合して朝鮮半島を統一した。そうした戦乱を避けて、加耶諸国や百済から日本列島へ移ってきた渡来人は多くいたであろう。彼らの中には熱心な仏教信者もいて、念持仏として小さな金銅仏を携えてて玄界灘を越えてきたであろう。彼らが弥勒菩薩を信仰していたのなら、それは半跏思惟像であったにちがいない。

が、彼らの信仰が当時の列島の人々に受け入れられて流布したとは、ちょっと考えにくい。仏教を受け入れたばかりの当時の日本人にとって、末法思想を理解して弥勒を信仰しただろうか。我が国では、上生信仰は奈良時代貴族信仰として発達し,下生信仰は民衆信仰に展開発展したと言われている。そして、末法の第一年とされる永承7年(1052)以降は、末法の救いを阿弥陀仏に求める浄土信仰が盛んになり、弥勒信仰は廃れていったとされている。




2008/08/25作成 by pancho_de_ohsei return