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| 法隆寺宝物館内の金銅仏や光背、押出仏などを展示する第二ギャラリー |
弥勒菩薩の半跏思惟像は韓国と日本だけの特異な造形
父の死は、魏石鬼岩窟(ぎしきのいわや)と呼ばれる6世紀代の古墳に続く山道の途中で足を滑らせ、沢に転落したまま凍え死んだ事故死だった。その父がさまざまな謎のキーワードを書き記した黒革の手帳を残していた。父とは別居していて主人公は知らなかったが、父はガンを患っていて、余命一年を宣告されていた。そこで、残り短い命を波田野家のルーツ探しに当てることにして、さまざまな調査に乗り出していた矢先の事故だった。 波田野家には「仏像の手」が代々伝わっていた。博多の空襲で家が焼かれたとき、手そのものは焼失したが、写真は残っていた。さらに、波田野家には一つの伝承が伝えられていた。元寇よりはるか昔の戦いの時に、仏像の手が折れ、本体を父の荒磯(ありそ)が、手を息子の斗濤(となみ)が持って逃げたという。その「仏像の手」がいずれの仏像の手か分かれば、波田野家のルーツも自ずから見えてくる。そこで、父は右手を欠損しているか、上体のない小金銅仏を探していた。 主人公は父の遺志を継ぐ決意をし、北陸の大学で美術史の非常勤講をしている友人の協力を得て、右手を欠いた仏像を求めて史跡探訪を続ける。なぜか、旅行会社に勤める二人の若い韓国女性もからんで、探訪先で楽しい会話がはずむ。訪れる先が、北九州から八女の磐井の墓、対馬、そして韓国のソウル、公州、扶余であり、以前に筆者が訪れたところばかりだ。当時を思い出しながら楽しく読ませて貰った。 観松院の半跏菩薩像は、半跏思惟(はんかしい)の造形で表された弥勒菩薩像と解されている。像を安置している「慈氏堂」という名称も、そのことを表している、弥勒の名前はサンスクリット語でマイトレーヤという。「慈しみから生まれた者」を意味し、そのため中国では弥勒菩薩の別名として慈氏を使っている。一般に、半跏思惟像は台座に座って右脚を曲げ、左脚を踏み下げ、右肘を右膝の上において指先を顔に近づけて何か考え事をしている形をとる。京都の広隆寺の宝冠弥勒菩薩や中宮寺の菩薩半跏思惟像などがこの造形であることはよく知られている。
この弥勒像の手の先はもともと欠けていたそうだ。そこで昭和35年(1960)ころに補って付け足した。そのとき、肘から先の素材は銅ではなく木を用いたという。後補のときわざわざ元の形を別のものにするとも考えられない。しかし右手が施無畏印ならば、左手は手のひらを上に向け膝上にのせる与願印(よがんいん)が普通だ。この像では左手は明らかに与願印ではない。そうであれば、制作当初は右手は施無畏印でなかった可能性もある。作者の松本猛氏はその点に着目された。 小説の最後で、主人公が許可を得て撮影した観松院の弥勒半跏像と波田野家に代々伝わってきた仏像の手の写真をパソコンに取り込む。そして、仏像とその手の大きさや角度をディスプレイ上で画像処理して、もともと一体だったことをつきとめ、この仏像も右肘を右膝の上において指先を顔に近づけていたことが判明することになっている。 しかし、観松院の弥勒半跏像の右手は、もともと手の平を前に向けた施無畏印ではなかったと果たして言い切れるだろうか。弥勒半跏思惟像とされている現存仏像のほとんどは、確かに右手の指先を頬に近づけて考え事をしている造形をとるが、施無畏印を結んでいる半跏思惟像が皆無ではない。その具体的な実例を法隆寺宝物館第二ギャラリーで見ることができる。 第二ギャラリーの一番奥の右端にあるガラスケースの中に、N155とN156の識別番号で呼ばれる二体の金銅製小仏像が置かれている。向かって右側のN155号は、飛鳥時代の金銅仏の中では抜群の出来栄えと評価が高い菩薩半跏像だが、その右手は施無畏印をしている。 小説の世界で物語の展開を楽しく追いながら、実はある疑問が常に脳裏から離れなかった。それは弥勒半跏像とされている飛鳥仏が本当に弥勒菩薩の像なのか、という疑問である。
中国で彫られた半跏思惟像には「太子」の銘がある作品がある。だが、弥勒菩薩像と断定できる半跏思惟像はない。「太子」とはシッダールタ太子すなわち出家する以前の釈迦の姿で、老病生死の四苦を脱するために思索する姿を表している。中国では、弥勒菩薩は唐の時代までは足を交差させ椅子に座る像として造像され、元・明時代以降は弥勒の化身とされた布袋として肥満形で表されている。 ガンダーラで最初に作られた釈迦菩薩半跏思惟像の姿は、西域、中国を経て、朝鮮半島で「弥勒」と名を改められた。弥勒菩薩は釈迦の後継者で、現在兜卒天(とそつてん)で修行中だが、釈迦が入滅してから56億7千万年の後、この世に下生(かしょう)して人々を救うとされる未来仏である。半跏思惟像は、衆生救済の方法を兜卒天で瞑想しながら考えている弥勒菩薩の姿を表しているという。
弥勒を未来の救済仏とする信仰は、メシア(救世主)思想と結びつきやすい。このメシア思想と花郎を英雄視する庶民人気が結びつき、新羅では弥勒信仰が庶民の間で大いに隆盛したという。花郎の前世の姿を弥勒菩薩とみなして、6世紀中頃の真興王(540−576年)の頃から7世紀にかけて、ほんの短い間だったが弥勒の半跏思惟像が盛んに作られた。 ソウルの国立中央博物館の3階東館にある美術館Uには、我が国にもその名がよく知られている金銅製の国宝83号半跏思惟像が展示されている。何処の寺に安置されていたか不明なため、韓国では今だに百済仏か新羅仏かで争われている。 韓国の国宝83号半跏思惟像は、京都太秦広隆寺に安置されている我が国の国宝第1号・宝冠弥勒とウリ二つと言われている。広隆寺の宝冠弥勒は金銅製ではなく木製だが、我が国には自生していなかったアカマツで作られていて、朝鮮半島からの渡来仏とされている。
昭和35年(1980)、京大の学生がこの仏像に近付いて不用意に触ったせいで、指が一本折れる事件
が発生した。
宝冠弥勒が広隆寺に安置される経緯については、『日本書紀』の次の記載がよく引用される。
文献資料には、朝鮮半島からの弥勒菩薩像の渡来を記述が、他にもある。『日本書紀』によれば敏達13年(584)、百済から帰国した鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩の石像一体をもたらした。蘇我馬子(そがのうまこ)はその仏像を貰いうけ、家の東方に仏殿を造って安置し、渡来系氏族の娘三人を出家させて尼として奉仕させた。その一人は、法名を善信尼(ぜんしんに)といい、後に百済に留学した我が国最初の海外留学僧である。 我が国に百済から仏教が公伝したのは、『日本書紀』は、欽明天皇13年(552年、壬申)10月としている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』においては、欽明天皇の「戊午年」(538年)としており、こちらの説の方が仏教伝来年として有力だ。その時、百済の聖明王から太子像、潅仏器、仏説起巻一篋を贈ってきたと伝えられている。この太子像は、一般にはシッダールタ太子像だったと解されているが、弥勒半跏思惟像ではなかったかとする説もある。
ところが、この像の制作年代に関する衝撃的な論文が、平成12年(2000)に奈良大学の東野治之氏によって発表された。氏によれば、この半跏思惟像は後世の贋作であり、しかも制作されたのは大正7年(1918)であるという。まさに青天の霹靂にも似た説であるが、この説が妥当であるならば、弥勒菩薩であるとする根拠もなくなる。 筆者はごく単純な理由から、弥勒半跏思惟像とされている仏像の多くは悉達多(シッダールタ)太子像ではないのかと疑っている。百済の聖王(聖明王)が仏教東漸のために公式に仏教を伝えるとすれば、そのためにふさわしい仏像を選んだと推測するからである。その仏像は、仏教の教祖である釈迦如来像でなければならない。あるいは一歩譲っても、釈迦の出家前の思索する姿を形にした釈迦菩薩半跏思惟像だったにちがいないと思う。数多い仏の中の一仏に特化した信仰の対象を送りつけることはしなかったはずだ。それに、当時の百済では、弥勒信仰はまだ根付いて間もない頃であろうし、新羅のように花郎(ファラン)の前世の姿を弥勒菩薩とみなす武装集団はなかった。 渡来系氏族の成員が念持仏として朝鮮半島から持ってきた小型金銅製半跏思惟像は別として、飛鳥時代の弥勒半跏像は、広隆寺や中宮寺など聖徳太子が関係した寺の本尊として祀られているものが多い。そのことは、太子の死後、シッダールタ太子像に夢殿で瞑想にふける聖徳太子の面影が重ねられた可能性を示唆している。信者たちは、半跏思惟像をシッダールタ太子や弥勒菩薩ではなく、聖徳太子像として礼拝していたかもしれない。 |
本来は末法思想が生んだ弥勒信仰の盛行弥勒菩薩(梵名マイトレーヤ)は、釈迦の次に仏陀となることが約束された菩薩である。現在は兜率天(とそつてん)で修行あるいは説法しているとされている。その弥勒菩薩を中心とした信仰が弥勒信仰であり、教義は弥勒三部経と呼ばれる以下の仏典に基づいている。これらの仏典の漢訳は5世紀になって行われた。
●『弥勒大成仏経』(全1巻、後秦、鳩摩羅什、弘始4年(402)訳) 弥勒信仰には、下生(げしょう)信仰と上生(じょうしょう)信仰がある。下生信仰は『弥勒大成仏経』と『仏説弥勒下生経』に基づいていて、釈迦滅亡後56億7千万年の後に弥勒菩薩が娑婆世界に下生し、釈迦と同じように華林園の竜華樹(りゅうげじゅ)の木で悟りを開き、久遠に苦しむ人々を救うと説く。 一方、上生信仰は『仏説弥勒菩薩上生兜率天経』に基づいており、死後に弥勒浄土の兜率天に往生せんと願う者は瞬時にその願望が叶えられると説く。そして、弥勒菩薩の傍で56億余年を過ごし,やがて弥勒菩薩が下生するときに弥勒に従って再び地上に戻り,弥勒仏の三会説法の初会説法に参加できるという。 弥勒信仰が生まれた背景には、末法思想があるとされている。末法思想 とは、 仏教の予言思想の一種で、釈迦の入滅後、二千年を経過すると、一万年間は釈迦の教えだけが残り、悟りを得る者はいなくなる末法の時代が続くという。そこで、末法の世に降臨し、あまねく衆生を救済する救世主・弥勒の信仰が生まれた。弥勒信仰は,インドから中国へ,中国から朝鮮半島,朝鮮半島の百済から日本へと伝来されたが、中国・韓国でも、そして日本でも、上生信仰がまず発達し,次に下生信仰が発達した。
弥勒寺址には、韓国の最高・最大の石塔とされる東塔と西塔がある。弥勒寺の創建時に建立されたもので、西塔は現在は六層の一部までしか残っていないが、発掘調査で出土した石材からみて、本来は九層の石塔であったと推定されている。東塔は現在復元されて、美しい九重の姿を天に向かってそびえている。 6世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島の諸国は激動の時代を過ごした。6世紀前半には半島の南にあった加耶諸国が新羅に併合され、7世紀の後半には、唐と連合した新羅が百済と高句麗を併合して朝鮮半島を統一した。そうした戦乱を避けて、加耶諸国や百済から日本列島へ移ってきた渡来人は多くいたであろう。彼らの中には熱心な仏教信者もいて、念持仏として小さな金銅仏を携えてて玄界灘を越えてきたであろう。彼らが弥勒菩薩を信仰していたのなら、それは半跏思惟像であったにちがいない。 だが、彼らの信仰が当時の列島の人々に受け入れられて流布したとは、ちょっと考えにくい。仏教を受け入れたばかりの当時の日本人にとって、末法思想を理解して弥勒を信仰しただろうか。我が国では、上生信仰は奈良時代貴族信仰として発達し,下生信仰は民衆信仰に展開発展したと言われている。そして、末法の第一年とされる永承7年(1052)以降は、末法の救いを阿弥陀仏に求める浄土信仰が盛んになり、弥勒信仰は廃れていったとされている。 |