橿原日記 平成20年7月25日

石室解体後の高松塚古墳の現在

飛鳥美人だけでなく、古墳自身も予期せぬ悲しい運命に泣いている

墳丘の発掘調査が進む明日香村の高松塚古墳
墳丘の発掘調査が進む明日香村の高松塚古墳 (2008/07/25撮影)


鉄吉野線の「飛鳥」駅前に、近隣の農家が栽培した野菜を廉価で販売している「道の駅」がある。品物が豊富な上に安いとあって、なかなか評判が良い。朝9時が開店だが、開店前から買い物客が集まってくる。近くの小料理屋などを経営する業者なども買い付けにくるという。

者も、朝の運動を兼ねて自転車でときどきこの道の駅を訪れる。飛鳥美人で知られる高松塚古墳は、道の駅から近い。裏道を利用すれば簡単にアクセスできる。本日は、連日の暑さ対策に西瓜を買いに来たついでに、久しぶりに古墳を訪れることにした。

者がこの古墳を訪れるのは、3年前の現地説明会以来である( 平成17年2月27日付け橿原日記参照)。あの時見た覆屋(おおいや)はすでに取り払われていたが、発掘調査で掘り起こされた無様な古墳の姿は、まだそこにあった。

年前に見た古墳は、髪を切られ頭皮を剥がされた人間の頭のように筆者には見えた。石室内に描かれた壁画の劣化騒動がなければ、古墳もこのような惨めな姿に変わり果てることもなかったであろう。泣いているのは、どうやら壁画の中の飛鳥美人だけではなかったようだ。予期せぬ運命に、古墳自身も涙しているにちがいない。


一般公開された高松塚古墳の壁画(毎日新聞)
一般公開された高松塚古墳の壁画(毎日新聞より)
松塚古墳の石室は昨年解体された。石室を構成していた16枚の壁石は、古墳の近くの国営飛鳥歴史公園内に設けられた修復施設に搬入された。その施設で国宝の壁画は10年をかけて保存修理が行われるという。修理完成後はもとの古墳へ戻されるようだが、再び人目に触れない土の中に押し込んでも、そのことにどれだけの意義があるのだろうか。

画・石材の修理を行っている修理作業室が、今年の5月31日から6月8日の9日間一般公開された。来場者は、1972年の壁画発見以来初めて実物の壁画を窓越しに見学することができた。この見学には往復葉書による事前申し込みが必要だった。筆者も申し込んだが、残念ながら選に外れた。文化庁の発表によれば、来場者は9日間で3,763人に達したとのことだ。


松塚古墳は、1972年3月1日に発掘調査が開始された。3週間後の3月21日に我が国最初の極彩色壁画が発見されると、”世紀の大発見”と全国的なフィーバーを巻き起こした。この発掘の事業主体は明日香村であり、実際の発掘を担当したのは橿原考古学研究所だった。しかし、壁画の重要性を鑑み、古墳の維持保存が全面的に国に移管された。そして、古墳は1973年4月23日に早々と特別史跡に指定され、さらに極彩色壁画だけは1974年4月17日に単独で国宝に指定された。

フェンスに囲まれて発掘調査中の高松塚古墳
フェンスに囲まれて発掘調査中の高松塚古墳

松塚古墳が再び世間の耳目を集めるようになったのは、2004年6月になってからである。カビの大量発生で壁画が退色・変色してしまっていることが、出版された写真集によって暴露されてしまった。しかも、文化庁は、そうした事実を知りながら壁画が発掘当時のまま維持されているとして、情報を公開して来なかった。もっと早く手を打つことができた機会が、残念ながらお役所仕事特有の情報非公開と隠蔽体質によってを失わせてしまった。

封土を剥がれた高松塚古墳
封土を剥がれた高松塚古墳(2005/02/27撮影)
化庁は、己自身が特別史跡に指定した高松塚古墳を、カビの発生原因を究明するという名目で封土を剥いで破壊したことは、まだ記憶に新しい。結局カビの発生原因は特定できなかった。

こで、文化庁は早々と国宝の壁画が描かれた石室を解体し、壁画を保存修理する方針を決定し、そして石室解体という前代未聞の文化財破壊を行なった。それが、貴重な壁画の保存に残された唯一の手段だったと文化庁は言う。だが、封土を剥がされ、石室を解体された古墳など、もはや文化遺産でもなんでもない。高松塚古墳は、今や我が国文化行政の未熟さとその失態を如実に物語ってくれる現代史の遺構にすぎない。

月初め、「高松塚壁画の劣化原因調査検討会」が組織され活動を開始したことを新聞紙上で知った。壁画劣化の真犯人を究明する目的で、さまざまな調査をするとのことだ。言われてみれば、ここ二年ほど石室解体が話題の中心で、肝心の壁画劣化の究明は埒外にあった。ようやく軌道修正されて、本題に戻ったようなものだ。そのため、筆者はあらためて高松塚古墳の現状を見ておきたいと思うようになった。

画劣化は”人災”だったと、筆者は思っている。担当者の調査日誌から、保存施設と石室のすき間で大量の黒いカビが発見されたとき、文化庁関係者が防護服未着用のまま石室に出入りしたことがすでに判明している。検査担当者の定期的な石室への出入りの他にも、公表されないかなり多くの人数が石室に入ったことも明らかになっている。こうしたずさんな管理体制が、カビの大量発生を助長したにちがいない。

が、文化庁では、(1)度重なる東南海・南海地震により墳丘の亀裂や石室がずれたこと、(2)石室のすき間からカビを運ぶダニなどが侵入したことで、カビやバクテリアが壁画に大発生したと想定しているようだ。地球温暖化による石室内の温度上昇が追い打ちをかけたとの見方もあるようだ。要は、壁画劣化の原因が人災だったという世間の非難を少しでも避けたいという思惑が見え隠れする。

高松塚古墳の保存設備
高松塚古墳の保存設備
球温暖化を壁画劣化の原因の一つに挙げているとは、何を今更と驚きを隠しきれない。壁画を永久保存するには、石室の内部を発見当時の環境に保つことが一番望ましいとされた。そこで、一年を通じて気温摂氏11度から17度、湿度95%以上に保つ空気調整施設の設置が決定され、1974年8月に建設工事が開始され、1976年3月に最新式の施設が完成した。

の保存施設は古墳の前面に設置されている。初めて高松塚古墳を訪れた観光客は、トーチカに似た設備が古墳の正面に位置するのを見て驚いたに違いない。筆者自身も初めて高松塚古墳を見たとき、「何だ、これは!」と思わず絶句した。およそ場違いな印象を与え続けてきたこの施設は、下部が機械室、上部が石室の前部となっている。石室内の壁画はこの空調設備によって完全に保存維持されているものと誰もが信じていた。だが、この施設は検査担当者が石室に入るために、前室の温度と湿度を石室内のそれと同じに保つために過ぎなかった。石室内の空調は実質的になにもされていなかったのだ。

虎塚古墳の内部
虎塚古墳の内部
城県ひたちなか市(旧勝田市)に、虎塚古墳と呼ばれる全長約57mの前方後円墳がある。石室内に幾何学紋様の壁画が描かれていることで知られる古墳である。この古墳の発掘調査は高松塚古墳の1年後に実施されたが、石室内を調査する前に実に驚くべきことが行われた。世界で初めて、室内の温度や湿度、微生物有無などに関する科学調査が実施されたのである。しかも、それは前年発見された高松塚古墳の壁画保存の参考にするためだったという。

調査後、虎塚古墳の石室はだたちに封鎖された。石室の前に築かれた監察室は、上記の科学調査で得られた重要な記録をもとに設計・施工され、春と秋の二回、監察室のガラス越しに石室の内部が一般公開されている。また空調設備によって、石室内の気温は年間を通じて約15度、湿度は90%以上に保たれている。そのため、色彩壁画の保存状態は現在も良好であるという。この二つの古墳の運命を変えたのは、何だったのだろうか。

古和枝・関西外大教授(考古学)は、「虎塚が発見当初の状態を保つのは、地元の人が保存にかかわり、年2回の一般公開が保存に対する緊張感を高めているから」と指摘されておられるそうだ。一部関係者に限られた高松塚について「壁画を人々から遠い存在にしてしまったことも劣化の背景にある」とのお考えだ。当然の指摘である。高松塚古墳はずさんな文化庁の管理の犠牲となり、貴重な石室壁画だけでなく、被葬者の霊が住み着いた古墳そのものまで破壊してしまった。



高松塚古墳の現在と将来像

発掘調査中の高松塚古墳
発掘調査中の高松塚古墳

松塚古墳は現在、壁画劣化の真犯人を究明する目的で墳丘の発掘調査が進められている。墳丘には、保存施設を建設する際に約500立方メートルの整備土が盛られた。その整備土を除去し、現存の墳頂部から約3メートル掘り下げたら、古墳が築造された当時の墳丘が姿を現した。文化庁は去る7月18日、築造当初の墳丘が南西面で約50度の傾斜を持つことなどが分かったと発表した。

高松塚古墳の正面
高松塚古墳の正面
の9時過ぎ、地上はすでに灼熱地獄のような暑さだった。雲一つない空から照りつける陽射しは地表の温度を30度以上に高めている。この暑さの中を早朝から古墳公園を訪れる物好きはいない。高松塚古墳に隣接した壁画館の前まで自転車を乗り入れ、古墳の正面に回った。封土を剥ぐ際に設けられた覆屋はすでに解体され、古墳の周囲は目隠し用のフェンスが張り巡らされていた。

ェンスの中では、作業員たちがすでに作業を始めていた。保存設備の周りに盛られた整備土の除去が続いているようである。3年前の発掘調査では、石室上部まで封土を剥ぎ取てカビの発生原因が究明された。結果的には特定できなかったが、石室はすでに解体され、別の場所に移されて壁画の修復作業が行われている。今さら何を発掘調査するのかと問いたいところだが、検討会座長の永井順国(よりくに)教授の発言によれば、「科学的、学術的な調査によって劣化原因を究明し、壁画保存に悩む諸外国の参考になるような内容にしたい」とのことだ。結論は来年度中に出すという。

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世界遺産への登録を目指す
飛鳥・藤原の宮都
掘作業を古墳前の丘から眺めながら、どうにも保存設備のブザマな姿が気になって仕方がなかった。発掘調査が終われば、封土が元の形に復元されるであろう。その際には、古墳前面に置かれたこの保存設備を撤去して貰いたいものだ。これから10年もかけて修復される壁画は、カビなどを除去し表面を補修したとしても、それはもはや千数百年にわたって被葬者を見守り慰め続けてきた壁画そのものではない。21世紀の人間の手垢に汚れた壁画は、元の位置に戻すことだけが唯一の選択肢ではないであろう。

もそも、たいした広さでもない石室に描かれた絵画の修復に10年も歳月をかけるという悠長さがまず驚きだ。壁画の修復と保存のための様々な手法が試行錯誤的に試されるはずだ。そうしたことを予測した上でのタイムスパンなのだろう。だが、その間大切な国民の税金が注入されることになる。年金記録の杜撰な管理で国民に多大な迷惑をかけ、さらに記録そのものをもう一度洗い直すために数千億円費用が発生すると厚かましくも言い切る社会保険庁と、どこか構図が似ている。

学者は、高松塚古墳の隣に設置されている壁画館で石室内部の様子は伺い知ることができる。石室に描かれた壁画も正確な模写と写真で知ることができる。壁画が修復された壁石を再度組み立てて、石室を元通りに復元することにどれほどの意義があるのか、正直なところ筆者にはよく分からない。おそらく、研究者の言い分は、後世に必要になるかも知れない学術調査に資するためということだろう。

が、それだけが目的ならば、厳重に空調管理された別の場所に保管しておけばよい。そうした例は実際に存在する。法隆寺の金堂外陣の壁に描かれた大小12面の壁画は、1949年の火災で焼損してしまった。だが、法隆寺では焼損した壁のすべてを現在でも別の場所で厳重に保管している。

天馬塚
内部が展示館になっている天馬塚
松塚古墳の石室は内寸で長さ約2.66メートル、幅1.04メートル、高さ約1.13メートルにすぎない。それぞれの壁に描かれた四神図や男子・女子群像などの壁画の大きさは、それほどの大きさではない。修復が終わったキトラ古墳の四神図や十二支像が何回か一般公開されているが、高松塚古墳の壁画も似たようなサイズであろう。壁画館では石室の発見時の姿の復元模型が展示されているが、それとは別に現物の壁画を密封保存してガラス越に鑑賞できるようにする方法だって可能であろう。水族館で熱帯魚の水槽を見るように、古代の芸術を鑑賞できれば楽しい。

うした設備を、古墳の内部に構築して壁画館からトンネルで結んでもよい。韓国慶州の大陵苑には、豪華な金冠を出土したことで知られる天満塚があり、その内部は展示館になっている。壁画館と古墳内部をリンクして展示館とすることで、無様な保存設備は不要となる。

在、明日香村全域と橿原市・桜井市の一部に点在する史跡を「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」としてユネスコの世界遺産に登録しようとする取り組みが進められている。すでに2007年1月に、世界遺産への登録の暫定リストに搭載された。

の世界遺産登録の中核となる文化資産は28遺跡あり、その中の20遺跡は明日香村に位置している。国の特別史跡である高松塚古墳は、石舞台古墳とともにその中心をなす遺跡である。その古墳の正面に、空調設備が従来のようなブザマな姿を露出していては、文化遺産の名が泣く。誰が見てもすっきりした墳形の古墳であって欲しい。

【参考】飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群の構成

●明日香村(20遺跡)
石舞台古墳、高松塚古墳、キトラ古墳 (以上、国特別史跡)、川原寺跡、大官大寺跡、牽牛子古墳、中尾山古墳、酒船石遺跡、定林寺跡、飛鳥寺跡、橘寺境内、岩屋山古墳、伝飛鳥板蓋宮跡、飛鳥水落遺跡、飛鳥稲淵宮跡、マルコ山古墳、飛鳥池工房遺跡、檜隈寺跡、飛鳥京跡苑地、岡寺跡(以上、国史跡)
●橿原市(7遺跡)
藤原宮跡、本薬師寺跡(以上、国特別史跡)、菖蒲池古墳、植山古墳、藤原京朱雀大路跡、丸山古墳(以上、国史跡)、大和三山−香具山・畝傍山・耳成山(国名勝)
●桜井市(1遺跡)

山田寺跡(国特別史跡)


2008/07/27作成 by pancho_de_ohsei
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