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2008/07/05
日本最古の四天王像が法隆寺金堂以外で初公開
奈良国立博物館で開催中の「国宝 法隆寺金堂展」
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| 特別展の案内 |
奈良国立博物館の正面 |
■ 現在、奈良国立博物館では6月14日(土)から7月21日(月・祝)までの会期で特別展「国宝 法隆寺金堂展」が開かれている。法隆寺金堂の仏像を安置する須弥壇に亀裂が入り、それを修理するために須弥壇上にあった諸仏像を移動させる必要が生じた。特別展は、この機会を利用して金堂内の仏像や天蓋、台座、周囲を取り巻く再現壁画などを一堂に集め展示している。
■ 法隆寺の金堂内には照明設備がない。せっかく拝観に訪れても、金網の向こうに鎮座する諸仏の姿はほとんど暗闇の中だ。ペンライトの光を当てて、ようやくその存在が分かる程度だ。高い拝観料を払って国宝を見に来たのに、これはないヨ、と感じた見学者も多いだろう。
■ 法隆寺金堂の外陣には、芸術的価値が高い壁画が描かれていた。壁画の劣化・剥落が進んだため、昭和の大改修では、一流の画家を動員して壁画の模写が行われてきた。模写は昭和15年(1940)年から開始され、第二次世界大戦をはさんで戦後も続けられた。
■ 昭和24年(1949)1月26日、不審火によって金堂内が炎上した。壁画は焼けこげ、その芸術価値は失われた。出火は模写作業をしていた画家が消し忘れた電気座布団が原因だと言われている。以来、羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くの譬えではないが、金堂内には照明設備はない。
■ したがって、ほとんどの人は美術雑誌などで紹介されている仏像の写真を見て、かろうじて金堂の内陣に安置された仏像の様子を理解しているにすぎない。金堂には13体の仏像が安置されているが、今回の特別展ではそのうちの9体が展示されている。めったに拝観できない国宝や重文の仏像が間近で見られるとあって、特別展は連日盛況だそうだ。
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| 法隆寺金堂の内陣に祀られた諸仏(*) |
■ 筆者としては、鞍作止利(くらつくりのとり)の作とされている中の間の釈迦三尊像が来ていないのは残念である。しかし、飛鳥時代のもう一人の著名な仏師・山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)の作品である広目天像が展示されている。この機会を逃したら再び近くで接することはないであろう。そう思って、今朝は8時にアパートを出て近鉄電車で奈良に向かった。
法隆寺金堂は、建立時期が不明なままの世界最古の木造建築
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| 近鉄奈良駅前の行基菩薩像 |
七夕前の駅前 |
■ 気象庁の発表は未だないが、近畿地方の梅雨はどうやら昨日明けたようだ。30度を超える暑さを予感させる太陽が、今朝も大地を照りつけている。駅前で行基菩薩の像に向けて噴き上げる水しぶきが涼しげである。七夕を二日後に控えて、商店街の飾り付けもすでに終わっている。いつものように興福寺の境内を抜けて、国立博物館に向かった。到着したのは9時5分。開場は9時半だが、すでに100名を超える来訪者が列をなしていた。
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| 特別展「国宝 法隆寺金堂展」のチラシ |
■ 開場を待ちながら、法隆寺金堂のことを考えてみた。様々な謎があり、まことに不思議な古代建築である。謎の第一は、現存する世界最古の木造建築とされながら、何時建立されたのか未だに確定していないのだ。寺伝では、創建法隆寺は、用明天皇の遺願を継いで推古天皇と聖徳太子が本尊の薬師如来を安置するために推古15年(607)に建立したと伝えられている。しかし、『日本書紀』は、天智9年(670)の4月30日早朝、落雷で出火し一舎も残さず焼失してしまったと記録している。
■ ところが、法隆寺側には火事があったことを示す史料がまったく存在しない。そのため、現在の建物の「再建・非再建論争来」が、明治時代から延々と続けられてきた。昭和14年(1939)になって、現在の西院伽藍の東南で若草伽藍跡が発掘調査された。その結果、若草伽藍が創建法隆寺だったことが判明し、この論争にようやく決着がついたようだ。
■ つまり、現在の法隆寺伽藍は670年の火災の後に再建されたことになる。だが、再建法隆寺の建立時期を示す確固たる文献資料がない。わずかに、七大寺年表という古文書に「和銅元年(708)戊申、依詔造太宰府観世音寺、又作法隆寺」とあるにすぎない。そこで、和銅元年前後に現在の西院伽藍が再建されたということになっている。因みに、東院は聖徳太子の斑鳩宮の跡に、天平11年(739)行信僧都が建立し上宮王院と呼ばれていたが、のちに法隆寺に併合された。
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| 法隆寺の中門と五重塔 |
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| 法隆寺の金堂 |
■ 目を世界に転ずれば、現存する木造建築で最も古いのは、782年に建立された中国の南禅寺大殿であるという。再建法隆寺の建立は南禅寺大殿のそれよりは明らかに古い。世界最古の木造建築とされている由縁である。ところが、平成16年(2004)になって、金堂の建築年代を巡る議論に一石を投じる発表が、奈良文化財研究所(奈文研)から出された。
■ 法隆寺金堂は上に述べたように昭和大修理の解体中に火災にあっている。この大修理では、剥落が進んだ壁画の現状を記録するため昭和15年(1940)から模写が行われていた。ところが、昭和24年(1949)1月26日に不審火によって金堂内が炎上し、貴重な仏教壁画や扉が失われた。幸い、解体修理中だったため仏像は他の場所に移されており、建物の上部も外されていて無事だった。
■ このとき燃えた天井板が法隆寺に保管されていた。その中にわずかに樹皮が残っているスギとヒノキの天井板が2枚見つかり、奈文研が年輪年代法で測定したところ、スギの伐採時期は667〜668年、ヒノキの伐採時期は668〜669年というデータを得た。いずれも『日本書紀』に示す670年の火災以前に伐採された木材が天井板として再建法隆寺に使われていたことになる。これをどう解釈するのか。炎上したとされる670年以前に現在の金堂がすでに完成していたのか。それとも、炎上以前に伐採された木材が現在の金堂に用いられていただけなのか。
法隆寺金堂の仏教空間を再現した特別展の展示室?
■ 今回の特別展は、朝日新聞創刊130周年を記念して開かれている。朝日新聞をはじめマスメディアは、今回の会場である博物館二階の展示室が、世界最古の木造建物である法隆寺金堂の仏教空間を再現している、とさかんに強調してきた。金堂の中にあって仏像が鎮座する内陣は東西約9.7m、南北6.5mである。
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| 特別展の案内 |
■ 特別展の展示室は、中央の奥に阿弥陀三尊像が置かれ、その前に四天王像が、左から増長天、広目天、多聞天、持国天の順に一列に配置されている。金堂の中の間の釈迦三尊像の台と、東の間の薬師如来像の台が、中央の阿弥陀三尊像の左右に置かれている。
■ 展示室の左右の壁には昭和24年(1949)の火災で消滅したため、日本画の大家たちが精魂を込めて再現した12面の壁画が置かれており、ガラスケース越しではなく間近に観賞できる。入口を入ってすぐ右手には、飛鳥時代の壁画で金堂の火災のとき焼損を免れた飛天図が2面飾られ、また出口近くには、金堂の西の間に安置された阿弥陀三尊の頭上を飾る我が国最古の天蓋(てんがい)が、目線の高さに吊されている。
■ だが、法隆寺金堂の仏教空間を博物館の展示室に再現したというなら、法隆寺の本尊である釈迦三尊像(国宝)と金堂の根本本尊である薬師如来像(国宝)も安置されていて然るべきだが、この仮想金堂にはそれらの仏像の姿は見あたらない。法隆寺としても、これらの本尊を長期間貸し出すことは憚れたのだろう。釈迦三尊像と薬師如来像は、ともに金堂の約100m北側にある上御堂に移されていて、そこで拝観できるとのことだ。
■ 法隆寺金堂は、かっては限られた高僧しか入堂できなかった。その祈りの空間に永年にわたって鎮座した仏たちや、堂内を荘厳に飾ってきた壁画や天蓋を間近で観賞できるのは有り難いことだ。仏像や宗教画は信仰の対象であって、美術品として観賞するのはおそれおおいことかもしれない。残念ながら、この年になっても宗教心を持てない筆者には、仏像や宗教画に接して、仏師や絵師がどのような願いをこめて作品を完成させたか想像することくらいしかできない。
手に華篭(けご)を持ち天衣を翻して飛翔する天女を描いた飛天図
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| 飛天を描いた第18号壁(*) |
■ 昭和24年(1949)の火災で金堂外陣の壁に描かれた大小12面の壁画が焼損してしまった。しかし、内陣の長押(なげし)上に描かれた20面の小壁画は無事だった。展示室の入口を入ると、最初に掲げられているのは、飛天を描いた6号壁と18号壁である。
■ 縦71.5cm、横135.2cmの土壁の描かれた天女たちは、手に華篭(けご)を持ち天衣を翻して飛翔している。その姿はまことに軽やかで、華やかな天上世界をこの世に出現させている。今でこそ退色してくすんでいるが、これらの壁画は制作当初は、白く塗られた漆喰の上に、赤や橙・緑・青など色とりどりの顔料を使って描かれた。20の小壁画の図様がまったく同じであることから、すべて同じ下絵を用いて制作されたと推測されている。
■ 天女たちは上半身が裸で、豊かな乳房を惜しげもなくさらけ出している。その風貌も当時の日本女性のものではない。インド風の美しさにあふれた美女である。これらの天女を描いたのが若い絵師だったら、美しい肢体の線を朱でなぞる手が、おそらくかすかに震えていたにちがいない。そして、彼の脳裏には、天女たちの生国を求めて、大陸からその奥地の西域へ、さらには仏教の発祥の地インドまで旅する己の姿が浮かんでいたかもしれない。
鎌倉時代の貞永元年(1232)に仏師運慶の四男・康勝が制作した阿弥陀三尊像
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| 阿弥陀三尊像 |
■ 展示室中央奥の台座には、法隆寺金堂西の間の阿弥陀三尊像が置かれている。中尊の阿弥陀如来像は東の間の薬師如来像を真似て鎌倉時代に制作された仏像である。光背の裏面に銘が刻まれていて、それによりこの像が制作された経緯がわかる。
■ 銘文によれば、承徳年間(1097 - 99)に盗人が金堂に入り仏像を壊し、道具などを盗み去ったとのことだ。以来百余年、西の間には仏像が鎮座しない須弥座(しゅみざ)だけが空しく残っていた。そこで、寛喜3年(1229)になって阿弥陀・観音・勢至菩薩の三尊像を鋳造することにした。仏像は貞永元年(1223)8月に完成して供養が施された。大勧進は僧・観俊(かんしゅん)であり、像を造ったのは大仏師・康勝(こうしょう)、銅工は平国友(たいらのくにとも)である。
■大仏師の康勝は、鎌倉時代の代表的な仏師である運慶の四男である。教王護国寺の弘法大師像や六波羅密寺の空也上人像の作者としても知られている。薬師如来像を模したとあって、身にまとう厚手の衲衣(のうえ)、台座にかけられた裳懸(もかけ)、左右対称的な衣文(えもん)などに古い形式が踏襲されている。しかし、仏の顔には鎌倉彫刻の特徴の一つとされる写実性が感じられるし、膝の上で結んだ印相は施無畏・与願印ではなく、弥陀定印である。
■ 脇侍の観音・勢至菩薩のうち、観音菩薩像も薬師如来の脇侍だった観音菩薩像を模したものとされている。会場には右脇侍として勢至菩薩像もおかれているが、本物はパリのギメ東洋美術館にあるとのことだ。展示されているのはその模刻である。
法隆寺金堂の外陣の12面に描かれたすべての再現壁画を展示
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| 法隆寺金堂の壁画配置図 |
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| 第6号壁 阿弥陀浄土図(部分) |
■ 法隆寺金堂の外陣には12面の壁画が描かれていた。法隆寺伽藍のいわゆる「昭和大修理」では、金堂の壁画の劣化防止と保存の対策が検討され、その一環として壁画の現状模写を制作することになり、当時の代表的な日本画家4名が分担して、昭和15年(1940)から模写が開始された。戦時中は模写作業が中断していたが、戦後すぐに再開された。しかし、昭和24年(1949)1月26日の早朝、金堂に火災が発生した。壁画は蒸し焼きになり、初層の柱、頭貫、組物なども黒こげになってしまった。
■ この火事で一部部材を焼損した法隆寺金堂は、昭和29年(1954)に解体修理を終えて復旧した。しかし、壁画が描かれていた壁は空白のままだった。そこで、法隆寺が発願し、朝日新聞の後援であらためて再現壁画を制作して壁に埋め込むことになった。そのため 安田靫彦(やすだ ゆきひこ)、前田 青邨(まえだ せいそん)、橋本明治(はしもとめいじ)、吉岡堅二(よしおかけんじ)、平山郁夫(ひらやまいくお)など当代一流の画家14名が選ばれた。制作は各自のアトリエで行われた。
■ 幸いなことに、京都の美術書出版社である便利堂が、昭和10年(1935)に壁画の原寸大写真を撮影していた。便利堂では、壁画を数十枚の部分に分けて撮影した原寸大モノクロ写真のほか、赤外線写真や色分解写真も撮影していた。再現壁画は、便利堂が撮影した原寸大写真を和紙に薄くコロタイプ印刷したものに彩色をしていく方法が取られた。和紙は福井の岩野製紙所で製造したもので、普通の大きさの和紙を「喰い裂き」と呼ばれる技法で見た目には継ぎ目がわからないようにして繋ぎ、縦約3.1mの巨大な画面を作った。
■ 再現壁画の作成は昭和42年(1967)から開始され、一年足らずの短期間で翌年の昭和43年(1968)2月に完成し、パネルにはめ込んだ上で金堂の壁に設置された。筆者は、再現壁画が完成したとき東京国立博物館で展示されたのを見たことがある。当時はガラス越しに見学したと思うが、今回は手が触れるほど近くで観賞できたのは嬉しい。いずれも本物と見間違うほどの素晴らしい出来ばえである。
金堂西の間の阿弥陀三尊像の頭上を飾っている天蓋
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| 金堂西の間の天蓋 |
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| 天蓋を飾る奏楽菩薩と鳳凰(*) |
■ 今回の特別展の目玉は四天王像である。これらの像に関しては後述するとして、上記の阿弥陀三尊像や壁画の他に、会場には釈迦三尊像の台座、薬師如来像の台座、七星剣、銅剣なども展示されていた。さらに、出口近くには、法隆寺金堂の西の間に安置された阿弥陀三尊像の頭上を飾っている天蓋(てんがい)が陳列されていた。
■ 有り難いことに、天蓋は目線の高さでつり下げられていて、その精巧な作りがよく観察できた。幅242.5cm、奥行き217.0cmの天蓋はヒノキで作られている。内部の格子や支輪板、小壁の状態は、下に置かれた鏡を通して見ることができるように工夫されていた。
■ 案内板の説明によると、この天蓋が制作されたのは金堂と同時期とのことだ。と言うことは、7世紀末から7世紀の初め頃のことらしい。天蓋には4隅と各面に3個の鳳凰が取り付けられていたようだ。そのうちの幾つかはすでに無くなっている。天蓋の天井には各面に3個の奏楽菩薩が取り付けられている。それぞれの楽器をもったこれらの菩薩は、永年にわたって妙なる天井の音楽を金堂内で奏でてきたに違いない。奏楽菩薩も鳳凰もクスノキで作られている。
仏敵から世界を護る最強の守護神四天王
■ 古代インドでは、世界の中心にそびえる空想上の山を須弥山(しゅみせん)と呼んだ。仏教では、須弥山頂上の忉利天(とうりてん)に帝釈天が住んでいるとされている。四天王とは、帝釈天の部下として、八部鬼衆を従え、須弥山の中腹にある四洲を護る仏教の守護神である。
■ 東方を守護するのが持国天、南方を守護するのが増長天、西方を守護するのが広目天、そして北方を守護するのが多聞天とされている。多聞天は毘沙門天とも呼ばれている。原語の意訳が多聞天、音訳が毘沙門天である。筆者の年代は、高校受験のために四天王の名前の頭文字を取って”持増広多”(ジゾウコウタ、地蔵買うた)と覚えさせられた。
■ 我が国では、早くから四天王が信仰されていたようだ。『日本書紀』は、587年の蘇我馬子と物部守屋との戦いに参戦した聖徳太子が、四天王に戦勝を祈願したと伝えている。そして、勝利を得たことに感謝して摂津国に四天王寺を建てたとされる。
■ 四天王はいずれも甲冑の両肩に獅子の顔面を彫刻化した獅噛(しがみ)をつけ、沓(くつ)をはいて、邪鬼を踏みつけている。後世の仏像製作においても、釈迦三尊像などのメインとなる仏像の置かれる須弥壇の四隅には、たいてい邪鬼を踏みしめて立つ四天王像が配置されている。
■ 法隆寺の金堂でも例外ではない。仏像を安置している須弥壇の四隅に四天王像が置かれていた。その須弥壇に亀裂が入り修理されることになった。そのため、堂内の仏像が再現壁画などと一緒に搬出され、博物館で展示されることになった。
■ マスコミはこぞって今回の特別展は法隆寺金堂の中のの仏教空間を再現した独特の展示の仕方をしているという。だが、四天王像は阿弥陀三尊像の周囲ではなく、その前面に一列に置かれている。言うならば、四天王像のそろい踏みといった配置の仕方だ。実は、先月末までは、平安時代に造立された吉祥天像と毘沙門天像(いずれも国宝)が、増長天と持国天の位置に置かれていた。これらの二像に代わって増長天と持国天が新たに加わったのは、7月1日からである。4体の四天王像が揃って法隆寺金堂から外部に貸し出されて陳列されるのは、今回が初めてであるという。
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| 持国天の牛頭の邪鬼 |
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| 増長天の一角の邪鬼 |
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| 広目天の邪鬼 |
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| 多聞天の邪鬼 |
■ なにはともあれ、飛鳥時代につくられた我が国最古の四天王像が間近で拝観できるのは嬉しい。今までも多くの仏教寺院で四天王像を見てきた。いずれも、身をもだえるように動的に造られた邪鬼を踏みつけて、いまにも動き出しそうな武人の勇ましい姿勢で写実的に表現されていた。だが、目の前にある法隆寺の四天王像は違った。
■ これらの四天王像は、いずれもクスノキで造られた像高133cmほどの彫像である。岩座の上の邪鬼を踏みつけながら、剣や戟(げき)などの持物(じもつ)を手にして、静かに直立する姿で立っている。
■ 岩座の上に両肘両膝をついて四天王の足元にうずくまる邪鬼の表情も、後世の四天王像とは異なって特徴的である。いずれも、暴れないように両手足に手かせや足かせが付けられて、まったく平伏した姿勢ととっている。その姿勢は、形容は悪いがまるで四脚のテーブルのようだ。下から覗きこむと、邪鬼の胸が乳房のように膨らんでいる。しかも、後世の邪鬼とは顔かたちが違っている上に、何かを持っているように両手を高く上げている。
■ 何を持っていたのだろうか。そのヒントは四天王寺にあった。四天王寺の由来は、よく知られているいるように、587年の蘇我・物部戦争(丁未の変、ていびのへん)で、聖徳太子が四天王の加護を誓願して蘇我軍が勝利することができたため、皇子が四天王の加護に感謝して、摂津国に四天王寺を建立したという。寺伝では、その年を593年としている。
■ 当然のことながら、法隆寺の四天王像に先行する四天王像が四天王寺に安置されていた。しかし、四天王寺は何回も火災に見舞われ、当時の四天王像は伝わっていない。ところが、平安時代の図像集である『別尊雑記』は、四天王寺に安置されていた四天王の像容を今に伝えている。
■ 『別尊雑記』所載の四天王像では、いずれの邪鬼も右手で四天王の剣の鞘を持ち、左手で戟の先端を支えている。法隆寺の四天王像の邪鬼もこのような形をしていたものと推測されている。だが、実際に法隆寺の四天王像に接してみて、こうした推測に無理があるような気がした。巻子(かんす)と筆を持つ広目天以外の三天はいずれも左手に戟(げき)を持っているが、その先端は邪鬼の左手の位置と一致していない。
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| 『別尊雑記』所載の持国天像と増長天像 |
■ とは言え、『別尊雑記』に描かれた四天王像は、邪鬼の上に直立して立ち、襟の高い甲冑の上にスカーフのように布をまとい、胸前に大きな結び目をあらわしている。さらに、臂釧(ひせん)で留めた袖口を鰭袖(はたそで)を扇のようにあらわし、長袖を膝まで垂下させる点など、細部に至るまで法隆寺の四天王像と似通っている。
■ 平安時代保延6年(1140)に大江親通(おおえのちかみち)が南都を巡礼した際の見聞録をまとめた『七大寺巡礼私記』には、「法隆寺のの四天王像は四天王寺の像を写したものである」と書かれているという。暦仁元年(1238)頃に法隆寺の僧・顕真(けんしん)が著した『古今目録抄』(聖徳太子伝私記)でも、四天王寺の四天王と法隆寺の四天王は同じである、と伝えているという。
■ 会場に掲げられた説明板によると、四天王像は中国の南北朝時代の服制や甲制を踏襲しているとのことだ。クスノキ材で作られた造形には赤・橙・緑・青の彩色が施されていた。切金と切箔も併用されている。さらに光背周縁部にはC字形をモチーフにした唐草文の透かし彫り金堂版が用いられているとのことだ。
■ 止利派の仏像が正面観照を目的として平面的なのに対して、これらの四天王像はずんぐりした形をしている。中国ではこうした造形が現れるのは、北斉・北周ごろであり、釈迦三尊像や夢殿観音像より遅れた時代の作風のようだ。
■ 興味深いのは、これらの四天王像が、当初から法隆寺の金堂に安置されていたかどうか不明とのことだ。平安時代末期より以前にこれらの像が金堂に存在したことを示す史料はない。
広目天と多聞天の光背に記された仏師の一人山口大口費
■ ところで、広目天と多聞天の光背には、仏師の名前が書かれていた。広目天の光背には「山口大口費を上としてスキノコマロと二人で作ったものである」と記し、一方、多聞天の光背には「薬師徳保(くすしのたもつ)を上として鉄師のマロコと二人で作ったものである」ち記す。
■ これら4名の仏師のうち、山口大口費の名は『書紀』にも登場する。「この年(白雉元年、650年)、漢山口直大口(あやのやまぐちのあたい・おおぐち)は詔を承って、千仏の像を刻んだ」とある。この記述によって、山口大口費は、渡来系氏族・漢氏の出であり、7世紀の半ば頃朝廷関係の仕事に活躍していた仏師であることが分かる。彼が刻んだ千体仏は、玉虫厨子の扉に貼り付けられていた千体押出仏のことという説と、寺院の壁を装飾するような押出仏または仏だったとする説がある。
■ 飛鳥時代の仏師としては、飛鳥寺の本尊・飛鳥仏や法隆寺金堂の本尊・釈迦三尊像の制作者として、鞍作止利すなわち止利仏師の名が知られている。しかし、止利仏師は後世の仏像彫刻家というより、仏像制作集団ともいうべき止利工房を率いた人物だったであろう。6世紀末の四天王寺や飛鳥寺の建立に続いて、7世紀に入ると、有力氏族は競って氏寺を建立するようになった。『日本書紀』の記載によれば、推古天皇32年(624)9月の時点で寺の数は46に達したという。
■ 7世紀の後半になれば、その数は何倍にも増えたはずである。寺院の数が増えれば増えるほど、本堂に安置する本尊やその他の仏像の需要も鰻登りに増えたはずであり、止利工房だけで需要がまかなえたとはとても思えない。止利工房以外にも、多くの仏像制作集団が誕生したはずである。山口大口費をはじめとする上記の4人の仏師も、そうした仏像制作集団の一つに属していたと推測される。
赤外線写真が明らかにした広目天像の素顔(**)
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| 現在の広目天像の顔 |
赤外線写真の広目天像の顔 |
■ 去る6月14日の「法隆寺金堂展」の開始に合わせたように、奈良国立博物館は四天王像の一つである広目天について、衝撃的な情報を公開した。博物館で広目天像を赤外線撮影したところ、眉やひげなどの墨線がくっきりと浮かび上がったというのだ。
■ 現在の広目天像は、彩色の風化や剥落(はくらく)で無表情のように見える。だが、赤外線撮影が映し出した顔は、細い眉が険しくつりあがり、目を大きく見開いていて、口元とあごには、ねじれの利いたひげがあったという。ひげをたくわえた姿は中国・秦始皇帝陵の兵馬俑(へいばよう)などに見られる武官像によく似ているとのことだ。
(*) 出典: 「原色日本の美術 2 法隆寺」(小学館)
(**)朝日新聞インターネット版
2008/07/06作成 by pancho_de_ohsei
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