2008/07/10

法隆寺金堂から上御堂へ移座された釈迦三尊像

止利仏師制作の釈迦三尊像の中尊
止利仏師制作の釈迦三尊像の中尊(絵葉書より拡大)

年、相まみえたいと願いながら、今まで願いが叶えられなかった仏像がある。他でもない、法隆寺金堂の中の間に鎮座する釈迦三尊像である。我が国の最初の仏師として歴史に名を留める止利仏師が、今から1385年も前の推古天皇31年、西暦で言えば623年に制作したとされる日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。

法隆寺金堂の釈迦三尊像
法隆寺金堂の釈迦三尊像(**)
利仏師作の釈迦三尊像は、飛鳥時代や法隆寺を扱ったいずれの美術雑誌でもカラーで紹介されている。左右に脇侍を従え、船形の大光背を背にして結跏趺坐(けっかふざ)し、施無畏(せむい)印・与願(よがん)印を結ぶ中尊の釈迦如来の造形は、目をつむれば瞼の裏に浮かんでくるほど慣れ親しんでいる。だが、実際の尊像は、法隆寺金堂の金網に囲われた内陣の暗闇の中に鎮座しておわす。今までに何回も法隆寺を訪れているが、ガイドが指し示すペンライトの光では、尊顔の輪郭がおぼろげにわかるだけだった。

作者の止利仏師とは俗称で、本名は鞍作止利(くらつくりのとり)または鞍作鳥という。当時朝鮮半島にあった百済(くだら)から渡来した司馬達等(しめのたちと)の孫とされている。彼が制作したとされる仏像がもう一体存在している。明日香村の飛鳥寺本堂に祀られている飛鳥大仏である。この金銅製の釈迦丈六像が完成したのは、『日本書紀』によれば推古天皇14年(606)4月, 『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」によれば、推古天皇17年(609)とある。

々が現在拝んでいる飛鳥大仏は、残念ながら鋳造当時の形をほとんどとどめていない。建久7年(1196)の火事で金堂が消失したとき仏像も大破し、わずかに仏頭と指などが残された。昭和48年(1973)に残存状況を中心とした調査が行われた。その結果、頭部では額・両眉・両眼・鼻梁が当初部分を留めるとともに、左手の掌の一部、右膝上にはめ込まれた左足裏と足指、右手中指・薬指・人差指が当初部分であることがわかった。 このような状態では、残念ながら制作当初の造形を思い描くことはできない。

飛鳥大仏
飛鳥大仏
作止利はもともと仏師ではなかった。その出自氏族名が示すように、馬具の鞍やその他の馬飾りを制作する技術者だった。その彼がどのような理由で仏師への転身を図ったのかは不明である。いろんな憶測は可能だが、それはここでは伏せておく。しかし、飛鳥寺(=法興寺)中金堂に祀る本尊のひな形を推古女帝が求めたとき、止利が応募したものが女帝のお眼鏡にかなったことがきっかけだったようだ。

時は我が国の仏教創世期である。我が国最初の本格的仏教寺院である飛鳥寺がようやく完成した時期である。だが、手本とすべき丈六の巨大仏像は大陸や半島から伝来していなかったようだ。止利は祖父や一族の中の仏教信者が、念持仏として携えてきた小型の金銅仏をモデルとしてひな形を描いたのだろう。

利様式の仏像は、北魏の仏像様式の影響を強く受けていて、次のような独特な特徴を持つとされている。すなわち、●奥行きがなく、正面観照を重視している、●衣文や服飾が左右対称である、●面長で古拙な微笑を浮かべている、●抽象化した衣文を裳懸座(もかけざ)としている。確かに、法隆寺金堂の釈迦三尊像の写真を見ても、こうした特徴をよく表している。

北魏仏とされる鞏県石窟寺の摩崖三尊像の主尊と中国龍門賓陽中洞本尊

者は過去数回、日本文化の源流を訪ねると称する中国の史跡探訪ツアーに参加したことがある。その折、著名な竜門石窟や雲崗石窟、あるいは鞏県の石窟寺などを訪れて北魏仏とされる石仏を目の当たりにした。しかし、それらの仏像と法隆寺金堂の釈迦三尊像の主尊を比べたとき、何かが違っていた。北魏仏の様式がそのまま踏襲されているのに、何か印象が違う。そのうち、その違いは顔の表情から来ている気がしてきた。

長の顔にくっきりと弧を描く眉、形の整った長い耳、聡明そうな目と口・・・これらの作りが仏像の顔を極めて英知に満ちた聡明なものに見せている。見方によっては人間の顔を極めて抽象的に捕らえているようにも思える。だが、こうした受け止め方には、写真撮影の際の光線の当て方や撮影のアングルが影響しているのかもしれない。自然な明かりの中でこの仏像と対面したら、別の印象をもつかもしれない。そう思いながら、釈迦三尊像と相まみえる日を楽しみにしていた。

特別展の案内
特別展の案内
にその機会が来た、と思った。法隆寺金堂の仏像を乗せている須弥壇に亀裂が入り、土壇周辺の壁土が剥離し、北東部分の漆喰で傷みが目立っている。このまま放置すると、さらに亀裂が広がる可能性があるため、時間をかけて修理することになった。この機会を利用して、須弥壇上の諸仏を奈良国立博物館などに移して特別展として展示されることになった(期間:6月14日−7月21日)。お目当ての釈迦三尊像をやっと身近に見る機会がやっと訪れたと喜んだ。

が、現実はそうはならなかった。釈迦三尊像は国立博物館の特別展には出品されず、法隆寺の講堂北にある上御堂(かみのみどう)に、薬師如来坐像(国宝)と共に移され、須弥壇の修理が終わる今年の12月まで安置されることになった。

法隆寺の上御堂を訪れて釈迦三尊像を拝す

法隆寺の参道を覆う松並木
法隆寺の参道を覆う松並木

うであれば、こちらから上御堂を訪れるしかない。そう思って、本日の昼過ぎ、近鉄橿原線で「筒井」駅まで出て、後はバスで法隆寺へ向かった。実を言うと、昨日も法隆寺まで来ている。だが、午後4時頃法隆寺前のバス停に到着したとき、猛烈な夕立に見舞われた。地球温暖化の影響かどうかしらないが、最近の雨の降り方は尋常ではない。文字通り土砂降りで折りたたみの傘などほとんど役に立たない。道路を雨水が川となって流れ、そのまま道路を横切ろうものなら、靴の中は勿論、下半身がびしょぬれになってしまう。しばらくバス停で雨宿りをしていたが、土砂降りの雨はいっこうに止みそうな気配を見せない。やむなく折り返しのバスで戻ることにした。

法隆寺の南門
法隆寺の南門
法隆寺境内の案内図
法隆寺境内の案内図

隆寺の参道は、前を通る国道25号線から一直線に北に向かって延びている。松並木の両脇は車道になっているが、その間の参道は地道である。昨日の雨はこの参道を川となって流れたのだろう。水が引いた後に、道のあちこちに松の枯れ葉の塊が縞の模様を作っていた。

日の昼下がりに、法隆寺を訪れる観光客はそれほど多くない。閑散とした参道を進むと、法隆寺の正門玄関にあたる南門の前に出る。南門は永享10年(1438)に再建された門である。

門をくぐり、広い石畳に変わった参道をさらにまっすぐ北に進むと、参拝者を威嚇するようにすさましい形相で睨み付ける塑像の金剛力士像を両脇に配した中門がある。中門の近くに「日本最初の世界文化遺産 法隆寺」と大書した巨大な石が置かれている。

隆寺の西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。その建築群が法起寺と共に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界文化遺産に登録されたのは、今から15年前の1993年12月だった。我が国で最初に世界文化遺産のリストに登録されたことが、法隆寺にとっては自慢のようだ。

法隆寺の中門と五重塔
法隆寺の中門と五重塔
観料を払い回廊に囲まれた西院伽藍の境内に足を踏み入れると、西に五重塔、東に金堂を配した法隆寺様式の見慣れた建物が古色蒼然と聳えている。金堂の須弥壇が修理中とのことだが、外から見た限りでは修理工事が行われているようにも見えず、建物そのものはいつもの景観を見せている。

階(もこし)の上に置かれた狛犬や初層の軒隅に立てられた支柱に巻き付いている竜の姿が珍しいのか、年老いた外人夫婦がさかんにデジカメで撮影していた。ボランティアガイドが初層の瓦屋根の中程に瓦が二重に積み重ねてある理由を二人に説明している。この重層の巨大な建物には軒先に雨樋が設けられていない。上の屋根に降った雨水はそのまま下の階に流れ落ちる。したがって雨水が落ちる付近の初層の屋根瓦を二重葺きにしておかないと、瓦がすぐに駄目になるそうだ。

静まりかえった法隆寺金堂
静まりかえった法隆寺金堂
廊で結ばれた大講堂は平安時代に落雷で焼失したが、正暦元年(990)に再建された建物である。内陣に本尊の薬師三尊像と四天王像を祀っている。大講堂の北側、つまり回廊の外側に、僧衆が苦行を修する上御堂(かみのみどう)が建っている。奈良時代に舎人(とねり)親王の発願で建立されたと伝えられているが、実際は平安初期の建物だ。永祚元年(989)に倒壊したため、現存の建物は鎌倉時代の文保4年(1324) に再建された。

上御堂の釈迦如来像(*)
上御堂の釈迦如来像(*)
在、上御堂の堂内には平安時代の延長年中(925〜930)に造立したと思われる釈迦三尊像(国宝)と室町時代の四天王像(重文)が安置されている。中尊の釈迦如来はザクラの木で作られた像高2.28mの巨像である。右手を折り曲げて掌を外に向け、左手は掌を上にして膝に置いた印相は、大講堂の薬師如来と変わらない。広い肩の上に頭を載せた豊かな体躯の仏像は藤原時代初期の作品である。

御堂の本尊釈迦如来像の四方には四天王像が配されている。各像の胎内に像銘が納められていて、それによって文和4年(1355)に作られたことが分かる。仏師は寛慶とその弟子の幸禅、絵師は法橋専英丹勝が担当した。法隆寺金堂の四天王像と違って、激しい怒気を込めた造形が勇ましい。ただ、堂内は通常非公開で、毎年11月1日〜3日の間だけ特別開扉をおこなっているという。

大講堂の裏の高台に建つ上御堂
大講堂の裏の高台に建つ上御堂

御堂の堂内を見学するのは、小生にとっても初めての経験だ。法隆寺では、上御堂は明るい自然光が差し込み、金網もないので、金堂にあるときよりも釈迦三尊を身近に拝んでもらえると言っている。それを楽しみにわざわざ暑いさなかに出て来たようなものだ。順路の標識に従って進むと、大講堂の裏から緩やかな石段が上御堂の正面に向かって続いている。最初は石段脇の大きな木に遮られて御堂の大きな建物の全容はわからなかったが、石段を登るに連れて、正面に開かれた3つの扉の中央に、金堂の釈迦三尊像が見えてきた。

恋の恋人に再会するのを楽しむように、いくぶん胸の高鳴りを覚えながら石段を登り切った。戸口には太竹が渡されて堂内には一歩も踏み込めないが、憧れの仏像は戸口から差し込む自然の光の中で目線の高さに鎮座していた。

上御堂に安置された金堂の釈迦三尊像
上御堂に安置された金堂の釈迦三尊像
外と小さい仏様だなぁ − それが最初に受けた印象である。像高2.7mの飛鳥大仏を見慣れた目には、思いの外小型の仏像に見えた。裳懸けの木造宣字座結跏趺坐している中尊の像高は、86.4cm、右脇侍が92.4cm、左脇侍が90.7cmとのことだ。しかし、わが国の仏像彫刻史の劈頭を飾る記念碑的な作品である。小像ながらも、その顔はリンとした厳しさが感じられた。

迦如来像は、高い木製の台座の上で結跏趺坐して、右手で施無畏(せむい)、左手で与願(よがん)の印相を示している。その指が女性の指のように細く長い。身には僧祗支(そうぎし)と裙(くん)をつけ、その上に大きな厚手の法衣(ほうえ)をはおっている。こうした着衣は、北魏の皇帝の服制を写したものとされている。法衣の裾(すそ)と裳(も)の裾が二重になって、台座に山形をなして垂れる裳懸座(もかけざ)を作っている。この像を少し遠目で見ると、裳懸を底辺とする二等辺三角形の形におさまっている。その安定感がよい。

迦三尊像は金銅仏である。制作当初は全体が鍍金され、まばゆいばかりの黄金の光を堂内に振りまいていたはずだ。だが、長い歳月の間に、鍍金の下から噴き出してきた銅青で全身が覆われ、現在は灰をかぶったように深緑色を帯びている。中尊の顔や右の脇侍は、何時の頃か磨かれたことがあるのだろう。銅青の下から鍍金が現れ、鈍く光っている。

金堂の釈迦三尊像(拡大)
金堂の釈迦三尊像(絵葉書より拡大)

囲に他の見学者がいなかったので、戸口に置かれた太竹の桟に両手をついて、しげしげと正面の釈迦像の顔を見入った。本来なら信仰の対象として敬虔な気持ちで礼拝すべきだが、これが1400年も昔に止利仏師が造った仏像だと思うと、どうしても芸術作品として見てしまう。そうした不心得をたしなめるように、仏像の前に「写真撮影禁止」の表示が置かれている。仏像は拝むものであって、観賞すべき対象ではない、というわけだ。

像は顔が命である。正面に見据えた中尊の顔は面長だ。その額には白毫(びゃくごう)が埋め込まれていたはずだが、今はなくなって留め金だけが残っている。額にくっきりと弧を描く眉の下に、上下のまぶたの弧線が同じなため杏仁形(きょうにんけい)と呼ばれる目が開いている。しかし、大きく見開いているわけではなく、何かを瞑想しているときの半眼といった趣だ。

中尊釈迦如来
中尊釈迦如来(**)
の像を特徴づけているのは、おそらく仰月形(ぎょうげつけい)と呼ばれる唇であろう。口元にアルカイックスマイル(古式微笑)を浮かべているとよく言われるが、そのきりりっとした形は聡明で理知的な印象を与える。こうした印象はいわゆる中国大陸の北魏様式の仏像とはすこし違うものであり、それを違和感として長い間感じてきた。

利仏師が推古31年に完成させた仏像を実際に目の前にして、やはり中国の竜門や雲崗の石窟に掘られた石仏とはすこし違う感じを受けた。止利仏師も存命中は敬虔な仏教信者だったはずだ。仏像を制作するにあたって、ひな形を単に模倣するだけでなく、彼が心の中で描き続けた釈迦のイメージを加味することはなかっただろうか。

はまた、当時の仏教弘通の第一人者だった聖徳太子とも親しく長い付き合いがあったはずだ。太子が病に倒れたとき、その子弟たちから病気平癒を祈願する仏像制作の依頼を受けた。だが、制作半ばで太子が他界し、仏像が完成したのはその一年後だった。止利の脳裏には在りし日の太子の姿が強く焼き付いていたはずだ。その印象が釈迦像の顔に反映していないとは言えない。

れにしても、目の前に奇妙な光景があった。上御堂には平安時代にサクラの木で造られた巨大な釈迦三尊像が左右に文殊菩薩と普賢菩薩を従えて鎮座している。そして、その前に七化仏を配した舟形の大光背に包まれるようにして金堂の釈迦三尊像が置かれている。釈迦如来像の脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩が普通だが、この釈迦像の脇侍は薬王菩薩と薬上菩薩だそうだ。なにはともあれ、同じ堂内に二つの釈迦三尊像が前後して安置されている姿は珍しい。

法隆寺金堂の東の間の薬師如来像も上御堂に移座

隆寺金堂の須弥壇修理のため上御堂に移座されているのは、釈迦三尊像だけではない。金堂東の間の薬師如来像も上御堂に移されて、釈迦三尊王の東側に安置されている。この像も金銅製で釈迦如来像とよく似た造形だが、像高が63cmと釈迦如来像より一回り小さい。

金堂東の間に安置されていた薬師如来像
金堂東の間に安置されていた薬師如来像
師如来像の光背には、造像記が記されている。それによると、推古天皇15年(607)に、女帝と聖徳太子が用明天皇のために、寺とこの薬師像を作ったという。ここで言う寺とは、後にその遺跡が発掘されて若草伽藍と呼ばれるようになる創建法隆寺のことである。

日本書紀』は、聖徳太子が推古天皇9年(601)に斑鳩に宮殿の建設を始め、4年後の推古天皇14年(605)に完成したと伝えている。おそらく創建法隆寺の建立も斑鳩宮と同時並行で進められていたのだろう。『日本書紀』の記述を信用するなら、推古天皇15年(607)には創建法隆寺が出来上がっていたことを推測させる記載がある。

建法隆寺は、現在の西院伽藍とは異なって、塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ、四天王寺様式の伽藍配置だった。したがって、薬師如来の造像記を信用するなら、この寺の金堂に祀られていた本尊は薬師如来像ということになる。その制作者は止利仏師だったのだろうか。またその16年後の推古31年(623)に聖徳太子の冥福を祈るため止利仏師が造った釈迦三尊像は、寺のどこに安置されたのだろうか。残念ながら、古記はこうした疑問に答えてくれない。

らに、『日本書紀』は天智天皇9年(670)4月30日、暁に法隆寺に出火があり、一舎も余すところなく焼失した、と記す。この火事の際に本尊の薬師如来像や釈迦三尊像は無事に運び出すことができたのだろうか。問題はその後にもある。670年以後に法隆寺が再建されたが、その時期が判明していない。おそらく和銅元年(708)頃までには再建されていたというのが、現在の推測である。その間、本尊やその他の仏像はどこに安置されていたのだろうか。

法隆寺金堂に鎮座する薬師如来像(*)
法隆寺金堂に鎮座する薬師如来像(**)
師如来の造像記を疑問視する専門家の意見もある。まず、薬師如来信仰に基づく造像は中国では六朝時代にも例はなく、推古天皇の時代に薬師信仰が流布していたかどうかは疑問である、という。皇后の病気平癒のために天武天皇が薬師寺の建立を発願したという話しは有名だが、時代は下って天武天皇9年(680)のことである。

問の第2は、鋳造技術の面から見た疑問である。623年に完成した釈迦像は何回も鋳造に失敗したようで、その痕跡が残っている。しかし、薬師如来像は一回できれいに仕上がっている。このため、薬師如来像が釈迦如来像より16年も前に鋳造されたとは、とても思えないとのことだ。

問の第3は、造形感覚からの疑問である。薬師如来像の造形は釈迦像のそれと非常に似ている。同じように高い台座の上に厚手の衣をはおって結跏趺坐し、同じ印相をしている。山形をなして垂れ下がる裳懸けの形式を似ている。しかし、薬師如来の裳懸座は釈迦如来のそれに比べて垂直に近くなっている。

の他にも違う点も多い。顔が丸顔になり、手つきも童子のそれに近くなっている。釈迦如来の頭に螺髪があるが、薬師如来にはない。光背の唐草文様や火焔の線は、釈迦像のそれよりずっと柔らかい。こうしたことから、専門家の間では天智9年の火災の後に釈迦像を参考にして制作された模古作と見なす意見が多い。しかし、何時ごろ制作されたかについては、定説はない。いずれにしても謎の多い仏様だ。


出典: (*) 「原色日本の美術 2 法隆寺」(小学館)、(**) 「国宝4 彫刻1」(毎日新聞社)
(注)このレポートには上御堂に移座された釈迦三尊像と薬師如来像のスナップ写真を掲載している。いずれも撮影禁止になっていたが、寺の特別な配慮をいただいて撮影したものである。
2008/07/12作成 by pancho_de_ohsei
return