2008/06/30

藤原宮朝堂院の朝庭を飾った幢幡の支柱跡が出土


東京国立博物の本館
奈文研が実施中の飛鳥藤原第153次発掘調査の現場(2008/06/30撮影)

藤原宮で国家的行事の荘厳を演出した幢幡(どうばん)の列

■ 今を去ること1307年前の昔、大和三山に囲まれた藤原宮は実に華やかな雰囲気の中で大宝元年(701年)の元旦を迎えた。東の香具山に初日が昇るころ、藤原宮の朝堂院の中にある朝庭は、正装に身を包んだ大勢の皇族や文武百官たちで埋め尽くされていた。この日、藤原宮の正門である南門では朝賀の儀が執り行われることになっていた。在位4年目を迎えた18歳の若き文武(もんむ)天皇が、すでに退位された祖母の持統帝とともに藤原宮の南門に出御されて、群臣一堂の拝賀の礼を受けられる。彼らは整列しながら、天皇の出御を今や遅しと待っていた。

藤原宮朝堂院朝庭の発掘調査地
藤原宮朝堂院朝庭の発掘調査地(*)
■ この朝賀の儀に参列しているのは、我が国の皇族や官僚たちだけではない。25年前の676年に唐の軍勢を半島から追い出して、悲願の朝鮮半島統一を成し遂げた新羅からたまたま来日していた使節の一行も参列していた。東国から蝦夷(えみし)の朝貢使節たちも上京していれば、おそらく参列を求められていたに違いない。実は、この朝賀の儀式には為政者たちのある意図が隠されていた。実質はどうであれ、建前として新羅や蝦夷などを藩国として従えた小中華帝国・日本の誕生を内外に誇示することを目的としていた。

イラストレータの早川和子さんがイメージした朝賀の儀
■ この朝賀の儀式の荘厳さを演出するために南門前に並べられたのが、幢幡(どうばん)である。イラストレータの早川和子さんは、大宝元年の朝賀の儀の様子を見事にイラストに仕上げられた(右図参照)。このイラストは、昨年9月8日に実施された南門の発掘調査現地説明会に張り出されていたものである。もっとも早川さんは南門を平城宮の朱雀門のような重層の楼門とイメージされたが、発掘調査では、東西8本南北3本の柱を持つ平屋構造の建物だったことがすでに判明している。

■ 『続日本紀』は、この日宮殿の正門(南門)に7本の旗を並べ立てたと伝えている。正面に置かれた幡には、三本足のカラスである烏(う)が描かれていた。その左右には日と月を描いた幡が、さらにその外側には四神(青竜、朱雀、白虎、玄武)の幡がひるがえっていたという。そして、「文物(学問や制度など)の儀、是(ここ)に備(そなわ)れり」と記す。律令国家体制の完成を寿ぐような書きぶりだ。

室町時代の絵巻に描かれた天皇即位礼のとき
立てられた幡の一部(*)
■ 大宝元年の元旦は、ユリウス歴の2月13日にあたる。新春を迎えた日とは言え、周囲を山に囲まれた大和盆地はまだ冬の寒さがどっかと居座っている。石敷きの広い朝堂院の庭を吹き抜ける風は身を切るように冷たかったに違いない。二本の支柱に支えられてすっくと聳えるそれぞれの憧旛の高さは4〜5mはあったようだ。その先端で北風を受けてはためく幡の艶やかさが目に浮かぶ。飛鳥地域の遺跡に詳しい木下正史・東京学芸大特任教授(考古学)も述べておられるように、大宝元年の朝賀の儀は、本格的律令国家成立をうたい上げた世紀の祭典だったにちがいない。

■ しかし対馬から金が献上されて大宝という年号が建てられたのは、そ年の3月21である。朝賀の儀式が行われた元旦の時点では、厳密に言えばまだ大宝という年号は、まだ存在しなかった。

■ 大宝元年は、日本の歴史にとって画期の年だった。1月23日に遣唐使の派遣が決定され、粟田真人(あわたのまひと)が第7次遣唐使の遣唐執節使に任命されている。第7次遣唐使は、翌年の6月、実に33年ぶりに唐土に派遣され、2年後の慶雲元年に帰国した。当時、大陸では武則天を皇帝に抱く周が唐に代わって繁栄していた。その帰朝報告を聞いた時の為政者たちは、律令国家の体面を一新すべく平城遷都を企画したという。

■ 一方、大宝と改元された日、藤原不比等が中納言から正三位大納言に昇進している。8月3日には、律令国家の根幹をなす大宝律令が完成している。第45代聖武天皇となる首皇子は、この年の暮れの12月27日に誕生している。その皇后になる光明子もこの年誕生している。

第153次発掘調査の現場を訪れる

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現在発掘調査中の第153次調査区(*)
■ 奈良文化財研究所(奈文研)は現在、藤原宮跡で第153次発掘調査を実施中である。第148次調査で出土した大極殿院南門の南側に、約1650平米の調査区を設定して発掘を行なっている。この場所は藤原宮朝堂院の朝庭があったところだ。すでに朝庭全体に敷き詰められていた礫石や、藤原宮造営の際に資材を運んだ運河と思われる溝などが見つかっている。

■ その奈文研が、去る27日、大極殿院南門の南約30mから、天皇の即位など国家的な儀式の際に立てた幢幡(どうばん)を支えた支柱穴が16個見つかったと発表した。本日から7月2日まで、午前10時から発掘現場を公開するというので早速出かけてきた。

■ 一昨日から昨日にかけて、梅雨前線の通過で日本列島は全国的に猛烈な雨に見舞われた。近畿圏でも大雨・洪水警報や雷注意報か各県に出され、バケツをひっくり返しような降雨が予想された。しかし、幸いなことに橿原地方は夕方しばらくの間強い雨に見舞われた程度で気象庁の予報は見事に外れた。

礫石広場だったことか分かる発掘状態
礫石広場だったことか分かる発掘状態
■ 一夜が明けた本日は、朝から厚い雲が空を覆っているが、雨の心配はないらしい。梅雨前線が南下して前線の北側にはいったせいか、湿度もそれほど高くならないという。アパートから発掘現場までは自転車で10分もあれば到着できる。ペダルを踏んで正面から受ける風が、秋風のようにすがすがしい。

■ 午前10時に発掘現場についたが、現地説明会や見学会ではないせいか、見学者は少ない。入口で「現場公開資料」を貰って、見学回廊に入った。現場を覆ったシートはすでに外され、調査区のあちこちで発掘作業が始まっている。回廊の途中にボードが一枚立ててあるが、そこには発掘現場のイラストと出土した幢幡の支柱跡の写真、それに室町時代の絵巻に描かれた天皇即位礼の際に立てられた幡の写真が掲示してあるだけだ。あとは見学者が勝手に現場を見て、質問があれば関係者に聞いてくれといった対応のようだ。

幢幡を立てた場所(西→東)
幢幡を立てた場所(西→東方向を望む) 幢幡を立てた場所(南東→北西方向を望む)

■ 憧旛を支えた支柱の柱穴列は、調査区中央部で東西方向に3m間隔で8カ所見つかった。それぞれの箇所に幢幡の竿の代わりに橙色の円柱が立てられている。その竿を支える支柱を立てた穴が、竿を挟んでそれぞれ二カ所穿たれていた。穴の直径は約30cm、深さはおよそ50cmとのことだ。今回の調査区では、幢幡の竿を立てた場所が8カ所出土したが、上記のように、大宝元年の朝賀の式では宮殿の正門に7本の旗を並べ立てたと『続日本紀』は記す。すでに、史書の記述より一カ所多いことになる。
旗竿の柱穴断穴状況
旗竿の柱穴断穴状況(*)

■ しかも、今回の調査区は藤原宮の中心線より幾分東に寄っている。憧旛は宮の真ん中を挟んで左右対称に並んでいたと考えられ、奈文研は未発掘地も含め全体で13カ所あったと推定している。このことは、『続日本紀』の記述と明らかに矛盾する。そのため、奈文研の姿勢は慎重である。これらの支柱跡が『続日本紀』に記された7本の憧旛に対応するとは断定していない。その後に本数が追加された可能性だって想定できる。

■ もう一点、重要な指摘がされている。宮殿遺跡で憧旛を立てた跡が見つかった事例は、今回が平城宮と長岡宮に次ぐ三例目だそうだが、平城宮や長岡宮ではいずれも正門の内側に立てられていたそうだ。また、その本数にも違いがあるという。


平城宮跡に咲いていたコスモス
平城宮跡に咲いていたコスモス
■ 第153次調査はまだ途中である。朝庭の礫石を敷き詰めた層まで掘り下げた段階にすぎない。朝庭の広場に敷いた礫の状態は1300年前の姿をそのまま留めている。この礫石の上を多くの官人たちが歩いた。その中には大宝律令の選定に携わっって、日夜苦労を重ねた刑部親王や藤原不比等、粟田眞人、下毛野古麻呂らもいる。そう思うと、新しい国家作りに情熱を燃やす彼らの姿が、時を超えて彷彿と浮かんでくるようだ。

■ だが、よく見ると、礫石の大きさが小振りで、しかも角がある。平成16年に発掘された飛鳥浄御原の内郭中枢部に敷かれていた礫石とはかなり様子が違う。その点を現場の関係者に質問してみると、おそらく藤原京が廃都となって水田化されるにあたって、大きな礫石はすべて取り除かれたのだろう、との返事が返ってきた。それを言うなら、飛鳥浄御原の内郭も条件は同じだろうと感じたが、それ以上は深く追求しなかった。

梔子(くちなし)の花
梔子(くちなし)の花
■ 帰り際に入口で「現場公開資料」を配布している御仁と少し立ち話をした。彼の話では、これから礫石をめくって発掘は9月まで続けられるが、ひょっとすると木簡などが大量に出土するというサプライズがあるかもしれないという。言われてみれは、発掘現場は、今流に考えれば当時の霞ヶ関の官庁街の中心である。役人たちが書き損じた木簡の破片が出土しても、何の不思議もない。9月には現地説明会が予定されている。そのときまでにどんなニュースが飛び込んでくるか、今から楽しみだ。

(*) 現場公開資料よりコピー

【参考】藤原京・藤原宮関連の探訪レポート


2008/06/30作成 by pancho_de_ohsei
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