2008/06/10

かろうじて海外流出を免れた運慶作の「大日如来座像」


東京国立博物の本館
東京国立博物館の本館 (2008/06/10撮影)

本日から東京国立博物館の本館で一般公開されている話題の仏像

■ 5日前に歩いた上野公園の中の道をたどって、今日もまた東京国立博物館に向かった。時間も同じ頃なら、梅雨の晴れ間から照りつける日差しも同じようにまぶしい。しかし、向かった先は平成館ではなく、本館の1階である。博物館の庭は、先日の長蛇の列がまるで嘘のように、いつもの静かな落ち着きを取り戻していた。

大日如来坐像公開の案内
大日如来坐像一般公開の案内
■ 博物館のゲートをくぐると、瓦屋根をいただいた「帝冠様式」と呼ばれる東洋風の本館が長々と正面に横たわっている。この建物を設計したのは、服部時計店(現、和光)などの建物で知られる建築家の渡辺仁。開館は昭和13年(1938)で、平成13年(2001)に重要文化財の指定を受けている。

■ 昨日の新聞は、運慶作とされる「大日如来坐像」が本日から東京国立博物館の本館11室で一般公開されると報じていた。この仏像は、今年の3月、ニューヨークの競売会社クリスティーズの電話入札による競売にかけられた。そして、三越が1280万ドル(約12億5000万円)で落札したことで話題になった。もっともその後、三越は単なる代理人にすぎず、落札者は宗教法人「真如苑」であることが判明した。

■ 1280万ドルという落札金額は、日本の美術品としては過去最高額で、仏像としても世界最高の額だという。真如苑は国内に85万人、海外に7万人の信者を擁する宗教団体である。創価学会、立正佼成会などと並ぶ新興宗教の一角だそうだ。

一般公開を前に報道陣に公開された仏像
一般公開を前に報道陣に公開された仏像(毎日新聞より)
■ 宗教法人は金持ちのようだ。日本人による高額落札が海外で話題になるのは、1980年代後半のバブル期以降久しくなかった。落札者した真如苑は、今後5年間、仏像を東京博物館に寄託して調査研究と公開を行なってもらい、その後は、東京都西部に新設する宗教施設に安置するとのことだ。

■ 1280万ドルもする仏像とは一体どのような仏像なのか、一度見ておきたい。最初に抱いた興味は単なる好奇心だった。大日如来坐像はヒノキ製で、高さが66.1cmとそれほど大きな仏像ではない。しかし、この仏像が鎌倉時代初期の運慶の作品と見られると知って、一層興味を抱いた。運慶と言えば、東大寺南大門仁王像を一門を率いて築き上げた惣(総)大仏師であることは、誰でも知っている。彼の作品は柳生円成寺(えんじょうじ)の多宝塔でも、興福寺北円堂でもお目にかかっている。

■ この仏像の出所はほぼ特定されている。現在の栃木県足利市にあった樺崎寺(かばさきでら)の下御堂(しものみどう)に置かれていた厨子に安置されていた大日如来像だったようだ。厨子には建久4年(1193年)の願文があったことから、鎌倉時代初めの頃の作品と考えられている。それがどういうルートでか古美術商に渡り、古美術商から購入した元の所有者が2003年3月に東京国立博物館に調査を依頼したという。

大日如来座像のX線写真
大日如来座像のX線写真
■ 東京国立博物館は、エックス線撮影で像内を調査した。すると、五輪塔の形をした木札や仏像の魂としての心月輪(しんげつりん)と呼ばれる水晶球、舎利を入れた水晶製の五輪塔などが像内に納められているのが映し出された。運慶の作品には、これらの五輪塔・舎利・心月輪が像内に納められている例が多いとのことだ。さらに、厚みのある堂々とした上半身や、髪や衣の表現も運慶作品の特徴と一致する。そのため、同博物館は「運慶の可能性が非常に高い」と指摘した。

■ この国宝級の大日如来座像は、文化財の指定を受けていなかった。本像が海外で競売に付されると聞いて、足利市では地元市民が署名活動を実施して、海外流出を阻止するよう求めた。文部科学省でも買い取りを画策したようだが、金額面で折り合いがつかなかったという。その結果、ニューヨークでのオークションで競売にかけられることになった。幸いにも宗教法人が落札してくれたので、海外に流出することだけは免れた。


大日如来座像の説明パネル
大日如来座像の説明パネル
■ 東京国立博物館の本館は、日本ギャラリーである。1階はジャンル別展示を目的としたフロアで、正面玄関を入ると右手に彫刻を展示している第11室がある。その入口左側に、大日如来座像の特徴やX線撮影で判明した像内納入品を説明したパネルが並べられていた。説明パネルを一読して、第11号室に入ると、照明で浮き彫りにされた大日如来座像が正面のガラスケースに納められていた。

■ 残念ながら、撮影禁止の表示が張られていて、せっかくの尊像をデジカメに撮すことができない。だが、ガラスケースの4面からじっくり拝観することができた。大日如来像は密教の中心的な仏像で、阿弥陀如来など他の如来像とは造形がいささか異なる。髻(もとどり)を結い、定められた形の衣をつけ、両手で智拳印(ちけんいん)を結び、右足を外にして結跏趺坐(けっかふさ)している。

■ ガラスケースの中の仏像は木製で、表面は今はところどころはげ落ちているが、全体に漆箔(しっぱく)がほどこされ金色に輝いている。切れ長の目からよく分からないが、顔の内部から水晶製の玉眼(ぎょくがん)がはめ込まれているという。

■ 第一印象として、66.1cmの像高はそれほど大きいとは思えない。おそらく当初は厨子に納められていたのだろう。横から見ると胸に厚みがあり、全体的に肉体の張りを感じられる。さらに、髻(もとどり)に彫られた一本一本の毛筋も、実に鮮やかだ。こうしたことも運慶の作品の特徴だそうだ。

円成寺多宝塔の大日如来座像
円成寺多宝塔の大日如来座像
■ 運慶は貞応2年(1223)に亡くなっているが、生年は不明である。しかし、京都市・妙法院蓮華王院本堂(三十三間堂)本尊の台座銘から、長男の湛慶(たんけい)が承安3年(1173)生まれであることがわかっている。そこで、だいたい12世紀半ばの生まれだろうと推定されている。

■ 柳生街道随一の名刹とされる真言宗御室派の円成寺(えんじょうじ)は11世紀初めの創建と伝えられるが、境内の多宝塔には国宝の大日如来座像が安置されている。ヒノキ材で作られた寄木造りである。その台座天板の裏に墨書銘があり、それによって、運慶が安元元年(1175)11月に作りはじめ、翌年の安元2年10月に完成した作品だそうだ。彼のデビュー作とされている。

■ 仮に運慶が1151年の生まれと仮定すれは、この多宝塔の大日如来座像は26歳のときの作品ということになる。一方、「真如苑」が落札した大日如来座像が建久4年(1193年)の願文がある厨子に安置されていた仏像ならば、運慶43歳の時の作品ということになる。

一般公開中の大日如来座像 光得寺の大日如来座像
一般公開中の大日如来座像 光得寺の厨子入り大日如来座像

■ 実は、この大日如来座像と非常によく似た厨子入りの大日如来像が、足利市光得寺で昭和61年に確認されている。この仏像は、源頼朝の親戚にあたる足利義兼(よしかね)にゆかりもので、足利市樺崎(かばさき)町の樺崎八幡宮に伝えられ、明治初年に光得寺に移されたものだそうだ。像高さ32.1cmと現存する運慶の中では最も小さいが、八頭の獅子に支えられた台座や光背が黒漆塗りの厨子にコンパクトに納められている。

■ この仏像も、X線撮影によって像内の納入品の形状が確認されており、また、丸く張りのある頬や弾むような生命感を感じさせる体躯などから、運慶作品に共通する特徴をもっている。制作年代は建久6年(1195)頃とされていて、今回一般公開されている仏像とも近い。

仏像彫刻界の革命児・運慶の生涯

運慶座像
運慶座像(湛慶作?)
■ 東京国立博物館の本館第11室は、上記の大日如来座像の他にもさまざまな仏像彫刻を展示している。それらの仏像を一渡り見終わって博物館を出たが、何故か運慶という仏師の存在が気になってしかたがなかった。彼が生きた時代は平安から鎌倉へ、貴族社会から武家社会へ、あらゆるものの価値観が大きな変革を遂げた時代である。

■ 仏像彫刻の世界も例外ではなかったはずである。時代の流れを読んで、新しい時代に受け入れられる仏像を製作するにはどうすればよいか。仏師一門の棟梁として、運慶は思い悩み、そして、新しい仏教芸術を生み出す革命児に変身していったに違いない。それぞれの転機にどのように対応したかは興味が持たれるところだ。そこで彼の伝記を少し調べてみた。


平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像
■ 11世紀になると、それまでの一木造りに代わって、材料の節約や分業に都合のよい寄木造りが考案され、11世紀の中頃に仏師定朝(じょうちょう、?〜1057)が出て、定朝様という和様彫刻を完成させた。定朝様の仏像は、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像のように、あくまで柔和で優しく当時の日本人の好みにぴったりだった。そのため、定朝以後の仏師たちは、彼にならった仏像をつぎつぎに作り続けた。

■ 定朝以後の仏師たちの系図を調べると、12世紀の仏師たちは次の3つの仏所に別れて活動していたとされている。
●京都仏師・院派 − 定朝の息子の覚助(かくじょ)から院助(いんじょ)・院覚(いんかく)と続く系譜。
●京都仏師・円派 − 定朝の弟子の長勢(ちょうせい)から円勢(えんせい)・長円(ちょうえん)・賢円(けんえん)と続く系譜
●奈良仏師・康派 − 覚助の弟子の頼助(らいじょ)から康助(こうじょ)と続く系譜。特に運慶の父・康慶(こうけい)から始まる系譜を康派という。

鎌倉時代の仏師の系図
鎌倉時代の仏師の系図
■ 京都仏師の院派と円派は、13世紀の鎌倉時代初期まで朝廷や貴族に重んじられて定朝様のおだやかな仏像を造っていた。これに対し、覚助の弟子の頼助は京都を離れて奈良に下り興福寺を本拠に活動していた。そのため、彼の系統は奈良仏師とも御寺(みでら)仏師とも呼ばれた。院派や円派に比べると、奈良仏師は仕事のほとんどが古仏の修理で、貧乏暮らしのふるわない時代が続いた。奈良仏師の活躍が目立つようになるのは、康朝をついだ成朝(せいちょう)、康慶の頃からである。

■ 奈良仏師の系図は頼助から康助−康朝と続くが、康助が棟梁のとき、運慶の父である康慶が弟子入りしてきた。康慶は興福寺の末僧だった。彼の仏師としての才能を見込んだ康助は、孫の成朝がいたにも関わらず、息子の康朝の跡継ぎに康慶を選んだという。

■ 定朝様の仏像が大流行し、朝廷や貴族たちの発願した仏像を京都の院派と円派で独占していた頃、上に述べたように奈良仏師は一人負けの状態にあった。だが、奈良仏師たちは古仏の修理を通して奈良時代のすぐれた写実表現や、平安前期の重厚な作風を学んでいた。そして、新しい技術を開発し、定朝様の仏像とは対照的な存在感に満ちた様式の新しい仏像を造ろうとしていた。

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長岳寺の阿弥陀如来三尊像(*)
■ 12世紀の半ばの仁平元年(1151)、奈良の山の辺の道沿いにある長岳寺に異色の阿弥陀如来三尊が納められた。定朝様とは違って、ひきしまった厳しい顔立ちに、鋭い目を持つ仏像たちだった。中尊はいかつい体でどっしりと座り、脇侍は片脚を台座からおろした珍しい姿勢をとっている。

■ 康慶は仏師としてよほど才能が豊かだったようだ。院派や円派が定朝以来の伝統を踏襲するばかりだった時代に、仏像彫刻の形を打ち破ろうしてさまざまな工夫を凝らしたとされている。長岳寺の阿弥陀如来三尊像が康慶の作であるという保証はないが、これらの仏像には玉眼を入れるという新しい技法が初めて採用されている。生き生きとした仏像を造りたいという仏師の工夫の現れである。


運慶の父・康慶
運慶の父・康慶
■ 運慶はその康慶を父として、この長岳寺の阿弥陀如来三尊像が作られたころ生を受けた。彼の生年は不明で、12世紀半ばの生まれと想定されている(以下では、説明の都合上1151年の生まれと仮定して、彼の年齢を数え年で表すことにする)。

■ 幼少の頃の運慶についての逸話は残っていない。しかし、父が従来の仏像彫刻の型を打ち破ろうと、さまざまな工夫を凝らす姿を幼い頃から目の当たりにしながら育ったはずである。後に、運慶は新時代の仏像革命を起こした仏師として評価されるようになる。そうした背景には、父から受け継いだ豊かな才能と、創作に対するどん欲な父の姿を身近に接してきたことがあったのだろう。

千体千手観音510号
千体千手観音510号
■ 運慶でデビュー作は、上に述べたように安元2年(1176)に完成した円成寺の大日如来座像とされている。実はそれ以前の作品が現存していることが知られているのだ。三十三間堂に並ぶ千体仏の中の510号である。三十三間堂は長寛2年(1164)に造営された寺である。千体千手観音の造立では、奈良仏師の長老・康助(こうじょ)が大仏師となり、息子の康朝(こうちょう)や運慶の父の康慶も参加している。当時14歳になっていた運慶も、この造立に加わって510号を彫ったものと思われる。もとより、父や他の仏師からいろいろ指導を受けての制作だっただろうが、彼は誇らしげに仏像の足ほぞに運慶の銘を残していた。

■ 運慶が生きた時代は、平家一族の繁栄と没落、鎌倉幕府の成立と、貴族社会から武家社会へ時代が大きく変わる転換点だった。年表形式の当時の主なトピックスを拾ってみよう。

●保元元年(1156)〜平治元年(1159) 保元・平治の乱。武門の棟梁である平氏が、朝廷や院に仕えて勢力を大きく伸ばした。
●仁安2年(1167) 平清盛が太政大臣となり、娘の徳子が承安2年(1172)に高倉天皇の中宮になって、平氏が全盛期をむかえる。
●治承4年(1180) 以仁王(もちひとおう)の平家追討の令旨をきっかけに、源氏が真っ向から平氏に戦いを挑んだ。源頼朝が配流先の伊豆で挙兵したのもこの年である。この年の暮れ、奈良で大事件が起きた。平氏に敵対した奈良の大寺院に対して、平重衡(たいらのしげひら)が率いる平家の軍が、東大寺や興福寺などほとんどの寺院を焼き尽くした。
●寿永2年(1183) 木曾義仲が平家軍を大破し、7月に京に入る。
●寿永4年(1185) 源義経が2月の屋島の戦い、3月の壇ノ浦の戦いで平氏を破る。11月、頼朝が総追捕使に任じられ、幕府を開く。
●建久3年(1192) 源頼朝が征夷大将軍に任ぜられる。
●建仁3年(1203) 源実朝が征夷大将軍になる。北条時政が執権政治を開始する
●承久3年(1221) 後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れる(承久の乱)。戦後処理として、幕府はそれまでの京都守護を改め京都六波羅探題設置を設置する。

■ このように、時代は音をたてて動いていた。特に、治承4年(1180)12月28日に起きた平重衡の奈良焼き討ちは、運慶にとっても大きな衝撃だったであろう。この治承の南都焼き討ちで、8世紀の奈良時代以来の仏像はほとんど灰燼に帰した。東大寺の大仏も焼け落ちた。運慶はすでに30歳になっていた。彼はこの惨劇を目の当たりに目撃していたはずである。奈良の大仏をはじめ、日頃接してきた東大寺や興福寺、その他の寺院の仏像たちが、なすすべもなく彼の目の前で紅蓮の炎の中に消えて行った。

興福寺南円堂の不空羂索観音坐像
興福寺南円堂の不空羂索観音坐像(1189年、康慶作)
■ 南都焼き討ちから3年後の寿永2年(1183)4月、運慶が発願し、女施主・阿古丸(あこまる)の協力を得て、僧の珍賀(ちんが)と栄印(えいいん)の筆で法華経八巻が書写されている。この写経のために、運慶は特別に料紙を漉かせ、硯の水として比叡山の横河(よかわ)、園城寺、清水寺など三カ所の霊水をわざわざ取り寄せたという。さらに、写経の軸に東大寺の焼け残りの柱を用いたとされている。南都焼き討ちで失われた寺院や仏像に対する運慶の怒りと悲しみの深さが偲ばれるというものだ。なお、この願経で、運慶は仏師であるとともに勾当(こうとう)と呼ばれる興福寺の下級僧であったことが判明している。

■ 平家が滅亡し、鎌倉幕府が開かれると、焼失した東大寺や興福寺の復興が計画され、建物だけでなく仏像も再興されることになった。興福寺の再興造像は、当時の中央造仏界での勢力に従って京都仏師の円派と院派が金堂・講堂のような主要堂塔の造像を担当した。興福寺とは前から関係があった奈良仏師も仏像復興に起用され、康慶が南円堂の本尊を担当し、本家筋にあたる成朝は食堂の本尊を担当した。

■ 運慶も父とともにこの仏像復興事業に参加していた。文治2年(1186)には運慶は36歳に達している。円成寺の大日如来座像を製作して既に10年の歳月を経ていた。康慶の息子として、その名はすでに広く知られるようになっていたであろう。この年、運慶の運命を大きく変える出来事が起きた。運慶の名を聞いて、彼に白羽の矢を立てた鎌倉新政権の大物がいる。他ならぬ源頼朝の義父であり、鎌倉幕府の初代執権だった北条時政である。時政は娘婿の頼朝が奥州平泉討伐の戦勝祈願のため伊豆に願成就院(がんじょうじゅいん)を建立したが、その仏像の製作を運慶に依頼してきた。

願成就院の阿弥陀如来像
願成就院の阿弥陀如来像(1186年、運慶作)
■ 文治2年の春、運慶は東国に下向して、北条時政の注文に応じている。現在、願成就院には運慶が造った阿弥陀如来像と不動三尊像、毘沙門天像が伝えれている。阿弥陀如来像は像高144cmの半丈六像だが、両手を胸の前に挙げて転宝輪印(説法印)を結ぶ姿は、まるで力士が突きの姿勢を見せているように迫力がある。その3年後の文治5年(1189)にも、再び東国に招かれ、侍所(さむらいどころ)の別当・和田義盛の発願で三浦半島西岸の芦名に建立された浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像を造っている。

■ こうして東国で鎌倉武士たちの気風に触れ、平安貴族とは違った新しい時代の担い手に接することができたのは、運慶にとって大きな収穫だった。彼等の要望に応えて制作する仏像は、新しい時代の到来を反映したものでなければならなかった。運慶の仏像の特徴は、まるで生きている様な現実感にあふれた造形にあるとされている。それは鎌倉武士の仏像に対する基本的な好みを知った上で、運慶が確立した造形であろう。

■ この頃になると、運慶も信頼できる弟子が何人もできたようだ。浄楽寺の不動明王像や毘沙門天像の体内に納められた木札(もくさつ)から、これらの仏像は大仏師運慶が10人の小仏師を従えて造ったこと記されている。大仏師とは仏像を製作するときの統率者、責任者を示す言葉である。運慶は10人の弟子を自分の手足として使い、新しい時代に対応する仏像表現を確立させていった。

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願成就院の毘沙門天像(1186年、運慶作)
■ 運慶の作品は、優しさや穏やかさが売りのそれまでの定朝様とは異なり、力強さとたくましさが強調されている。仏師は仏像に対する振り付け師であり着付け師でもある。仏像の体型や衣の表現には、仏師の感性が大きく関わっている。運慶の仏像は、胸が厚く腹を引き締めている。衣は厚手で、深いひだがうねうねと彫られている。願成就院の毘沙門天像などは武将が仏の形をかりて現れたような現実的な姿に造られている。つまりは、新しい時代の担い手となった関東武士は、仏像にこうした力強さ、たくましさ、颯爽とした動きを求めていたのだ。運慶はそれを新しい時代の風と受け止め、彼の作風に生かした。

■ この時期、東国に招かれた仏師は運慶だけではない。文治2年(1186)には頼朝の求めに応じて成朝が運慶よりも先に鎌倉に下り、頼朝が父の菩提を弔うために建てた勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の本尊を造っている。頼朝をはじめとする鎌倉幕府の要人は、鎌倉という新しい都の建設に、平家の仕事をしていた円派や院派を敬遠して、成朝や運慶など奈良仏師に造仏を依頼したようだ。こうして鎌倉幕府という新しいスポンサーを得た奈良仏師は、この後徐々に勢力をのばしていくことになる。


■ その後の運慶の活躍を年表風に整理してみよう。

建久5年(1194)

12月、奈良仏師の快慶(かいけい)と定覚(じょうかく)の二人を大仏師として東大寺南中門の二天像(像高二丈三尺(約7m)の多聞天像と持国天像)の製作が開始される。大仏師定覚が率いた小仏師の筆頭に運慶の名がある。先輩格の定覚について、巨像制作を学んだと思われる。なお、この年、康朝の息子で奈良仏師の嫡流・成朝が法橋(ほうきょう)に叙せられたが、その後の動向は不明。おそらく急逝したものと思われる。このため、奈良仏師の流れは、康朝−康慶−運慶と続くようになり、慶派と呼ばれるようになる。

建久6年(1195)

3月、東大寺大仏殿の再建が完成し、供養が行われる。天皇をはじめ多くの貴族が参加し、鎌倉から頼朝が北条政子を連れて奈良に来た。多くの僧が参列し、その数は1千人に達したという。この時、運慶は康慶に与えられる賞を譲られて、法眼(ほうげん)になっている。運慶の長男・湛慶(たんけい)も快慶に与えらる賞を譲られて法橋(ほうきょう)になったようだ。

なお、法印(ほういん)とか法眼(ほうげん)、法橋(ほうきょう)は、奈良時代から高僧に与えられる僧位だったが、藤原時代になると優れた仏師や絵仏師にも与えられるようになった。

建久7年(1196)

2月、東大寺大仏殿の二体の脇侍(如意輪観音像と虚空蔵菩薩像(いずれも像高六丈(9m))の制作が開始された。虚空蔵菩薩像は康慶と運慶の父子が大仏師となりなっている。完成はその年の8月。

続いて、大仏殿の四天王像の制作が行われ、運慶は持国天の大仏師をつとめている。四天王像の完成はこの年の12月。この年、運慶の父・康慶は東大寺大仏殿の増長天像を制作している。これが現在までに分かっている彼の最後の事績で、その後まもなく没したのであろう。仁平2年(1152)に吉祥天像を制作してから45年、息子を法眼に孫を法橋にして、康派の行く末を定めた一生だった。

建久8年(1197)

恵光童子像
恵光童子像(1197年 運慶作)
この年。運慶は高野山金剛峰寺不動堂の八大童子像を作っている。像高は各々100cm程度の木造だが、八体のうち二作は南北朝の頃の補作だが、現存する残り六体の内部には、X線透視撮影によって浄楽寺の諸像と同じような形で納入品が入っていることが確認されていて、運慶の作とされている。

いずれの童子像も、はち切れそうな体躯で、ふくらんだ頬や二の腕の肉取りに運慶作の特徴が見られる。

建久年間のころの運慶の作と伝えられる作品に、京都六波羅蜜寺の木造地蔵菩薩像がある。像高89.7cmで、現在は表面の彩色が黒に変色しているが、リアルな顔立ちで、生気がみなぎる体つき、しなやかにうねる自在な衣文は、運慶独自の作風とされている。

建久年間の東大寺大仏殿の仏像制作を終えた後、運慶は京都に進出し、建久8年から9年にかけて、東寺講堂の諸像を修理している。

正治3年(1201)

この年、運慶はすでに28歳になっていた長男の湛慶を従えて、現在の愛知県岡崎市郊外に建立された瀧山寺(たきやまでら)に納める聖観音、梵天、帝釈天の立像を制作している。瀧山寺は熱田大宮司の孫にあたる僧寛伝(かんでん)が頼朝の菩提を弔うために建てた寺である(瀧山寺縁起による)。

瀧山寺の帝釈天立像(1201 運慶作) >瀧山寺の梵天立像(1201 運慶作)
瀧山寺の帝釈天立像(1201年 運慶作) 瀧山寺の梵天立像(1201年 運慶作)

建仁2年(1202)

10月、運慶は摂政近衛元通(このえもとみち)発願の白檀製一尺六寸の普賢菩薩像を造る。

建仁3年(1203)

7月23日、東大寺南大門二王像の制作が開始された。像高約840cm、重量6.6トンを越える阿(あ)形と吽(うん)形の金剛力士立像である。惣大仏師は運慶があたり、向かって左の阿形像の大仏師は運慶と快慶、向かって右の吽形の大仏師は定覚と湛慶がそれぞれ当たった。この仁王像制作には湛慶をはじめとする6人の運慶の息子たちも参加しており、運慶にとっては一門を引き連れての大工事だった。

東大寺の正門である南大門は正治元年(1199)に新たに建て始められ、建仁3年(1203)には完成していた。伽藍の中心部の復興の完了を記念して行われる東大寺総供養が、その年の11月30日に行われることになっていた。7月23日に開始された仁王像の制作は、二ヶ月余り後の10月3日に完成した。総供養を睨んでの突貫工事だったことがわかる。

阿形金剛力士立像 吽形金剛力士立像

仁王像はヒノキ材を使った寄木造りである。年輪年代測定によって、材木は建久7年(1196)から建仁元年(1201)にかけて、当時の周防の国から調達されたことが分かっている。調達したのは、東大寺大勧進職として源平の争乱で焼失した東大寺の復興を任された重源(ちょうげん、1121 - 1206)である。重源は中国(宋)を3度訪れて建築・土木技術を習得したといわれ、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導した。自ら巨木を求めて山に入り、奈良まで移送する方法も工夫したという。

苦労して奈良まで運ばれた材木は乾燥させた後、指定の大きさの角材に製材された。それと平行して、運慶たちは下絵や模型を前もって準備し、主要材の構成や主要材同士をつなぐ貫の使い方など独特な工夫が検討された。主要材は模型に従って組み建てられ、仏像の形に彫り込まれ、さらに内刳り(うちくり)が行われた。

彫刻が一通り終わると、各部の修正が行われたようだ。乳首やへその位置が当初の場所から少し下がったところに作り替えられた。吽形の像は眉や目の位置が、いったん仕上がってから修正されている。このようにさまざまな修正の後に、全体に麻布が貼られ、白い下地を塗り、その上に体が赤銅色に塗られた。そして、最後に衣にさまざまな色で宝相華文(ほうそうげもん)が描かれて仁王像が出来上がった。仁王像を完成させたことで、運慶は僧綱の最上位の法印に叙せられている。

建永元年(1206)

俊乗上人座像
俊乗上人座像 (運慶作?)
この年、東大寺大勧進職として焼失した東大寺の復興に尽力した重源(ちょうげん)が86歳で亡くなった。重源の晩年の姿を写して、亡くなる前後に造られたと思われる彫像が、東大寺俊乗堂に残っている。像高83cmの重源上人像である。

中国の影響を受けて、高僧の肖像を造る気運が、当時の日本でも高まっていたようだ。そうした風潮の中で造られた重源上人像だが、像には銘文がなく、制作当時の事情を伝える史料も残っていない。しかし、頭の形も首の付き方も着ている衣も、当時の重源の姿をそのまま写しながら、造形にさまざまな工夫がこらされているところから、運慶の作ではないかと推測されている。

承元2年(1208)

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北円堂の本尊・弥勒座像 (1212年、運慶作)
興福寺の中心部の北西に位置する八角形の北円堂は、養老5年(721)藤原不比等の一周忌に際し、元明・元正天皇が長屋王に命じて創建させた建物である。本尊・弥勒菩薩と脇侍菩薩二体、羅漢像二体、四天王像二体を安置していたが、治承4年(1180)の兵火で、堂とともに焼けてしまった。

承元2年(1208)12月17日、北円堂の仏像を再興する儀式である御衣木加持(みそぎかじ)が行われた。この儀式には運慶をはじめとする仏師11名に絹の浄衣が与えられ、興福寺の杣山(そまやま)から切り出された9体分の仏像の御衣木(材木)が北円堂の前庭に置かれ加持された。

こうして運慶が率いる慶派一門による北円堂の諸像の制作が開始された。諸像が完成したのは建暦2年(1212)である。このとき造られた9体の仏像は、半丈六の弥勒菩薩座像と脇侍の法苑林菩薩像および大妙相菩薩像、羅漢の世親・無著立像、各四天王像であるが、このうち現存しているのは中尊の弥勒仏像と世親立像、無著立像の三体だけだ。現存する運慶の作品の中では最後のものであり、その集大成として見事なできばえであるとされている。

世親菩薩立像 無著菩薩立像
世親菩薩立像(1212年) 無著菩薩立像(1212年)

貞応2年(1223)

北円堂の仏像を制作した後も、運慶は京都での朝廷や院の仕事にも進出して、建暦3年(1213)には、長男の湛慶を従えて京都法勝寺の金剛界の五仏像と四天王像を造っている。鎌倉幕府との関係も維持しており、建保4年(1216)正月には、源実朝の持仏堂に納める本尊の釈迦如来像を造っている。2年後の建保6年(1218)には執権北条義時発願の大倉新御堂の本尊・薬師如来像を制作している。承久元年(1219)には、北条政子が殺害された源実朝追福のために建立した仏道に五大明王像を安置している。運慶の仕事はその他にもあるが、いずれの作品も今では失われてしまっている。

数々の仕事を成し遂げた運慶は、貞応2年(1223)12月11日に没した。73歳だった。彼の没後、長男の湛慶は二親のために丈六の阿弥陀如来像を造った。制作は嘉禄元年(1225)に始められが、途中何回か断続し、寛喜元年(1229)4月17日に完成した。完成した仏像は八条高倉の地蔵十輪印に安置された。

運慶には多くの子供がいたが、そのうちの六人は仏師として名をなした(湛慶、康運、康弁、康勝、運賀、運助)。長男の湛慶は建長8年(1256)に84歳で没するまで、第一線で仕事をしたという。


出典・引用文献: 西村公朝/藤田由美子著『運慶 仏像彫刻の革命』(新潮社)、副島弘道著『運慶 その人と芸術』(吉川弘文館)、毛利久著『運慶と鎌倉彫刻』(日本の美術 11巻、平凡社)
仏像写真:主に上記の『運慶 仏像彫刻の革命』から流用。ただし(*)は長岳寺のHPから流用。

2008/06/11作成 by pancho_de_ohsei
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